ドキドキが止まらないのは、運動のせいじゃない。
そもそも、自宅までのボディーガードを頼まれた時点で限界だった。
濡れた服が視線を集めるのは分かる、だからそれをどうにかしようとしたのも分かる。けれど、結果が素肌にジャージなどと、まさかラブコメみたいな男子が現実にいるなんて。
その事実に気づいたとき視線が吸い寄せられないように必死だった。他人の視線はその倍注意をはらったけれど。
ようやく喜久川くんの家にたどり着いて、地獄のような時間が終わったかと嬉しいような悲しいような気持ちになったが、その上。
「じゃあ悪いけどちょっとシャワー浴びてくるから漫画でも見て待ってて、冷蔵庫のものは自由に食べていいから」
なので、今度は微かに聞こえてくるシャワー音と戦わなくちゃならないわけだ。
そもそも男子の部屋に上がるのだって初めてのことだというのに!
駄目だ、何も考えが纏まらない、落ち着いて深呼吸をしよう。
いい匂いがする──じゃない! 視覚も聴覚も嗅覚も試されている!
そもそも女子を部屋に上げるなんて……いや、これが家族のいる実家だというのならばまだ喜久川くんの考えも分かるのだ。あの姫王子が、クラスメイトを外で待たすなんてことはしないだろう。
しかし、驚いたことに喜久川くんは一人暮らし。そのワンルームのアパートに──脱衣所があるとはいえ──異性を入れるだろうか。これは心を許されているのか試されているのかそれとも何とも思われていないのかな。
男子の情報なんて映画や漫画の中の空想と、友人達との妄想の中にしかない私にはいったい何が正解なのか……。
「駄目だ、一旦落ち着こう」
言われた通り漫画でも見て待っていればいいのだ。というか私に許されているのはそれしかない。
もちろん、男子が普段読んでるものが気になったのもあるが。
驚いたことに本棚には想像していたよりも多種多様な漫画がある。あまりそういうのに詳しくない私には目新しい、見たことのないものが多い。それぞれ表紙や中身をちらりと見てみると予想していたような少年漫画だけということはなく、比率としては少女漫画の方が多いのも驚きだ。
彼が漫画を読みふける姿というのがどうも想像できない、それこそ端の方にある私にはあまり縁のないファッション雑誌やよく分からない英字の本でも読んでいるのが似合う。
そんな中、手前にあった知らない題名のコミック。その一巻を取り出してパラパラと捲ると紙の匂い、その中に微かにそれとは違う彼の匂いを感じてしまい急いで閉じる。顔に引いてきたはずの熱が再び籠る、罠だらけじゃないか!
いや、私が過敏なだけだというのは分かっている。
けれど仕方ないだろう! こんなところを彼に見られでもしたら恥ずかしくて生きていけない!
なんて思って。
気づく、そもそも私は恥ずかしい。
彼はきっと、同じだと思っていた。
──『姫王子』が嫌なんじゃないかって──。
何が同情だ。何が心配だ。
彼は、私みたいに外見で判断されたわけじゃない。
犬が池に落ちたとき、私は何もできなかった。
みんなそうだった、ただ見ていた。
きっと、誰も行動しなくても大きな事件にはならなかっただろう。犬は泳いではしゃいでいただけで、あの後飽きたら飼い主の元に戻っていたかもしれない
喜久川くんがやったことも、もっといい方法があったかもしれない。濡れないでこんなシャワーをする必要もなく助けられたかもしれない。
でも、彼は助けたのだ。
彼は助けることを、迷わなかった。
何をするべきかは分かっていたかもしれないけど、しなくちゃいけないことは分かっていた。
もしもを重ねれば彼は最善ではないが、善をやったのだ。
その行動は、姫そのもの。
そもそも『姫王子』がただの蔑称なら、周りの男子達が親しげにそれを口にするわけがない。
彼はそう言われるだけの人間で。
私は、違う。
隣で一緒に歩いて、だから、勘違いしてしまった。
もしかしたら、同じかもなんて。
互いに傷を舐めて癒せるかな、なんて。
それとも並び立てるかな、なんて。
そんな。
「お待たせ、竜火さん」
などという私のくだらないネガティブな気持ちは風呂上がりの喜久川くんによって吹き飛ばされてしまった。
いや、風呂上がりの自分が美しく見えるなんていうのは何回か自分自身体験してその度幻想を撃ち壊してきたのだが。
風呂上がりの異性がこんなにも美しいなんて、これは恋しないなんて方が無理なんだけど。
肌色のいい頬も、しっとりとした髪も、潤いを取り戻したかのような唇も、あまりにも刺激的すぎて。
「あれ、何も飲んでないんだ。遠慮しなくていいのに、麦茶と牛乳どっちがいい?」
ごくりと喉仏が動く様子なんて、思わず目を逸らしてしまった。
先ほど、理想のお姫様なんて言ってたけど。
彼の王子様──男らしさを正面からこうも浴びせられてもうノックアウト寸前だ。
私が邪な──気持ちはあるけど度胸がなくてよかった! 先ほどはそんな自分を嫌っていたが今では感謝しかない、それほどまでに目の前の喜久川くんは危険だ。
というか。
「あの、なんで運動着のままなの?」
「一休みしたらもう少し運動しようと思って、途中だったし」
理屈は分かるけど、暑いからって半袖半ズボン!?
誘われているのだろうか? 経験が無いから理解できない。いや、こんな経験してる人間がいるはずがない。漫画でも出てこないわ!
「それでさ、竜火さん」
「は、はい!」
広くないワンルーム、テレビとテーブルの間はほとんどスペースがないから必然彼が座るのは私の隣になる。
どうして男の子っていい匂いがするんだろう。今までで一番近くに彼を感じる。
初めて肩を抱かれたときよりガチガチになった私はまな板の上の鯉、いや蛇に睨まれた蛙? ともかくもう、なすがままにしてください耐えられません。
「確かに俺は──少し、変な毎日を過ごしてると思う」
「──え?」
これは、さっきの続きだ。
「『姫王子』って呼ばれてクラス──だけじゃなくて学校で浮いていると思う。けど、俺は」
特別扱いされている特別な彼は。
「みんなと普通に過ごすのだって、できると思う」
普通なことも諦めていなかった。
「例えばクラスメートと一緒に食堂へ行ったり、部活に行って先輩と駄弁ったり、体育祭に向けてみんなで練習したり」
私は、どちらになりたかったんだろう。
あの時、水泳に打ち込んだのは。
普通に戻りたかったからなのか、それとも。
もっと、特別になりたかったからなのか。
両方取ってもいいなんて。
そんなワガママ、駄目だと思ってた。
「それってやっぱり一人だと大変なんだけど。みんなが──竜火さんみたいに助けてくれてるから、俺は嫌いじゃないんだ『姫王子』」
そういって、喜久川くんは私を見てくれた。
私が、助けになるなんて。
「そんな……私ずっと転けて、目立つのも苦手で、喜久川くんの足ばっかりひっぱって……」
「ううん、竜火さんが居てくれたから二人三脚ができるんだし。それにこんなに練習に付き合ってくれるじゃん」
「身長はたまたまだし……練習に付き合うのは普通のことだよ」
「その普通のことがありがたいって、竜火さんなら分かるでしょ」
やめてほしい、体型はコンプレックスで、練習に付き合ったのも私の身勝手な同情や心配なのだ。
感謝されることじゃない。
けど、そんな気持ちとは裏腹に。
あなたの言葉はするりと深いところへ潜っていく。
助けになれた。
それだけで恥ずかしかったはずの私を、私は好きになってしまう。
この身体も、あの経験も無駄じゃなかったと。
「休憩終了! 竜火さん、体育祭をさ普通に──特別な一日にしよう」
練習に誘う彼の手を取ってしまう。
みんなの足を引っ張るのが嫌なだけだった体育祭。
初めて勝ちたいって思えた。
ドキドキが止まらないのは、運動のせいじゃない。
お久しぶりになります、よいお年を!