立て籠もり事件があった翌日、いつもの時間帯に喫茶リコリコに行った。錦木さんの機嫌が直るかどうかは分からないが、あれから考えた結果としては素直に謝るしかないなという結論に至った。言った通り俺はズルした事は一度もない。例えボードゲームでも正々堂々とやっていたし、誰かを軽んじるとかそんな事もない。
ただ俺もそう思われてしまったという事は、仕方ない事でもあるけどやはり錦木さんにはいつも元気な姿でいて欲しいから。確かにあんな拗ねた顔も可愛げはあったけど、俺が錦木さんにとって何か悪い事をしてしまっていたのなら、それは謝るべきなんだろうと思った。
そう決意してリコリコの扉を潜ったのだが……
「そうくん、昨日はあんな態度をとって……ごめんね。多分気を悪くしたと思う。私も……急にあんな態度を取られたら気分が悪くなっちゃう。それを考えずに……あんな事言っちゃった。本当にごめんなさい」
こんな事は予想だにしなかった。俺の方が何か悪い事をしてしまったんだと思って謝ろうと思っていたのに、まさか錦木さんの方から謝ってくるとは……
(それに彼女から感じ取れる“風”からも誠心誠意の気持ちが伝わってくる)
そう感じとられたものが……とても美しい物に見えた。この世界で十数年生きてきて……こんなに綺麗な“風”を伴って出てきた感情を、思いを久々に他人から感じ取れた。因みにお母さん達は別だが……
それが凄く嬉しかった。だからなんだろうな……下げていた彼女の頭をいつの間にか撫でていたのは。
「へっ⁉︎///」
「本当は今日、俺が錦木さんに謝る予定だったんだ。俺は例えボードゲームであろうと正々堂々とやるし、誰かを軽んじてプレイする訳でもない。でもそんな中で錦木さんに対して悪印象を与えてしまったというのなら……それが俺にとっては申し訳なく思った」
「だから……俺の方からも、錦木さんの気を悪くしちゃってごめんね」
彼女の頭を撫でながらそう口にした。ボブカットで黄色が少し混じったピンク色の髪は、とてもサラサラしていた。いつまで撫でていても飽きないと思える程だ。
「うぅ……/// んんっ……///」
(ん? 何やら錦木さんの顔が赤くなっているが……)
この時……何故か“風”は細部まで教えてくれない。確かに嫌われていない……というのは感じ取れるのだが、それ以外は全く分からない。
(それにしても錦木さんの体調が悪くなっていないか心配なんだが……)
こんな急に顔が赤くなっているというのは本当に心配だ! こういう時に“風”は何も感じ取ってくれない‼︎
(クッ……同年代の女性と接してこなかったツケがこんな所で出て来るとは!)
今まで俺はお母さん達と一緒に暮らしていた。だから女性と接してきたのもお母さん達だけで、それ以外だと……
(事件やテロで人質になった女性が完全に保護されるまで少し一緒にいたくらいだな)
それもほんの数分だ。だから錦木さんみたく、これ程までに長く接した同年代の女の子はいなかった。
そんな事を思っていると、“風”がこちらに向けられる敵意を教えてくれる。その方向を見ると……
「……」ジトーッ
中原さんがこちらを凄い形相で睨み付けていた。
(えっ? いつも優しい中原さんが何て表情を⁉︎ お、俺なんかしたか⁉︎)
「……しい」
な、中原さんがなんか呟いた様な……
「……妬ましい」
こ、今度ははっきり聞こえた。妬ましい、と。
「私に対して……私の目の前でそうイチャコライチャコラしよってからに……私に対しての当てつけかゴラァーッ‼︎」
凄い剣幕を撒き散らしながら俺の方に近付いてくる。その時の足音がドスドス響いていた。
「えっ? えぇっと……俺なんか中原さんに対して何か悪い事をしてしまったでしょうか?」
「自覚がないなんて言わせないわよ! それよそれ‼︎」
それ? 中原さんが指を差し示しているが……錦木さんの頭に置かれた俺の手か?
「俺の手が何か?」
「ほ、本当に自覚がないの? どれだけピュアなの君の心は⁉︎」
なんかヒステリックに俺に対してツッコミをしてきたんだが……どうしたんだ? 中原さんも体調が悪くなったのか? そう心配になっていると……
「ミズキうるさい」
(えっ? 錦木さん?)
“風”が何やら不穏な風を感じ取った。しかも錦木さんからだ。顔は元の肌に戻った様なんだが……
「さっきまで凄く良い気分だったのに……ミズキがそうくんに対して凄むから怖がってるでしょ? それに言うんだったらそうくんじゃなくて私でしょ?」
「はぁ〜? アンタに対しても言ってるわよ! アンタが愛護くんに対して謝りたいって凄く真剣に考えていたから黙って見てたけど、あそこから何であんなイチャコラな空間が生まれるのよ⁉︎」
「良いじゃんイチャコラな空間が生まれたって! 私はとても嬉しかったですぅ〜‼︎」
「アンタが嬉しくてもこっちはムカムカしてんのよぉ‼︎ こちとら狙ってた男が他の女とイチャコラしているのを目の前で見るのは腹立たしいんだよ‼︎」
「はぁ〜っ⁉︎ 自分の歳考えろや! いつもいつも猫被った対応してそうくんにアピールし過ぎだぞコラッ! こっちだって毎日何見せられてると思ってんの‼︎」
「それはこっちのセリフじゃ‼︎ アンタ愛護くんが来る事が待ち遠しいからって桃色な雰囲気出しよってからに‼︎」
「んだとコラーッ⁉︎」
「やんのかあ"ぁ”ぁんっ⁉︎」
「おいおい2人とも! 愛護くんが戸惑っているぞ! いい加減にやめないか‼︎」
「「店長/先生は黙ってて(よ)‼︎」」
「むっ⁉︎ むぅ〜……」
何とかマスターが止めにかかったが、2人の口論はエスカレートするばかりで……
(これが2人の素……なのか? まぁ中原さんが元々お酒が好きだって言うのも“風”から何となしに読めていたことだし、お土産買う時にどれにしようか迷っていたら、お母さんがどこからともなく情報を引っ張ってきてたし……あれ? 今思えばプライバシー侵害しているよなお母さん……)
まっ、ともかくとして今の状況を止めようか……幸いにも今店内には俺以外にお客さんもいない。
(試しに中原さんにもさっき錦木さんにやったみたく頭を撫でてみるか)
年齢としてはあちらの方がお姉さんだ。俺がそう気安く頭を撫でるのは相手にとっても失礼にあたるかもしれない……が、あの言動からして羨ましかったという線も捨てがたい。
(ともかくやってみせよう……)
今も目の前で睨み合っている2人……どちらとも同じ高さに頭があるし丁度いいタイミングだなと思った。それと同時に俺は2人の頭の上に自分の手を乗せて、ゆっくり撫でる。
「「っ⁉︎」」
そうされて2人ともビックリしたのか、睨み合うのをやめた。
「あの……多分お二方の喧嘩の原因も俺じゃないかって。中原さんは俺の手が悪いと言ってて、妬ましいと言う事は俺が錦木さんにやってた事が羨ましかったんじゃなかろうかと。錦木さんは俺に撫でられていい気分だったのを無理矢理止められたから? 多分中原さんに喰ってかかってたんだろうし……だから俺が2人にこれしたら問題は解決するんじゃないかなぁ〜……と」
「「……」」
撫で始めたら2人とも睨み合いとか諸共やめてくれたけど……今度は逆に俯いて様子が見てとれない……
(こ、こんな時に“風”は何やってるんだ⁉︎ いつもは俺が何も望んでないのに相手の機微を測ろうとする癖に! 何でこんな時にだけ仕事をしてくれないんだ⁉︎)
それは現に、同じ様なことがあったら自分で学んで何とかしろという事だろう……
(はっ⁉︎ 何ださっきのは……)
何かの呟きが聞こえたと思ったら何事もなかったかの様に静まり返る。自分で学んで何とかしろ? って言われたのか?
(……一理あるかもしれない)
俺は女性に対しての機微には滅法疎い。お母さん達は別だが、同年代や少し年上のお姉さん方のリアクション、特に俺が何かした時の急に感情が昂っている様な物だとか、急に赤面して黙り込む事についてなど……女性の気持ちは千差万別だと聞かされる。よく観察して学ぶべきかもしれない……が、
(今のこれは一体どんな状況で……はっ!)
横から少し2人の横顔を覗けた。本当はいけない事なんだろうが……
(錦木さんはまた顔を赤くして、でもさっきよりなんか嬉しそう? だな。で中原さんは……こっちも赤面しているが、あの顔は……どう反応したら良いか分からない? みたいな顔か? それに若干身体が震えている様だし……)
ま、まぁ2人の気が済むまで撫でていようか。そうしながらマスターの方を見ると……
グッ‼︎ キリッ
なんか俺にサムズアップしていた。それも無駄にカッコよく……
(従業員を纏めるのは本来マスターの役目だと思うのだが……)
それから俺は……2人が満足するまで頭を撫で続けた。ともかく2人の気が済んで良かったよ……
side 千束
(あぁ〜……やっばい……ホントに幸せぇ〜)
昨日の事をそうくんに謝ったら、そうくんは逆に自分が謝るべきだって言って私の頭を優しく撫でてくれた。彼の手の温もりは最初握手した時に感じていたけど……
(うぅ〜っ……すっごく癖になりそう‼︎)
多分今の私の顔は変な顔をしてるんだと思う。でも今はそんな事どうだって良い! そうくんには最初の頃自分の変な顔を散々見せてきた。自分でこんな事を言うのは悲しいけれど、でも今はこの手の温もりを堪能していた。それでもっと私の頭を撫でて欲しい‼︎
でもそんな幸せな時間はそう長く続く事は無かった。
「私に対して……私の目の前でそうイチャコライチャコラしよってからに……私に対しての当てつけかゴラァーッ‼︎」
ミズキが私達に凄い剣幕をしながら迫って来た。それでそうくんの撫でていた手が止まる。
(あっ……もっとやって欲しかった……)
まだ彼の手は私の頭の上にあったから、後は私がそうくんの手を取って頭を撫でる様に動かせば良いだけなんだけど……
(そんなの誰がどう見ても気持ち悪いって思うし、何より今はミズキが邪魔だ)
そうくんは何も悪くない。なのに嫉妬か何か知らないけどそうくんに詰め寄って……私に対しては別に構わないけど彼に対しては違うと思った。
だから私はミズキに喰ってかかる。そうくんに対してそんな事を言うのはおかしいと、幾ら自分が行き遅れそうだからって……
(それにしっかりそうくんを狙ってるって言ってたし! 遂に本性を表しおったなこの女狐めぇっ‼︎)
先生が私達の口論を止めようとするけど、それさえもうるさく感じた。そうして睨み合っていた時に、また同じ温かさをした物が私の頭を撫でてきた。
(あぁ〜……そうくんの手だ……嬉しい嬉しい嬉しい嬉しいっ‼︎)
先程までの口論なんてどうでも良いくらい、彼の手は私の激しく昂った感情を落ち着かせてくれた。
あぁ……本当に彼の全てが欲しい……
side out
side ミズキ
(な、何だこの感覚は……)
生まれてこの方感じた事がない感覚に私は戸惑っていた。確かに今まで付き合った男はいるけれど、長続きなんてしなかった。
(それにSNSで知り合って意気投合して、いざ会ったとしても何故か会うのは今日で最後にしましょうみたいな事になるし……)
その度に悔しい気持ちと……寂しい気持ちになっていった。
それをお酒で無理矢理忘れようとする。そうすればそうする度にお酒から手を離せなくなった。千束達からも呑んだくれと呼ばれるのもしょっちゅうだった。
でもそんな時にとある男の子と会ったの。歳は千束と同じくらいで、金髪ロングの美男子で切れ長の目なのにどこか優しい雰囲気を持つ。こんな子が千束と同じ15歳だなんて誰が思うかっ! と思うくらい、同年代の子と比べると落ち着きすぎていた。
そして……今まで会ったどんな男よりも優しかった。いや、優しすぎた。
彼は私が重そうにしていた荷物を初対面にも関わらず手伝ってくれた。それもその1回だけじゃなくて、何かある毎に手伝ってくれていた。まぁ千束の時もそうだったけど……多分あれは誰にでも優しくするタイプの人間なんでしょうね。
そんな彼の名前は愛護蒼哉くんといって、最近ここに越してきたと言っていた。まぁ確かにここは東京でも住みやすい地域だと思うし良いんじゃないかしら。
そんな子がおよそ1ヶ月でうちの常連になった。基本的に同じ時間帯で来てくれる事が多い。
そして彼は……とても美男子だ!それもこんな私にも優しくしてくれる程の‼︎ もう絶滅危惧種と言っても過言ではないわ‼︎
(そんなチャンスを私は逃したくない‼︎ 私だって結婚して幸せな家庭を築きたい‼︎ 例えそれが歳の離れた男の子であったとしても‼︎)
それでいつも良い男がいた時やっていた様に、少しずつすり寄って情報を掴んで行く。出来る限り彼に好印象を残そうと話の相槌を入れるのも忘れない。
(でもこの子って何でも律儀に返すのよねぇ〜)
いつもの自分のペースに中々引き込めない。逆に私が彼に呑み込まれていってる様な……
そんなこんなで愛護くんと知り合って1ヶ月……私の我慢していた鬱憤が爆発した。
うちで一緒に働いているホールスタッフの錦木千束……いつも元気で次に何をしだすか予想が付かない。お転婆という域を軽く超えているわね。DAのファーストリコリスで、腕は確かだが問題児扱いされる。だが基本的に人懐っこい性格で、基本相手がよっぽどの外道でなければ殆どの人と仲良く出来るだろう。
(そんな千束が……愛護くんの事を気にしている)
あんな態度……一緒に働いていて見た事がなかった。最初はチグハグな対応しかしなかったくせして、半月経ったらもうあんなにスキンシップをしよる!
極め付けは目の前で見せられた訳の分からないイチャコラした空間で、ボードゲームで千束が愛護くんに対して悪態をついていた事を謝っていた時に、どう考えた訳か彼が千束の頭を撫でていた。
(何やっとんじゃお前らは⁉︎ 未だに結婚が出来ない彼氏も長続きしない私に対しての当てつけかっ⁉︎)
彼に対して良い大人を演じようとして、真昼間からお酒を飲まない様に気を付けた。変な人間だと思われない様に言動も気を付けた。普段働いている時も……私は出来る女性だと思わせる様にキッチリしっかりとやってきた。その筈だったのに……
(何で千束ばっかりなのよぉ〜っ‼︎ ふざけるなっ‼︎)
それで私も愛護くんにあたっていた。千束を撫でている手を注意しても、彼はそれの何が悪いのか把握出来ない。良い意味でも悪い意味でも愛護くんがとてもピュアだと言う事は分かったが、今このタイミングで分かりたくはなかった。
そして千束と激しい口撃の応酬になって、最早誰も止められない内容になっていた。
そんな時だ……私の頭に何か温かい感触が乗っかって、それが私の頭を優しく撫でたのは。横目で確認してみると……それは愛護くんの手だった。困った様な顔を浮かべながらも、撫でる手つきは優しい。
(こんなの……今まで感じた事がない。こんな気持ち……味わったことも無い。この感覚は……何?)
さっきまで汚い言葉で罵り合っていた千束の方を見ると、あっちも愛護くんに頭を撫でられて顔を真っ赤にしていた。それにどことなく嬉しそうな顔をしているのはとても腹が立つんだが……
(これが……恋? こんなにドキドキする事が? こんな事……私は生まれてこの方1回も感じた事がない)
結婚願望を持ち合わせている……でも私はそれに至れるまでの過程を、いつの間にかすっ飛ばしていたのかもしれない。素敵な出会い=結婚で結論づけていた私は……この日初めて恋をするって意味を知ったかもしれない。
そんなありきたりで、でも生きていたらどこかで忘れがちな大切な気持ちを……まだ15年しか生きていない男の子に教えてもらった気がした。
side out
どうにか彼女達を宥める事に成功した。その日はまぁ何かと濃すぎて、その部分が特に印象的だった事を覚えている。そんな日から早くも5ヶ月ほど経とうとしていた。喫茶リコリコなら常連になっておよそ半年だな。
錦木さんと中原さんはというと、あの日を境に更に口論する様になった。まぁその分仲良くなっているんだろうが……
それで何かある毎に俺の所に来る様になった。錦木さんについては、今日凄く頑張ったから褒めて! っていう様に頭をこちらに向けてくる。撫でての合図だという事は、最初の方で何とか分かった。
錦木さんと中原さんの頭を撫でた日に家に帰ると、仕事で中々帰って来れないお母さん達が帰ってきていて出迎えてくれた。それでその日感じた事……女心について勉強したいと口にしたら……
「そう……蒼哉も漸く女の子に興味を持ったのね! この日が来るのを待ち侘びたわ……」
「蒼哉がいつかそう言う日が来ると思って色々と準備している。やっと……やっとこの日が来た」
「フフッ♪ 急にどうしたのか分からないけど、私もそうそうの力になるよぉ〜♪私達の虜にしてあげるんだから」
なんか3人とも俺が女性に興味を持ってくれた事を凄く喜んでくれた。なんか準備もしてくれているみたいで、俺としては、まだ知らない知識をこういった機会に教わるというのは楽しい。
それでお母さん達は身振り手振りを付けながら俺に色々と教えてくれたんだ。基本的な事以外は実践で行う様に、女性の機微を観察しながら手探りでやるしかないと言われた。
それで錦木さんに頭を突き出された時は、その時の状況とかを考えて彼女の頭に手を置いた。初めて撫でた時、戸惑ってはいたんだろうけど“風”が嬉しそうだと感じ取ったから、これが正しい選択なんじゃないかと思いながら……
まぁそれでセクハラだ何だと言われたらそれまでだな……
(ただ錦木さんを撫でている時は必ずと言って良いほど中原さんがジト目を向けてくるんだが……)
こればっかりは仕方ない事だと思う。中原さんは自分の目の前で、こう……男女がイチャイチャするのが嫌みたいだから。
だから中原さんには……営業時間が終わった後の晩酌に付き合っている。彼女がお酒が好きな事は、お土産を渡す時から分かっていた事だし、あの日に俺の方から、もう素で振る舞って良いんじゃないですか? と言った。
最初彼女は何を言われたか分かってなかったのか、それともいつの間にかバレていたのを誤魔化そうとして取り繕っていた。そこを俺が、中原さんは何だか俺の前ではいつも自分を抑圧してる様に見えるから、だからそんなに我慢しなくても良いですよ? と言ったら、そこから素に戻って今に至る。
まぁ勤務中に、いくら暇だからといってお酒飲むってのもどうかと思うし、晩酌も……
(確か車で来てるんじゃあ無かったっけ?)
そんな話を聞いた気がする……あれっ? それじゃあ飲酒運転してるんじゃあ……いや、多分晩酌をお店でやってる時は徒歩なんだろう。うん、そう思う事にしよう。
で、晩酌に付き合うと言っても俺は未成年だから水で済ましているけど、それでも嬉しいのか最初の頃の様な抑圧気味の笑みじゃなくて、素の状態で笑ってくれる。俺としては壁を崩してくれて嬉しく思っているよ。
(そんな時は……錦木さんからジト目を受けるんだが……)
これも仕方がない……? のか? ただ俺としては中原さんの日頃の疲れを労っているに過ぎないのだが……何故そんな目で見られてしまうのか……
(女心に対しての勉強が足りなかったか……)
まぁそこは今まで同年代の女性と接してこれなかったから実践不足といものもあるだろう。だからこれはまだまだ俺に伸び代があるという事だろう。まぉ同年代の女性との接し方をマスター云々した所で何がどう変わるかなんてわからない事だが……
そんなこんなでこの町に引っ越してきて、そして喫茶リコリコの常連になっておよそ半年……ここは雰囲気も明るくて何か嫌な事があっても前向きな気持ちにしてくれるし、この空間だけ他の時間軸と切り取られている様な、そんな穏やかな場所だとも思ってる。
(たが今日は少し慌ただしいな……)
確か食べモグとやらで最近人気になっていると聞く。その為最近ではお客さんが多く来る日も多い。マスター、錦木さん、中原さんも事ある毎に買い出しに行っているし……
「どうしたのそうくん? なんかいつもよりソワソワしてるけど」
「えっ? あぁ……いや、凄く忙しそうにしているし、俺に何かできる事は無いかなと思ってね? 俺って今の状況を考えるに、長時間居座っている迷惑な客みたいな構図に見えて……」
「ぜ、全然! ぜーんぜっん‼︎ そんな事ないよ‼︎ そうくんは自分のペースでゆっくりしてれば良いんだから‼︎」
「そ、そう……かな」
「うん! そうだよ‼︎ だから今日もゆっくりして行ってね‼︎」
「千束ー! すまんが買い出しに行ってきてくれ!」
「はーい! じゃあそうくん、ごゆっくり〜‼︎」
そう言って錦木さんはマスターから頼まれた買い出しに行ってしまった。そうしてしまうと厨房はマスターが、そしてホールは中原さん1人になってしまう。まだお客さんも多く来ているというのに、これを中原さんだけで捌くというのは……難しいのではないだろうか?
そう思った俺は、マスターが近くに来たタイミングで自然と口が開いていた。
side ミカ
愛護くんがウチの常連になっておよそ半年が経っていた。時間の流れは早いものだな。そして……
(千束が彼との時間を大切にしている……)
千束は……時折私との会話の中でも、愛護くんがここで働いてくれないかなと呟く様になった。彼は基本的に決まった時間に来て決まった席に着く。最早愛護くん専用と言っても過言ではない。
それを見て千束は本当に嬉しそうに彼と話す。その様子を見ていると、私も微笑ましい気持ちになる。
ミズキも彼の前で猫被りはやめて素を出す様になった。まぁ勤務態度は前より改善されたか。前まではお酒を飲む頻度が多かった。今も飲む事に変わりはないが、若干抑制されていると感じる。それに彼が晩酌に付き合う事で彼女のパフォーマンス向上にも繋がっている。
(何だか彼の事が魔法使いか何かに見えてきてしまったな……)
これまでに見た事が無かった千束の仕草、ミズキの業務改善……そしてこの私も、そんな日常がこれまでよりも楽しく思えて仕方がない。できる事ならこれから先ずっと、彼にはここの常連としていて欲しい。
そう思って愛護くんの側を通りがかると、彼が口を開いた。
「すまないマスター、少し相談事があるのだが」
「君が相談事? 珍しいな」
相談事……か。彼に至ってはここ半年の間でそんな言葉が出てきたのは初めてだな。
(しかし最近もいつもの如く優雅にここでの日常を過ごしていた様に見えた。逆に千束やミズキ、それに他の常連達の悩み事を率先して聞いていたと思うが……)
そんな彼にも1つや2つ悩み事があるという事だな。彼の独特な雰囲気から忘れがちだが、彼も千束と同じ15歳の子供だ。多感な時期でもある。
私が力になれる事は少ないが、彼にもこの店の皆含めて助けられているところがある。彼の悩み事に出来る限り応えてあげたい。
だがそんな私の思いとは裏腹に、彼の口から出たものは意外な事だった。
「俺もこのお店の手伝い……ないしここで働かせて貰いたいと考えているのだが……」
まさか私の思っていた事の斜め上の事を言ってくるとは……
side out
俺がこのお店で働きたい事を口にしたら、マスターは一瞬目を見開き、まるで時が止まったかの様に微動だにしなくなった。数秒後には意識が戻ったみたいに動き出したが……
「……どうしてこのお店で働きたいと?」
(ん? マスターの“風”が変わったな)
いつも感じる“風”ではない。これは……悩んでいるのか?
(確かに……マスターが何故こう悩むのかは大抵予想が付くが)
俺のお母さんは本当に……プライバシーというものを無視する。だから知っているんだ。このお店の事情についても、彼らが何者であるのかも……
だが俺はそれを抜きにして彼らの事を気に入っている。ある程度の助けになりたいと思っている。それは、俺が偶々ここの常連になったからというのもあるだろう。
(それに錦木さん……彼女の事を一目見た時から俺の“風”は感じ取っていた。何を感じ取ったのか、それは一瞬の事だったから今も分からないが……15年生きてきた中で初めての感覚だった)
だからそれが何なのか……それが分かるまでは、いやそれが分かった後でもここにいたいと素直に思う。
まぁそんな事はともかくとして……
「最近このお店も忙しそうにしていると思いまして……それに俺もマスターやミズキさん、それに千束さんには随分と助けられていますから。だから俺も……お客さんとしてじゃなく別の形で、手助けしたいなと」
マスターは俺の言葉を聞いて真剣に悩んでいる。俺も口を挟まず、マスターの言葉を待った。
そして数分後……
「……分かった。まずは君をお手伝いとして雇いたい。だから最初は時間がある時で構わないよ。その期間を半年設けて、もしそれ以降もここで働きたいという意思があるのなら、君の事をアルバイト待遇で迎えたい。勿論お手伝いの期間もそれに見合ったお給金は出すつもりだ。それでもしも肌に合わないと感じたのならすぐにいう事。これで良いだろうか?」
「頼んでいるのはこちらです。寧ろお給金とかなくても喜んで働かせて貰いたいと考えているのですが……」
「馬鹿を言うもんじゃない。君は学生なんだ。ここは譲らないぞ?」
「……分かりました。ではお言葉に甘えますよ」
「なに、君がここで働いてくれるのなら、千束も喜ぶ」
「えっ? 千束さんが?」
「あぁ。勿論千束にも同年代の知人はいるが、同年代でここまで長く接してくれた男の子はいなかったものだからな。色々と新鮮に感じるんだろう。今までも元気だったが、君が来てからというもの千束は今まで以上に元気に感じる。それに……」
「それに……なんです?」
「いや、なんでもない。ともかく……愛護くん、君の事を歓迎するよ」
マスターのその言葉と同時に俺は、喫茶リコリコとの関わりを強くしていった。