勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
「──ひとまずは大丈夫でしょう」
「……ありがとうございます」
「──いいえ。お気になさらず」
放棄されて久しい家屋。家主達が不在となって何十年が経っているのか。
すっかり荒れた様相の屋内に雑毛布を敷き、その上へ半裸の彼を寝かせるとアニスが背嚢から引き摺り出した予備の防寒戦闘服の上着を掛けた。
道中、回収したムーアの持ち物──背嚢や突撃銃、プレートが砕けたボディアーマーを纏めて床へネオンが置く中、ラプンツェルへ向き直ったラピが改めて礼を告げる。
その礼を金色の聖女は緩々と左右へ頭を振り、大したことではないと返す。
「それにしても…何があったのですか?」
「…それは……」
口籠るラピを見て、聖女は事情を聞くには少し早すぎたかと思い直したのだろう。
まずは座りましょうか、と彼女達を見渡しながら自身が真っ先にその場へ脚を揃えて座ると──自然な動きで床の上で死んだように眠る彼の頭をそっと掬い上げ、自らの膝を枕にした。
「…まだ整理が出来ていないのにお尋ねしてごめんなさい」
「…いえ…」
「…でも、
僅かに白髪が混ざった黒髪──目立つ程の量ではないが白とそれよりも多い黒が逆立って生え揃う頭を聖女の細い指先が手櫛で梳くように優しく撫で始める。
「…指揮か──…ムーア大尉とお知り合い、ですか?」
彼女達に混ざり、その場へ腰を下ろしたラピがラプンツェルに尋ねる。まるで彼の為人を知っているかのような言葉の響きにも聞こえたからだ。
問い掛けに──聖女は僅かだが難しそうな表情を浮かべ、やがて左右へ緩く頭を振った。
膝の上へ乗せた彼の寝顔──右眼を中心に包帯が斜めに巻かれたそれをラプンツェルが見下ろす。
「──…
勿忘草色の瞳が切なく揺れ動く。それをラピは見逃さなかった。
──痛い。
右脚の太腿、腹部、胸部、そして右眼の周囲に痛みを覚える。
それを自覚した途端、彼の意識が急速に浮上する。
裏切る可能性を考慮していたが、裏切るとしても
とはいえ──今更になって思い至っても後の祭りだが、分隊の損傷が酷いあの状況を
──仮に裏切るとすれば、俺も同じタイミングだ、と。
「──あっ…この
「──気が付きましたか?目は開けられますか?」
声に導かれるままムーアは全身に怠さを感じつつ意識して瞳を薄く開けた。
視野が狭く感じる。どれほど眠っていたのか、視界も霞み、世界は不鮮明だ。
その中でも一際目立つ金色。
何度か瞬きを繰り返し、視界が次第に鮮明さを取り戻して行く。
視線の先にいる人影の姿をはっきりと捉えた彼は唇を震わせる。
「──…ラプン…ツェル……さん…?」
金色の聖女──信心深いとは世辞にも言えないが、視界の大半を占める神聖な雰囲気を醸し出す相手の姿を捉えたムーアが彼女の名を震える唇で紡ぐ。
しかし、敬称付きで呼んだ名──それを聞いた彼女の勿忘草色の瞳が悲哀、諦念、そのような類を湛えて揺れ動いた理由を彼は終ぞ分からなかった。
軽く左右へ頭を振った彼女は──片手に握ったタオルをムーアの肌へ向かわせる。優しげな手付きで温水に浸して絞ったタオルを使い、彼の肌を拭う聖女の瞳が次第に、何故か、トロンと蕩け、頬も紅潮を始めた理由もついでに分からなかった。
「…やっぱり…腹筋は嘘を吐きませんね……」
蒸気が漏れる音──彼女の膝へ乗せられている頭を傾け、その音に視線を向ける。
青い火が燃え立つアルコールストーブ。その上に乗った小振りのケトルから沸騰の証である蒸気が漏れている。彼が背嚢の中へ入れていた物だ。
タオルも彼の持ち物だが──どうやらこれらで彼女が身体を拭いてくれていたらしい。
「…手当てを?」
「あ、はい。応急処置程度ですけど。そちらの物も勝手に使わせて頂きました」
「…感謝します」
「そんな…私こそ逞しい男性と二人っきりになれてありが──いいえ!どういたしまして」
──こんな性格だったろうか。
意味の分からない疑問が脳裏を駆け巡った瞬間、それを搔き消す勢いで頭痛が追走し、頭蓋の内を強く締め付ける。
「…痛みますか?」
「…多少は」
「そうですよね…でも目が覚めて良かったです」
タオルを置いたラプンツェルは改めて安堵の溜め息を吐き出すと、片手を厚い胸板の上へそっと置き、そして逆の手で彼の髪を手櫛で優しく梳き始めた。
「本当に…良かったです」
心底からの安堵を吐露した聖女が揺れる瞳を隠そうともせず、彼を見下ろす。
その姿と、身体の傍らから感じられる温もりは──どうしようもなくムーアは
それはそうと、まずは現状の確認だ。
「…どれほど眠っていたのですか…?」
「一晩だけです。心配なさらないで下さい」
「一晩も?…ラプチャーは…」
比較的、敵機の動きが鈍い北部でもラプチャーは跋扈している。遭遇率は余程のことでもない限りは100%だ。
すると彼の疑問を察したのか、ラプンツェルが太い三つ編みに編んだ長い金髪を片手で摘んで端的な説明を行う。
彼女の髪の一本ずつにはジャマー機能があり、一筋だけでは大した効果はないが束となっていると
「…それは…羨ましい」
ムーアの口から本音が漏れ出ると、その様子が面白かったのかラプンツェルが堪らず小さな笑い声を上げた。
「…私の状態は…どうですか?」
「
「部下達は──ッ!?」
三人──つまりラピ、アニス、ネオン、部下達のことだ。彼は思わず鍛えられた八つに割れている腹筋へ力を入れて起き上がろうとしたが、途端に腹部と胸部の内側で痛みが走り、表情を歪ませてしまう。
「あっ…まだ起き上がっちゃダメですよ」
身体を中途半端に起こした格好で止まったムーアの頭を聖女が再び自身の膝の上へ導いた。
「応急処置をしただけ、って言ったじゃないですか」
「…しかし…」
「…大怪我をしたのを忘れましたか?」
右大腿部に大きな擲弾の破片が突き刺さり、その近くへ対ラプチャー用の火器から放たれた銃弾が掠めて肉と肌を抉った。それだけでなくセラミックプレートが跳弾を防いだとはいえ腹部に1発。そして胸部開放創となった心臓付近への1発、頭部にも義眼を抉り取った1発。
有り体に言えば──生きている方が不可思議な程だ。
「──今は休んで下さい。万が一があれば彼女達が悲しみます」
「…部下達は何処に?」
「外にいます。ここが臨時の
「…何分前ですか?」
「30分前でしょうか。──三人は熱心に救助を求めていましたよ。吹雪の中でラプチャーに発見される危険性を知りながら…必死に叫んでいました」
意識が遠退く寸前──彼女達が何かへ向かって叫んでいた様子がムーアの脳裏に蘇る。
嗚呼、と思わず溜め息が漏れ出た。
「でも少し遅いですね。そこまで危険な要素はないと思ったんですけど……」
「──もう…充分に寝た…!」
痛みが何だと言うのだ。彼は安息を無性に求めそうになる聖女の膝の上から起き上がる。上体を起こした途端、激痛が走るが──この程度、
「…部下達のところに…!」
「……はぁ……」
──ラプンツェルが溜め息を吐き出す。まるで、仕方のない人、と言わんばかりに。
すると彼女は上体を起こしたムーアの背中へ片手を回しつつ身を寄せた。
「分かりました。では私に掴まって下さい。私が立たせてあげま──立たせる?」
「……え?」
「た、立たせて…あげます…はぁ…はぁ…!」
間近で荒い呼吸を繰り返し、何らかの衝動を必死に抑えようとしているラプンツェルへ彼は横目を向ける。
背中を支える手が──やたら撫で回すような仕草を見せていても、それはきっと気の所為の筈だ。
そして【stand up】のことを彼女は言っているのであって、まかり間違っても、決して【erection】の意のそれを紡いだ訳ではないのだ。その筈である。
「…いや、大丈夫です。自分で立てますから…」
「そ、そうですよね…まだまだお若いですから…朝はきっと…!」
「…………」
「あ!ち、違いますよ!?不純な──いえ、
──本当にこんな性格だったろうか。
再び脳裏に駆け巡った疑問──同時に走る痛みがむしろこの時は好ましかった。
治療の為に下着のみを纏った姿だと今更気付いたムーアは痛みが走る中でも構わず、背嚢へ腕を伸ばす。
ラプンツェルから少し身を離した彼は間近に置かれていた自身の背嚢を漁り、防寒戦闘服のパンツと上着を取り出した。
それを座りながら纏う最中も──腹部と胸部の内側から痛みが走る。思わず眉間へ縦皺が何本も深く刻まれるがベルトまで留めるとブーツを履いた。
準備を終えたと察したのだろう。身を屈めつつラプンツェルがムーアの傍らに片膝立ちになり、彼の左腕を自身の肩へ回すと、彼女の右腕が支えるかの如く背中へ添えられた。
その格好のまま立ち上がると──やはり痛みは走るが、我慢出来ない程ではない。
「では三人のところに行きましょうか」
「お願いします」
「はい。──それと、ひとつお願いしても良いでしょうか?」
「…なんでしょう?」
お願い──先程の様子から
「──どうぞ、ラプンツェル、とお呼び下さい。畏まる必要もありません。あなたらしくなさって下さい」
「…分かりました」
「ダメです」
「……分かった。ラプンツェル」
敬語も敬称もなし──それを願った聖女の求めに応じ、ムーアが頷きと共に名を紡ぐ。
すると金色の聖女の勿忘草色の瞳が──ほんの微かに潤んだ。