勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
身の回りの諸々に無頓着、だったように思う。
無論、戦況を考えれば当然なのだろうが──無精髭を一週間は放置して伸びるのに任せるのは頂けなかった。
口周りや顎、頬まで無精髭で覆われた顔は、まぁ元の顔立ちが精悍なので整えれば間違いなく様になっただろう。
「──髭を剃って下さい。不衛生ですし、みっともないです」
苦言を口にしたのは一度や二度ではない筈だ。
その度に彼──指揮官は肩を竦め、渋々とカミソリやシェーバーで髭を剃っていた。
髭面が嫌いだった──訳ではない。彼の男性的な雰囲気や魅力が強調されていたのだ。お陰で目を合わせるのに一苦労したのである。有り体に言えば、照れてしまった。
彼の前では素直になれなかったと思う。もっと素直であれば──それこそ思考転換を経る以前のスノーホワイトや、或いはリリスのように好意と愛情を伝えられていたら、後悔はしなかったのだろう。
あの夜──離別の瞬間も彼は無精髭を蓄えていた。
あの時の指揮官の顔は忘れようとも忘れられない。
死を覚悟した、迫りくる死を受け入れた人間とは、きっとあのような穏やかな顔をするのだろう。柔らかく優しい声音を発するのだろう。
だからこそ忘れられない。
あの瞬間に向けられた表情と声は忘れられないのだ。
だからこそ、なのだろう。
永遠に失われた存在──二度と会うことは叶わない存在だと知っていたからこそ我慢は出来なかった。
この場所を訪れた古い友人が語っていた通り、良く似ている。
奇しくもあの瞬間と同じく無精髭を薄く蓄えた顔のまま現れた存在の胸へ飛び込んでしまった。
背嚢を背負う背中へ細い両腕が回り、強く抱き締める。
──もう離れない──もう離さない。
叫びたくなる程の想いを込めて、彼女は強く抱擁し、額を硬いボディアーマーへ押し付けた。
肩が震え、呼吸すら覚束ない。一呼吸でもすれば、抑えている嗚咽が止めどなく溢れ出そうだった。
100年はとうに過ぎた。1世紀は──あまりにも長すぎたように思う。それとも短かったのだろうか。分からない。
復讐に囚われ、計画を練り続けた年月は長く、一瞬のことであったかも知れない。
ただ復讐の為に──自分達の物を取り戻す為に──いや、元々自分達の物であったのだ。取り戻す、は適切な表現ではない。
空虚で乾いた年月を遡る彼女の脳内に、あの日の出来事が思い浮かぶ。
あの人に、あの時に──こうして縋り付いて引き止めていられたら──そう思わざるを得ない。
それこそ自分に素直になって──
「──歓迎される、とは聞いていたが…ここまでとは思わなかった」
──困惑を感じさせる落ち着いた低い声音。耳に残る、あの日の残響と不思議なほど一致する声は否応なく彼女の双眸を潤ませる。
「──良く…良く…いらっしゃいました…!」
──違う。言いたいことはそんな陳腐なものではない。
もっと言いたいこと、話したいことはいくらでもある筈なのだ。
離別からの1世紀──どのように過ごしていたのか。どんなに苦しかったか、胸の内に澱み、溜まり、燻った思いの丈を全て告白できればどれほど幸せだろう。
「──
「──────」
──今、なんと。
胸をスッと貫いた冷たい氷柱の存在さえ感じられた。
硬いボディアーマーから額を離し、背中に回し、強く抱き寄せていた腕の力が抜ける。
「──はじめまして、綺麗なお嬢さん。お会い出来て光栄だ」
──良く、似ている。生き写しのようだ。
瞳へ涙を湛えつつ彼女は頭上を仰ぎ見る。
精悍な顔立ち、強面なのも魅力的だ。眉間へ刻まれた深い縦皺、無精髭が薄く生え揃う口周りや顎、頬もあの日々のまま。
右眼──記憶にない傷が眉まで到達していた。きっと何かの作戦で負傷したのだろう。
良く似ている。しかし──友人は、自分は、なんと言った。
──それで、あの人に似ている、という人間の名前は?
──……ショウ・ムーア、です
──……なら違いますね。きっと子孫でもないでしょう。姓が違いますから
嗚呼──そうだった。彼は、あの人は
もう──この世には存在しないのだ。悠久にも等しい時間を生きられる人間など、いる筈がない。
だから、この眼前に立つ人物は──
「──失礼、しました。あまりにも…昔の友人に似ていたもので…」
非礼を詫び、本能が離れ難いと訴える腕を強制的に彼から離した彼女は、一歩退いた。
改めて対峙した彼女──ドロシーは己の身へ纏わせた拡張武装を解除すると、純白のドレスの短い裾を指先で摘み、軽く一礼。
「──ようこそいらっしゃいました。生き残った者達の楽園へ」
淑女らしく──彼女は一礼する。
あまりにも、かつての友人、戦友、或いは大切な人──呼び方は様々だが、あの人と良く似た眼前の青年へ。
行きは良い良い──などという言葉を作った過去の人物にムーアはお越しを願いたくなった。
なにせ散々だったのである。
やはり課せられた
ラプチャーが跋扈する森を抜け──しかも何度かラプチャーの小規模な群れと遭遇してしまい、交戦状態に陥った。
6機の敵機は撃破したが、明らかに数が多く、神経と体力を要らぬほど擦り減らした気分である。
ハランが設けた試験場を出発して約1日が経過し、やっと辿り着いたのは緑豊かな──それこそ絵に描いた
荒廃した地上の風景ばかりが馴染んだ目には眩しさすら感じてしまった。
草原を歩き始めて間もなく、頭上から純白の天使が降り立つと、警戒してしまい突撃銃の安全装置を外しそうになってしまったが──突然、抱き付かれてしまい困惑を隠せなくなる。
花の香りを纏わせた柔らかく手触りが良さそうな赤紫色──撫子色の髪を持った純白の天使が胸元へ縋り付き、肩を震わせている。
間違いなく初対面──の筈だ。
「──ッ…」
頭が、痛い。
頻繁に発生する頭痛に苛まれ、彼は眉間へ深い縦皺を刻みながらも努めて声音は落ち着かせたまま彼女へ離れるよう促す。
美しい所作での一礼を受け、ムーアも相応の礼儀を尽くして礼を返しつつ──突撃銃の安全装置へ掛けていた親指を離した。
「──ここは楽園。公の名称は地上基地【エデン】と申します。そして私は当基地のガイド──ドロシーです。気楽に
「……何故、俺の名を?」
まだ自己紹介は済ませていない。
疑問を口にすると彼女──ドロシーが形の良い唇を綻ばせながら首肯してみせる。
「楽園の試練に合格した方は地上に新しい時代を呼び起こす為の精鋭達──ですから当然、知っていますよ」
「…
試練の合格が、楽園へ足を踏み入れる為の許可証や招待状の類だったとしても番人たるハランから基地の司令官、責任者へ連絡が行っているかは分からない。
自嘲と皮肉を込めて彼が口にする言葉は──どうにも眼前のドロシーの心の内に秘めた琴線へ触れるらしい。時折、瞳が揺れ動いていた。
「──あまりプレッシャーに感じないで下さいね。誰もあなたの意志に反して、重大な使命を負わせたりはしませんから」
「…それは…有り難いな」
本音を込めて、ムーアが溜め息を吐く。その姿を見た彼女が薄い苦笑を浮かべながら片手を差し伸べる。
「──さぁ、こちらへ。天気も良いので、まずは楽園の庭園に行きませんか?」
客として
ドロシー──その名には聞き覚えがあった。
──ドロシーはもう…こんなことには興味ないだろうし──
金色の聖女──ラプンツェルが口にした名前だ。
おそらくは旧ゴッデス部隊の隊員の一人であろう人物である。
その存在が眼前に立っている。
ムーアとしては感慨深くもあるが──それ以上に、落ち着きつつあるがこのところ頻繁な頭痛の発生が悩みの種として思考の大半を占めていた。
とはいえ、やっと頭痛も落ち着いて来た。お陰で美しい淑女と庭園の散策に集中できる。
「──日差しが暖かいでしょう?」
「──あぁ。日光不足の身体に染み渡る」
「──ふふっ」
庭園へ設けられた小さな遊歩道。緑豊かな庭園だ。手入れも行き届いている。
ヘルメットを脱ぎ、左脇へそれを抱えたムーアの隣を歩く彼女──ドロシーが唇に軽く握った手を添えながら控え目な笑みを浮かべる。皮肉か冗談か、いずれにせよ彼なりの軽口は気に入ったらしい。
「ここの庭園では樹木93種、家畜13種を始めとする様々な食用生物を生育しています」
「…サトウカエデ…樹液を煮詰めてメープルシロップを作る…」
「良く御存知ですね。その通りです」
「さっきはオリーブを見掛けたが…これほどの庭園とは思わなかった」
「驚きましたか?」
頭ひとつ分ほど低い位置から問われ、彼は素直に頷いて肯定する。
「エデンは荒れ地の真ん中に造られた基地ですが発展した遺伝子技術と栽培方法でラプチャー侵攻前の自然を再現したのです」
「──遺伝子技術…」
なんらかの組み換えが人為的に施されたのだろうか──その思考が巡った途端、再び頭痛が一瞬だけ頭蓋の奥で響いた。
「…どうかなさいましたか?」
「…いや、なんでもない。疲れが溜まっているようだ」
眉間へ皺を寄せ、刻まれた縦皺が多くなったのを察したドロシーが不安げに尋ねるも彼は気丈な返答を漏らした。
すると彼女は歩みを早め──遊歩道の脇に飛び出す枝振りの良いそれから黄金色のリンゴをもぎ取る。
艶のあるリンゴを両手で握りつつ彼の元へ戻り、それを差し出す。
「──少しは疲れが取れると思います。召し上がって下さい」
おそらくは
彼女は自然を再現した、と言ったが──限りなく再現に近い偽物だろう。
いや。そうではない。
そもそも
片手で受け取ったリンゴを──彼は口元へ向かわせた。
表皮へ歯を立て、カリッと音を鳴らして齧り取る。
「──どう、ですか?お口に、合いますか?」
何処か探るように──不安げなままドロシーが彼を見上げた。
シャクシャクと小気味よい咀嚼の音が響く。そのまま二口目を齧り取り──やがて喉仏が動き、続けて果汁で潤った乾燥気味の唇が開く。
「──不老不死になりそうだ」
途端、ドロシーが目一杯、双眸を開いた。