勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
「──ヘレティック。その内の一人と交戦し、勝利した経験がありますよね」
濃い茶色の瞳が細められ、鋭さすら感じる視線が突き刺さる。それに彼女は不思議と、彼女自身も理由は不確かだが、背筋へ走るゾクゾクとした感覚を覚えた。
不快──なそれではない。不思議な感覚である。
「…そちらが入手した情報は本来のものとは異なるらしい。当事者の内の一人として言うのなら…
「──いいえ、
視線を逸らさずにアークの指揮官がカップを傾け、二杯目の紅茶を静かに啜る。どうやら味は気に入ってくれたらしい。嬉しい──と不思議な程に感じられた。
「過程はどうあれ、
「…………」
ドロシーが語る道理を納得──したかは定かではない。しかしムーアは無言のままカップを傾け、続けてソーサーへ静かに置いた。
「………煙草を吸っても?」
彼女が頷く。
金色の聖女も神経質だ──と彼女が内心で鼻を鳴らした直後、オイルライターの蓋を開ける金属音が響く。
間を置かず、ホイールとフリントが擦れ合い、火花が散った。
「───」
慣れた様子で銜えた煙草へ火を点ける仕草。右手でオイルライターを、左手でそれを覆い、風除けを作りながら煙草の先端を炙る。
やがて火が点いたのだろう。オイルライターの蓋が閉じられ、紫煙が唇から溜め息の如く微かな吐息と共に緩く虚空へ浮かんだ。
「…カフェインを摂取すると、どうしてもな」
思わず凝視してしまった。視線をあまり好ましくない類のそれと感じたのだろうか。
ムーアが申し訳なさそうに肩を竦め、自嘲の苦笑を漏らす。
「…いえ、失礼しました。ここでは煙草を召し上がる方がいらっしゃらないので…」
「…健康には悪いから当然か。まぁアークでも喫煙者は少数だが…。こんな格好で催促するのはマナー違反だろうが、敢えて申し上げよう。──前置きは要らない。本題に入ってくれ」
わざわざ設えた庭園での茶会、そしてエデンの各地を巡るツアーも全ては──彼女の、或いは当基地の、と言えば良いのか。いずれにせよ、何らかの思惑を果たす為の前準備であろう。
果たして彼が想像する通りの前準備であったのかはさておき──であれば、と眼前のドロシーは居住まいを正してムーアを見据える。
「──では単刀直入に申し上げます。人類に対する悪意で塗り固められたクイーンの精鋭の一人が、今、虎視眈々とエデンを狙い、この近辺をうろついています」
コードネームはニヒリスター。
エデンはこれまで彼女と5回の交戦を経験し、いずれも膠着状態のまま対決が終わっているという。
「──勿論、ヘレティックに決定的な打撃を与えるアンチェインドを確保した今、少しは有利になりましたが…たった一発の銃弾にエデンの命運を賭ける訳には参りませんから」
「…それで?」
せっかち、だとは彼も承知している。とはいえ、これは性分だ。改善しようにも相当の努力が必要だろう。
折角の美女との会話が随分と色気のない内容なのは残念極まりないが、本題となるそれがキナ臭いと察知すると彼の声音に若干の警戒の色が孕んだ。
「…私の
「…貴女の
「──その結末こそが、奇跡と呼べる勝利、だったのでは?」
「…さてな。スマートな勝ち方にはあまり縁がないし、なにより不器用な人間だ。ただ…そうだな…やはり…諦め切れなかった。それに尽きる」
右手の人差し指と中指へ挟んだ煙草を銜え、吸い込んだ紫煙が緩く吐き出される。
ニコチンとタール、一酸化炭素、カドミウム、ヒ素、アンモニア、シアン化水素、ダイオキシン──列挙するだけでも人体に有害な紫煙。
だというのに──彼から漂うそれらが鼻を擽ると、彼女は無性に懐かしく感じる。
落ち着く香り──
「──では、その
曖昧な、掴み所がない
訝しむ彼の眉間へ皺が寄り続ける姿に彼女は好感触を覚えた。
「…対価…対価とは?」
「はい。ハランから聞きましたが、あなたもアンチェインドを求めているそうですね?」
ピクリと彼の頬が、同時に眉が僅かな動揺を見せた。どうやら琴線に触れたらしい。
「差し上げることは出来ます。ただし──」
「そちらが、正確にはエデンが保有するアンチェインドは一発のみ、と言っていたな。切り札を易々と交渉のテーブルに乗せるのか?」
解せない──と、身を屈め、ボディアーマーのポーチから取り出した携帯灰皿の蓋を開けたムーアが溜まった灰を落としつつ姿勢を元へ戻す。
「信頼の証、だと受け取って下さい。ただし保管してアークへ持ち帰るか、それともヘレティックを討伐する過程で消費してしまうかは──」
「──俺の行動と選択次第、と」
カップを傾け、紅茶を飲み干したドロシーがそれをソーサーへ置きながら小さな頷きで肯定を示す。
溜め息と共に紫煙が漏れ出る。
どうするべきか、と悩んでいる──不思議なことにドロシーはそれが手に取るように分かった。
「…あの指揮官もこの取引に同意したのか?」
「あの指揮官──あぁ、ヨハンですね。いいえ、彼はまだこの取引のことを知りません。ですが、その点は然程、心配いりませんよ。彼は私が説得しますから」
「…ふむ…」
──さて、どうするべきか。
「──指揮官様、どうするつもり?」
エデンのロビー──掃除が行き届いた空間へ揺蕩う紫煙。
それを吐き出すムーアを見上げながらアニスが問い掛けた。
「…皆の意見はどうだ?──アニス」
「…正直、断りたいよ。でも…これを断ったら、もうアンチェインドを手に入れる方法がないでしょ?」
正確にはアンチェインド捜索が振り出しへ戻る──のだが、言い繕ったところで大差はない。彼は頷いてアニスの言葉を肯定する。
「だからって真正面からエデンと戦う訳にもいかないし…指揮官様もそんな風に手に入れるのは嫌でしょ?」
「…そこまで清廉潔白な人間に見えるか?……まぁ、気分的には宜しくないし、負けるとは思っていないが相当の損害を覚悟しなきゃならんからな」
「…じゃあ、もう決まりだね」
即決してくれるのは有り難いのだが──とまでは言わないが、ムーアは携帯灰皿へ短くなった煙草を放り込みつつアニスに横目を向けた。
すると、その傍らに立つネオンが頷きをみせる。
「はい。どっちにしてもヘレティックはいつか戦わなきゃならない敵ですよね?」
「…まぁ、遅いか早いかだけの問題ではあるだろうが……」
こういった時、女性は強いらしい。あれこれとリスクを気にする男性に比べ、女性はあっさりと即断と即決を下してみせる。非常に頼もしくもあったが──こうも即決されると彼の方が戸惑いを覚えてしまう。
「──フーン。でもミツバチ達、分かってて言ってるのよね?」
不意にパピヨンが声を上げる。
自然とムーアを含めた全員の視線が彼女へ向けられると、パピヨンは髪を指先で掻き上げながら確定事項となるだろう近い将来の状況を敢えて口にした。
「もし私達が提案を飲んだら、
──忘れてた。
──忘れるところでした。
──………。
アニス、ネオン、そしてラピが無言のまま、三者三様の表情を浮かべる。程度の差はあるが、いずれも肯定的とは言えない表情である。
「…うーん…また師匠と殴り合いが始まりそうになったらどうしましょう…」
「ネオン、安心してくれ。負けるつもりは毛頭ないからな」
──全く安心できる要素がない。
思わずアニスが溜め息を吐き出すのも無理はなかった。
──最初の一発がアンチェインドです。
ロビーで手渡された一挺の自動拳銃──ストライカー方式が採用されたそれの弾倉を抜いたムーアは、続けてスライドを引いた。
薬室には初弾は当然ながら込められていない。となれば弾倉の一番上、一発目がアンチェインドなのだろう。
鈍色に光る弾頭を認め、再び弾倉を拳銃の挿入口へ叩き込む。
ドロシーが直々に手渡して来たそれは彼女曰く、信頼の証、だとか。
貸し出された一室──居住区画だという基地の一画に設けられた居室で彼は手渡された拳銃を机上へ置いた。
椅子へ腰掛けると、続けて背嚢から整備道具の一式を引き摺り出し、突撃銃や拳銃の分解清掃の準備へ入る。
試練、そしてエデンへ到着するまでの道中、整備もなしに随分と発砲してしまった。
突撃銃を分解し、銃身の中へオイルで濡れたウエスの切れ端を付けたクリーニングロッドを通す。やはりというべきか。想像通りに汚れが確認できる。
この分では射撃の際に発生するガスの煤も凄まじいだろう。良く作動不良や不発が起こらなかったものだ。
約1時間。それが突撃銃や拳銃の整備と清掃に掛かった時間だ。
分解した部品を一点ずつ組み上げ、45口径の拳銃が元通りに戻る。スライドを何度か引き、妙なガタ付きがなく、そして作動が滑らかであると確認。
ツーハンドホールドで拳銃を握り──引き金を引いて空撃ちの音を響かせる。
撃鉄が落ち、撃針もしっかり前進した。滅多なことで作動不良は起こらないだろう。
弾薬が込められた弾倉を装填した彼は、安堵の溜め息を吐き出しつつ椅子の背凭れへ体重を預ける。
体重が130kgもある彼の体重を預けられても軋む様子がないのは、おそらくはニケ用に作られた代物なのかもしれない。
このまま一服しようかとも思うが──
「──シャワー、浴びるか」
──思っていたよりも疲労が溜まっているらしい。
腰を上げる際、身体が億劫であった。
背嚢から引き摺り出した着替え──と言っても戦闘服だが、それを圧縮していたビニール袋から取り出し、続けてタオルや下着、ついでにカミソリを携えた彼は部屋の片隅へ設けられたシャワー室に向かった。
汚れた戦闘服を全て脱ぎ、認識票が首から下がる筋骨隆々の裸体を晒してシャワー室の中へ入るとタッチパネルを操作し、頭上から温水が降り注いだ。
「……ふぅ……」
ホッと人心地つく、とはこのことだろう。
備え付けの鏡と向き合い、持ち込んだカミソリで伸びた無精髭を綺麗に剃る。ヤンから贈られたそれだが、使い心地は相変わらず良好だ。
髭を剃る傍ら角質も落としているらしい。お陰で剃り終わる頃には乾燥気味の肌が滑らかになっている──気さえする。とはいえ化粧水の類を付けない為、結局は意味はないのだろう。
おもむろに彼は右眼へ左手を向かわせる。指先が機械仕掛けの義眼を摘み──眼窩から引き抜かれた途端、ムーアの視界が若干狭苦しくなる。
眼窩から取り除かれた義眼を温水で軽く水洗いし、汚れを拭い取ると彼はタッチパネルを操作して、頭上から降り注ぐ温水を止めた。
手首を振って水気を飛ばし、再び義眼を眼窩へ嵌め込む。
「……ん……」
視神経へ繋がる端子と接続され、視界が元へ戻った。
上下左右へ視線を向け、異常がないと認めてから彼は用意したタオルで全身を拭い、下着と戦闘服のパンツを纏ってシャワー室を後にした。
タオルで灰色に近くなった頭髪を乱雑に拭きつつソフトパックを掴んで軽く振り、飛び出した煙草を一本銜える。オイルライターの火を点けた時──部屋に呼び出しのブザーが鳴り響く。
「──入れ」
アニスから散々に言われている為、彼もこれでも学習はしている。招き入れる際に全裸とはなっていない。
湯上がり直後の為、シャツはまだ纏っていないが、これぐらいなら問題ないだろう。
「──失礼します」
気が抜けるような音と共に扉が開き、次いで玲瓏な声が響いた。ラピである。
「…あぁ、ラピか。…そして…確か…キミは…」
「──イ、イサベル、と申します…」
物憂れげな佇まいの美女──インヘルト部隊の参謀であろうイサベルがラピの後に続いて入室する。
妙な組み合わせを感じ、彼は内心で首を傾げてしまう。
「…どうかしたか?」
「それが……」
ラピは良くも悪くも慣れた。彼の筋骨隆々の上体を見て恥じらいを覚えることはない。ただ、ほんの僅かに呆れが籠もった溜め息が漏れそうになるが、それを耐えつつ背後へ続くイサベルに視線を向けた。
「…ム、ムーア少佐…その…お休み中のところ…も、申し訳ありません…」
「いや、気にせんでくれ。こんな格好で申し訳ない」
頬を赤く染めたイサベルは、なるべく彼の肌を見ないよう顔を背ける。
雄々しく、野性的な風情を感じさせる筋肉が上体を覆う彼の肉体は──目に毒だ。或いは目の保養だろうか。
厚く盛り上がった胸筋、首筋も僧帽筋が発達しているのか太い。腕も太く、肌の表面へ血管が浮かび上がる程だ。
床を見ようと彼女は顔を伏せるが、それでも視界の端には戦闘服のパンツを留める腰のベルト──そこから上に深く刻まれた腹筋の様子が見え隠れしてしまい落ち着かない。
「そ、その…ヨハン指揮官がムーア少佐をお呼びしています。…御足労をお掛けしますが…」
──用があるなら出向けば良かろうに。
などと彼は考えてしまうも、それを口にしても始まらない。溜め息を紫煙と共に吐き出した彼は承諾する旨の頷きを見せた。
中途半端にしか吸えなかった煙草を携帯灰皿へ投げ込んでからムーアは黒い半袖のシャツを、そして戦闘服の上着を纏う。
上着の胸ポケットへソフトパックやオイルライター、携帯灰皿を納め、パンツのポケットには携帯端末を。
最後に──右脚へレッグホルスターを巻き、拳銃を収めてからブーツの靴紐を結び直す。
準備が整い、イサベルが案内すると言う為、後へ続こうとするが──
「──ラピ」
信頼する部下の名を呼ぶと、彼女へアンチェインドが装填された拳銃を手渡した。
「預かっていてくれ」
「…分かりました」
「──こちらへ。護衛も1名のみなら許す、とのことでした」
聞き慣れた玲瓏な高い声。無条件に安堵を感じる声音のまま頷いた彼女へ拳銃が預けられる。
イサベルが言うには護衛が許されるらしい。
頭ひとつ分ほど低い位置にあるラピの顔をムーアが伺うと、彼女は小さく頷いてみせた。
彼女には悪いが、このまま護衛も任せる流れである。
部屋を抜け出ると、イサベルが廊下を進み始めた。
その後に続くこと10分ほどだろうか。
「──来たか」
中庭──なのだろう。色彩豊かな草花が植えられた花壇へ囲まれるように建てられたガゼボ。そこに長椅子が向かい合って設けられ、中央へテーブルが設置されている。
長椅子へ腰掛けているのは詰襟の軍服を纏ったエデンの指揮官だ。
「──待たせたか?」
ガゼボへ足を踏み入れ、開口一番に問い掛けるも指揮官──ヨハンはグラスを用意し、ラベルが貼られていないボトルの封を切るばかりだ。
冷ややかなアイスブルーの双眸が彼へ向けられる。
──座れ。
如実に物語る視線へムーアは肩を竦め、彼の対面へ腰を下ろした。
するとヨハンはグラスへボトルを近付ける。透明なボトルに充填されているのは仄かな赤みを帯びた液体だ。
それがグラスに注がれ、半分ほどが満たされると無機質な手がムーアへ向けて押し遣った。
「──望み通り、用意した」
「…望み?」
押し遣られたグラスをひとまずは掴み、鼻を近付ける。鼻を微かに鳴らして香りを嗅ぐと──果実の爽やかなそれが感じられる。
「……果実酒か?」
「何か問題でも?」
「…スモーキーな銘柄が好みだ」
とはいえ、用意された酒である。一口も飲まずに残すのは礼儀がなっていない。
ムーアは掴んだグラスを傾け、半分ほど注がれたそれを一息に飲み干してみせる。
「……まぁ、思ったよりは悪くない。趣味ではないが」
この男は一言が多い──と対峙するヨハンは内心で溜め息を吐き出す。
いちいち皮肉や煽りを口にしなければ息が詰まる、とでも言うのだろうか。
「例えば?」
「WOLF KILLERは良く飲む」
「…
ヨハンの記憶にある銘柄──辛口かつ独特の香気が特徴で好みが分かれると評判だった筈だ。
「……で、わざわざ酒に誘ってくれた理由は?生憎とそこまで親交は深くなかった筈だが?」
「……お前が言った記憶があるが…」
「…何を?──あぁ、言ったな。……まさか本気にして用意したのか?」
律儀にも程がある。
──酒でも馳走になって、チェスでも差しながら。
確かにそう言った記憶はあるが、まさか実際に用意するとは思わなかった。
するとヨハンは鼻を鳴らし、ボトルを掴むと乾いた彼のグラスへ今度は並々と果実酒を注いだ。
続けてヨハンが背後へ回り、控えていたイサベルへ視線を投げる。
承知しているのか彼女は頷き、双方が対峙するテーブルの机上へガラス製のチェス盤を置く。
「…これも望みだろう?」
「つくづく用意が良いな。いっそ感心する程だ」
「──お前が
手際良くイサベルが駒を並べ始める。彼の側にはヨハンの言葉通り白のそれが。そしてヨハンの側は黒である。
「…良いのか?」
「年長者として譲らんとな」
「…ふん…」
今度はムーアが鼻を鳴らす番だ。
ならば、と彼は白の
一進一退──にラピやイサベルの目には映った。
両軍は相応の損害を出しつつも着実に戦果を挙げている。
ムーアの手元には黒のポーンが2個、ナイトが1個、ビショップが1個。
翻ってヨハンの手元。白のポーンは2個、ビショップが1個、ルークが1個。
「──ほぅ?」
「──…む…」
一手が重なる度、双方から息が漏れる。
駒が奪われ、攻撃が防がれ──攻防が続く。
その途中、それまで戦場の指揮を執っていたムーアの動きが止まる。
──気付いたか。
──このまま進めば、7手で…。
チェックが掛かる。
そして控えているだろうナイトにキングが取られ──敗北を迎えるのだ。
「────」
どうすれば間近に迫る敗戦を逃れられる。
ルークを動かすか。いや、それではビショップを拘束出来ない。
ナイトを動かそうにもビショップに取られるのが関の山だ。
唯一の打開策は──
「──……クイーン」
チェスの駒は6種類あるが、その中で最強、尚且つキングを除いた駒の内で最も価値が高い。
それを犠牲にすれば──凌げるばかりか勝機がある。
彼の指先がクイーンを摘む。
──やはりそう来るか。まぁ良い。
策が成就しなかったのは残念だが、別の策がない訳ではない。
ヨハンは白のクイーンが動かされる瞬間を待つ。
しかし──全く動かそうとする気配がない。
「────」
アイスブルーの双眸が細められる。
やがて──彼の指先がクイーンから離れ、ルークに向かう。
それがキングの前面へ出た。
「──なんの真似だ?」
「…女性を犠牲にしてまで、たかがゲームで勝とうとは思わん」
グラスを傾け、果実酒を嚥下したムーアにヨハンは冷ややかな視線を向けた。
そして──猛攻が始まる。
耐え切れず、瓦解した白の軍隊が戦場から敗走する──そのような光景すらラピやイサベルは幻視した。
間もなくキングへ黒の軍勢が迫る──勝利は確実となった時、不意にヨハンが立ち上がった。
「──良く分かった。お前という人間について」
外套の裾を翻し、広い歩幅のまま長身の人影がガゼボを後にする。
それを見送ることもなく、ムーアは煙草を銜えるとオイルライターの火を点けて紫煙を吐き出した。
「──あぁ、俺も良く分かった。お前という人間について」