勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
夜の帳が落ちた。遠くもなく近くもない場所からは時折、生木の樹皮を剥ぎ取るような物音が響いている。
その中で意匠が簡素極まるステンレスのマグカップへ沸いた湯が注がれる音が静かに響いた。
「──どうぞ」
「──あぁ、ありがとう」
手袋を嵌めた細い手から、ハードナックルグローブが嵌った大きな手へ湯気立つマグカップが渡される。
シングルバーナーの火で沸騰させた湯で溶かした粉末のコーヒーだが、一息入れるには充分過ぎる味だ。
「…どう思われますか?」
「…落ち着かない時間になるのは間違いないな。それは保証できる」
マグカップを傾け、静かにコーヒーを啜る指揮官へ問い掛ける玲瓏な声が尋ねるも、それへ彼は肩を竦めるにとどめる。
「……ニヒリスターの話ですが…俄には信じられません」
「まぁ、その通りだが…彼女に俺達を欺くメリットはあまりない。第一、あの性格だ。謀略の類を仕掛けるような性格の持ち主には見えん。正確には──」
「──むしろ直接的な戦闘を好む性格、でしょうか?」
正解である。それを肯定する為、彼は小さな頷きを見せた。
「──俺も似たようなモノだからな」
だからこそ分かる──と言いたいのだろうか。冗談か、それとも本気なのか。判別が難しく彼女も肩を竦める程度に反応をとどめつつマグカップを傾ける。
ヘレティックは侵食されたニケから始まり、誰もその原理を理解出来ない工程を経て、
これがニヒリスター──彼女が語った情報のひとつだ。
これに既視感を抱かない者達は存在しなかった。特に分隊を編制する
「──ニケは……人間の女性の脳を素材として、自分の理想に最も近いボディを構成し、人間の理解を超えた未知の工程を経て生産されます」
細い肩へ通したスリングベルトに繋がった
ヘレティックの誕生とニケの生産──類似点があまりにも多い。これが意味するところを図りかねている様子だ。
次いで彼女が紅い瞳を横目に向ける。その瞳が向けられる先──数十mは離れた位置で尚も自身の損傷した肉体の再生、修復を続けるニヒリスターはこちらのことなど眼中にないようだ。
「──指揮官」
続けて彼女が紅い瞳を向けたのは自身の指揮官──ムーアである。頭ひとつ分は高い彼の顔へ視線を向けながらラピは整った形の唇を開いた。
「指揮官の決心と決断に不服があるという訳ではありません。ですが…」
テトラライン製の突撃銃を握りつつムーアがその場へ腰を下ろす。立ち話程度で済む話ではない、と促すようだった。
それに倣いラピも彼の隣へ腰を下ろすと改めて視線を向ける。
「ですが…やはりヘレティックとの取引は危険です」
「…承知しているよ。俺もそこまで楽天家じゃない。…ただ…」
珍しく言い淀む姿。ムーアは続けるべき言葉や表現を探しているのだろう。生身と人工の濃い茶色の瞳が逡巡を伺わせる動きを見せている。
先を無理に促さず、ラピは彼が口を開く瞬間を待った。
やがて、躊躇いがちにムーアは乾燥気味の唇を震わせる。
「──
クイーンに関する情報を、それを知るニヒリスターから──
何故、そう感じたのかは彼自身も定かではない。理性的に考えればヘレティックという不俱戴天の敵との交渉や取引が危険だと間違いなく理解や納得も可能だ。
しかし、どうしても聞かなければならない──その衝動に耐えられなかった、と彼はラピへ吐露する。
「…もしニヒリスターが明日の日暮れになってもクイーン暗殺に関して彼女が持っている情報を提供、こちらのアンチェインドに関する情報の交換に応じなかった場合は──彼女を殺す。ここで。確実に」
「…了解しました。同時に信号弾も打ち上げます」
「…頼んだ」
マグカップを大きく傾け、コーヒーを飲み干したムーアがそれをシングルバーナーの横へ置いた。
ボディアーマーのポーチを漁り、ソフトパックを取り出す。軽く振って飛び出た愛煙の煙草の吸い口を銜えて引き抜いた時、眼前へ細い手に握られたターボライターが翳される。
差し出されたそれを右手で覆い隠し、彼女の指がボタンを押し込むや否や蒼い火が噴き上がる。先端を炙り、火が点くと彼は紫煙を燻らせた。
「…アニスとネオンの帰りが遅いですね」
「…何事もないとは思うが…」
擲弾の炸裂や散弾銃の銃声も聞こえて来ないのが何よりの証拠だ。しかしデコイ撒きを兼ねた巡回にしては時間が掛かっているのも確かである。
ラピがターボライターを仕舞い込む最中、ムーアが左手の人差し指と中指で挟んだ煙草の紫煙を堪能している時──彼の視界の端へ映り込んだのは鋭い真紅の瞳が向けられている姿だ。やや遠目にしか捉えられないが明らかに指向されていると気付いてしまう。
それを認め、彼は傍らに腰掛けたラピから顔を真逆に逸らし、吸い込んだ紫煙を緩く吐き出した。
「──ラピ。済まないが二人を探して来てくれ。もうそろそろデコイも撒き終わっているだろう。道に迷った可能性もある」
「…ですが……」
この状況で分隊に欠員が発生することを危惧しているのは理解できるラピだが、それよりも気掛かりなのはニヒリスターだ。
取引と交渉をする相手とはいえ、彼女はヘレティック──人類の敵である。
いつ何時、牙を剥いて襲い掛かって来るか分からないのだ。
なにより彼を一人残して彼女達の捜索へ向かうなど出来る筈もない。
「…大丈夫だ。万が一があれば直ぐに逃げる。キミ達に襲撃を受けたと何発か撃って教えもする」
そして──ムーアは煙草やオイルライターが収められたポーチを開き、中から取り出した一本の無針注射器をラピへ見せ付ける。
「…対抗手段がない訳でもない。どれだけ
だからアニスとネオンを探して来てくれ──それを言外に促された彼女はチラリと横目にニヒリスターを伺った。
地面へ散乱した様々な残骸を用いて肉体の修復を続けている姿を認めると、ラピが小さく溜め息を漏らし、続けて頷いた。
飲みかけのマグカップをシングルバーナーの横へ置く。腰を上げ、弾倉を抜いて残弾の確認を済ませた彼女が短く、行ってきます、と告げて駆け出した。
その後ろ姿を見送り、やがて荒涼とした大地を駆け抜ける足音が遠くになる。
ふぅ、と煙草の紫煙を緩く吐き出した溜め息が漏れ出る。
「──なにか用でもあるのか?」
独り言にしては大きなそれ。しかし確実に誰かへ向けられた問い掛けだ。
ややあってガチャガチャと──さながら甲冑を纏っていると思わせる金属が擦れ合う音を響かせながら気配が彼へ近付いて来た。
「──随分と余裕だな。お前を守る連中がいなくて良いのか?」
「──生憎と大人しく殺されるほど弱くはないと自己評価はしている。──飲むか?」
「──要らねぇ」
それは残念──肩を竦めた彼はラピが置いて行った飲みかけのマグカップを掴んで口元へ運ぶ。静かにコーヒーを啜り、口腔を潤してから煙草を唇の端へ銜える。
「…そろそろ話す気にでもなったか?まだ時間はあるようだが…俺としては話してくれたら嬉しくて涙が出そうだ」
「それは御生憎様だな。俺も同じことを言おうと思ってたところだ」
「あぁ、それは…なんとも奇遇だな」
この場にアニスがいた場合、おそらく気が気でない筈だ。軽口と皮肉の応酬を──それもヘレティックと交わすなど正気の沙汰ではない。いや、アニスがいた場合、ではないだろう。ネオンやラピ揃っていても同様であろう。
彼の命知らずには慣れたつもりだが、ここまで来ると頭のネジが何本か抜け落ちている可能性も考慮せねばなるまい。
ムーアの右隣へドカッと音を立てて座り込んだニヒリスターは胡座を掻いた膝の上へ片手の肘を突き、頬杖もしつつ目と鼻の先でマグカップ片手に煙草の紫煙を堪能する彼へ視線を送る。
「──前から気になってんだけどよ、いったい
逆の手を持ち上げ、無機質な金属で覆われた指先で指し示すのはムーアの胴体だ。人を指差すな、と苦言を呈したいところでもある。
「あのずる賢いトーカティブがあんなに欲しがるなんてな。よっぽどの事だぜ?」
「…解剖学の被検体に云々とは言われたか。あの
これなら総力戦の際、
「…何が入ってる、と言われてもな…」
「心当たりはねぇのか?」
「…詰まってるのは真っ黒な肺を始めとした内臓や血──汚い話だが糞ぐらいしか思い付かないな」
「──へぇ…?」
スッと真紅の瞳が細められた。猛獣が飛び掛かってくる寸前の形にも似ている瞳を彼が横目で捉えた矢先──機械に覆われているものの細い腕が肩を掴まんと伸びて来る。
「──俺はさ、あんまし気が長い方じゃねぇんだ。忍耐ってのにも限度があんだよ」
「だろうな」
わざわざニヒリスターへ副流煙が向かわぬよう真逆の方向へ唇を窄めて紫煙を吐き出す。マグカップを地面へ置き、取り出した携帯灰皿に短くなった煙草を投げ込んだ。
「──まぁ話したくないってなら方法はいくらでもあるさ」
「ほう?例えば?」
「ここでお前を八つ裂きにしちまうってのはどうだ?」
そうすれば嫌でも
不意に彼女は自身の胸へ押し付けられる金属の冷たさを感じる。
なんだ──視線を下へ向けたニヒリスターの視界へ映ったのは拳銃の銃口が彼女の豊かな胸を押す格好で突き付けられた光景だ。
「……いつ抜いた?」
「今しがた」
ニヒリスターの目でも拳銃を抜く動作は捉えられなかった。あまりにも素早すぎる。
「──で?俺の自己修復機能が壊れてるからって、こんな対人用の拳銃でどうにかなるって思ってんのか?」
文字通りの豆鉄砲だ。効果がある筈がない。嘲笑を口元へ浮かべたニヒリスターは続ける。
「良いぜ。試してみろよ。どうせ大した──」
カチリ、とやけに
「──俺の中に何が入っているのかは分からんが…この中に
「──……は?」
──待て。待て待て。何を言っているんだ。
一瞬、ニヒリスターの表情が呆気に取られ、続けて真紅の瞳が大きく見開かれる。
彼女が知る限り、アンチェインドは研究所にあったそれのみだ。
まさか前回の戦闘の後、短期間の内に新たなアンチェインドを発見したとでも言うのか。
「──どうせハッタリだろ?」
「──試してみるか?」
顔が向けられる。真正面から向けられる濃い茶色の双眸からは虚実のいずれも伺うことが叶わない。
嘘か、真実か──読めない。
引き金へ乗った人差し指がゆっくり引き絞られ始めた。
撃鉄が落ち、撃針が前進する寸前まで
「…そのアンチェインド…何処から湧いて出てきた?」
「さてな。キミが俺の肩から手を離してくれたら思い出せるかもしれん」
相手は人間。弱体化しているが、その気になれば一捻りで殺せる。矮小な存在の筈だ。
だというのに──呼吸すら忘れてしまう。
「…お前の主張通り、その銃に入ってるのが本当にアンチェインドだったとしても俺の速さに付いてこれるのか?」
「…それも試してみないと分からんだろう。忘れているのかもしれんが、肉薄して来たキミを俺は止めてみせたぞ」
あぁ、そういえばそうだった。確かにその通りだ。
ニヒリスターが脳裏で前回の戦闘を思い出した直後のこと──
「──まぁそれはさておきだ。
「────」
脈絡もなく紡がれた、それこそ明日の天気を予想するような口調で語られた低い言葉にニヒリスターの真紅の双眸が大きく見開かれた。