勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
凍て付いた空気に包まれた戦場の夜は──寒いの一言だ。鼻腔から空気を吸い込もうものなら鼻毛が凍る感覚も捉えられる。
稜線に立ち並ぶ木々の香りも濃い。それが落ち着くと評する者もいるだろうが、生憎とこの場に存在する者達はそんな感傷めいた感想など知ったこっちゃない。
「──定時報告。各分隊より報せ。送れ」
手作業で掘削し、構築した蛸壺の中。白い息を吐き出しながら青年将校が無線越しに戦線の守備へ就く指揮下の各分隊に報告を促す。
白い息が一呼吸、言葉の一音を吐く度に漏れる。寒い──兎に角、寒い。
まともな防寒着、防寒靴がない。こんな戦場へ送り込むなら、せめてそれなりの装備ぐらいは配備して欲しいものだ。
食糧、弾薬も限られている。医薬品も似たようなもの──と衛生兵は報告してくれた。有り難くて涙が出そうな状況である。涙が出たとしても直ぐに凍り付いてしまうのだろうが。
次々と無線を介して異常無しが伝えられる最中、微かに雪が踏まれる音を青年将校が捉える。
「──大統領の愛犬の名は?」
合言葉──その低い問いへ返した声音は高く、まだ幼さを孕んでいた。
「……スノーホワイトか」
「……お兄ちゃん。誰がこんな合言葉を決めたんですか?」
「さてな。司令部のお偉い連中の誰かだろう。──
白銀の新雪を思わせる長髪、まだ幼さを残した整った面立ち。少女が合言葉に答えた後、青年将校は突撃銃へ安全装置を掛け直す。
彼女は武装もそこそこの格好だ。携えて持参した1枚の毛布を地面の上から蛸壺の底へ腰掛ける青年将校に差し出す。
「どうぞ。指揮官からです。せめてこれぐらいは配れ、って」
「……俺より先に他の
「あ、大丈夫です。ラプンツェル達も配ってますから。ここが最後です」
「……そうか。酒の差し入れでも構わなかったんだがな」
「……私じゃなくてお姉ちゃんの方が良かったですか?」
「……何故、そこで
差し出された毛布を受け取った刹那、青年将校の両耳を覆うヘッドセットのハウジングへザッと雑音が短く走った。
〈──正面に動きあり、正面だ。何か動いた〉
その瞬間、彼は反射的に少女の腕を掴むと蛸壺の中へ引き摺り込む。
セブンスドワーフ──完全武装をしている訳ではないが、それでもかなりの重量である。見掛けによらず、細身の少女は
しかし青年は重みこそ感じつつも引き摺り込んだ少女を胸元に抱きながら無精髭が生え揃った口元へ摘んだマイクを寄せた。
「──ブリキ共か?
続けて迫撃砲の操砲を委ねている分隊へ照明弾の用意も下達しつつ青年将校は続報を待つ。
森林に雪を含んだ寒風が吹き抜け、梢が擦れ合う音の響きに混ざり、カチャカチャと金属の音が忙しなく鳴っては止んで行く。点在する掩体や陣地で砲隊鏡、双眼鏡を覗き込む者達が正面を注視しつつ固唾を飲み込む。
体感で数十秒──実際は10秒程度だっただろうが、それよりも時間の経過は長く感じられた。
〈──ブリキ共じゃない。風で枝が揺れてるだけだ〉
その報告に安堵の息がそこかしこで漏れる。
「……了解。監視を続行」
おちおちゆっくりも出来ない。しかもこの寒さだ。蛸壺に籠もって、ジッとしていると身動きもままならず、血行が鈍って体温が下がる。外気温も手伝って余計にだ。
一服したいところだが──特に夜間は煙草の火でも目立つ。悠々と紫煙を燻らせることも出来やしない。なにせ敵が目と鼻の先にいるのだ。標的はここだ、と教えているに等しい。
これならもっと昼間の内に
──忘れていた。
「……あぁ、悪い。すっかり……ん?」
「いきなり──ん?」
急に腕を掴まれ、引き摺り込まれたのは──まぁ仕方ないが、すっかり忘れていたとはどういうことなのだろう。
確かに青年将校と比較したら背は低いが──と少女が唇を尖らせつつ腕から抜け出そうとすると、白が基調となった戦闘服の袖越しでも感じられる筋肉が詰め込まれた逞しい腕が彼女を離そうとしない。
「えっと……?」
「……なるほど。レッドフードが言っていた意味が分かった」
──おチビちゃんはあったかいんだよなぁ。
こういうことか。確かに
青年将校は困惑する少女を無視し、蛸壺の底で膝を立てた両脚を開くとその間へ細腕を引いて小柄な身体を割り込ませる。突撃銃を傍らに置きつつ、少女の背中を自身のボディアーマーを纏った上体へ預けさせ、凭れ掛かる格好に落ち着かせると受け取った毛布で広げるなり互いを包み込んだ。
「……あ〜……これは良い」
「……猫か犬扱いされてる気分です」
「嫌われている猫は兎も角、犬は好きだぞ」
「そういうことじゃ……うう……」
ワシャワシャと白銀の新雪を思わせる長髪がハードナックルグローブを嵌めた片手で乱雑に撫で回される。
羞恥も感じるが、もう勝手にしてくれ、という気分のまま少女は諦めた。暫くは青年将校の湯たんぽ代わりになるしかなさそうだ。
「……これ、何処から持ってきた?」
「……というより………かっぱらって来た、ですかね」
「なるほど。民生品か。道理で柔らかい訳だ。お陰で凍死する心配がなくなった」
そもそもだが、青年将校は筋肉量の多さもあって身体からの発熱は常人以上であろう。凍死することはまず有り得ない。にも関わらず湯たんぽ代わりにされるのは少女としては釈然としない。
毛布も渡し終わった。であれば、と少女は身を起こそうとするが──僅かに腰を浮かしただけで青年将校が改めて抱き止めた。
「まぁまぁ、ゆっくりしていけ。あまり夜間は動き回らん方が良いからな」
灯火管制が徹底された最前線の夜間だ。月や星の明かりを頼りにする他ないが、十重二十重に折り重なった頭上の木々の枝葉が空を覆い隠している。自陣に居ても現在地を見失って迷うには充分過ぎる。
──などと青年将校は語ったが、少女には
ふん、と小さくも形の良い鼻を鳴らしてみせた少女はモゾモゾと毛布を自身の首元まで持ち上げる。その頭上では青年将校の顎が白銀の髪へ乗せられた。伸びた硬い顎髭やヘルメットの顎紐の感触がなんとも擽ったい。
少女にとっては兄貴分の青年将校が毛布の中で纏った戦闘服のパンツに設けられたポケットを漁り始めた。煙草でも探しているのだろうか、と少女は考えたが、やがて取り出され、彼女の眼前に翳されたのは包装に覆われたエナジーバーだ。
「食べるか?」
「……いただきます」
餌付けもされている気分である。未開封のそれを毛布から出した細い手で受け取った。包装を破り、中身のエナジーバーを一口頬張る。
チョコレート味のそれは油分が控えめ、ねっとりとした食感ながらも僅かに硬い。人工的な諸々のビタミンや栄養素が含有されていると思わせる酸味も少しだけ。ケミカルな食べ物だが、カロリーや栄養は折り紙付きだ。
「……逆のポケットにはアップルシナモン味もあるぞ。デザートにどうだ?」
「……あとでいただきます。というか、なんでそんなに持ってるんですか?」
「……この5日間、ずっとこればかりだ。クレヨンよりはマシだが……正直、食べ飽きてな」
残していたのだろう。日々の献立に頓着しない性格の兄貴分だが、食べ飽きないと言えば嘘になる。しかし
少女の頭上へ不可視の疑問符が浮かんだのを認めたのだろう。青年将校が背後から抱擁しつつ肩を竦める気配を少女は感じた。
「──Crayon Eaters。そんなスラングがあるんだ」
「……クレヨンを食べるってなんですか。クレヨンってアレですよね。絵を描く為の……」
「あぁ、そうだな。食べても無害なジョークグッズもあるぞ」
スラングというより、それは蔑称なのではなかろうか──そんな推測がエナジーバーを咀嚼する少女の脳裏を駆け抜けた。
糧食がクレヨンよりはマシなエナジーバーばかり──補給が滞ったのはその通りだ。この前線を守備する人類連合軍の部隊は彼等だけではない。
大飯食らいの
前線の更に後方では野戦病院を始め、兵站拠点が活動しているのだろうが、末端の最前線へ届くまでは時間を要してしまう。
鎮痛剤等の医薬品、各種弾薬、そして糧食の補給を数日前に申請したが、その全てがまだ届いていない。後方支援を担当する部隊を悪く言うつもりは毛頭ないが、最前線へ張り付いている身としてはなんとかして欲しいのが本音でもある。
戦線に展開した各部隊からの要請は何処も似たようなもの。ひとまずはこれで、の意味で届いた大量の
栄養価は問題ないのだろうが、これっぽっちで戦争をしろと言われている気分である。
「……そっちは
「え?あ、はい。シャワーとベッドもありましたから。温かいご飯も」
「それは良かった」
「……お姉ちゃんと指揮官から軍曹さんのことも聞きました」
「……そうか」
言わずとも良かろうに──連戦続きによる精神的疲労を解消する為の戦力回復期間として設けた貴重な2日間と12時間だ。わざわざ気が滅入ることを耳に入れさせずとも良かっただろう。
青年将校は白く染まった溜め息を吐き出した。
また人員が減ってしまった──補充兵はなく、少しずつ減少の一途を辿る部隊の有り様に思う所は尽きない。
無性に煙草が吸いたくて仕方ない。
「……煙草、吸っても良いですよ?」
「……声に出てたか?」
「あ、いえ。……その、吸いたそうでしたから」
「……気持ちは有り難いが、夜間は吸えない。目と鼻の先に敵がわんさかいるからな」
ただでさえ散発的に、それこそ昼夜を問わず砲撃を受けているのだ。わざわざ敵に自らの位置を教え、狙わさせる必要はない。
ニコチンとタールが切れて落ち着かないのはその通りだが──と青年が考えた矢先だ。
頭上に、やや間延びした、しかし鋭い飛翔の風切音。
反射的に青年将校は顎を引き、ギュッと少女の腹部へ回した腕に力を込めた。
たちまちの内に稜線を耕す勢いで次々と砲弾が落下し、炸裂し、瞬間的に何度も昼と夜を行き来するような閃光が走る。
爆音も凄まじく、砲弾の破片で幹を切り裂かれ、砕かれた木々が薙ぎ倒される重々しい音が混ざる。
蛸壺を埋めようとするかの如く、頭上からは雪と土砂が等分に混ざったそれが降り注ぐ。襟の隙間から肌へ雪と土砂が入って来る不快感と冷たさは筆舌にし難い。
「──これ、いつまで続くんですか!!?」
「──ブリキ共に聞いてくれ!!」
猛烈な砲火の嵐の渦中へ放り込まれ、いつ終わるかも分からない理不尽。
夜は──まだ明けない。