勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
手首に冷たい感触──その違和感が彼の意識を浮上させた。義眼と生身の双眸が開かれ、霞む視界へ映るのが自身の脚や床だと気付くのに時間は要らなかっただろう。
「──起きたみたいだな。……早いな。酸欠に加えて薬まで打ったのに……」
覚えのある高い声。まだ意識が僅かに朦朧とする中でも聞き取ったムーアが俯いていた頭を起こした。
「──ダーリン。具合はどう?」
次第に霞む視界が鮮明となりつつある。映り込んだ薄い色素の長髪に整った顔立ち、鼓膜へ絡み付くような甘い声音──バイパーが屈んで覗き込んでいた。
頭ひとつ分は身長差がある筈のバイパーが屈んでいる。つまり自身は座らせられている、と彼は判断しつつ眉根を寄せた。
焦点を無理矢理にでも定めようと意識する。存外なんとか出来るものだ。
「……具合?酸素が大して回っていない脳に妙な注射を打たれれば分かるだろう。是非、試してくれ」
「……呂律にも異常はなさそうだな。良かった。お前なら大丈夫だろうとは思っていたが、安心したよ」
果たして何を打たれたのだろうか。人間に対して使われる薬剤なら兎も角だが、後々に異常を来すような副作用を持つ代物だと困る。
「──あれ?指揮官!起きたんだ!」
「……やぁ、ジャッカル。キミの声は寝起きの頭に良く効くな」
頭痛がしそうな声──もう少し労って欲しい、と考えながら彼は覚醒に気付いて歩み寄って来たジャッカルへ横目を向けつつ皮肉を返した。
──ここは何処だろうか。
五感が明瞭となってきた。お陰で周囲の環境を観察出来る余裕が生まれる。
何処かの一室で椅子に座らせられている。そして後ろ手と両足首に手錠が掛けられて拘束されている──ここまでは分かった。
一室とは言うが生活感がない。めぼしい家財道具がないのだ。
彼も腰掛ける椅子が何脚か。そして眼前に置かれた簡素な作りのデスクの机上へ液晶画面のタブレットが置かれている。
現在地──分からない。だがアウターリムではなさそうだ。
風を感じたのだ。生温く、異臭を孕んだ風ではない。何処からか微かに風が吹き込んでいる。
どうやら地下ではないようだ──カーテンによって隠れている部屋の側面の一部が少し揺らいでいる。かと言って地上ではない。
トンネル内で意識が途切れてから時間がどれだけ経ったのだろうか。生憎と時間を知る為の腕時計は見えない。しかし
となれば──現在地はアークの何処かである可能性が高い。
「……
「これでも精一杯もてなしているつもりなんだが。あたし達は落ちぶれているんだ。大目に見てくれ」
頭や身体が軽い──酸欠や注射された薬剤の効果が解消されたのかとも彼は思ったが、纏っていたボディアーマーやヘルメットが外されている。
何処に行ったのか、と目線を室内へ巡らせれば、隅に背嚢に突撃銃や拳銃も含めてヘルメット、ボディアーマーが積み重ねられていた。
武器の在り処を確認したムーアは凝り固まった首をゴキゴキ鳴らす。ヘルメットの重みもあっただろうが、変な姿勢で眠らされていたのも原因か、首が凝っていて仕方ないのだ。
「……それで、こんな所にまで俺を招待して何がしたいんだ?」
幾許か首の凝りは直った。彼が本題を口にするなり、クロウの細い手が机上へ置かれたタブレットを掴む。
指先が液晶画面を滑り、アイコンをタップした。
「一緒にテレビでも観ようと思ってな。今、テトラコネクトでアークの様子を生中継してるんだ。それがアーク全域に放送されている。勿論、シェルターでも放送中だ」
アイコンがタップされたタブレットをスタンドで立てたクロウは彼にも液晶画面が見えるよう机上へ置く位置を調整する。
液晶画面は──黒いままだ。準備中の文字のみが浮かんでいる。
「……薬の副作用か?俺には何も映っていないように視えるが?」
「まぁ、次の放送の準備でもしてるんだろ。──放送が始まるまで話でもしよう」
彼の皮肉へ肩を竦めたクロウは椅子を手繰り寄せるなり、ムーアの対面へデスクを隔てて腰掛けた。
「……煙草をくれ。話は俺も望むところだが、ニコチンとタールがないと落ち着かない。ボディアーマーのポーチの中にある」
口寂しさを覚えた彼が喫煙を望む。するとクロウの背後へ控える格好となったバイパーが動いた。彼女は隅に置かれたムーアの持ち物へ歩み寄り、背中を向けつつ腰を屈めて目当ての代物を探し始めた。
少々、時間が掛かったようだが──無事にソフトパックとオイルライターを発見したらしい。携えたそれらを持ちながら彼へ近付くと、細い指先で摘んだ一本の紙巻き煙草を銜えさせる。
バイパーは続けて彼のオイルライターを翳そうとしたが、それよりも早くクロウの片手が差し出される。
真新しく、細かい傷痕もないオイルライターが──長い付き合いとなる彼の持ち物と同じブランド、同じモデルのそれがクロウの手に握られていた。
彼女も煙草は銜えているが、火を点ける必要はない筈だ。何故、そんな物を持っているのか。解せないのかムーアは眉根を寄せながらも、クロウが握るオイルライターの火を差し出されると銜えた紙巻き煙草の先端を炙って紫煙を燻らせる。
「──火、点けてあげたかったのに。ダーリン、ここに入れておくね?」
不服なのか頬を膨らませた後、バイパーが腰を屈めて彼の戦闘服のパンツに設けられたポケットのひとつへソフトパックとオイルライターを収める。
灰皿ぐらい欲しいが──両手が拘束されていてはそれも意味はない。
灰は落とす格好になってしまうが仕方なさそうだ。
バイパーが再びクロウの背後へ控えると、オイルライターを仕舞い、代わりに取り出した無煙煙草を銜えた彼女が切り出す。
「──ところでアンチェインドは見付かったか?」
「──なんの話だ?」
「……見付けたんだな」
デスクを挟んで対峙する形となった狡猾な鴉と獰猛な狼──
「やっぱり凄い奴だな。なんでも解決できるのか。ちなみに、
「そうさな……全員、捕まえて自白させるか。それでも駄目なら脳スキャンで事の次第を……そんなところだろう」
自惚れか、それとも自信があるのか。いずれにせよ、クロウからの質問に彼は淡々と答える。どちらも彼女達を確保することが前提で。
孤立無援の表現がこれほど当て嵌まる状況は然程なかろうに、ムーアは
やはり正攻法では彼という
「──話を変えよう。ショウ、むしろこの状況はお前があれほど望んでいたニケの待遇が改善される切っ掛けになるかもしれないんだぞ」
彼の眉根が寄る。眉間へ縦皺が新たに刻まれた様子は怪訝な感情を伺わせた。食い付いた──それを察したクロウが続ける。
「──メティスの話から始めようか。奴等はNIMPHのない……謂わば
──メティスにNIMPHを。
──メティスにNIMPHを。
大衆がメティスを纏めるミシリス本社前へ集まり、大規模なデモ活動をし、熱狂ともいえるシュプレヒコールの唱和を轟かせていた。
「──アークのクズ共も知ってたんだ。ニケという
「……それも人間であれば数世代に渡ってアーク内では
北部──あの雪と氷に閉ざされた大地で過ごし、一夜の僅かな時間で交わしたクロウとムーアの会話。それを彼は引用しつつ口にすると、彼女は微かに口角を緩める。
「あぁ、そうだ。
「……これは興味本位になるが、何故メティスだった?
「簡単さ。──シュエンなら、何かすると思ってた」
メティスにシュエンは特別、御執心である。それは周知の事実だ。であれば追い詰められたシュエンがなりふり構わず事態の鎮静化を狙って行動する筈──そう予想するのは容易いことだったのだろう。
「兎に角、あの
「計画とは異なる結果になって、さぞかし残念だったろうな」
「──そう思うか?」
彼の皮肉に応じたクロウの言葉はムーアからすれば意外な響きだったのだろう。もう少し感傷らしき何かを感じさせる返答を期待していたのかもしれない。
彼の眉根が更に寄り、刻まれた縦皺が深くなる。
「──じゃあ、なんでアークに穴を空けたと思う?」
クロウが身を乗り出した。
ギシリと腰掛ける椅子が、そして肘を突いたデスクが軋む中、彼女は眼前のムーアへ身を乗り出しながら濃い茶色の双眸を見詰める。
間近で見ると、改めて思う。やはり整った顔立ちだ。意志の強そうな瞳も悪くない。歳に反して精悍な目鼻立ち。ジリジリと銜えた煙草がゆっくり燃えている。その彼の眉根が更に寄り、刻まれた縦皺が一層深くなった。
クロウの投げ掛けた問いに対する答えを探しているのだろう。だが、生憎と分からない様子が伺えた。
「──新しい目標が出来たから、さ」
クロウは自身の唇から無煙煙草を摘み取り、指先で弾き飛ばすと、その細い指を彼が銜える紙巻き煙草へ向かわせた。
吸い掛けのそれを摘み取り、形の良い唇に銜え、紫煙を一口吸い込む。悪くない味だ。
「──メティスのラプチャー掃討により印象付けられた
相変わらず眼前の男は黙ったまま、眉間に深い縦皺を何筋も刻み付けつつクロウが漏らす言葉の真意を探っている。
その様子から話を続けるよう促されている雰囲気を感じ取った彼女は唇の端から紫煙を燻らせた後、彼の望みへ応じた。
「──テレビ越しに観ていたラプチャーという存在が目の前に現れたら、人間は恐怖を感じる筈だ。──まぁ、それが当て嵌まらない人間もいるみたいだがな」
「……冗談は良い」
鮮やかな翠色の瞳に喜色を浮かべつつ彼へ視線が向く。しかし当の本人はそれよりも話の本題、本筋を続けるよう促した。
それを認めたクロウは細い肩を竦めてみせる。
「──つまりアークにラプチャーが現れたら、皆が同じ恐怖と対面し、初めて
「戯言を。一般市民を標的にした虐殺とどう違う。何人の老若男女が死ねばキミの言う完璧な平等が生まれるのか見当もつかん」
「あぁ、その通り。あたしも誰かが死ぬのは嫌だ。悲しいからな」
「……今年聞いた冗談の中で今のところ一番面白い」
「だからあの時間にしたんだ。メティスの勝利イベントに合わせた。最低限の犠牲──まぁ、そんなところだな」
良く観察すると、彼の蟀谷に青筋が僅かに浮いている。
揺さぶりが効いて来た──それを察したクロウの顔へ笑みが浮かぶ。
「だが、エニックが予想以上に優秀だった。人間をシェルターに押し込んで、またニケとラプチャーをテレビの画面越しの存在にしてしまったんだ。そこにヘレティックという最悪の敵がアークへやって来た。この時はちょっと期待したよ。ヘレティックは言葉通り、人類に対する悪意そのものだからな」
だが──クロウの期待、思惑に反してヘレティックのアーク侵攻という最悪の危機が始まる前、新たな介入があった。
ドロシー──ピルグリムという
ヘレティックはピルグリムに打倒されただけ──
「──更に刺激的なショーになっただけさ。メティスの時は地上で。今度はアークで。距離が少し近付いただけで、一方的に楽しむショーには変わりない。このままじゃ、あたしが望むものは見られないんだ」
クロウが望むもの──あまりにも抽象的すぎて、彼は真意を探れない。
であれば、業腹ではあるが彼女の思想に信条──それらをある程度、脳裏にトレースして思考を巡らせてみよう。
彼女が望む展開、或いは結末──いくつのもそれらが脳裏を過ぎ去る。
だが果たしてそれらが彼女の
「……ひとつ聞く。キミはいったい、何が見たいんだ?」
彼の問い掛けにクロウは笑みを深くしながら短くなった煙草を唇から取り除く。デスクの机上へ煙草を押し潰しつつ、彼女は更に身を乗り出した。
ムーアとクロウ──二人の額同士が触れ合い、文字通りの目と鼻の先に色や形も異なる互いの瞳がある。
「──言っただろ?
いよいよ次のお話ですわ!
ムーア少佐の血管がブチ切れないか心配ですわ!