勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
んっふふふ……いえ、失礼しました。
皆様におかれましてはE.H.のピックアップ、イベントは如何でしょうか。
遠くで銃声が響いた──気がした。
バイパーは歩みを止めぬまま肩越しに背後を振り向く。先程の銃声は気の所為だろうか。もしくはミシリス医療センターの付近、何処かで侵入したラプチャーと量産型ニケの部隊が交戦しているのかもしれない。
彼女は肩越しに遣っていた視線を元へ戻し、数歩先を進むクロウへ眼差しを向ける。
ミシリス医療センターの廊下は無機質な印象が拭えないが、この廊下は誘導灯や誘導標識が示す通りに非常口へ続いているらしい。
クロウは施設内から脱出するつもりなのだろう。脱出──するのは難しいことではないかもしれない。だが、その後はどうするのか。
「……何処に行くの?」
バイパーが先導を続けるクロウへ思わず問う。
「地上へ」
「……地上?」
振り向くことなく返された答えにバイパーの明るい深紅の瞳が瞬いた。意味が分からない、と言った様子だ。
地上──言うまでもなく、ラプチャーが跳梁跋扈する問答無用の敵地だ。
遠回しな希死念慮が今更、発揮されたのだろうか、とバイパーが訝しむ中──クロウが立ち止まり、彼女へ肩越しに顔を向ける。
歪み、口角が吊り上がった笑みを浮かべたクロウは語る。
「──あたし達の
「……どうして地上なの?」
無粋な問い掛けをするな、と言いたげにクロウの鮮やかな翠色の瞳が細められた。
「──対象が遠くにいればいるほど、
正直に言えば、バイパーの思考では理解しがたい行動である。
命あっての物種、死んでしまったら元も子もない──まぁニケになった時点で生死など曖昧なものなのだが、逃亡するとは要するに延命措置に他ならない筈だ。なんとかして捻り出す猶予期間とも言える。
だが彼女、クロウのそれは、
しかし、それを助長する為のスパイスとして逃亡を選ぶ──正気の沙汰とは到底思えない。
「……どうした?」
急に黙りこくったバイパーを不審に感じたのか、クロウが今度は身体ごと向き直る。
「……ジャッカルは生きてるんでしょ?捜しに行かないの?」
仲間の一人──少しお馬鹿だが、愛嬌のある仲間が捕らえられた。彼女達を逃がす為に囮となり、その結果、拘束され、連行された情報をバイパー達はまだ掴んでいない。
ジャッカルはどうするのか。捜索か、或いは──もしかすると既に捕らえられている可能性も捨て切れない。それを含めての行動はしないのか。それを問うた彼女へ、クロウは短く、あぁ、と漏らす。忘れていた、と言わんばかりだ。
「今、ジャッカルを捜しに行くのは自殺行為だ」
「私達のことを待ってるはずだよ」
「いや。待つな、と伝えてある。だから待つことはないだろう」
「……じゃあ、どうなるの?」
「さぁな」
余りにも無情な返答だ。上手く逃げおおせていても、あの少しお馬鹿ではあるが、愛嬌が人一倍ある仲間がどうなってしまうのかは火を見るよりも明らかだ。
暫くは逃亡できるだろう。だが、やがては必ず捕まってしまう。既に拘束されているかもしれない。そうなったら──好意的な結末の期待は難しい。
それを他人事で済ませられるクロウの態度に、バイパーの頭へ少しだけ血が昇った。バイパー自身が思っている以上に、彼女は仲間意識が強いのだろう。
同時に浮かんだのは先程の光景だ。
「──ユニとカウンターズの子達、ここまでする必要あった?」
「……なんだ?急に変なことを言うんだな。どうした?」
クロウが想定していないバイパーの変化に、彼女の鮮やかな翠色の瞳が不可解な様子で瞬いた。
糾弾の口調で彼女は続ける。
「フリだけでも充分だったと思う」
わざわざ
だとしても、あのような真似をして、彼が黙っているとは到底思えない。クロウが確信するように、バイパーも確信している。
必ず報復、復讐の為に彼が動くと。それこそ血眼になって。
同じ結論へ至っていると察したのか、それとも──
クロウが尋ねた。
「──
あいつ、と誰かを指定しない表現だ。やり取りの流れから、ジャッカルもその内へ入る筈である。
しかしバイパーは一瞬、口籠る様子を見せた後、明るい深紅の瞳をクロウから僅かに逸らしつつ呟く。
「……まぁ、違うと言えば嘘になる、かな」
どうやら当たりらしい。
「お前があいつをサポートしていたのは知っている。
クロウが述べる指摘は誤りではない。普段のバイパーであれば、相応の釈明を並び立て、一応の納得をクロウへ抱かせるだけの弁舌は立つ。
しかし現在の状況──切羽詰まるこの状況下に於いては彼女も余裕がなかった。
──いや、違う。余裕がない、のではない。無性に、クロウの物言いが癇に障ったのだ。
「──ダーリンはね。あなたがああやって最後に暴れるまで、ずっと私達の手助けをしようとしていたの」
クロウがそれを知らない筈がないだろう。だが、バイパーの唇は止まらない。
「──分かってる?私達の味方になるって、話を聞いてくれるって、力になるって言ってたの。ずっと。あんなに私達に苦しめられてたのにね」
今回の一連の事件もそうだが、それよりも以前──彼等を結果的に裏切り、彼を射殺しようとした出来事がバイパーの脳裏へ思い出される。
あんな目に遭っておいて、とんだお人好しだ。唾棄したくなるほどの甘さだと言うのに──今更になってバイパーの胸の奥が痛みを訴え始めた。
片手が持ち上がり、彼女の豊かな胸の前で強く握り締められた拳が軋みを上げる。
「あんなことをされたユニのことも最後まで諦めなかった。あの言葉と行動に──嘘は無かったと思う」
言葉は飾れるかもしれない。だが行動には人の本性──いや、本性は正確な表現ではない。
クロウはムーアが持つ本性を獰猛なまでの攻撃性と見定めた。なるほど、確かに、それは誤りではない。
では本性とは何か。個々人が持つ本来の人間性のことだ。
ならば彼の本性、根っこの部分にある人間性とは──果たしてクロウが見定め、歓喜している獰猛なまでの攻撃性だけなのか。
「……それで、結論はなんだ?」
「やり過ぎたって言いたいの!なにか結論を出したいんじゃない!」
声を僅かに荒げ、クロウへ訴えるバイパーの姿に平素の余裕が感じられない。
その原因は何か──クロウは対峙する格好となったバイパーを改めて注視する。
まさか、とは思ったが尋ねざるを得なかった。
「──真剣に答えろ。惚れたのか?」
その一言、たった一言が投げ掛けられた瞬間、毒蛇の瞳へ一瞬の動揺が走った──ようにクロウは感じる。
「あはっ。なに言ってんの?私が?ダーリンに?ダーリンはあくまで遊ぶのにぴったりな玩具だよ。玩具は大切にしないとね。直ぐに壊れちゃうから」
──ズキン、と甘言を得意とする毒蛇の胸の奥に痛みが走った。
玩具と表現する度に痛みは駆け抜け、彼女を蝕む。
「……そうか。お前にはそれが似合う。行くぞ」
気の所為だったのだろう。返された想定通りの答え──それを聞き届けたクロウは踵を返し、唯一の脱出口を目指して歩き出す。
だが数歩を進んだところで彼女は違和感に気付いた。
続く筈の足音が聞こえて来ないのだ。
再び立ち止まり、クロウは背後を確かめる。
「……なにしてるんだ?」
クロウの眼差しの先──バイパーは自身の豊かな胸へ握り締めた片手を押し当てつつ、僅かに上体を傾けながら全身を蝕む痛みに耐えているかのような仕草を取っていた。
ボディかコアにでも異常が発生したのだろうか。
「おい、バイパー」
「……待って。ちょっと考えてるから」
バイパーが空いている逆の手をクロウへ向け、近付こうとする彼女の行動を制した。
胸の奥が痛い。鋭利な刃物が何度も突き刺さっているかのようだ。
痛い。痛くて仕方ない。
こんな痛みを、彼女は知らない。
痛い筈なのに、不思議と不快なそれではないのも異様だ。
これは、なんなのだろう。
そういえば、似た痛みを彼女は感じた記憶がある。
何処でだったろうか──
──あぁ。…気を付けてな
そうだ。思い出した。ニケフィリアクラブ──その支配人を拘束した後、協力する運びとなったムーアと別れる寸前だ。
彼が放った一言に、彼女の胸の奥で痛みが走った。
「……あ」
彼の落ち着きのある低い声──それを思い出した途端、ズキズキとした痛みが軽減されるのをバイパーは感じ取る。
彼の本性をクロウは獰猛なまでの攻撃性、と考えた。
それは誤りではない。しかしバイパーは別の本性を持っていると考えている。
──お人好し、である。
底抜けなまでのお節介焼きで善人、優しい人。そして他者の為に自分自身を犠牲とし、自分自身の正義に忠実な人。
人間性、本性とはあくまでも一面に過ぎない。多面的だ。見る者によって捉え方は異なる。
そしてバイパーの考える彼の本性も誤りではない。間違いなくショウ・ムーアという人物を構成する一面のひとつだ。
「……そう、だね……」
クロウの行動を制しようと上げていた細い腕が下ろされる。
一方の彼女は肯定された何かが分からず、眉根を寄せながら眼前の毒蛇を見遣った。
「……惚れてたんだ、私」
ニケフィリアクラブへ入る直前、酒場での彼の姿が思い浮かんだ。
琥珀色の酒精の香りが濃い蒸留酒。それを注がれたグラスを傾け、軽やかな氷の音色を奏でながら嚥下する姿──横目にチラチラと盗み見ていたのは秘密だ。目が離せなかった。
その日の昼間、アークの映画館で上映されていたメロドラマ──彼は退屈そうだったが、バイパーは見入っていた。作品の鑑賞中、感動で涙ぐむ彼女へ無造作に、ややぶっきらぼうに傍らから差し出された群青色のハンカチ。
そういえば酒場では──アウターリムであると一瞬、忘れてしまう完成度の高いカクテルを奢って貰った、とバイパーは思い出す。
カクテルは確か──そうだ。ホワイト・レディだった。
基本となるベースはドライジン。独特のハーブ系の香りが上手く活かされた根強い人気を持つカクテル。レモンジュースの爽快さ、コアントローの甘い香り、見た目も優雅な一品。
ホワイト・レディの命名には
白かカスタードクリームのように淡い黄色の直径2~3cm程度の小ぶりな花弁を、たわわに咲かせる美しい花だ。
その花言葉は──「純潔」、「あなたに相応しい人」、「初恋」。
「──もう、ずっと前から、好き、だったんだ……だからずっと気になって……助けてあげたかったんだ」
やっと気付けた。やっと言えた。
胸の奥深くを刺す痛みが──消えた。
「あはっ♡……そうだ……好き、だったんだ。どうして気付かなかったんだろう……」
認めてしまうと幾分か──いや、だいぶ素直になれた気がする。
悪くはない心地だ。
だが不思議に思う。何故、これほどまでに彼へ抱く特別な感情を聡い筈の彼女自身が気付かぬままだったのか。
「……あぁ……そっか」
その理由は直ぐに察せられた。
「……私、今まで……」
──誰かを、本気で好きになったことが無い。
だから気付かなかった。あの胸を刺す痛みの正体が分からなかったのだ。夜更けに彼の声や横顔を思い出し、苦しみながら寝床の上で悶えた記憶も蘇る。
もっと早く気付いていれば良かった──内心で後悔が芽吹くバイパーの指先はポケットの中から取り出した携帯端末の液晶画面をタップする。映し出されたキーボードの位置はわざわざ視線を遣らずとも分かる。
次いでバイパーは眼前のクロウへ顔を向け、笑顔を浮かべつつ言い放つ。
「──私、リタイアするね。全てを自白して、減刑して貰う。まぁ実際、メールやメッセージを何通か送っただけだし♡」
クロウの意識を笑顔へ向けられるよう努めながら──バイパーの細い指先は液晶画面上の送信ボタンをタップしていた。
「……記憶消去だけは避けて貰うようにしなくっちゃ。きっとダーリンが手伝ってくれるから……大丈夫だよね」
やっと自覚した恋心、初恋だ。それを忘却の彼方へ追い遣られては堪らない。あまりにも無情だ。あまりにも非情だ。
どうすれば良いだろうか──早速の算段を脳裏の片隅で立て始めているらしいバイパーへ向け、クロウは溜め息を漏らす。
「──結局、毒蛇が毒に侵されたか。……まぁ、いつかお前が
驚きはしないが──拍子抜けでもある、とクロウは続ける。
「でも一度ぐらいは強く噛み付いてくれるかと思ったのに、それは少し残念だな」
これみよがしに溜め息を吐くクロウの眼差しの先──毒蛇の口角が緩く弧を描く光景を認め、彼女の翠色の瞳が細められる。
「──今、誰にメールを送ったと思う?」
そんなに期待していたとは知らなかった。では──これは餞別代わりであろう。
唐突な物言いにクロウは不可視の疑問符を浮かべた。
「
明るい深紅の瞳が頭上へ向けられる。
釣られて鮮やかな翠色の瞳が向かった廊下の天井──建材は硬質ガラスか何かなのだろうか。いずれにせよ、クロウの頭上で天井が砕け散り、破片が降り注ぐ。
その中に紛れ──随分とボロボロの、見るに堪えない有り様の人影を彼女は認める。
黒い影──黒い装甲板で覆われた防護服めいたそれを纏う人影はクロウへ覆い被さり、露になっている焼け爛れて無惨な顔立ちを歪ませる。
その人影の正体は──エンターヘブンのリーダー、E.H.だった。
──ところでバイパー。キミの後ろから徐々に近付いているキミの想い人の人間性だけど、優しいのは、まぁ、うん、そうね、その通りなんだ。けれど……まぁ、その、なんだ……気を付けてくれ。爆発までのタイムリミットそれほど残っていない爆弾みたいな状態なんだ。察して欲しい。