勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
「──ではこちらにサインを」
アークの某所にある小さな店舗。その待合室のソファに腰掛けた軍服姿のムーアへ店員の女性がタブレットとタッチペンを差し出す。
画面に表示されているのは同意書だ。
これから行う施術に関して諸々の注意事項が細かく綴られている。これらの事項全てを承知の上で決心し、同意したとサインしなければならない。
しっかりと全てを読み──彼はタッチペンを握ると署名欄へ自身の姓名を綴った。
筆記体でサインを済ませたタブレットを店員に返却すると、確認した女性が頷く。
「ありがとうございます。…それにしてもファーストネームが…珍しいですね」
「そうですか?」
「はい。普通はファミリーネームですから。あ、失礼しました」
「いえ、お気になさらず」
肌や血の混合が進んだ現在に於いて──地上を追い遣られた人類が地下深くへ身を潜めるようになってからは旧時代の“人種”に基づいた特徴的な名前という概念はあってないようなモノだ。
ファーストネームが店員からすると珍しく感じたのは響きこそ旧時代の極東に見られるそれだが、綴りは英語圏で見られるファミリーネームという乖離があったからだろう。
「…再度、ご確認します。右腕にレタリング、左腕にトライバル。デザインは先程のお話の通りで宜しいですね?」
「はい、お願いします」
「分かりました。ではこちらへ」
これから施術が始まる。促された彼は頷きを返して立ち上がり、女性の案内を受けて店の奥へ向かった。
──間もなく日没だ。
荒廃した都市の郊外には
この一帯が明日早朝に
周辺警戒のヘリが簡易のヘリポートから飛び立ち、暗闇が迫りつつある東側へ向かう最中、1台の武装車輌が砂埃を巻き上げながら郊外へ設けられた野営地に到着する。
車内から降り立ったのは
武装の点検を済ませる彼等へ駆け寄る量産型ニケは指揮官であるムーアを認めると挙手敬礼を行う。
「──御到着をお待ちしておりました!」
「出迎えに感謝する。手数だがクルマに燃料を入れておいてくれ」
「了解です!皆さんの宿泊場所へご案内致します!」
──元気の良い
そんなことを脳裏で考えながらムーアは彼女達を伴って量産型ニケに宿泊場所とやらへ案内される。
辿り着いたのは一軒の家屋だ。周囲の半壊か倒壊ばかりが目立つ光景の中ではマシな部類に入る家屋である。
「申し訳ありません…これぐらいしか見繕えず…」
「いや、充分すぎる。明日に備えて休めるだけでありがたい。改めて感謝する」
「──い、いえ、とんでもありません!で、では私はここで失礼致します!夜間の警戒はお任せ下さい!」
「宜しく頼む。何かあれば報告と連絡も頼んだ」
──また指揮官様のニケ誑しが発動してるよ。
量産型ニケは高圧的ではない指揮官と会うのは初めてだったのだろうか。紳士的な対応をされたからか、或いは感謝と礼を告げられたからか、最初こそ慌てていたが最終的にはやや陶酔した様子のまま立ち去って行く。
それを見たアニスが苦笑を漏らしながら案内された寝床がある家屋の室内を見渡した。
既に寝床の準備は済まされていたらしい。家具等の残骸があっただろう居間からはそれらが撤去され、代わりに野外ベッドが四脚並べられている。
「──って、指揮官様も一緒に?」
「…今更だろう」
任務中は否応なく同じ場で寝ることが多いのだ。今更、苦言を呈されても困るとばかりにムーアが溜め息を吐いた。
「…どうしても嫌なら俺は別の場所で休むが…」
「…その言い方、ズルくない?なんか私が我が儘言ってるみたいじゃん」
「え?我が儘以外の何物でもないのでは?」
「…指揮官。お気になさらずにお休み下さい」
「…お言葉に甘える。着替える時は先に一言を頼む」
ネオンとラピの援護射撃もあって彼はなんとか寝床を確保出来た。最も出口に近い場所へ置かれた野外ベッドに歩み寄り、傍らへ背嚢や突撃銃、ボディアーマー、ヘルメット、サングラス等を置いてから寝床の端へ腰を下ろす。
ニケ用のそれなのだろう。ムーアの体重が掛かっても特に軋む物音は立たなかった。
「──あ、そうだ。師匠、昇任おめでとうございます」
「…ありがとう、ネオン。…まぁ、めでたいとは正直思えないんだが…」
「作戦前日に──あ、当日か。当日に昇任だもんね」
アニスは最も遠い位置に組み立てられた野外ベッドを選んだようだ。そこへ腰を下ろすと上着や被っていたベレー帽を脱いで身軽になるや否や、靴を履いたままベッド上へ寝転がって顔だけをムーアに向ける。
上官に対しての態度ではないが、これこそ今更だ。頷きを返した彼が両手に嵌めていた
「…上着、脱いで良いか?もう少し身軽になりたい」
「どうぞー」
ネオンがアニスの隣の野外ベッドへ腰掛ける様子を眺めつつムーアが尋ねると了承が返ってくる。それに感謝を伝えながらシュマグを外し、戦闘服の上着を脱いで軽く畳むとベッド上へ置いた。
これで一息吐ける。大袈裟とも言える仕草でムーアが深呼吸する中──自然と彼の隣の野外ベッドしか空いていないのもあってその腰を下ろしたラピが黒い半袖のシャツ、その両方の袖口から覗く真っ黒な
「…彫られたのですか?」
「ん?…あぁ、言ってなかったな。前哨基地に戻る前にだ」
「──あ、刺青ですか」
「──え、マジ?指揮官様が?どんなの彫ったの?」
興味を惹かれたのだろう。寝転がっていたアニスが起き上がり、豊かな胸を揺らしながら歩み寄って来るのに合わせてネオンも彼女の後へ続く。
たちまち二人が間近まで来ると二対の瞳が彼へ見せるよう無言のまま促した。
そこまでしなくても興味があるなら言えば良かろうに。肩を竦めるとムーアが左袖を捲り上げた。
フィルムドレッシングで保護されている真下には黒々としたインクで刻まれたトライバルタトゥーが存在感を放っている。露になる絵柄は一部のようで肩にまで続いているが──
「──犬?」
「…ではないですね。狼、ですか?」
「あぁ。皆して俺のことを狼と言うから…本物の狼の習性や性格とは異なるのに…」
お陰で数あるデザインからこれを選んでしまった、と語るムーアにネオンとアニスが苦笑を浮かべる。
とはいえ悪くないデザインだ。彼に良く似合っているだろう。
「……で?右腕のは?文字みたいだけど」
「あぁ、レタリングだ」
頷きながら彼が今度はシャツの右袖を捲る。確かに右腕の上腕に数字とアルファベットが黒々と刻まれていた。
「──って、なんで
もう少し格好の良いデザイン──そもそも指揮する分隊名をステンシル調のレタリングで縦に刻むのは如何なものか。まさかそれが格好良いと思っているのだろうか、とアニスがムーアの感性を疑うのも無理はない。
「…刺青って簡単に消せないんだよ?」
「知っている。だから
「…なんで?」
呆れ混じりに純粋な疑問をアニスが尋ねると彼はなんと説明したものか、などと考えているのか頬を左手の指先で掻いた。
「…刺青の起源は、はっきりと分かっていない。だが世界中で──それこそ紀元前の人間の身体にも刺青が彫られていた証拠が数多く発見されている」
──なんか歴史の授業が始まった。
勉強の類は世辞にも得意とは言えないが、大人しくアニスは彼の説明を一先ずは聞き入れることにした。
刺青という文化は世界中の古代から普遍的に継承されて来た身体装飾技術だ。
それがいつの間にか法律や刑罰の概念と共に犯罪者やアウトローのイメージを彷彿とさせる存在へ変化。やがて近代となれば大衆文化の発展で面白いことにファッションに近いそれへと再び回帰している。
なにより刺青の特徴としてアニスが語ったように、容易には消えない、というそれがある。
それを活かして古代から現代に至るまで身分や所属等を示す個体識別の手段としても用いられて来た歴史がある。
「…戦争時の捕虜や犯罪者へ対しても刺青を入れた歴史はあるが…俺の場合は…そうだな。漁師や船員が入れる理由に近い」
「…どういう意味ですか?」
疑問符を浮かべたネオンが問い掛けると、彼は左手の指先で右腕の上腕に刻んだステンシル調の刺青をフィルムドレッシングの上から撫でた。
「…死体の身元判定の為だ」
「…え…?」
明日の作戦は総力戦。特に第二段階では地表へ這い出てきたラプチャーの大軍との交戦が予想される。ヘレティック──
「俺の五体がバラバラになる可能性もある。認識票も何処かに吹き飛んだら
刺青を入れる性格には思えなかったが──ある意味で納得できる理由を聞かされ、アニスとネオン、そして話を聞いていたラピも納得
とはいえ、遺体の捜索すらされない可能性の方が大きいのだが──などと彼は似合わないおどけた様子で肩を竦めて見せながら、捲った袖を元へ戻した。
明日は早い。
21時前には就寝することとなる。
野外ベッドが並んだ室内で横になった4名がそれぞれの寝相を見せながら眠るのだが──
「…………」
一向にムーアへ睡魔が訪れない。
普段はもっと寝付きは良い筈なのだが──不思議なことに今夜は全くだ。
考え事が多すぎたのだろうか。
野外ベッドへ横になってから体感の時間経過では2時間超が過ぎている。閉じていた瞳を開け、左手首を持ち上げると腕時計を点灯させ、時刻を確認。
──2345か。
体内時計が少し狂っているようだ。
億劫な様子で上体を起こし、化学繊維の毛布を身体から退けるとブーツを履いたままの脚を床へ下ろして立ち上がる。
枕元へ置いていた戦闘服の上着を肩へ引っ掛けるように羽織り、寝入っている彼女達を起こさぬよう注意してムーアは外へ出た。
間もなく迎える日付の変更。それから5時間後には作戦開始だ。
本来なら休んでコンディションを整えなければならないとは承知しているが、どうも身体が休むのを拒絶しているらしい。正確には彼の脳が、かもしれないが。
その脳を少し痺れさせてやろうとムーアはパンツのポケットからソフトパックを取り出し、振り出した一本の煙草を銜えた。共に引き摺り出したオイルライターの蓋を開け、ホイールを回して火を点ける。
荒野の冷えた空気の中に独特の香りが混ざり、星空が広がる頭上へ向かって紫煙を吐き出す。
星空を薄く覆う紫煙。その向こうに瞬く星々を眺めながら彼が記憶を頼りに星座を視線で結び始めて暫く経った頃、出て来たばかりの家屋の扉が静かに開いた音が聞こえた。
「──眠れないのですか?」
玲瓏な声が尋ねて来る。振り返るまでもなくその正体を察したムーアだが、返答に窮してしまう。
「…悪い…起こしたか」
逃げ口上なのかもしれないそれを返すも、気配は歩み寄り、やがて彼の右側へ至った。横目を向けると、やはりそこに立っているのはラピである。
先程までは眠っていたのだろう。ベレー帽や上着、手袋、弾帯はなく、袖のないスリーブレスのシャツにもネクタイは見られない。
前哨基地でも見覚えがない程にラフな格好のまま彼女は傍らに立つと、ライトブラウンの髪を耳へ掛けつつ長身のムーアを紅い瞳で見上げる。
「──眠れないのですか?」
再び同じ問い掛けだ。見透かすような視線を向けられては隠すことは出来ない。肯定を示すように彼は肩を竦めてみせる。
「…色々と考えが堂々巡りしていてな」
「…マリアンのことですか?」
言い難いことをラピは尋ねて来る。単刀直入なのは彼女の美徳だ。
その問い掛けに彼は紫煙を燻らせつつ、小さく頷きを返した。
「…やはりそうでしたか…」
「…なるようにしかならない、とは分かっているがな…」
アンダーソンはハッピーエンドを好むそうだが──ムーアはどうやら神とやらに嫌われているらしい。土壇場で大団円に近かった筈の結末が大きく左右される可能性の方が高い。それもあって彼も関係修復が不可能な程に神が嫌いなのだが。
ジジッと煙草の葉が燃える音を微かに響かせながら紫煙を燻らせるムーアの横顔をラピは見上げる。その視線に気付いて彼も彼女へ横目を向けると──やにわに肩へ引っ掛けていた上着を脱ぐとラピの肩へ羽織らせた。
「…指揮官?」
「…寒くないのは知ってるが、そんな格好されると見てる俺の方が寒い」
ならば彼が着ていた方が良いだろう、とラピは直ちに掛けられたばかりのそれを返そうとするが──同時にムーアの性格なら再び突き返されるのが関の山だと察したようだ。
致し方なく──という考えも僅かにあったが、心が温かくなる気がして有り難く上着を借りることにした。
「…ブカブカです」
「キミと俺の身長差を考えればな」
ムーアの顔に薄い苦笑が浮かぶ。まだ笑えるだけの余裕はあるようだ。それに気付いたラピは内心で安堵しながら煙草の匂いが香る上着が落ちないよう左手で押さえる。
やがて煙草を吸い終えた彼がポケットから携帯灰皿を取り出した。それに吸い殻を投げ込んで蓋を閉じると溜め息を漏らす。
「…ラピ」
「はい、なんでしょうか?」
「…頼みがある」
紅い瞳を瞬かせるラピは率直に言って──畏まって頼みと前置きをするムーアを珍しく思った。なにより、少し思い詰めた様子のまま身体を向けながら濃い茶色の瞳で見下ろしているなら尚更だ。
「…もし…仮に…仮にの話だ」
「はい」
言葉を選んでいるのだろう彼を察し、先を急かさぬよう注意してラピは頷いた。
「……仮に俺が明日の作戦中に戦死した場合はキミが指揮を──」
自然な動きでラピの右手が持ち上がる。ムーアが紡ごうとしていた先の言葉を遮るが如く立てられた細い人差し指が乾燥気味の唇に宛てがわれる。
「…
指先が乾いた唇から離れるも、彼は先程の続きを紡ごうとはしなかった。
それを認めたラピがターボライターを握ってムーアへ差し出す。彼も小さく頷きながら再びソフトパックを振るって銜えた煙草の先端を彼女の手元へ近付けつつ、両手で火元を覆い隠す。
青い火が噴き上がり、炙られた先端からは紫煙が燻る。煙草を左手の指先で挟みながら彼は頭上を見上げて紫煙を緩く吐き出した。
その空いている右手へ、細い指先が触れる。
探り当てるかのように、或いは恐る恐ると言うべきか。細い指先が節榑立った手を握り締めた。
「…あなたは死にません。絶対に。私がお守りします。約束します」
少し強く握り締めると──節榑立つ手も同じ程度の強さで握り返して来た。それを承諾の意味に捉え、やがて力を抜いた細い指先がスルリと離れる。
「…上着、ありがとうございました」
「寝るのか?」
「はい。…戻って寝ようと思います。
ラピが戦闘服の上着を脱ごうとするが、ムーアはそれを押し止めるかのように彼女の肩へ右手を置く。
「そのままで良い。…悪いが、俺のベッドの上に置いていてくれ」
「…分かりました。ではお先に」
「あぁ。──ラピ」
踵を返して家屋の中へ向かおうとするラピを彼は呼び止める。
扉へ手を掛けたところで声を掛けられた彼女は肩越しに振り向いた。
「……ありがとう」
礼を告げられた彼女は一瞬なんのことか分からなかったが──感謝は素直に受け取っておこうと微笑を浮かべながら頷きを返してから家屋の中へ消えた。
それを見送ったムーアが再び星空を見上げる。
仮に人類が地上から追い遣られたことでメリットがあるとすれば──人工の光源がほとんどないのもあり、旧時代以上に星々が美しく見える点だろうか。
天体観測には持って来いの環境である。
溜め息と共に紫煙を吐き出し、携帯灰皿に煙草を投げ込んだ瞬間──ムーアは反射的に右脚の太腿へ巻いていたレッグホルスターから拳銃を抜くや否やスライドを引いた。
「──誰か?」
細い街路の向こうの暗がりへ静かに誰何しつつ銃口を向ける。
微かに引き絞られる引き金の音。それと同時に暗がりの向こうが
「──……私だ」
「──…驚かさないでくれ」
あと二回の誰何が終われば引き金を引き切るところだった。
姿を見せた正体──スノーホワイトの姿を認めると彼は深々と吐き出した溜め息を済ませ、拳銃の撃鉄を親指で押さえ付けながら引き金を引いた。
「…少し見ない間に新しい腕が生えてるな」
「自前の腕よりも使い勝手良くて助かっている。…それはそうと…どうして此処に?この一帯は明日早朝から鉄火場になるぞ」
「…だろうと思った。トーカティブを追っていたら此処に辿り着いたが…」
都市の郊外周辺にアークの戦力が集結していることから何かしらを察したのだろう。スノーホワイトは彼へ歩み寄ると金眼で見上げる。
「──明日、戦闘に乱入する」
「…いきなりだな。まぁ事前に言ってくれて助かりはするが…」
「それと…トーカティブは私に任せておけ。アイツは私が始末しないといけないからな」
ついでのように語ったスノーホワイトを見下ろすムーアの表情が不機嫌となる。あからさまにNoを突き付ける表情だ。
「…お前、そんな顔も出来たのか」
「
戦績は現在のところ一勝一敗、になるのだろうか。三度目のなんとやらもあってか、或いは巡り巡っての好機だろうか。
折角の再会の機会を奪われるのは彼としても気分が良くない。
「…おそらくお前達の作戦目的はトーカティブの撃破ではないのだろう?目的を見失うな。──アイツは私に任せておけ」
「………分かった。キミが正しい。確かに我々の最優先事項は
任せるでもなく、ましてや頼んだでもない。譲ろう、という表現にスノーホワイトは微かに苦笑を浮かべた。
「…ありがたく受け取ろう。では明日」
「…正確には“今日”だ。もう0時を過ぎたからな」
「…確かに。…では、お前はもう休め」
「そうしよう。──あぁ、待ってくれ」
話も終わったからかスノーホワイトが立ち去ろうとするのをムーアは呼び止めると──携帯端末を取り出して彼女へ歩み寄る。
「…メッセンジャーのアプリは入ってるか?乱入するなら一応、連絡手段を交換しておきたい。…携帯…持ってるよな?」
「あぁ…」
何かと思いきや、連絡先の交換である。歩み寄った彼が翳す携帯端末を見ながらスノーホワイトも自身のそれを取り出した。
言った本人がこう感じるのは宜しくないだろうが──携帯端末を彼女が持っていることに驚きを隠せなくなるところであったという。