勝利の女神:NIKKE ─The Last Kiss─ 作:一般指揮官
「──担架!担架を持って来てくれ!」
「──しっかりしろ!大丈夫か!?」
──かなり手加減した筈なのだが。
中央政府軍司令部庁舎の地下に設けられた広いトレーニング施設。そこにはリング──ボクシングを始めと格闘技の試合等で用いられるロープで四方を囲まれた場も作られていた。
そのリング上で俯せに倒れた軍人を搬送しようと周囲が騒ぐ中、ヘッドギアとグローブを着用するムーアは困った様子で佇んでいる。
事の始まりは研修の一環で護身術としての徒手格闘の教育の途中だ。この指導官を担当したのはトライアングル部隊の軍人である。リングの周囲には
以前に
いずれにせよ彼等は、ムーアに一矢報いたかった。指導官が彼よりも背が高く、体格が良いのもあり、負けることはないと踏んだのだろうか。
或いは──彼等が
対ラプチャー用火器、つまりはニケ用の火器を扱えるばかりか、ロード級やタイラント級と戦える人間──常識に当て嵌めれば彼等の考えも、なるほど、と頷けるはず。
しかしながら彼等は知らない。ムーアは報告書に一切の誇張は書かない、と。
200cm近い体躯の指導官は彼と対峙し、ゴングの合図が響き渡った途端、おそらくムーアの姿が視界から消えたように見えただろう。
一瞬の思考停止──その直後、鳩尾へ強烈な衝撃が走り、体重110kgの巨漢が羽根の如く吹き飛ばされ、四方へ張られたロープへ絡まるように受け止められた。
この時点で指導官の意識はなく、ロープの反発に任せるままリング上へ倒れ伏したのだ。
何があったのか。周囲で騒いでいたトライアングル部隊の隊員達も押し黙るほどに呆気ない終わり方。
ボクシングで言うところのボディーブロー。これが指導官へ打ち込まれた瞬間を彼等は辛うじて捉えたが、まさか部内でも一番の長身と体格を有する仲間が軽々と吹き飛ばされるなど想像すら出来なかった。
その現実をやっと理解したのは指導官がリング上へ倒れ伏した瞬間だ。
慌ててリングへ上がり、意識を失った仲間の介抱を行う隊員達を尻目にムーアは邪魔をしてはならないとコーナーへ向かうと両腕を広げ、ロープへ身体を預けて首をゴキゴキと鳴らす。一休みの格好となるのだが──それを目撃した隊員達は余裕の様子と捉え、更に対抗意識を抱いたのは言うまでもない。
「──アンタね…13人を病院送りにするなんて何を考えてるのよ。明日には研修も終わるって時に…」
「──それよりも私刑じみたアレの方が俺は個人的には問題だと思うんだが?事情聴取も午後から受けなきゃならん」
──面倒臭い。
そう顔に書いているムーアを見たユルハが目頭を揉みつつ深々と溜め息を吐き出した。
食堂では昼食の時間帯であるのも手伝って、多くの軍人達が思い思いの席で食事を摂っている。その片隅のテーブルに腰掛けたムーアとユルハ──彼の隣にはアドミが座っての昼食会だが、午前中の
「…格闘の試合だったとしても普通は肘の関節が外されたり、内臓破裂は起こらないと思うんだけど?」
「それと顎が砕かれたり、肋骨の大半が折れることもか?」
良く分かっているではないか。鼻血程度の流血なら可愛いものだ。笑って済ませられるだろうが、流石にこれは看過出来ない。
特に他派閥の軍人──ムーアが多数の中央政府軍の軍人を病院送りにした、という話は人から人へ波及することで様々な憶測を呼ぶだろう。いや、既に始まっているようだ。食事を摂る彼へチラチラと視線が向けられているのが何よりの証拠である。
「…そんなに良くないのですか?」
「まぁ良くはないな。──アドミ君、これ食べるか?」
「頂きます」
「あげない。そしてアドミは貰わないの」
昼食の一部を隣へ腰掛けるアドミのプレートへ移そうとしているムーアを制したユルハが何度目かの深々とした溜め息を吐き出す。事後処理をどうするべきか、と報告を受けてから考えているが、全く思い付かない。
自身の管轄下で起こったことである為、監督責任は研修の担当者である彼女へ帰結する。ただでさえ諸々の案件を抱えている身だ。余計な仕事が増えている事実は拭えない。
それにしても──とユルハは目頭を揉みつつ隣り合って腰掛けるムーアとアドミへ視線を向けた。いつの間に交友を深めたのだろう。あのアドミが自然と彼の隣へ座っている姿は今更ながら彼女へ少々の意外性を感じさせた。
「…釈明とかは考えてるの?」
「釈明も何も…俺は一方的に寄ってたかって襲われたんだからな。軍法会議に掛けられてもやむを得ず
素直に謝れば面倒も増えないであろうに。ユルハはまた溜め息を吐き出す。多くの呆れが混ざったそれだ。
この数日間、彼の担当者として研修を行ったがムーアへ対する評価は「優秀だが、組織人には適さない」というそれを出している。
正確に言えば、他人が容易く
それを考えると──彼の直属の上官であるアンダーソンは一定とはいえ、良くも彼を御せているとユルハは一種の尊敬すら抱いてしまう。
しかしその尊敬も一瞬のことだ。目下、彼女を悩ませている監督下にいる
「今回の一件だけど怪我をした隊員の中には政府高官の息子がいるのよ」
「ほぅ?」
「ほぅ、じゃない」
何処までも他人事のような態度で接するムーアがパーフェクト100%の諸々の食材を用いて調理されたチリコンカンを口へ運ぶ。戦闘糧食よりもこちらの方が美味い、と感じつつの食事──間違いなくユルハの苦言を半分は聞き流している証左だ。
「チッ…どんな報復を受けるか分からないのに…呑気なものね」
「特別扱いが許される年頃はとっくに過ぎてるだろう。──で、その野郎は?」
「病院の
「へぇ…」
──その程度か。
比べてはならないのだろうが、ムーアは自身の負傷の経歴と1時間ほど前に全治何ヶ月となるか分からない程の重傷を負わせた隊員のそれを比較していた。
そのいい加減な生返事に思わずユルハの眉間へ皺が寄る。何処までこの男は他人事なのだ。
「…あの…例えば…報復があるとすればどのような…?」
「さぁな。上流階級の方々の考えは下賤な俺には皆目見当が付かない」
「穏便には済まされないと思った方が良いわ」
「…面倒臭いな。戯れただけ、と処理されんもんか」
それが出来るようなら苦労はしない、とユルハは深々と──もう飽きるほど吐いたが漏れ出る溜め息を隠せない。
一足先に食事を終えたムーアが腰を上げる。隣でモグモグと口を動かしていたアドミが見送ろうと立ち上がりかけるが彼はそれを制して空になったプレートを返却へ向かった。
〈──査問委員会ということは…〉
「軍法会議に掛けられる寸前、ってところだな」
その夜、ムーアは宛てがわれた居室の椅子へ腰掛けつつ手慰みがてら拳銃を分解しての清掃と整備の傍ら──ビデオ通話を繋ぎ、携帯端末の画面へ映ったラピに事情説明を行った。
軍法会議の前には査問委員会が開かれ、証拠集めや調書の作成などが行われる。尚、査問委員会は第一審へ相当するのだが厳密には
この査問委員会に於いて軍法会議で審議する程の重大な事件では無いと判断された場合──いわゆる不起訴処分に該当する場合は懲戒処分となる可能性が高い。
最も重いであろう不名誉除隊──
強制的に軍籍を剥奪された上、軍人年金や退職金などの退役軍人が受けられるあらゆる権利を剥奪される。さらに市民権も停止だ。つまりアークで日々の生活を営むのは不可能となる。
「…まぁ流石に不名誉除隊や更生館送りとはならないだろう。おそらくは、だが」
〈……研修へ行かれた筈ですのに……〉
「…そんな呆れた声で言わないでくれないか?俺もやり過ぎた──とは思ってないな。うん」
黒い半袖のシャツを纏ったムーアが彼女の画面の中で拳銃の分解された部品であるスプリングを磨いている様子が映っているのだろう。彼の画面でもラピがスリーブレスシャツ姿で分解した突撃銃の整備をしている様子が伺える。互いにウエスを使って部品を磨いており、画面へ視線を向ける頻度は多くないが不思議と双方とも相手がどのような表情を浮かべているのかは良く分かった。
〈…
「明らかにやり過ぎ、過去の遺恨から執拗に攻撃したのではないか、と」
〈…執拗に攻撃されたのですか?〉
「俺が?まさか。──全員、一発で済ませた。追い討ちはしていない」
〈…その証明は?〉
「監視カメラを確認してくれ、と言っておいた」
それしか言えない、のが正しいのだろうが──乱闘と呼ぶには一方的すぎる結末だ。別の意味で判断が難しい。まさか全員が彼に殴られ、蹴られるまで列を作って待っていた訳でもなかろう。
〈…仮に軍法会議が開かれる場合は…〉
「軍法会議がこの程度で開かれるなら随分と暇なのだな、と俺は思うぞ」
突き詰めれば喧嘩である。無論、立ち場と階級を有した職業軍人同士であり、派閥の異なる者達の喧嘩だ。何らかの落とし所を双方が見付ける必要があるだろう。
「13名で掛かってきて、俺を倒せない方が問題がありそうだが…」
〈あなたと一般の軍人、基礎体力からして差があるでしょう〉
「…一応は手加減をしたんだぞ?」
〈──
仕方のない指揮官だ。上官へ対して見せる態度ではないが、ラピは呆れた溜め息を禁じ得なかった。彼の
「…だが、そう心配しなくて良い。キミ達の指揮官から解任されないよう努力はするさ」
〈…それは信じております〉
整備を終えた拳銃の結合を始めたムーアが手元で金属が擦れる音を響かせる。同時に聞こえた彼の言葉へラピは穏やかな笑みを浮かべつつ頷きを返した。
その翌日。本来ならば研修最終日なのだが──彼は中央政府軍司令部の小会議室の椅子へ腰掛けている。
ここで二日目の聴取が行われる予定なのだが、一向に担当官が現れない。約束の時間である9時は過ぎているのだ。
これはいったいどうしたことなのだろうか。
「…まさか部屋を間違えたか?」
不安になる。ムーアは机上へ置いていた軍帽を掴むと一旦、小会議室の外に出た。プレートを見て、間違いないと再確認。
であれば何故、担当官が現れないのかが分からずムーアは首を傾げた。
「──ムーア少佐ですか?」
廊下に反響する足音。踵が高い靴が響かせるそれに近い足音と共に名前が呼ばれる。高い声は女性特有の──やけに猫撫で声なのが気になったが、それが聞こえるとムーアは軍帽を頭へ被ったばかりの顔を向ける。
「はじめまして。私はパピヨン。バーニンガム様の副官を拝命しています」
「…バーニンガム中将閣下の?」
歩み寄って来るのは派手な格好の女性だ。マゼンタの髪に、身体の線を強調するような派手な色彩の丈が短いドレス──しかもスパンコールの類の光を反射する素材でも使ったそれを纏った彼女が名乗る。
副官と彼女、パピヨンは語るが──外見からそれを察するのは不可能に近い。何処かのパーティーへ繰り出す寸前のような服装だ。中央政府軍という堅い組織へ務める人間には到底思えなかった。
ムーアの濃い茶色の瞳が不審と不信から細められる。ドレスの大きく開いた胸元からは豊かな胸の谷間が露わとなっているが、全く気にしない素振りに彼女は意外を感じてしまう。
大概の男はこの格好で鼻の下を伸ばすか、胸へチラチラと視線を向けるのが常だと言うのに珍しい物を見た気分である。
それはさておきだ。彼女はムーアに用事があった。
「──はい。バーニンガム様がムーア少佐に是非、お会いしたいと仰っています」
作った笑顔を貼り付ける彼女──ここにユルハが居れば“女狐”と形容するに相応しい笑顔となった彼女の言葉にムーアの双眸は更に不審と不信から鋭く細められたのは言うまでもない。