石鹸の香り。
それはまるでこの世のやさしい所だけを集めたような香り。
幸せに香りがあるとしたらきっとこんな匂いだ。
もし──
自分に母親がいたら、きっとこんな匂いがするだろうなと思う。
きっと、泣いている自分に
「どうしたの?」
と聞いてくれるだろう。
自分は泣いている訳を母親に一生懸命に話すのだけれど、何を言っているのか半分も伝わらない。
でも、きっと頭を撫でて抱きしめてくれる。
「分かったわ。そうだったのね──」
ぽろりと涙をこぼすと、胸がいっぱいになる。
自分でも分からない感情がたくさん込み上げてきて、ぴったりくっつくと、お腹に向かって大声で喚いた。
それからは、お風呂にいつ入るとか、ご飯は何が食べたいとか、他愛もない話をして──
眠りにつく時、おやすみと言ってドアを閉める母親の背中に向かって、ベッドの中からネズミみたいなちっちゃな声で言う。
「お母さん。明日もその次の日もその次の次の日もずっと一緒だよね?」
「当たり前でしょ」
「大人になってもずっと一緒?」
「大人になったら、その時はお嫁さんがそばにいるでしょ」
「やだ、ずっと一緒がいい」
消え入りそうな声で不安げに言うと、母親は困ったような顔をして戻って来る。
「もう、しょうがないわね」
枕元に座った母親は、背中を掌でとんとんと優しく叩きながら昔話を聞かせてくれる。
もう何度も聞いた話だ。
当然結末も知っている。
でも、うれしかった。
そう。
いつも──
部屋の向こうから聞こえてくる父親の声。
「なんだ、もう寝ちゃったのか──」
夢見心地の中、自分の呼吸音が聞こえ始めるとだんだん意識が遠のいていく。
そしていつしか静寂が訪れる──
──ダイが目覚めると、そこはどこかのベッドの上だった。
白いシーツと白い枕。
そして白い羽毛の掛け布団。
部屋の窓は少しだけ開いており、その隙間から入って来る風でレースのカーテンが揺れている。
ダイが半身を起こして部屋を見回すと、
不意に棚に置いてある紫色のヒヤシンスの甘ったるい香りがふわりとダイの鼻をかすめた。
(さっきのは何だったんだろう……ただの夢だと思うけど──)
ダイは首を回し、大きく伸びをすると再び布団の中に潜った。
ここが何処だろうが関係ない、とにかく今はもうちょっと眠ろう──
そう思った矢先、ドアがガチャリと開く音がした。
ダイが再び身体を起こすと、ドアの前で頭に黄色いバンダナを巻いた少年が呆気にとられたような顔でこちらを向いているのが見えた。
「おい……お前いつから……!」
少年は持ってきたトレイをそばにあるテーブルにガシャっと置くと早足で近づいてきた。
そして、恐る恐るダイの顔を覗き込むと真剣な顔つきで言った。
「ダイ……おれのことわかるか?」
ダイはようやくその少年がポップである事に気付いた。
「──ポップ──?」
ポップはそれを聞くと、心底安心したようにため息をつき、安堵の表情を浮かべた。
「ホントによ……心配させやがって……」
ポップは鼻を啜っている。
事態が飲み込めないダイはおずおずと訊いた。
「あの……おれ、どうしてたのかな……?」
ポップは、ダイが地上に戻ってきた直後は錯乱状態だった事、仕方なくラリホーで眠らせ今まで2日間も寝続けていた事、クロコダインとラーハルトも無事だった事などを話した。
「おれあんまり覚えてないや……」
「まあ無理もねえよ。それにしても、前みたいに記憶が無くなってたらどうしようかと思ったぜ……」
ポップはうーんと言って首をぐるっと回した。
「じゃあ、改めて言うか……」
ポップはベッドの縁に片膝をかけると、ダイの少し痩せた両肩を抱きしめた。
ぐっと身体を引き寄せ、ダイの顔を胸に押し付けると、覆い被さるような形で肩にあごを乗せた。
そのままの格好で深呼吸をすると、ダイの身体がポップの横隔膜の動きに合わせてゆっくり動いた。
息を吐き終わると、ポップはダイの頭を撫でながら少し震える声で言った。
「ダイ、おかえり──」
「ただいま──」
銀のトレイが窓の隙間から陽光を受け、キラキラと輝いていた。