欣求穢土・厭離浄土   作:穢銀杏

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法律も文明もなかったならば、にくい奴を、ただにくいからという理由で殺すのは、人間にとって一等健康的なことであったかもしれない。

(三島由紀夫)



再演・津奈缶猫魔稿(地獄少女×朧村正)

 

「わっ」

 

 御景ゆずきは声をあげて驚いた。

 

 足下の(くさむら)が急に動いて、小さな影を吐き出したのだ。

 蟻より大きな生物のいる気配など、片鱗たりとて感じなかった。

 地から湧いたと説明されても違和感なく受け入れられる、まさに不意打ち。まんまと突かれたゆずきの脚はむざんに縺れ、ついに平衡を回復できず、その場にぺたんと尻餅をつく。

 

「きゃん! いたた…」

 

 たちまち潤むゆずきの瞳に、影は何を思ったか、

 

 ――なぁん。

 

 気の抜けるような鳴き声を、そっと投げかけるのだった。

 

(ねこ。――)

 

 頭のてっぺんから爪先まで、人間に愛嬌を感じさせるため造られたとしか思えない、その四ツ足の風柄に痛みも忘れてゆずきは魅入る。

 

 三毛だった。

 

 白、黒、茶。三種の色の配合によるまだら模様は素人目にも美しく、手を伸ばさずにはいられない。

 

(逃げないで、逃げないで)

 

 ゆずきは小学生である。

 家は団地暮らしであった。

 猫と、これほど近接したのは、言うまでもなく初めてのこと。

 

 どこを撫でれば気持ちよがってくれるのか? どう手を出せば警戒されずに触れられるのか? むろん一切わからない。愛猫家に見せたなら、顔を覆って嘆息しそうなぎこちなさ。

 だが三毛は、御景ゆずきの動作ぜんぶを受け入れて、少女の指がわしわしと、己が毛並みを乱すことを寛恕した。

 

「わあ…!」

 

 めくるめくような多幸感。

 法悦とはこうしたものか。甘い痺れが指先から脊柱へと流れ込み、そのまま遡上、脳の凝りまで解きほぐす。

 父を喪くしてからこっち、ずっと心にかかりっぱなしな暗雲が、久々に晴れた気分であった。

 

 ――なーご。

 

 もう一度、三毛は赤い口を見せ、ごろりと身体を横にする。

 そこで漸く、ゆずきはこの三毛猫が、尻尾を付け根の部分から断たれているのに気がついた。

 事故か、人為か。どちらにせよ相当古い痕である。一度は引いたゆずきの涙が、またもや勢を盛り返し、瞳の上できらきら光を反射する。そんな、どうして、ひどいよこんなと少女は何度も繰り返す。猫は耳をぴくぴくさせて、後は興味が去ったとばかりにそっぽを向いたきりだった。

 

 夕暮れ時の通学路、音無く過ぎる細流に沿う、土手の上での出逢いであった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 懐かしいもの(・・)を嗅いだ気がした。

 

 悪意に軋むココロのにおい。

 

 咎なくて死す無念のにおい。

 

 道連れを乞う怨嗟のにおい。

 

 地獄の兆しの、妖しいにおい。

 

 そういうものが、鼻腔の奥をくすぐった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 その日から、ゆずきが通りかかるたび、猫は常にそこに居た。

 腰を下ろすと、のそのそ出てきて少女の膝に己が額を擦りつける。

 あとは勝手放題だ。柔い身体をゆずきに任せきりにする。どこをまさぐられても許した。喉をゴロゴロ鳴らすなど、まず以って期待し得ない相談だったがその代わり、爪を立ててウーウー、シャーシャー、威嚇の真似もしなかった。

 

 不愛想に、しかし寄り添う。

 その距離感が、ゆずきにとってはなんともいえず居心地のいいものだった。

 

「どうしてかなあ」

 

 両手を繋いで、肉球の感触を楽しみながら、ゆずきは問うたことがある。

 

「どうして私に、こんなになついてくれるんだろう」

 

 おさかなのいっぴきも持ってきたことないのにね、と、自嘲気味に呟いた。

 小学生が浮かべるべき表情ではない。

 

 ゆずきの家庭は窮迫していた。父親の唐突な逝去はもちろん、その死に方が問題だった。

 彼はバスの運転手をやっていたのだ。遅刻も無断欠勤もない、ステアリングを荒っぽくぶん回すようなこともない、ごく善良な働き手であり、市民であった。

 

 そういう彼の転がす車輛が、ある雨の日のみに限って下り坂を爆走し、赤信号の交差点へとそのまま突っ込んでいったのは、果たしてどう解釈すればよいのであろう。

 

 結果はトラックとの衝突という、最悪の形で現れた。彼は搬送先の病院で死亡。遺言のひとつも残さなかった。事故後、バス会社は内部調査を行って、車体に不備は見当たらず、一切の原因は運転手の過失にありと断を下した。

 辛うじて衝突を生き延びた、いわゆる当事者たちによる、

 

「事故の直前、運転手は『ブレーキが効かない』と金切り声を上げていた」

 

 との証言は、完膚なきまで無視された。

 そのうち彼らも――およそ「事故の補償」の名目で、バス会社から多額のカネを振り込まれた前後から――、頭を打った影響で、ありもしない記憶を捏造、信じ込んでいたのだろうと自説を徐々に引っ込めだした。

 

 ゆずきの父は、単なる事故の被害者ではない、多くの乗客を巻き添えにして自爆した、世にも悪辣な「加害者」として槍玉に挙げられる破目となる。

 

 ほとんど物理的必然性すら伴って、世間の批難は遺族にまでも押し寄せた。遺族――すなわち、ゆずきとその母親だ。彼女たちは完全に、町内の鼻つまみ者だった。村八分といっていい。親族さえも関わりを避け、実質的に母娘を見棄てた。人間性のもっとも陰惨な部分の味を、御景ゆずきはこの年齢で堪能させられている。

 

「学校はきらい」

 

 死ね、消えろ、クズ、人殺し――白いチョークで黒板上に書き殴られた、陳腐な罵倒が誰宛てなのかは明瞭で。

 陳腐なればこそ、ゆずきの心は張り裂けそうに傷ついた。

 

「行きたくない、行きたくないなあ、もうやだよ。ひとりっきりで、ずっとうつむいたままなのは……」

 

 毎朝毎朝、地蔵でも担いでいるようにランドセルが重いのである。

 ランドセルを背負わなくとも、その重量にさいなまれるに至るまで、あまり時間はかかるまい。

 

 風が強くなってきた。塵を払い、空を清める秋風が。ゆずきはぶるりと身を震わせて、三毛の身体を抱え上げ、そのふくよかな腹部へと自分の顔を押しつけた。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 まずいことをしている、という実感がある。

 

 また同じことを繰り返すのかと、知らない・あるいは忘れてしまった自分自身が吼えている。

 

「こんたは飼われ暮らし過ぎたかの、■■■などとはまるで人間じみたことを申す、人間の些事に関わっても碌な事がない」――ああ、そんな風に。我と我が身を憐れんだのはいったい誰であったろう。

 

 わからない。

 

 斬られた尾から漏失する妖力は、永い永い時間をかけてのっぴきならない域へと達し。

 この身はもはや、過去を保持しておけなくなった。夜もすがら踊る喜びさえも忘れ果て、ただ喰い、垂れ、寝て、また喰らう、「今日」の連続の中へと堕ちる。

 

 それでいいと、納得したはずなのに。

 

 ただ一匹の畜生として路傍に朽ちて上等と、終わりを認めたはずなのに。

 

 手離し失くした記憶がいまや、私をひどく責めるのだ。

 

 お前はいったい何のため、■■の■を■■■のだと。

 

 わからぬことを、渾身こめて叫ぶのだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 たかが畜生一匹ふぜいが、何を、どれだけ焦慮したとて、大河の流れは変えられぬ。

 ましてや何に焦れているのか、それすら不明な分際で。

 業のうねりを堰き止めようなど、幻想未満の痴夢だろう。

 因果は廻り、繋がって、予定調和のタペストリーを紡ぎ出す。

 

 

 御景ゆずきは衰死した。

 

 

 少し前まで、家族三人の暮らしがあった、集合団地の片隅で。

 幼い生命(いのち)の燈火が消える瞬間を、誰一人として看取らなかった――少なくとも、人間は。

 

 ゆずきは出来た子であった。

 彼女は最後の最後まで、習慣に忠実であったのだ。

 ドアにはちゃんと鍵をかけ、カーテンこそ開け放ち、外光を採り入れていたものの、施錠自体はこちらもちゃんとかって(・・・)いた。

 

 つまり一個の密室である。

 

 いずれ行われるに違いない、事件性の有無の捜査に、これは大きく寄与するだろう。

 そういう閉鎖空間に、しかしにわかに、盛り上がった影がある。

 

 あの三毛だった。

 

 どこに隙間があったのだろう。

 

 頭部を捻じ込む余地さえあれば侵入するに訳は無いのが猫なる生物ではあるが、それにつけてもこの出現は不可解だった。

 闇そのものが凝って形を成した以外に想像不能な神出鬼没。猫とはやはり、魔性であるに違いない。死臭の香る部屋の中、怪しの獣は体毛という体毛を一本残らず逆立たせ、他の何物にも目もくれず、まっすぐゆずきの遺骸へ向かう。

 上下するのをやめた胸に足をかけ、顔と顔とを近づけた。

 

 ――みゃあお、んなぁお。

 

 鳴いたところで、もはや少女は応えない。

 瞼は固く閉じられて、いたいけな藍色の虹彩を覆い隠したままである。

 

「……」

 

 どうしようもない静けさに痛みを感じたかの如く、三毛は耳を萎れさせ。

 

「……、……!」

 

 やがてぐっと首を伸ばすと、ざらざらした舌を馳せ、ゆずきの目元、とうに乾いた涙の跡を幾度となく舐めとった。

 

 常世の復讐代行者、地獄少女たるべき資質を秘めた者の涙を、である。

 効果は果たして激甚だった。

 

 めしゃり。ばきべき。ずちゅずちゅ、ぐずり。

 

 名状しがたき音を立て、三毛の輪郭が異様に歪む。

 膨張、痙攣、伸縮、蠕動、悪夢めいた挙動を反復、何遍も何遍も繰り返し。正視に堪えないその作業が止んだとき、三毛は既に三毛でなかった。

 夜より暗い黒髪を武家娘風に結い上げた、(たえ)なる乙女が床に膝をついていた。

 

「…この」

 

 桜の花弁と見紛うばかりに、薄く小ぶりな唇が開く。

 

「この、」

 

 玲瓏玉を転がすような、涼しく高い声だった。

 

「この、最低の、役立たずのド畜生ッ……!」

 

 白磁の頬に容赦なく、爪を立てて悲歎する。

 ああ、本当に、なんて馬鹿ないきものだ。主人の横死をむざ(・・)と見過ごす、こんな不様を、よもや生涯二度に亙って晒すとは。

 鳩にも劣る学習能力の欠如ぶり。廉恥、慙愧、悔悟の念で、三毛のあたまは今にも破裂しそうであった。

 

(結局我が身に叶うは、それか)

 

 ぜんぶ手遅れになってから、ゆるせるものかと最悪を拡げるだけなのか。ただそれだけの舞台装置か。

 あまりにみっともなさすぎて、自嘲する気も起こらない。

 何百年ぶりかに戻った二股の尾を、まるで蛸の触手のように冒涜的にくねらせた。

 

(最初、この尾を分けたときには)

 

 あるじ直々の頼みがあった。

 深手を負った、もう助からぬ、まんまと策に嵌められて野末に朽ちる宿命(さだめ)とは、エイ口惜しや、悪鬼魔神に身を捧げてでも、怨み晴らさでおくべきか――。

 そういう祈り(呪い)があったればこそ、以後の去就に迷わず済んだ。復讐という、単純剄烈な目的めがけて意志の限りをぶち込めた。

 

(しかし此度は事情が違う)

 

 ゆずきは何も言わずに死んだ。

 父の最後のプレゼント、大きなクマのぬいぐるみを抱き締めて、幸せだった過去の片影、記念写真の数点を、自己の周囲に星羅の如く散りばめ、逝った。

 

 その胸中は忖度するより他にない。

 

 ひょっとすると復讐など思いもよらず、ただ悲しみの情海だけが見渡す限り渺茫と広がっていた可能性とて、充分にある。

 彼女は本来陽性の、心優しい気質の少女だったから。

 

(…仮にそうであったとして)

 

 それでも自分は少女の仇を討ちに往くのか。

 血肉臓物の百花繚乱、阿鼻叫喚の暗夜行路を選ぶのか。

 

「――愚問」

 

 逡巡はきっと、一瞬だった。

 

やる(・・)。おおさやるとも、やらいでか」

 

 化生とは、とどのつまりはこれこの通りなモノだろう。()ったからには殺すのである。ゆずきではない、ゆずきの意向はこの際なんの関係もない。

 

 ただ、三毛自身が許せないから、ぜんぶを引き裂き血に染めるのだ。

 

 独りよがりのエゴイストとでも言わば言え。賢しらぶったそんな指摘を何兆回受けたところで、煮えくり返った(はらわた)が一ケルビンでも鎮静されたりするものか。放出される熱量は狂おしくも肉を焼き、遮二無二行為に駆り立てる。それだけでもこの三毛が、死穢を振り撒く十二分な理由たる。

 

「どいつも、こいつも、有罪よ。……待っていろ、貴様ら残らず殺してやる」

 

 変化(へんげ)の目の奥、瞳孔が、糸の如く細まった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 猫がいた。

 

 猫がいた。

 

 あるじを亡くした猫がいた。

 

 古い古い傷痕を、再び裂かれた猫がいた。

 

 だから怨みの火が灯る。

 

 報いを与えよ、祟りを起こせと、蒼い焔が哭き叫ぶ。

 

 忌譚・津奈缶猫魔稿(つなかまねこまたぞうし)、ここに再演。元禄の世に屍山血河の魔宴を()んだ、悪しき獣が復帰した。

 

 

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