欣求穢土・厭離浄土   作:穢銀杏

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義を為すに勇ある者は悪を為すにも気力あり。
(福澤諭吉)



血霧に沈む壺中天(侍道2)

 

 菩薩行など、今時とても流行らない。

 

(ましてや、この天原(あまはら)で、など――)

 

 およそ言外の沙汰だろう。

 浪人者はしみじみ思う。

 

(餓えたやつ、後がないやつ、総じて手前(てめえ)の命以外に失うものを持たぬやつ)

 

 その種の手合いは恐ろしい。

 関わらないのが一番だ。

 連中ときたら呼吸も同然のさりげなさにて視界のすべてを憎悪する。見て見ぬふりして行き過ぎる尋常人(ただびと)どもは勿論のこと、溢れんばかりの善意を以って慈恵を施す者にさえ、往々にして悪意の牙を突き立てる。

 何の自慢にもならないが、寄る辺なき身で三界をさんざん彷徨ったがゆえに、浪人者はそのあたりの機微につき、厭というほど通じているのだ。

 

 こんなことがあった。

 天明の大飢饉の折である。

 江戸の通りに、乞食の群れがたむろ(・・・)していた。

 

 凶作、失政、疫病により蘊醸された前古未曾有の低気圧、殺人的な不景気風をもろ(・・)に浴びた人々らしい。誰も彼もガリガリに痩せ、土気色の皮膚をして、そのくせ眼ばかり爛と輝き、幽鬼と見紛う有り様だ。遠からずして、本来在るべきところへと――黄泉の国へと召されるのは必定だろう。

 

「なんと憐れな」

 

 そこへ馬鹿がやってきた。

 黒縮緬をたなびかせた美青年、もう見るからにいいとこのお坊っちゃん然したこの人物は、かかる不幸が世にあるべきかと痛嘆し、同情の念を募らせて、大いに熱い涙を流した。

 

「もうし」

 

 同情はただちに行動を求めた。

 彼らの苦悩を癒すため、自分にできる「何か」はないか。

 あった。

 手近な饅頭屋に駈け込むと、作り置きをありったけ買い込み、

 

「ぜひ、口腹の慰めに」

 

 自分はひとつも手をつけず、すべて乞食に与えてしまった。

 

「ありがてえ」

「地獄に仏だ、恩に着ります」

「旦那こそ仏の御遣いだ」

 

 みな、米搗きバッタか何かの如く、やたらめったら身を上下させ感謝の意を表した。

 

 青年が襲撃されたのはそこから五町と離れぬところ、まだ身の内の粘膜に、功徳を積んだ甘い痺れが残っている頃だった。

 

「あっ」

 

 と喚く暇もない。

 横合いから素っ飛んできた影により、ひとたまりもなく押し倒されて、気付けば土を舐めている。

 

「なな、なにをする」

「おっと、抵抗しなさんな。身のためにならねえぜ、旦那」

「そうそう、ここはお静かに。冬の鯰みたく黙っていてくだせえよ」

「あっ、その声は」

 

 驚いた。

 聞き覚えがある。

 涙まじりに、先刻礼を言っていた。饅頭をやった乞食どもの声ではないか。

 

「あんた、気前がよすぎたよ」

 

 このご時勢、みんながみんな苦しんでいる奈落の底での箍の外れたバラ撒きは、同時に彼の背景を――尋常ならざる富強のほどを予測させ、

 

 ――ありゃあ、よっぽどいいところの御曹司じゃあるめえか。

 ――饅頭代なんざ屁でもねえ、まだまだあいつの財布には、金子が唸ってやがるんだ。絶対そうだ、そうと見た。

 

 こういう連鎖を惹き起こさせた。

 となれば好餌だ、

 

「取って食うに如くはない。だろう?」

「よ、よせ、やめよ、やめるのだ」

「だから抵抗しなさんなって、無駄なこったい、この数の差で」

「なあに、大人しくしてりゃあ命まではとらねえよ。どうせ親父に泣きつけば、これっぽっちのべべ(・・)や小遣い、すぐに誂えてもらえるんだろ?」

 

 貴重な人生経験を与えてやると言わんばかりの口ぶりで。

 この餓鬼どもは、ついに下帯一本残して、身包みぜんぶ剥いでしまった。

 ことほど左様に貧は罪の母である。

 

(――そういうことを)

 

 目の前の小娘にわからせてやりたい。

 にぎりめしを頬張りながら、浪人者はくそ真面目に考えた。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 味はいい。

 おにぎりの、である。

 ずっと奥の米粒にまで、きちんと塩が効いている。ひと噛みするごと、気力がふつふつ湧いてくるのが実感(わか)るのだ。

 

「小娘」から差し出されたものである。

 

 天原の門を潜るなり、ひもじさが昂じて目を回し、膝からくたくた折り崩れてしまった自分。偶然そこを通りがかった十にも満たぬ少女から、腰につけた弁当を、その竹皮の包みごと与えてもらっていなければ、きっと今ごろ、腹を掻っ捌くだけの気力も熾せず惨めに悶死していただろう。

 

(えい、返す返すも、不覚であった)

 

 それにしても――と、思わずにはいられない。

 改めて自分の姿を見下ろした。

 

(ひどいものだ)

 

 木綿の着物は裾が擦り切れ、垢じみて、もともとの柄も判別不能、帯に挟んだ獣皮と相俟ち、尋常ならざるむさくるしさを発揮している。

 呱々の声をあげてから、一度も櫛を入れたことがないような蓬頭乱髪。髷など当然結えないし、月代からして剃ってはいない。率直にいって、山賊扱いされたとしても片言半句の抗議もできない風体だろう。関わってマシなことなどひとつもないと、二秒で察せそうなものではないか。

 

(だというのに、こいつときたら)

「……?」

 

 少女は浪人の前を動かず、なにかを期待するような目で、彼の顎の筋肉がいそがしげに駆動するのを見上げてるのだ。

 

 ――もっとマシなことに時間を使え。

 

 と、何度言いかけたかわからない。

 この年頃の子供というのは、斬殺死体の傷口に棒を突っ込み掻きまわし、肉を弄ぶ感触にげらげら嗤っているぐらいがちょうどいいのだ。

 幸いにして、今の天原は「遊び道具」に困らない。

 毎日毎日、どこかの辻に、ぶった斬られた不幸なやつの亡骸が、大根みたく転がっている。片付けてもきりがない。治安の悪化に歯止めが利かない状態だ。

 

 もともと膏肉(あぶらみ)の如き土地である。

 

 長崎と合わせて日本国にただ二つ、海外に向け門戸を開いた特別区、貿易の利が流れ込む、「出島」という名の壺中天。

 その時点で既にもう、欲望の坩堝と化す条件は揃っているのに、かてて加えてここ最近になってから、妙なクスリが流行りはじめた。

 

「素魔」と呼ばれる、この世の外の快楽を、摂取者に齎す魔法のクスリ。神か悪魔の被造物。製法、素材、すべてが謎であるものの、その効能はえげれす(・・・・)自慢の阿片も凌ぐとまことしやかな噂であった。

 

 素魔の密売事業によって、急速に勢力を拡大させる地元ヤクザ・青門組(あおとぐみ)。奉行所はその頭を抑えようと躍起になって、小競り合いを繰り返す。血が流れ、人が死に、怨みが溜まり、殺気が天地に満ちてゆく。

 浪人者にしてみれば、夢のような楽土であった。

 

(断言していい)

 

 今の天原は煙硝蔵そのものだ。

 それもとびきり巨大(デカ)いやつ。

 早晩、破裂は疑いがない。

 その際、生じる爆風を、うまく掴まえ乗じることが出来たなら、思いも寄らぬ階梯、高みへ、一挙に己を押し上げることも可能であろう。

 それはそれはめくるめく、希望に満ちた想像だった――心臓がサンバを躍るほど。

 

(どこの馬鹿がてめえから、好き好んで浪人になどなるものか)

 

 人間は社会的動物である。

 オリエントの古代から、哲人どもの道破してきた真実である。

 しからばその「社会」から、爪弾きにされ締め出されるということは、人間にとって最大限の苦痛であるに違いない。

 この浪人は哲学なぞ学ぶどころか齧ろうと思ったことすらないが、十数年の流浪によって、誰よりも深くその要諦を理解した。

 

(十数年。――)

 

 永かった。

 乱あれかしと、いったい幾度願っただろう。

 数え切れない。鼓動と同化するほどに、重ね続けた祈りであった。

 世がみだれ、通常の規範がめちゃくちゃになり、非常措置が常態化してくればこそ、浪士の立つ瀬も見えてくる。裏を返せば事態がそこまでゆかない限り、人別外の連中は、「世間」に参入できないのである。

 

(天原には、それがある)

 

 浪人者が狂い死ぬほど焦がれ求めた混沌が。

 脳髄を甘く蕩けさす、元亀・天正――戦国乱世の芳香が。

 確かにここには満ちている。

 

(もっと、もっとだ)

 

 まさに垂涎、このかぐわしさを、更に更に強めたい。

 そのために流血が必要ならば何人でも斬ってやる、無辜の町民が巻き添えで死のうが構わない、全然意とするには足らぬ、むしろ歓迎したい気分であった。

 

(だが、この娘――)

 

 と、そこで意識を足元へと引き戻す。

 

「……」

 

 にぎりめしを寄越した少女、大きく、穢れのない瞳。

 純真そのものの視線を浴びると、まったくなんたる不様であろう、せっかく培った昂然たる野望の心が、みるみるしおたれてゆくのを感じる。我利我利亡者の功名餓鬼でいられなくなる。人生にはもっと違う道筋が、価値あるなにかがあるんじゃないかと、くだらぬ疑念がつい(きざ)す。

 

(こまる)

 

 迷惑至極な話であった。

 施しひとつでなにゆえこうまで揺れ動く、落ち着きのない犬コロか、千切れんばかりに尾を振って、次はなんだ、指でも舐めるか、たちまち懐いてしまうのか。

 なんと甘っちょろい生き物だろう。斯くの如き軟弱さを引っ抱えた状態で、生き馬の目を抜く天原を、慾に塗れた修羅の巷を、どうして渡ってゆけようか。ああ、こんな自問に耽ること、それ自体がもう度し難い。

 

(叩き出さねば)

 

 甘さを、である。

 立身を本願とするのなら、焼尽すべき人間性に違いない。

 やり方は至極簡単だ。

 少女の期待を、思い切り裏切ってやればいい。

 

 ――これほどうまい握り飯は食ったことがない。

 

 そう言って微笑(わら)ってもらえると信じきっている面上に、

 

 ――見せ物ではないぞ、失せろ!

 

 雷鳴の如く、一喝を加えてやればいい。

 ただそれだけで事足りる。

 あの心地よい冷血が、再び五体を駆け巡る。

 

 さあ、やれ。

 

 言うんだ。

 恩は仇で返される、貸した金は返ってこない、正直者が馬鹿を見る、重々承知の上だろう。その悲惨さこそ穢土の定めよ、人間世界の証明よ。

 遠慮はいらない、躊躇も無用、大上段から怒鳴りつけ、美徳の不幸を叩き込んでやろうじゃねえか――。

 

 浪人者は再三おのれを叱咤した。

 いっそくどいばかりであった。

 にも拘らず、いざ口を開くや迸った音響は、

 

「馳走になった。……助かったぞ」

 

 どっちつかずの通り一遍、毒にも薬にもなりゃしない、半端な儀礼ばかりであって。

 

「……!」

 

 そんなものでも、少女はぱっと破顔した。

 足音高く去ってゆく。

 髪がなびいて、ちらりと見えたうなじ(・・・)の紅さが、いやに瞳に鮮やかだった。

 

(おれという男は)

 

 自分自身を絞め殺したい衝動が、浪人者を支配した。

 

(無思慮で、無一文で、移り気で……)

 

 首の骨を折られたようにうなだれる。

 

(陰気で、惰弱で、うすぎたなくて、豆粒みてえな肝っ玉しか持ち合わせてないやつなのだ)

 

 八月下旬の烈日が、容赦なく後ろあたまに照りつけた。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

(征くか。――)

 

 蒸れた大気を呼吸して、浪士の腰もまた上がる。

 

(喧嘩がしたいな)

 

 肩がぶつかった、とか。

 目付きが嫌味ったらしいだとか。

 どんな下らぬ理由でもいい、無性に血が見たかった。

 粘つく赤い液体に、頭のてっぺんから爪先まで塗れることができたなら、おれの性根も少しはマシになるんじゃないか。

 腰に差した二尺五寸の秋水が、

 

 りん……

 

 と、幽かに鳴るのを聴いた気がした。

 

 

 

 ――で、からっきしダメだったわけよ、へへへへへ。

 ――わ、わ、笑っちまうな、ダハハハハッ!

 ――違いねえ! キヒヒヒヒッ!

 

 町の喧騒が近づいた。

 

 






世代交代(青門組グッド)エンドが好きです。
選択肢の豊かなゲームは大抵悪人街道を邁進します。
素魔の市場を発展させて、アヘンと鎬を削りたい。屍の山に築くんだよ、闇の覇王の城郭を。
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