黒葛原の奥義、“
この力を素足から床に行使することによって黒子は落とし穴を見抜いたのだ。加えて、刀越しに狼牙の体をスキャンすることで、彼の奥の手を推察する材料を得ていた。
狼牙には意図的に温存していた筋肉がある。それは上へと飛び上がるための筋肉。それが分かってしまえば次の一手を想定することなど黒子にとっては容易かった。
「さ、降参すると良い。その傷では早く治療しないと出血多量で三途の川を渡る事になる」
肩口から腹にかけて大きく切られ、血を流す狼牙に降参を進める黒子。彼女は少しだけ疲労を感じていた。
(保険医も近くにいる事だし、本当なら立つ事すら不可能なぐらいの深手を負わせるつもりだったのだが…。やはりキチンと眠れていないのが原因か?
まぁ良い。ともかくこれで決闘は終わりだ。やっと仮眠を取る事ができ……)
スッ…
僅かな衣擦れの音。それは狼牙から発せられたもの。彼は
「……おいおい。まだ続けるつもりかい? その傷じゃあ……っ」
黒子は狼牙の目を見た。見てしまった。
例えるなら虫の目。虚ろ、それでいて遺伝子に刻まれた使命を果たそうとするかのような、根源の意志を奥に携えた虫の目だった。
♢
「決まった!!」
「あの傷じゃもう続行は不可能よ!」
完全なる勝利を予想し、色めき立つ
「……っ」
一方で柄鎖はギリギリと歯を擦り鳴らしていた。
「ありゃりゃ、あれじゃあ続行不能なのです」
「かなり悪い想定に偏ってしまったな…」
そんな中、心配されている当の本人は傷をかばおうともせず、素能を発動させて四つん這いの体勢に。
「…狼牙様?」
続行。
その姿勢を見せる狼牙に柄鎖が目を丸くする。彼女から見て、彼の目は虚ろで冷静な判断力を失っているように見えた。
「…流石に無謀なのです」
「おいおい…、それはヤバい…」
柄鎖と二四三と保険医の三人は、狼牙の狂行を止めようとする。その時だった。
「ぐっ…!」
真っ先に駆け出そうとした柄鎖が腹を抱えて蹲る。
「邪魔をするな」
柄鎖に正拳突きを食らわせたのは雷夢。彼女は正拳突きのフォロースルーから構えへと戻しながら毅然と言い放つ。
「雷夢…様、な、何を…?」
「それはこっちの台詞だ」
二人が言葉を交わす間に、保険医が雷夢の死角、視力の無い左側を通り抜け、狼牙の元へ駆け寄ろうとする。
しかし、雷夢は闇が広がっているはずの左側へと腕を突き出し、保険医の進行を止めた。
「なっ…! ぐっ!」
突如突き出された腕に怯んだ保険医の膝を崩し、地面に組み伏せる。
雷夢が保険医に対応しているその時、フシみんは雷夢の背後に周り、気配を消していた。そして雷夢を昏倒させるべく、こめかみに掌底を繰り出す。
完全なる奇襲。
しかし、雷夢はそれにすら対応する。掌底を受け流し、ほとんどないフシみんとの距離を更に詰めた。僅かなスペースで体を捻り、渾身の寸勁。
フシみんは防御を間に合わせたものの、攻撃に押され、数歩後退する。
三人を制した後も、油断も隙も無く構える雷夢。彼女は片目が見えないにも関わらず、難攻不落の様相を呈していた。
「今の狼牙様は明らかに前後不覚! 早く手当をしなければいけない! それがお分かりになりませんか!?」
「アイツのどこが前後不覚なんだ?」
「見て分かりませんか? あんな虚ろな目で…」
「そうだ。虚ろな無意識の状態にも関わらず、アイツは戦おうとしている。死にたくないなら、そのまま倒れておけば良いものを」
「なれば、早く助けないと…」
「無意識とは心の最も深い部分が表出した状態だ。にも関わらず、臆病なアイツが無意識下で戦おうとしている。その気概を侮辱することは決して容認しない」
「それで狼牙様が死んでも良いと!?」
「アイツを助けたいというお前の自己満足を通したいなら私を殺してからにすれば良い。…もっとも、すでに決着したようだが」
♢
重症の狼牙と無傷の黒子。二人の決着は外見的なダメージに左右されなかった。
かたや命懸け、かたや仕事の一環。その認識の違いが決定的。
結果的に言えば、二人が見合っていたのは十秒にも満たなかった。しかし、当の本人たちからすれば、永遠に続くのではないかという長い見合い。
狼牙は瞬き一つしない。決闘の最中に壊れた床板の破片屑が、目に入るが、涙に処理を任せる。
一方で黒子の集中力は限界だった。体調が万全でないのに加え、真剣勝負の最中に“これで終わりだ”などと、勝手に区切りをつけてしまったため。
彼女も命懸けの心意気で決闘に臨んでいれば、そんな甘い見切りはつけなかっただろうに。
ピピピピピピピピ!
その時、観客の方から着信音が。
決闘の最中によそ見をするという、あまりに
彼女が意識を逸らした一瞬の隙に、持てる全ての力で跳躍した狼牙。敵の頭を掴み、床に叩きつける。
拳が振り下ろされた。
♢
黒子の気絶によって、狼牙の勝利。
しかし、ダメージが大きいのは狼牙の方だった。両者とも保健室に運ばれたが、先に目覚めたのは黒子。
「保健室…。私は…」
手を額に当てて、気絶する前の記憶を思い出す黒子。
「負けた、のか…」
そうしていると、カーテンで仕切られている隣のベッドから会話の声が聞こえてくる。柄鎖やフシみんの声。隣では恐らく狼牙が寝ているのだろう。
対して、黒子は一人だった。
「……」
黒子はフラフラと立ち上がり、保健室を後にする。
♢
保健室から下駄箱まで歩いてきた黒子。ガラス戸の外では雨が降っている。天気予報をきちんと見て、雨が降るかもしれないと予想していた黒子は、きちんと傘を持ってきていた。
夜遅い今、他の生徒はいない。傘立てを見ればすぐに自分の傘を発見できるはず。
しかし、そこには何もなかった。誰かが、彼女の傘を盗んでいったのだろうか。
「…………」
黒子は通学カバンを頭の上に掲げて、外へと歩き出した。
♢
学園から寮へと向かうため、黒子は校門の外に出る。その時、ひどく慌てた様子で走って来る人影が。
「黒子様ッ!! こんな、所に…!」
その男は肩で息をしている。良く見れば衣服は所々擦り切れ、怪我すらしているようだ。
「いったいどうした? いや、その前に君の怪我は…」
「電話は…!? どうして電話に…出てくれないのですか…!? いったい何を…!? なさっておられたので…!? 何度もおかけしたにも関わらず……!」
「電話…?」
「とにかく、至急の報告が!
――剣先の襲撃です! あいつら急に反旗を翻して…しかし、計画的! 既に分家の医者が3人殺されました! その上……」
「待て…ちょっと、待て……」
「どういたしますか!? 黒子様!」
「ちょっと待て!!」
いつになく声を荒げる黒子。頭に手を当てて、頭皮に爪を立てて、ゆっくりと掻きむしる。
「ど、どうしてそんな事に……? ツ、ツル…
「その剣です! 剣先 剣を筆頭に襲撃が行われてるんですよ!!」
「……は…?」
黒子にとって最もあり得ない人物の名前を聞き、彼女は一時フリーズする。その横で報告に来ていた男が、色々と騒ぎ立てるが、彼女の耳には一切入っていなかった。
ようやく動き出した黒子は、震える手でスマホを取り出し、名前が挙がった人物へと電話をかけようとする。定まらない指先で何度もタップミスを引き起こしながらも、何とか操作を終える。
黒子にとっては無限に思えたが、実質的に通話が繋がったのは3コールもしない内。
「…もしもし」
電話から聞こえる声が無二の親友であることを確認し、ひとまず安堵する。
「ツ、ツルか!? い、今…部下から伝令が来て……。そいつが、何か…変な事言ってて……。と、とにかく、今、君は何してるんだ…?」
「…………」
重たい沈黙。黒子は胃液を吐き出しそうだった。
「はぁー……もう包囲網を抜けられた? それは100歩譲って良いとして、どうしてこっちに連絡が来ていない? 包囲している相手からの連絡が先とかわけ分かんねぇだろうがよ!」
「ツ、ツル……?」
「とりあえずそこのお前、包囲網を敷いた奴らには撤退命令を出せ」
「な、何を話してるんだ……?」
「あぁ、悪い。こっちの話だ。
それで、“お前”の質問は私が今何をしているかだったか?」
「え……? あ…う、うん……」
「今は黒葛原の医者を一人一人殺してる所だ」
「…………ぁぇ?」
「お前とは違って、医者の奴らは弱くて楽だったよ。奴ら、医療だけにかまけて異能者に一番大事な腕っぷしを忘れているらしい。護衛の方が面倒だった」
「……な、何で…そんなこと……」
「“自らの組織に所属する者の利益が最大となるよう行動する。それが当主としての最低限の責務”。
目の前の大きな得物を狩って、部下の飢えを満たそうとするのは当主としてなんら不自然じゃないと思うが」
「…」
「今回の獲物を実に狩りやすかった。なにしろ頭がポンコツだ。スマホとPCにウイルスを送られた事も気づかず、なんなら寒門の野良犬に負ける始末だ。しかもその決闘が自分の失態で起こったってんだから、笑いものだろ? なぁ?」
「…」
「ま、そういう事だ。
……面倒だったぜ? お前との友情ごっこ。いきなり夜に通話かけてくるわ、その内容がまた陳腐。これでせいせいしたよ」
「…」
「私も忙しい、次に行かなきゃいけないんだ。じゃあな、“黒葛原”」
プツッ、ツー、ツー、ツー……
通話の終わりからしばらくして、黒子の腕が力なく垂れ下がる。その衝撃で手からスマホが零れ落ち、水たまりに水没した。
心はダムだ。
一定量なら、怒り、悲しみ、ストレスなどの負債を溜め込むことができる。
しかし、あまりに多くの負債を溜め込むことはできない。
急激に