午前9時。
しかし、すぐにベッドから這い出る。音を聞いて保険医が顔を覗かせた。
「お、やっと起きたか。遅刻だぞ」
「……おはようございます」
狼牙の言葉に保険医は目を丸くする。彼が敬語を初めて使ったためだ。“保健室は逢引き宿じゃないんだがね”、の言葉も喉の奥に引っ込む。
「ペンと紙を借りても?」
「あ、あぁ…」
狼牙は借りた道具で置き書きを作り、テーブルの上に置く。そして保健室から出ようとして、まだベッドで寝ているフシみんを見つけた。
彼女は昨日の夜から変わらず、ピクリともせずに横たわっている。呼吸音は聞こえるため、死んではいない。昨日の戦闘で相当疲れたのだろうか。
狼牙は彼女に布団をかけ直し、保健室を後にした。
♢
午後9時30分。遅れて
そして体を起こし、脇のテーブルに置いていたスマホを手に取る。画面には通話着信とSNSの通知が。
「……」
柄鎖は顰め面でメッセージの内容を確認する。
(勝手に戻りやがって。死んでないだろうな?)1:34
(生存)
(なら良かった。生贄が死んじゃあ、話にもならん)7:32
「……」
柄鎖はスマホをテーブルに戻す。その時、隣に書き置きが残されているのに気づいた。
それを手に取り、二つ折りを開く。その時、柄鎖が起きたことに気づいた保険医が顔を覗かせる。
「これは…」
「もしかして
「……えぇ、
「やっぱり……え?」
冗談のつもりで言った言葉を肯定され、保険医は困惑する他無かった。
♢
書き置きを見た柄鎖が向かったのは校舎裏。しかし、そこには誰もいない。狼牙から決闘に誘われたはずなのだが。
直後、脳天に走る衝撃。金剛不壊が自動で発動し、ダメージこそなかったものの、前のめりに体勢を崩す。柄鎖が次に顔を上げた時、そこには完全なる正拳の構えに入った狼牙がいた。
ベギ
両手で腹をかばった柄鎖。彼女はかばった両腕を骨折、あばらにひびを入れられ、衝撃が背中まで突き抜けた。そのまま吹き飛ばされ、背後にあった木の幹をへし折りながら塀に激突。
追撃に飛んできた顔への膝蹴りを額で防御。膝蹴りの衝撃で崩壊した塀、柄鎖、狼牙が一丸となって宙を舞う。二人は学園外の空き地に一定の間隔をもって着地した。
仕切り直しとなった間合いで柄鎖は能動的に金剛不壊を発動させ、折れた両腕を固定する。
(書き置きには“勝った方が負けた方に何でも一つ命令できる”と言う条件での決闘を申し込む旨。そして決闘をする意志があれば、校舎裏に来い、とも…。
校舎裏に来た時点で決闘は始まっていた。そして上からの不意打ち。……本気で勝ちに来ていますわね)
狼牙と柄鎖は油断なく構える。上戸鎖家に伝わる基本の構えが鏡合わせに。
(私と同じ構え。同じに構えれば、相手の攻撃や防御を読みやすい。
その模倣力。やはり貴方は天才…。先の様な不意打ちをしなくとも、私の様な金剛不壊に頼っているだけの凡人には勝てるでしょうに。今は負けたとしても、いつかは必ず…)
柄鎖は内心でぼやきつつも、攻めてきた狼牙の打撃を捌く。
(思えば、双子の兄には体術で勝てた事がありませんでしたわ。私の方が倍以上練習していたにも関わらず。勝っているのは金剛不壊の無意識化だけ。……いえ、それが私の才能? 毎日1000回打たれていれば誰でも達成できると思うのですが…)
狼牙は柄鎖の体を土台に登り、立体的な戦闘を仕掛ける。それに対して、ツカサの対応が途端に杜撰に。
(見破られていましたか。型通りの防御は得意ですが、そこから外れた事を強いられるのは苦手…)
不得手な状況で狼牙の攻撃を防御しきれず、柄鎖は一撃を貰う。しかし、空中からの一撃では金剛不壊を貫く程の勢いはない。
(
立体戦闘では決め手に欠けると悟った狼牙は両足を地面につけ、柄鎖に密着する。
雷夢から学んだ超至近距離戦闘。これまた型の外での攻防を強いられる柄鎖は動きが鈍い。狼牙の無勁と寸勁を幾度も喰らう。しかし、これも金剛不壊を貫くことは無かった。
(…悪い癖ですわ。戦いと関係ない事を考えてしまう。こういう所にも才の無さが現れますわね。
狼牙様の初撃。恐らく、素能の出力最大で放った正拳は防御越しにも少なくないダメージを私に与えましたが、その際に
先ほどから攻撃に重さが無い。通常攻撃で傷つけられることはまずないでしょう。気を付けるべきは、あの正拳突きだけ。
しかし、今はひとまず距離を取るのが先決)
柄鎖は防御を自動発動の金剛不壊に任せ、タイミングを計る事に集中する。至近距離戦闘の中、僅かに間合いが空く瞬間を狙い、軸足を変更。一歩分の距離――ストレートをねじ込める距離を得た。
(狼牙様は生来の臆病。故に致命の一撃となり得る打撃を振るえば、下がるはず…)
型通りに、しかし限界まで大きく振りかぶった柄鎖。しかし、彼女の予想に反して、狼牙は下がらなかった。防御の構えを取る。
しかし、正拳を叩き込めるのは成功すればの話だ。
恐怖からか、一瞬だけ反応が遅れる狼牙。果たして、狼牙の手は柄鎖の拳の勢いに負けた。柄鎖の拳が彼の鼻面に突き刺さる。
殴られた衝撃で、狼牙は十数m吹き飛ばされる。その距離が、何よりダメージの大きさを物語っていた。
「狼牙様ッ!?」
今までに感じた事の無い会心の手ごたえ。今の柄鎖にとってはそれが何より恐ろしかった。すぐに狼牙に駆け寄る。
狼牙は近づいて来た柄鎖の体を掴み、倒れた状態から起き上がる。
「どうして…臆病な貴方がこんな、危険な…!」
狼牙は答えず、支えに使っていた柄鎖の体を払いのける。そして、未だに動揺する柄鎖に正拳を叩き込んだ。
磨き抜かれた技は、体が風前の灯火である事などまるで考慮に値しない。必殺ともいえる威力に、柄鎖の体は“く”の字に折れた。そのまま地面をスライド移動する。
「――ゲホッ“! ゴホッ! カホッ…!」
柄鎖は曲がった体を起こしながら、血を吐いた。
口元を拭い、狼牙の方を見ると、彼はフラフラと近付いて来ている。柄鎖はためらいがちに構えた。
狼牙は意識こそハッキリしているものの、三半規管を揺らされ、平衡感覚を失っている。そんな状態で柄鎖と数合打ち合っても、結果は明々白々。脚をかけられ、簡単にバランスを崩す。
狼牙が頭から地面に激突しかけた所を、柄鎖が腕でかばった。
柄鎖は覆いかぶさる体勢から狼牙の意識を奪うべく、拳を振りかぶる。しかし、怯えた表情ながらも、真っすぐ見つめ返してくる狼牙の目を見て、ゆっくりと拳を降ろした。
「……参りました」
「…俺の勝ち、で良いのか」
「えぇ」
狼牙はそれを聞いて安心した表情に。瞳から涙も溢れる。
「じゃあ…一つ、命令だ…」
「何でしょうか」
「生贄になるな」
「……」
柄鎖は思わぬ命令に、口を半開きにしてポカンとあっけにとられる。
「そのために、私に決闘を? ……どうして?」
「柄鎖に死んでほしくない」
「……私が生贄にならなければ、封印されている
「俺が…………手段は何でも良い、そいつを殺す」
「封印されるくらいです。
「分かってる…」
狼牙の声は少し震え、瞳からこんこんと涙が湧いていた。
「
「そんな事より……、俺のために生きて欲しい……」
「………………ふふっ」
その言葉を聞いた柄鎖は、時間をかけて笑みを深める。
そのまま柄鎖の顔がゆっくりと下がり、狼牙と併さった。口内を切って出た狼牙の血と柄鎖の喀血が混ざり、お互いの口腔内粘膜に溶解。唇が離れた瞬間、赤い唾液が糸を引く。
血の口づけを終えた柄鎖は興奮か恥じらいか、頬を染めていた。
「古くは指に傷を付け、それを合わせる事で血の掟を交わしていたそうです。――狼牙様の命令、柄鎖の血に懸けて必ずや」
「…よかっ、た…」
柄鎖の宣誓を聞いたロウガは目を閉じる。そのまま眠るように気を失った。
♢
「……で、10分もしない内に戻ってきたのかい? どえらい怪我までこさえて」
「お仕事を増やしてしまい、面目ありません」
「いいさ。仕事の虫にとっては、餌が湧いて出てきたようなものだ。
…というか、抱えられている狼牙君より、抱えている柄鎖君の方が重症に見えるんだが…」
「まぁ、私はタフですのゲホ“ッ”ッ!」
「うわぁ! 急に血を吐くな!」
「し、失礼ェゴホ“ッ“ッ!」
「弁解は良いから血をまき散らさないでくれ! 早くベッドに! 横ばいで! というか今治せば良いのか!」
保険医は柄鎖の血を避けて、彼女の体に触り、治療をすませる。素能による治療を受け、体内のエネルギーを一気に消耗した柄鎖の体から力が抜ける。抱いていた狼牙を取りこぼしそうになりながらも、膝を付いて堪える。
「…改めて、失礼いたしました。そして治療、感謝いたします」
「どういたしまして、狼牙君をベッドに降ろして君も横になりなさい。
確かここに……ほら、とりあえずの栄養補給」
保険医は、柄鎖が狼牙を寝かせたのを見てから栄養ゼリーを放る。そして、狼牙の容態を確認した。
「……後を引くようなダメージは無さげ、失神しているだけか。いや、異能者じゃなければ失神も十分危険な状態ではあるんだが……どうにもこの学園に来てから危険の基準が下がっていけない」
「医者として正常な判断が出来なくなってはいけませんわね」
「さっき私の基準を大幅に下げた君には言われたくないねぇ…」
保険医はぶつぶつと呟きながら、十分な装備を整え、血の処理を始める。
「何にせよ狼牙君に柄鎖君の血がかからなくて良かった。傷口にかかれば感染症の危険が危ない。勢いよく吐き出したのが幸いしたね」
「…………」
ズズズズズ……ベゴッ…!
保険医の言葉を聞いた柄鎖。顔を青くしながら栄養ゼリーの容器を空にする。
「……先生の、ファーストキスは何味でしたか…?」
「いきなり何だい? 一応しょうゆ味だったよ。直前にラーメンを食べていたのが良くなかった」
「……私は、血の味でした……」
「……? ……! まさか…! え、いや……なんで……?」
色々と察した保険医。
察したが、その情報量が多すぎて処理しきれなかった。
♢
保険医から小言を貰った後、彼女の作った料理を食べて栄養補給を終えた柄鎖。狼牙の寝ているベッドに腰かける。
「私の血でロウガ様が何かの病気になってしまいましたら、本当に申し訳がありませんわね…。血液由来の病気の診断を受けた事が無いので、大丈夫だとは思いますが」
柄鎖は呟きながら狼牙の髪を撫でる。
「……意外とさらさらですわね。そういえば、ショッピングモールに出かけてからはファッションや身だしなみに気をつけるようになった、とおっしゃっていましたか」
柄鎖の手が下り、狼牙の額に。濡れタオルで汚れを拭った彼の顔は綺麗そのもの。
「……何というか肌も…」
額から頬へと手が移動する。指が滑ると、肌がすべすべを主張。指が押すと、肉がムニムニを主張。
「スキンケア……というか、このレベルは才能じゃありませんこと…? こぶとりじいさんのように、頬を奪って私のものにできないものでしょうか…」
指が頬をつまみ、引き伸ばす。その感触すら、えも言えぬ気持ち良さであり、柄鎖は何となく敗北感を覚えた。
「ん…ぅ…」
「あら、失礼」
狼牙が少し呻いた所で柄鎖はようやく手を離した。
「良く眠っていなさる。
思えば、昨日の放課後、
それから柄鎖は狼牙の手を握る。狼牙は外部からの刺激に反応し、無意識に柄鎖の手を握り返した。その仕草に柄鎖は思わず頬を緩める。
「会って3か月と経っていませんが……案外と惚れっぽいのかもしれませんわね、私は」
柄鎖の