「……ガ……寝て……。あなた……事情……ませ…」
「緊急……叩き…………連れて……!」
しかし、保健室の外で繰り広げられる喧騒に無理やり覚醒させられる。ここ最近で危険に晒されすぎた彼の体は反射で動いた。
ベッドから這い出て治療で失った栄養を補給するべく、脇の段ボール箱を漁り、栄養ゼリーを7つ引きずり出す。
狼牙はそこでようやく我に返った。喧騒の内容に耳を傾け、敵襲で無いと理解する。そして、喧騒の内容の面倒さに顔を顰めた。
栄養ゼリーの容器を瞬く間に
「話は聞いた、すぐに行く」
突如、会話に割り込んできた狼牙に論争を繰り広げていた面々は驚いて振り向く。
「狼牙様!? 起きられたのですか?」
安堵と心配を混ぜた声を返すのは柄鎖。
「起きたのであれば話が早い! すぐについて来なさい!」
居丈高に言うのは、狼牙と
その態度が癪に障った柄鎖はいつになく噛みつく。
「それが人に物を頼む態度でしょうか」
「こんな野良犬に頭を下げろとでも? 下郎は黙って名家の言う事を聞けば良いのです」
「あら、今はもう名家では無いでしょう? 黒葛原家は今や配下の者に乗っ取られ、有名無実となってしまったのですから」
「ッ……! それはっ…! 黒子様が正気を取り戻しさえすれば…!」
「貴方の言う所の下郎に負け、まんまと家を乗っ取られてしまった張本人が正気を取り戻した所で何ができると?」
「黒子様を愚弄する気か!?」
ヒートアップしていく口論に、狼牙が水を差す。
「関係ない事で盛り上がるな。この話は俺が行くか、行かないかの問題だろ」
「……失礼いたしました」
「ふん。そちらの野良犬は立場を弁えているようですわね。殊勝なことで」
その言葉に、収めかけた矛先を再び相手に向けようとする柄鎖。狼牙はそれを手で制止し、黒葛原の生徒に向かって口を開く。
「お前も落ち着け。無用に挑発して何の得がある。俺がへそを曲げたらどうするつもりだ」
「……その時は、力づくで…」
途端に、柄鎖が狼牙の肩を引き、前に出る。それを見て、黒葛原の生徒は口をつぐんだ。
「俺たち相手に2対1で勝てるほどお前は強くないだろ。
…ついて行くから落ち着け。乗り掛かった舟だ、黒子の事は何とかしてみる」
「……分かりました」
しおらしくなった黒葛原の生徒に連れられ、狼牙と柄鎖は寮へと向かった。
♢
寮の一角。黒葛原黒子の部屋の前には少なくない野次馬がたかっていた。
「どいてくださいまし!」
狼牙と柄鎖を連れた黒葛原の生徒が人の波を掻き分け、扉の前へと到着する。扉は開いており、中が容易に確認できた。
「知らない人……殺す……、入ってきたら……殺す……」
玄関から少し離れた所で刀を手に己に課せられた使命を呟く黒子。
「黒子様…」
黒葛原の生徒が部屋の中に侵入しようとする。その時、刺すような声が。
「寄るなッ!! し、知ってる奴が、は、入って来ると……巻き込まないようにとか、守らないといけないとか…よっ、余計なこと考えなきゃ、い、いけない…! だから寄るなッ!」
ぼろぼろと涙を流す黒子。
「たっ、単純じゃないとダメなんだ…。私みたいなのは、た、単純に考えないと…。
誰かが部屋に入る……知らない人か判別する……刀を振るう……殺す……。こっ、これ以上難しくしないでくれ!」
「そもそもどうして黒子様がそんな事をしなければいけないのですか! どうして
「き、きっ、期待に応えないと…! 失敗、したくない……し、失敗したくないぃ……!」
人の可聴域を超えんばかりの奇声を上げる黒子に、黒葛原の生徒は歯噛みする。
「しっかりしてください! いつもの気丈さはどこにいったのですか!? そんな情けない姿なんて見たくありません…!」
「……違う、ちがう、チガうちガウ! これが私なんだ! 今まで化けの皮が剥がれなかっただけの無能!」
「それこそ違います! あなたいつだって私達を導いてくれたではありませんか!? 調子を取り戻しさえすれば乗っ取られた家もすぐに取り戻せるはずです!」
その声を聞いて、黒子は息を切らしながら自らの顔に爪をたてる。目の下に爪は食い込み、遂には皮膚をつき破り、肉を裂き始めた。
「止めて……止めてくれ……」
爪を立てる指が痙攣し、血と涙が混じり始めるころ、黒葛原の生徒を押しのけて狼牙が前に歩み出る。
「黒子、もういい。俺の指示に従わなくてもいいんだ」
狼牙の声に対して黒子は敏感に反応し、ゆっくりと息を整える。
「……もう、いい?」
「あぁ」
「……ちゃんと、出来た?」
「あぁ」
「……できた。できた、出来た…」
黒子は刀を消滅させ、前のめりにぶっ倒れる。狼牙は更に前へと進んで、彼女の体を受け止める。
「良かった…私にも出来た…」
「悪かった、期限を言ってなくて」
「……聞いて、ない。聞いてなかった、私は、無能…?」
再び顔に爪をたて、発狂しかける黒子の腕をつかむ狼牙。
「そこまでお前に期待してない。俺のミスだ」
「……私、無能じゃない?」
「あぁ、お前はよくやった。夜も寝ずに頑張った」
黒子がぴくりと体を震わせる。
「……私、役にたった?」
「あぁ」
「……ふひッ…」
聞く人が聞けば気色の悪いという感想を抱くであろう笑い声を漏らしながら、黒子は口角を上げる。
「…め、命令。他にない?」
「じゃあ…今は寝ろ」
「う、うん…ね、寝る…!」
言われるや否や、黒子は狼牙に抱きついて目を閉じる。徹夜の疲れが出ているのか、すぐに寝息を立て始めた。狼牙は黒子を起こさないよう慎重にベッドまで運ぶ。
「助かったよ、狼牙君」
保険医が狼牙の肩を叩き、寝ている黒子の体に触れる。その途端、顔の傷が癒えていった。
「病み上がりの君に任せてすまなかった」
「医者でしょう、どうにかできなかったんですか?」
「私は精神科医では無い、専門外さ。……それに、私も少々冷静さを欠いていた」
保険医はベッド脇にしゃがみ込み、黒子の肩に手を置く。
「……彼女がこうなったのには、私にも責の心当たりがあってね。そのくせ、今となっては彼女の心配。…とんだ大馬鹿だろう、笑ってくれないか?」
「そんな気分じゃないです」
「君はいつでも変わらないね。いや、敬語だけは以前と違うか。いったいどんな心境の変化だい?」
「…虚勢を張るのはもう止めました」
「虚勢か…。まぁ何にせよ敬語を使うのは悪い事じゃない。無用な諍いを引き起こさなくて済む」
「とにかく、後は任せます」
「あぁ、お疲れ」
狼牙はベッドを背にし、部屋から出て行こうとする。その途中に、下唇を強く噛んでいる黒葛原の生徒と、他にも取り巻きが3人ほど立っていた。
「どうして貴方の様な人の言葉が! 長く一緒にいた私達ではダメだったのに…」
「長くいたからこそじゃないのか?」
狼牙は怒り、不甲斐なさ、悔しさを滲ませる黒葛原の生徒を諭す。
「何のためかは分からないが、黒子は外面を作っていた。今はそれが壊れて素がでているだけだと思う。お前らは外面を見すぎた。だから戸惑った。
本当にアイツの事が心配なら、今のアイツを受け入れれば良い。……それが、何よりの気休めになる」
「……っ」
言葉に詰まる黒葛原の生徒。狼牙は俯きながらその横を通って部屋を出た。
「お疲れ様でした」
部屋を出た狼牙を迎えたのは柄鎖。
「疲れるような事はしてない」
「病み上がりでしょう。それに栄養補給もゼリー飲料で簡単に済ませただけですし」
そこで狼牙の腹の虫が鳴る。
「私が料理を作って差し上げましょうか?」
「…名門のお嬢様が料理出来るのか? 寮にも食堂があるだろ?」
「したことはありませんが、レシピを見てその通りに作れば大抵のものは出来るでしょう。そのためのレシピですし」
「なら頼む」
「承りました。
食事の後は今後について話し合う事にいたしましょう。本来生贄になるはずの私が生き残ろうというのですから、大騒ぎですわよ」
「具体的にはどうなる?」
「――戦争、でしょうね。開戦相手として確実なのは私の実家。それと、黒葛原を乗っ取った剣先も恐らくは。新しく開発した手術が可能になる奥義を上戸鎖家に横流しにし、代わりに補助を受ける同盟を結んでいるようですから」
「…待て、奥義ってのは名門にとって不出の秘密じゃないのか? それをどうして横流しにする」
「上手くやったようですが、クーデターの際にかなりの戦力を消費したのでは? 乗っ取られた黒葛原の一門も素直に従うとは思えませんし、しばらくは内政に力を入れたいのでしょう。
それに、新しく開発した奥義は術者の骨を用いてメスなどを作り、異能者の手術が可能になると言うのが一番の利点と聞きます。しかし、黒子様の“
そのため、隠してもしょうがないと考えたのでは? 一般企業に例えると、特許を取る事に似ていますわね。
加えて黒子様の暗殺に失敗していますので、隠したところで独占できるわけでもありませんし」
「素能じゃなくて奥義か……。俺みたいなのもいるだろうし、ますます秘匿しきれないだろうしな」
「とはいえ、黒子様に更なる追手が来ないのは妙ですわね…。私であれば旗揚げの印となりかねない反対勢力のトップなど、どんな犠牲を払ってでも潰しますが。
…ともかく、私達がやる事は中立の勢力をどれだけこちらに取り込む事。それらの政治は私の方が慣れているでしょうし、お任せください。その際、狼牙様を利用させていただきますが、よろしいでしょうか?」
「確認を取る必要はない。俺がお前に生きて欲しいと望んだろう。好きに使ってくれ」
「…そうですわね。無粋でした。
好きに使って良いのであれば、料理を食べた後はお買い物に付き合ってもらいますわよ」
「何か必要な物でもあるのか?」
「……いえ、別に。しかし、私達はこれから戦争の打ち合わせをしようというのです。そういう時は部屋で二人こっそり、というよりは人目に付くところで堂々と話した方がかえって良いものですわ」
「…そういうものか?」
「そういうものです」
狼牙は釈然としない表情を浮かべながらも、とりあえずは従うのであった。
♢
翌日、朝8時。
黒葛原黒子は寮から学校までの通学路を歩いていた。
(登校。
部屋を出て、通学路を歩いて、校門をくぐって、下駄箱までたどり着いて……。お、多い…)
頭の中で登校の手順を振り返る黒子は、昨日よりかなり落ち着いていた。というのも、あの騒動以降、取り巻きの生徒と時間を共にしたためだ。
自分は外面を取り繕っていただけの無能である事。故に、当主には相応しくない事。そもそも当主の座に付きたくない事。もろもろをぶちまけ、それを受け止めて貰った。
今の彼女は熟睡した事も相まって精神的にはかなり安定している。とはいえ、失敗に対する怯えは拭えていなかったが。
ちなみに取り巻きは、夕方から寝て明け方に目を覚ました黒子をずっと見守っていたため、現在熟睡中である。
(もう当主としての仕事をしなくても良い…。面倒くさい事を考えなくても良い…。
昨日は良かった。何も考えず、ただ狼牙君の言葉に従うだけで…褒めて、くれて…)
「……ふへっ…」
黒子が威厳も何もない笑いを浮かべていると、後ろから足音が。それに気づき、彼女が振り向くと、そこには狼牙がいた。
「黒子か。おはよう」
「え、あ、お、いぃ!?」
突然現れた狼牙の挨拶に、あと一文字で母音をコンプリート出来る返事を返した黒子。
狼牙はそんな態度も気にせず、一歩近寄る。その時、狼牙の髪からシャンプーの匂いが香る。
(あっ、柑橘系……良い…)
黒子が妙な分析をしている間に、狼牙は彼女をジロジロと見回す。
「……髪、ぼさぼさだぞ」
「う、え、あ…朝の支度っ、わすれて…!」
「落ち着け」
「ひ、ひゃい…」
失態を思い出し、慌てる黒子。それを一声で制する狼牙。
「石段に座って」
「……ひゃい」
(あ、命令…従えば、多分、褒めてくれる…?)
黒子が脳を焼かれる一方、狼牙はカバンから櫛を取り出し、黒子の毛先をほぐす。
「…ちゃんとトリートメント付けているのか?」
「き、昨日はわすれて…」
「一昨日も雨に打たれてだろう、痛んでいる。せっかくの長い髪だ、ちゃんと手入れした方が良い」
「は、はい…」
毛先のほつれを梳いた後は、手櫛で登頂部からゆっくりと
「あぁ……。あぁ……! あーっ!」
「どうした急に。もう少しで終わるから待っててくれ」
最後に髪が跳ねている所を櫛で整えて終了。
「終わったぞ。顔が良いんだから、身だしなみも整えた方が良い」
「はい……え、顔が良い?」
「? ……あぁ、俺の主観だぞ。お前自身がどう思ってるかは知らないが」
(顔が良い。つまり存在しているだけ褒められた…?)
「これが、噂のベーシックインカム…」
「…何の話だ? とにかく、それじゃあな」
富の再分配に感動する黒子をおいて狼牙はその場を去ろうとする。呆けていた黒子は、急に我を取り戻し、狼牙を呼び止める。
「……え? あ、す、少し待って」
「何の用だ?」
「私、落ち着いて、石段に座った……よ?」
「そうだな」
「ちゃんと、落ち着いて、石段に座った、よ…? 言われたとおりに…」
「確かにそうだな。…それがどうした?」
その時、黒子の瞳に涙がにじむ。
「何か、間違えた……?」
「何も間違えてない。というか、なぜ泣く」
「だって…褒めてくれないから…」
「褒めるって、それぐらいのこと…で……」
“それぐら” あたりで黒子の涙腺が一瞬にして決壊する。その姿に狼牙は言葉を失った。その時、狼牙の脳裏に昔の思い出がよぎった。
昔、自分が稽古に励んでいたモチベーションは親父に褒められるためだったな…と。褒められたいがために、本当に些細な言いつけでも律儀に守っていたな…とも。
「……あぁ。頑張ったよ、黒子は。すごく偉い」
やや棒読み気味。しかし、先の事件でネジが数本飛んでしまった黒子の頭には十分。
「っふふへへへ……。やっぱり給与は段違い…、ベーシックインカムとは違う…」
目の焦点をぼやけさせながら、だらしない笑みを浮かべる黒子。ベーシックインカムや給与というよりは生活保護をもらっている状態の彼女だが、気づいていないだけ幸せなのだろう。
(このまま狼牙君に永久就職したい…。永久就職!?
き、気が早いっ! まずは面接通過して、正社員になって…いや、派遣社員から正社員に昇級して……)
黒子の脳がピンクに染まっていく。今までは当主の仕事でいっぱいだったせいで恋愛方面の耐性が無いのが作用した。
(思い出してみれば狼牙君とは一緒のベッドで寝た事もある…枕営業。……枕営業!? 重要取引先ってこと…!? 何の!?)
黒子が小学生並みの連想ゲームを始めだす頃、通学路の向こうから柄鎖が合流してくる。
「狼牙様ごきげんよう」
「あぁ、おはよう」
「え、あ、お、ぉおはようぅ…」
「黒子様もごきげんよう」
挙動不審気味ながらも挨拶を返す黒子に、綺麗なお辞儀を返す柄鎖。その時、柄鎖の髪から柑橘系の匂いが香る。
(シャンプーの匂い。…あれ、どこかで嗅いだことのあるような。確か狼牙君も……? ……!?)
閃き一閃。
(狼牙と柄鎖+同じシャンプーの匂い
= 同居 アライアンス 共寝 業務提携 同衾 M&A )
直後、黒子の脳が破壊された。
「それでは黒子様、失礼いたします」
「またな」
「……あっぇ?」
呆けた声を別れの言葉と解釈した狼牙と柄鎖は、黒子を置いて去っていった。
やや遅れて黒子は膝と手を地面につき、呟く。
「派遣、切り……?」
彼女の受難はまだまだ続く。
ちなみに、狼牙と柄鎖から同じ匂いがするのは、昨日街に出かけたついでに柄鎖が狼牙にシャンプーとコンディショナーをプレゼントしたからである。