服装に乱れがない事を確認して目線を上げると、鏡の中の自分と目が合う。こうしていると昔の事を思い出す。物理的に自分を客観視することで、自然と内省が行われるのだ。
私は上戸鎖家の三女として生を受けた。それ自体は幸せな事なのだろう。生まれてこの方衣食住に困ったことは無い。教育にも不自由したことは無い。望めば、全てのものが手に入った。
……あぁ。全て、というのは語弊がある。私を必要としてくれる人は、どれだけ望んでも手に入れる事はできなかっ“た”。私の死を必要とする人は、数えられない程いるが。
とはいえ、それも過去の話。
今は違う。望んでいたものは、全て私の手の内だ。
「……ふふ」
鏡の中の私は堪えきれずに笑っていた。側に控えている侍女は変に思ったかもしれない。構わずに思考を進める。
私には二つの転換期があった。一つは自分が生贄になると知り、その上私の事を誰もかばってくれなかった時。もう一つは狼牙様から“生贄になるな”と言われた時。
どちらも私の精神を大きく変質させた出来事。前者はストレスで私に嗜虐心という負の感情を目覚めさせた。そして後者は植え付けられた嗜虐心を消し、代わりに満足と恋心を与えてくれた。
人に惚れるというのは存外大変だ。
基本的には彼を中心に物事を考えてしまう。ふとした時に彼のことを思い出して、顔が緩んでしまう。してあげたい事・して欲しい事が無限に湧き出て止まらない。
心の一部に寄生され、操られているにも等しい感覚だ。しかし、不思議と嫌では無い。これが嗜虐心の場合はやりすぎて後悔する時もあったのだが。恋心の場合、今のところ負の感情とは無縁だ。
幸せ絶頂の今、死んでしまうのがもしかしたら一番幸せなのかもしれない。狼牙様に嫌われたり、私より先に死なれては簡単に発狂する自信がある。
とはいえ、彼は私に生きろと言ってくれた。だからもう少し自分の命を大切にしよう。少なくとも無抵抗で生贄になるつもりはない。
「お嬢様、そろそろ出立しないと間に合いません」
「えぇ」
侍女に返事をし、私は胸を張って部屋を出た。
♢
交差点を曲がるのが難しそうな長さのリムジンに揺られること数時間。そうして到着したのはホール施設。今日はここで名家が一堂に集まる舞踏会が開かれるのだ。
身分確認を終え、玄関をくぐる。そして0が六つは付くであろうカーペットが敷かれた廊下を歩き、荘重とした両開きのドアを侍女が開く。扉の向こうにはサッカーコート程の空間が広がっており、私と同じように稽古着で身を包んだ人たちが数多存在していた。会場の真ん中には何もない空間が広がっており、そこでは数人の男女がペアで舞踊を披露している。
扉をくぐると、多くの視線が私に集中する。その中の数人は私の方に歩み寄って来た。
同じ年頃の令嬢、子息から二回り以上年上のマダム、ムッシュまで様々だ。私は彼ら、彼女らに上辺だけの笑みと言葉で対処する。
季節の挨拶。最近のニュース。家の事情。
盛り上がる会話とは裏腹に、私は心底冷めていた。こんな会話はただの作業だ。床の木目を数える方が気を使わないだけまだましだろう。
「いやはや相変わらず素晴らしい、柄鎖殿は。息子の嫁に欲しいぐらい……」
壮年の男性はそこまで発言して、顔を歪めた。己の失言に気づいたのだろう。
「ご冗談を。一年も経てばバツイチになってしまいますわ」
「は、はは……申し訳ない」
私が冗談で返すと、男性は気まずそうに謝罪を述べる。我ながら酷いブラックジョークだと思う。
とはいえ、その
「あら、私のかわいい妹。こんな所にいたのね」
ぼんやりと思考にふけっていると、聞き覚えのある声が。
「ごきげんよう、姉様」
上戸鎖家の次女、上戸鎖
私の姉である彼女は、主張の強い派手な赤色の稽古着を身に纏っている。しかも胸には金糸の刺繍。肩には長めのケープがかけられており、稽古着の腰のあたりにも多少のフリルがちりばめられていた。髪は成人式のニュースでよく見るような編み込みのポニーテール。
総じて、目立ちたがり屋である姉好みの格好だ。
「本日も
「当然よ。…比べてあなたは地味ね。黒の稽古着に、髪色と同じ
このような晴れの場なのだからもう少し気を使ったらどうなの。この場を一年後に死ぬあなたの生前葬と勘違いしているのかしら?」
明らかな失言。いや、失言というよりは確信的な発言だろう。先ほどの気まずそうにしていた壮年の男性とは真逆。
この通り、私の姉は非常に高圧的だ。私に対しては特にひどい。とはいえ、彼女の性格・境遇を考えればこの対応も当然。私は適当に返事する。
「今日の主役は私ではありませんわ。必要以上に目立つのもよろしくないでしょう」
「……ふぅん?」
姉は眉を吊り上げて怪訝そうな表情。
以前の私であれば、噛みつき返していた場面だ。そうしないのを不思議がっているのだろう。
「
そう言いつつ登場したのは上戸鎖
爽やかなオールバックの髪型。さっぱりとしたフチなしの眼鏡。稽古着も白と淡いベージュの組み合わせで見る者に爽快感を感じさせる姿だ。
兄の発言に私は首を傾げる。
「私が招待した客、ですか?」
誰かを招待した覚えはない。にもかかわらず、私に招待された人が来ているらしい。
「まぁ大変。招待客を待たせるようなことがあっては上戸鎖家の恥よ。早く迎えに行って差し上げないと。ねぇ、
こちらに目線を送ってくる姉。その口元は嗜虐的に吊り上がっていた。
……姉の差し金か。何を企んでいるかは知らないが、今は流れに従うしかないだろう。
「承知しました。兄様、お伝えいただきありがとうございます」
「…あぁ、どういたしまして」
兄はそう言ってから私からすぐに視線を逸らした。最低限の
兄は、私や姉の様な凡人に興味がない。彼が興味を持つのは突出した才能を持つ人物だけだ。
というのも兄が天才だから、なのだろうか。私が習得に5年かけた
少し、姉の話に戻る。
凡人で努力を嫌う姉は、天才の兄と凡人だが努力家の私に挟まれてさぞ生きにくかっただろう。とはいえ私と姉、昔は仲が良かった。今のように険悪になったキッカケは、やはり私が生贄だと告げられた日から。
その日以降、私の中に嗜虐心が膨れ上がり、抑えきることができなくなった。その嗜虐心は、凡人で努力も嫌いなくせに見栄っ張りな姉に向かった。そうしている内に、険悪な仲になったという訳だ。
……よくよく振り返ると、我ながら幼稚な事をしてしまったと思う。姉にも悪い事をした。とはいえ、私の中に罪悪感や後悔の念は無い。事実として認識しているだけだ。少し前であれば、そんな事は無かったのだが。
……狼牙様に生きてくれと言われた日、変質したのは嗜虐心と恋心だけではないかもしれない。彼以外に対する興味が激減したような感覚。
試しに、視界の端に映っていた父と母に目線を送る。今まであれば、私を見捨てた恨み、見捨てざるをえなかった苦悩を考慮した同情、声をかけてくれない寂しさ、声をかけられない心情を
複雑な感情が湧いて来たのだが、今は“無”だ。
抱く感想は“私を見捨てた人種”、それだけ。
今まで、私の世界には“私を見捨てる人種“しかいなかった。だから、その
二元化した私の世界。その世界の中で“私を必要としてくれる人種“にしか興味を持てなくなったのだろうか。
……至極当然。“私を見捨てる人種“に気を回す必要はないだろう。そんな無駄な事に時間を割くぐらいなら、狼牙様の
ごちゃごちゃとして思考が一本化され、スッキリする。考えている間にも歩みは進んでおり、すでに玄関へと到着していた。そこで私が見たのは、守衛の横で借りてきた猫のように縮こまっている狼牙様だった。
「えっ、こんなところに!?」
他の客の目が一斉に私に集まる。いけない、アイドルの追っかけみたいな声を出してしまった。
口元を押さえて、思わず声を出さないように、加えて緩んだ頬を見られないようにする。
どうして狼牙様がここに?
顔が見られる、嬉しい。
なら、黒じゃなくて少し綺麗な色の服を着てくれば……いや、そもそもロウガ様は色の判別ができないのか。
色々な思考が行ったり来たり。本当に考えるべきなのは、“どうして狼牙様がここに招かれているのか”だが、突然のサプライズが嬉しすぎて集中できない。
そうこう考えている内に眼球が狼牙様の姿をハッキリと捉える。
彼は肩口当たりの長さの髪をローポニーにまとめており、結び目には大きなスカーフのようなヘアアクセサリーを付けていた。余ったスカーフは首に巻き付けており、マフラーのようにも見える。
服は前に私と二四三様と狼牙様で出かけた時に買って差し上げた物だ。内にベージュのブラウス、その上から
表情を見れば、少しだけ眉をひそめて顔をあまり動かさずに当たりの様子を
小動物のようで、いと
その疑問が再浮上するのと同時に、狼牙様も私に気づいたようだ。
「柄鎖」
私の姿を確認するなり、少しだけ顔色を良くする狼牙様。すぐに彼の方に近寄り、事情を問いただしてみる。
「狼牙様、どうしてここに?」
「お前の姉の名前を出されて舞踏会に来いと言われた。そして、玄関で柄鎖の名前を出すようにとも」
「それでここまで?」
狼牙様は背伸びをして私の耳元に顔を寄せる。
「いつもならそんな怪しい命令は一蹴する。けど、今は事を荒立てない方が良いと思った」
狼牙様が、目線を後ろに送る。その先には姉の付き人が。彼はこちらの視線に気づき、にこやかに手を振り返してきた。
彼は姉の付き人の中では古参であり、私も彼の事は多少知っているが、相変わらず緩い人だ。
なるほど、事情は理解できた。私達は上戸鎖家に弓を引かんとする立場。決行のその日までは怪しまれないようにするのが賢いだろう。監視まで付いているのなら尚更従順であるフリをしなければ。
とはいえ、どうして姉は狼牙様をこの舞踏会に来るよう画策したのだろうか。嫌っている私への意地悪であれば狼牙様を巻き込む意味は……。
そこでようやく狼牙様の服装がこの舞踏会に適したものでは無いことに気づく。
狼牙様は舞踏会と聞いて、精一杯のオシャレをしてきたのでしょう。確かに、一般的なパーティーや舞踏会であれば今の服装でも問題ない。
しかし、
受付を済ませている周りの人を見ても稽古着やスポーツウェアを着ている者がほとんど。そのような中では、狼牙様の服装は浮いていると言わざるを得ないだろう。
「あの方、どこの家の人かしら?」
「こんな場にあんな格好なんて…」
「誰の招待客かしら? もしかして…」
辺りからはひそひそと声が聞こえる。
姉の狙いはマナーに疎いであろう狼牙様を私の招待客として舞踏会に参加させ、笑いものにするつもりだろうか。
また遠回しな嫌がらせだ。しかも狼牙様まで巻き込んで……巻き込んで………。
「
「なんでしょうか」
「顔、戻した方が良い」
言われてから気づいた。無表情のまま目だけが細められた状態。チベットスナギツネみたいな顔を手で覆い、すぐにいつもの表情に戻した。
しかし、姉の付き人には写真を撮られてしまった。携帯の画面を見て小さく噴き出している。…後で姉に見せるのだろうか?
とにかく、今は姉への報復を考えることは後回しだ。この場を切り抜けるためには……。
「…失礼いたしました。どうやら手違いがあったようですわ。狼牙様を招待したのは一つ先のパーティーでした。大変申し訳ありません」
私が頭を下げると、狼牙様も察してくれたのか話に乗ってくれる。
「あ、あぁ…そういう事か。流石に会場が大きいからおかしいと思った。なら、今日はこれで…」
解散してしまうのが一番良いだろう。姉には私のチベットスナギツネ顔で溜飲を下げてもらおう。そう思った矢先だ。
「そっちの子は柄鎖のお友達かしら?
まぁ可愛らしい服装、よくお似合いですわよ。とはいえ、舞踊の相手がスカートの裾を踏まないと良いのですが」
面倒くさいのが来た。