「そっちの子は柄鎖のお友達かしら?
まぁ可愛らしい服装、よくお似合いですわよ。とはいえ、舞踊の相手がスカートの裾を踏まないと良いのですが」
姉は心底楽しそうな表情で皮肉をぶつけてくる。
「えぇ、ですので今日はお引き取り頂こうかと。そもそも、何かの手違いで招かれたご様子です」
「あら、上戸鎖家の三女ともあろう者がわざわざ訪ねに来てくれた友人を無手で返すのかしら? 手違いがあったからこそ、そちらの子に
「しかし、彼女は舞踏会の礼儀に少々疎いところがあります。加えて慣れてもおりません。肩肘を張らせてしまうよりは、このまま帰ってもらった方が良いと思いますが」
「そこは
「…彼の事を庶民というのは言葉選びが乱暴に思いますが。軽蔑的な意図を感じられます」
「それを判断するのは貴方ではなく、そちらの子ではなくって? それに論点をずらすのは止めていただけるかしら。大事なのはその子を舞踏会に参加させてあげる事で…………彼?」
舌戦の最中、急にフリーズする姉。狼牙様の性別も知らなかったのだろう。今の格好だけ見れば、女性と勘違いしてもしょうがない。
姉が戸惑うわずかな隙間時間に、狼牙様が耳打ちをしてくる。
「…俺は大丈夫だ。一時笑いものにされるぐらいは屁でもない。柄鎖が嫌ならこのまま帰るが」
彼が気にしないと言うのであれば、答えは決まっている。むしろ狼牙様と舞踏会に参加できるのだ。その点は姉に感謝しなければならないだろう。
「承知しました。不肖ながら、柄鎖が狼牙様のエスコートをさせていただきましょう。
それで良いでしょうか、姉様」
「え……あぁ…問題無いわ。心行くまで楽しんでいってちょうだいね。えぇと…狼牙……君?」
性別の分かりづらさに戸惑う姉だが、自分の思い通りに事が進んで多少は気色を取り戻していた。
「ともかく、舞踏会に参加するのであれば狼牙様には着替えていただきたい所ですが……」
「あいにくだけれど、柄鎖の予備の服はかの……彼にはサイズが合わないでしょう。もちろん私の物も。そもそも男の子なのだから、女性ものを貸すわけにも……いくのかしら? あぁもう紛らわしい!」
勝手に頭を抱える姉は放っておく。狼牙様には稽古着を着てもらうよりも、今の格好の方がよほど可愛い。このまま参加してもらおう。どうせ笑いものに仕立て上げられるのなら開き直ってしまえば良い。狼牙様の手を取り、二人で歩き出す。
混乱していた姉も、狼牙様がそのままの服装で舞踏会に参加するのを見てほくそ笑む。その時だった。先ほどまで居た受付の方が少し騒がしい。
「あの……そちらは…」
「“ねこ”だ」
「えっと、その……」
「聞こえなかったか。“ねこ”だ」
「にゃあ」
受付には金魚鉢にすっぽりとハマった“ねこ”を片手に抱える
「その…猫の持ち込みはご遠慮いただきたいのですが……」
「パーティーの要項にそんなことは書かれていない」
「いえ、それは……書くまでも無いと言うか……と、とにかく! 猫の持ち込みは禁止とさせていただきます!」
「…………」
雷夢様は何を思ったのか、金魚鉢の中から猫を取り出す。そして、猫を首に巻き付けた。
「あの、何を…」
「マフラーだ」
「え?」
「マフラーだ。持ち込みを制限される覚えは無い」
「ま、マフラーではないでしょう!?」
「…あっちにも狐のマフラーを巻いたおばさんがいるだろ。それと同じだ」
「にゃあ」
「マフラーは鳴かないでしょう!?」
「面倒くさい……しッ」
「あっ、猫が! それに
「後の事は任せた」
「仰せのままに」
猫と雷夢様を追いかけようとする受付の人を遮るように、雷夢様の執事が動いた。雷夢様はそのまま私たちの方に歩いてくる。
「柄鎖…はともかく、狼牙もいるのか。“
「……俺が
「すると私が
雷夢様はそこで初めて、姉の存在に気づいたようだ。相変わらず、興味の有り無しがハッキリしている人だ。
姉は雷夢様のことを
雷夢様は無表情で姉を見つめ返す。そして姉を指差し、絞り出すように一言。
「……鍋?」
「誰が鍋ですって!?」
「なら……出汁?」
「出汁でもないわよ!!」
「……椎茸」
「そもそも例えようとしないでくださる!? あなたの様な礼儀知らずの寒門に揶揄されるなんて……まったく不愉快極まりない!」
怒り心頭の姉を他所に、雷夢様は少しだけ難しい顔を浮かべていた。
「珍しく冗談を言うものでは無い、か。難しいな」
雷夢様はそう呟きながら、会場の敷居を跨ぐ。私と狼牙様、姉もそれに続いた。
「柄鎖! あなたの知り合いには礼儀知らずの痴れ者しかいないのかしら!? 世間知らずの高枕もここまでくると甚だしい! あなた、どこの家のものでして!?」
会場の入り口で姉が雷夢に対して詰め寄る。丁度その時だ、先に会場入りしていたらしい雷夢様の猫がすり寄って来た。
「にゃあ」
可愛らしい鳴き声。しかし、姉にとっては神経を逆なでするものだったのだろう。額に青筋を浮かべる勢いで激昂する。
「主人が卑しければペットも卑しい! 近寄らないでくださいまし!」
姉が猫を蹴り飛ばそうと足を振るう。その足を、雷夢様が踏みつけた。
不味い。そのまま骨の一本でも折る気だ。
狼牙様もそれを察したのか、私と同時に動く。二人がかりで雷夢様の凶行を未然に防いだ。しかし、雷夢様が姉の足を踏んでしまったことに変わりはない。
「この…ッ! 何をしたかわかっているのかしら!? この私の足を踏みつけるだなんて…! どこの家の者よ!」
これまでにない姉の大声。会場の視線が一斉に集まる。
「
「へぇ、
姉の方は“怒髪天を衝く”と言った所だろうか。相手の家を貶めるような不味い発言をしてしまっている。
「貴方の様なクズ、どうせ雷家の中でも下の下でしょう! そんなあなたが上戸鎖の次女の足を踏んで良いとでも!? 今すぐに土下座なさい!」
「お前は私の猫を蹴ろうとした。骨を折られなかっただけましだ。私を止めた後ろの二人に感謝しろ」
「私は貴方が会場に紛れ込んだ小汚い獣を排除しようとしただけよ! 武闘会に猫を連れてくるような低脳だから、後先考えずに私に噛みついてくるのかしら!? この無礼は抗争ものよ! 上戸鎖と、雷の!」
良くない方向に話が進展していると思ったのか、狼牙様が私の方に目線を送って来た。しかし、私は静かに首を振る。姉が抗争を持ちだした時点で、この口喧嘩の終着点はおおよそ分かってしまった。口を出さなくとも問題無いだろう。
「そうか」
雷夢様はそう言って、私と狼牙様の拘束を
不味い。手を出すのは流石に不味い。ここまで話が発展した上で手を出すのは本当に不味い。
すぐさま雷夢様の耳元で囁く。
「この場は手を出さないでくださいますか」
「それ以外は」
「ご自由に」
すると、彼女は落ち着いてくれた。
……流石に手が早すぎるでしょうに。
私の予想を超える……いや、私が失念していただけか。とにかく彼女の
「ふ、ふん! さっき貴方、手を出そうとしましたわね? そんなことになれば本当に抗争の引き金になりますわよ? 貴方の様な雷家の中でも下の下がそんな大それたことをして良いのですか?」
姉の声は若干震えていた。それもそのはず、姉も抗争を引き起こそうという意図はないだろう。もし、抗争にでもなればどれだけの事態になるのかが分からないバカではない。
姉の最終目標は雷夢様に土下座させること。抗争は脅しか、はたまた口が滑っただけと捉えることができる。
「良い。抗争するも、しないも私の自由だ」
対して、雷夢様は抗争を引き起こすことに
「そ、そんなわけないでしょう! 貴方の様な痴れ者が…」
「少し前に私が当主になった。当主が家をどうしようと問題無い」
「ま、まさか……貴方が、雷夢…?」
雷夢様はまったく理性的では無い。
ムカついた、だから殴る。
イラついた、だから蹴る。
人間が大人になるにつれて獲得する理性をまったく持ち合わせていない。しかし、彼女は理性的では無いが、合理的ではある。一度本能で目標を定めてしまえば、そこからは合理的なのだ。目標を達成するためには手段を選ばない。二次被害なども一切考慮しない。
「い、いくら当主だからって全面抗争を引き起こしてよいのですか? 上戸鎖と雷が争った所で貴方に何の得もないでしょう? 二つの家が弱体化し、他の家に付け入れられるだけ…」
「私の虫唾が収まる」
「……は? た、たったそれだけのために…?」
そう、雷夢様は“気に食わない奴を叩きのめす“と一度決めてしまえば、それに向かって最短の道を進もうとする。例え、家同士の抗争になり、親類縁者が絶滅しようとも。
……雷夢様にとっては親類縁者など唾棄すべき対象なので、この例えは少し不適切かもしれませんが。
「……っ」
気づけば、姉は黙りこくっていた。内心、
“もともと抗争をするつもりだったのか?”
“だから、わざと無礼な振る舞いをしてそのきっかけを作った?”
“私はそれにまんまと乗せられてしまったのだろうか”
などと考えているに違いない。
だが、全くそんな事はない。雷夢様は恐らく……いや、絶対にそんな事を考えていなかったはずだ。
猫を持ち込んだのは、単純に猫と一緒に居たかったから。
無礼な振る舞いは、普段通りに振舞ったらそうなっただけ。
そして、姉についても猫を蹴ろうとしなければ一切の興味を持たないままだっただろう。
気づけば、辺りには遠巻きに見学する野次馬だらけ。これだけ騒がしくすれば当然か。雷夢様は周りの目など気にしないだろうが、姉にとっては強いプレッシャーとなっているだろう。ここで対応を間違えれば、大量の証人の元、抗争が始まってしまうのが目に見えているのだ。
「…あ、貴方の猫を蹴ろうとした点については私にも幾分かの非があったことは認めます。しかし、貴方の振る舞いが無礼だったのも事実」
姉はそう言いながら、辺りを見回す。野次馬達は声にこそ出さないものの、小さく頷いていた。
「であれば、ここはお互い歩み寄るのはいかがでしょうか」
「……もっと具体的に言え」
「私としては土下座していただきたい所でしたが、一言。一言で良くって。“ごめんなさい”と謝っていただければ水に流しましょう」
今回の件、客観的に見て悪いのは明らかに雷夢様。それをお咎め無しで終わらせてしまえば、周りから侮られてしまうのは必至。
謝罪してもらう。ここが姉としては最低限譲れないラインなのだろう。
周りの姉への反応は“感心”といった様子だった。
あれだけの無礼を謝罪だけで許す度量、今後の影響も考えた立ち振る舞い等、諸々含めての評価。
反対に雷夢様への反応は、かなり否定的だ。
当主にしてはあまりに短慮、加えての常識知らず等、諸々含めて妥当な評価。
場の雰囲気は姉の方に偏っている。周りを味方につける手腕、流石に上戸鎖の次女として教育を受けているだけある。……結構な頻度でサボっていたが。
「断る」
しかし、雷夢様が周りの視線や場の雰囲気を気にするはずがない。その能力があれば、そもそもこれだけの事態には
「なぜ私が謝る必要がある」
「そんなもの…っ! 貴方が私の足を踏んだからでしょうが!」
「それはお前が私の猫を蹴ろうとしたからだ」
「それは貴方がこのような場に猫を持ち込むという礼儀知らずを働いたからでしょう!」
「それがどうした。私の猫を蹴って良い理由になっていない」
「……っ!」
姉は苦虫を噛みつぶしたような表情。
今の雷夢様は、周りの目も気にせず床に寝転がり、“玩具を買ってくれなきゃ嫌だ”と喚く幼児と同じだ。自分のわがままを押し通すことしか考えていないため、説得など通用しない。なまじ、話が通じそうに思えるのが厄介だ。
ともかく、このままでは本当に抗争が起きかねない。しかし、こんな小さないざこざで抗争を引き起こしたなど、悔やんでも悔やみきれない失態。姉としては何としてもそれを阻止したいだろう。
となると、姉に残された道は一つ。雷夢様に頭を下げ、溜飲を下げてもらう事だ。駄々をこねる子供の前では、常識を知る大人は折れるしかない。
姉が心底納得いかなそうな表情で頭を下げようとしたその時、狼牙様が口を開いた。
「雷夢、その……猫アレルギーの人も居るかもしれないし、公の場に猫を連れてくるのは悪い事じゃないか?」
「……猫、アレルギー」
雷夢様は目をまん丸にして驚愕していた。
「そいつは、猫に触れないのか」
「触れないってことは無いが、鼻水が出たりくしゃみが出たり、喉に炎症が起こったりする」
「そう、なのか…」
そこで、雷夢様はちらりと姉の方に目線を送る。その目は、ほんのわずかに同情的だった。あの傍若無人な雷夢様が、だ。
「悪かった。私の配慮が足りなかった」
雷夢様は頭を下げこそしなかったものの、確かに“悪かった”と謝罪した。あの雷夢様が、だ。
「そうか、猫に触れないのか…」
そして、雷夢様は姉が猫に触れないと勘違いしたのか、噛みしめるように呟く。その声はやはり同情的。
雷夢様から謝罪の言葉を貰い、安心したのも束の間。憐みの目と声に晒された姉のこめかみがピクピクと震えていた。
プライドの高い者にとって一番堪えるのは“同情される”だ。無礼や軽蔑に対しては怒りこそ覚えるものの、結局は“何も分かっていない馬鹿が”と相手を見下すことが出来る。その点ではプライドを刺激しない。
しかし、同情は違う。“ああ、この人はこんなにも可哀そうなのね”と相手に思われている状態。自らを上等な人間と信じている人間にとって、これほどの屈辱は他にないだろう。
「この…ッ!」
「落ち着け」
姉の堪忍袋の緒が切れる寸前、突然現れた兄が姉を制止した。
「獣の鳴き声だ。いちいち惑わされるな」
格好良く言う兄だが、その手には雷夢様の猫が伴っており、少し間抜けに見える。
「……ふん」
第三者の介入で落ち着いたのか、鼻を鳴らすだけにとどめる姉。
「猫を持ち込むにしても管理しておけ」
兄は手に持っている猫を雷夢様の方に突き出す。しかし、横から姉が手を伸ばし、猫に触れた。
「ほら見なさい! 触れますから! アレルギーではありませんから!!」
「そうか」
アピールする姉だが雷夢様は適当に流しつつ、いつの間にか隣に居る執事から金魚鉢を受け取り、その中に猫を収めた。
「~~~……ッ」
姉からギリ、と歯が擦れる音がする。ここまで来ると、少し可哀そうになってきた。やはり狂人に喧嘩を売るべきでは無い事が今回の件で良く分かる。
結局、姉は雷夢様と私を睨みつけた後、どこかに行ってしまった。これで勘弁してくれれば嬉しいのだが、さてどうなることやら…。
多少の心配はあるものの、ひとまず解放された私達は自由な時間を過ごす。
「雷夢様、猫を飼われたのですね。しかも、
金魚鉢に収まる猫の目は赤く、異能者の特徴を示している。赤目ならばアルビノの可能性も考えられるが、毛色が真っ白ではないため違うだろう。
「能力が高いせいで風呂に入れるのが面倒だ。昨日は福島まで追いかける羽目になった」
それを聞いて狼牙様が呆れる。
「すごいスケールの嫌がりだな……。とはいえ、こんな所まで猫を連れてきて良かったのか? 知らないところに連れて行くとストレスたまるって聞くが…」
「こいつが勝手に付きまとってくる。しょうがないからいつも使ってる金魚鉢に入れて連れて来た。
ストレス……勝手について来て、勝手にハゲるなよ」
雷夢様が猫の額を指でクシャクシャと撫でながら無茶な命令をしていた。
「にしても、自分の縄張りの外まで猫が付いてくるというのは……ふふっ」
「何が可笑しい」
「いえ。わざわざ危険な縄張りの外に出てまで雷夢様について行くというのは、そちらの猫が雷夢様の事を守るべき対象として見ているからでは無いかと思いまして」
「守る?」
「えぇ。ほら、今も雷夢様の事を見つめていらっしゃいますし」
雷夢様が視線を猫に向けると、ばっちり目が合う。しかし、猫側がすぐに目を逸らした。敵意が無い事を示すためだろう。
「……飯の催促じゃないのか」
「にゃあ」
「養われてる身分のくせに、変な奴だ」
悪態をつく雷夢様だったが、先ほど姉と言い争っていたような
「雷夢様は……」
私が発言しようとしたその時、私たちの後ろを見知らぬ女性が通り過ぎた。狼牙様が鼻を鳴らす。
「……黒子か?」
「え、あ、え、お、えどぅえ!?」
狼牙様に話しかけられた女性はひどく挙動不審に。
「黒子様、ですか…? この方が?」
狼牙様は“黒子か?”と言ったが、目の前の人はどこからどう見ても黒子様には見えない。
「な、なん、で…分かったの…!?」
しかし女性の狼狽具合からすると、その通りなのだろう。恐らく誰かの
「姿も立ち振る舞いも普段と違うが、匂いは黒子だ」
「き、キツい香水付けて来たのに…」
「それぐらいじゃ誤魔化せないぞ。匂いを誤魔化したいなら胡椒とか唐辛子とかの刺激物を振りかけた方が良い」
「……や、やっぱり…ダメだったんだ…! 皆の言う通り…! 私みたいな無能が、我儘言って……! うぅ…ッ…!」
「お、落ち着け…! 俺の鼻は特別なんだ、他の奴は気づかないって。大丈夫だから……」
セットされた髪をガリガリと掻きむしり、過呼吸を発症する黒子様。狼牙様が腕をつかみ、無理やり宥めている。
その隙に私は雷夢様の肩を叩き、共々少し離れた所に移動した。
「何だ」
「狼牙様に聞かれたくない相談事です。……ひとまず、雷夢様には私達にご協力いただけるのですよね?」
協力というのは、私が生贄にならないために
「そうだ」
雷夢様は返事をしつつ、執事に目線を送る。すると、執事は空気を読んだのか遠く離れた所に移動した。
これで、心置きなく話せる……かと思ったが、遠くにいる狼牙様がこちらに視線を送って来ていた。流石の地獄耳だ。
「レディの会話に聞き耳を立てるものではありませんよ」
私がそう言うと、狼牙様は黒子様を連れ、私達から遠ざかっていった。これで、今度こそ安心だ。
「仕切り直しましょうか。雷夢様の返事、直接聞いて改めて安心しました。とはいえ、この件は雷夢様だけではなく黒子様と二四三様にもお願いしております。そして黒子様には首を縦に振って頂けましたが、二四三様には断られてしまいました」
「……水漏れの原因は取り除く必要がある、か」
雷夢様は狂人ではあるが、馬鹿では無い。察しが良くて助かる。
「えぇ、そうなっては怒られてしまいますから。漏らさないと約束してくれたそうですが……それを信じられるほど彼女に詳しいわけではありませんし、お人好しでもありません。
しかし、狼牙様は彼女に多少の執心があるご様子。ですので、こっそりと……ね」
「人手は?」
「雷夢様はどうでしょうか?」
「私の知る限りで五分五分。力を隠してるならそれより分が悪い」
「そう考えると、協力していただけなかったのは痛手ですわね。さて、どうしたものか……。いっそ触らないというのも手ですが」
「私の家から人手を出すのはどうだ」
「信頼できるのですか?」
「訳の分からない狂人も混ざっているが、当主である私には逆らわない」
雷夢様に狂人と言われる人物。狂人から見れば常識人が狂人なのか、それとも別ベクトルの狂人なのか……。少し心配になる。
しかし、私の作戦もたった四人では流石に戦力が足りないだろう。どちらにせよ追加の人手は必要だ。
「ではお願いいたします」
私が軽く頭を下げてから顔を上げると、私をじっと見つめる雷夢様と目が合う。
「…本当に良いのか? 狼牙にバレたら多分、嫌われるぞ」
この言には少し驚かされた。雷夢様が他人の感情の機微に思いを馳せるというのが、何とも考えられなかったためだ。
「かもしれませんね。しかし、私は決闘の結果として狼牙様に頼まれたのです。“生きてくれ”と。であれば、そのためには何であろうと……」
そこまで話して、自分の口を塞ぐ。これ以上は誰の耳があるか分からない場で発言するのは危険な事を口走りそうだ。
「……ま、バレて嫌われた時は以前に戻るだけです。死ぬまでの僅かな期間を楽しむことにしましょう。タバコ、酒、それから危険ドラッグ等を一度試してみたいですわね」
「止めろ。体に触る」
「体に触ると言われましても……どうせ死ぬのだからどうでも良いでしょう?」
「狼牙に嫌われた所で死ぬ必要はないだろう」
死ぬ必要はない? ……そんな事はない。
「今の私にとっては狼牙様が全てなのです。一番初めに私が必要だと言ってくれたあの方が」
「……そうか」
雷夢様はわずかに寂しそうな表情を見せた後、執事に向かって指だけで手招きした。傍に来た執事に指で何かを伝達している。
「引け」
そして、銃のトリガーを引くようなジェスチャー。
……あぁ、何とも一般人的な感性のジェスチャーだ。銃では異能者を殺せないというのに。だからこそ分かりにくい隠語として機能するのだろう。事情を知っている私でもすぐにはピンとこなかった。
「仰せのままに」
執事は慇懃に礼をし、会場を出ていく。その表情は嬉しさを堪えきれないといった様子だった。
「もしかして、人手というのはあの執事の事ですか?」
「そうだ。他にも執事とメイド、合わせて5人いる」
「5人……。練度にもよりますが、それだけ居れば本番にも足りるやも」
5人の実力を見ない事には何も言えないが、ひとまずは安心だ。心配事が無くなると、気分が軽くなる。
「そういえば雷夢様。この猫はいつから飼い始めたのですか?」
「3日前」
「それにしては懐いていますわね。こんな所まで付いてくるくらいです。家でどのように愛でているのですか?」
「裸になって腹の上に乗せる」
「……えぇ…? なぜそのような…」
「猫が腹の上で歩くと肉球の感触が気持ち良い。匂いを嗅がれることもあるが、髭の感触が良い。もちろん毛の感触も良い。それを全身で堪能できる。母乳が欲しいのか、たまに胸を踏み踏みすることがある。なにかこう……良い、仕草が良い」
やや早口で話す雷夢様。……まぁ、夢中になれる事が見つかって良かった。最近は多少感情が表に出るようになられたが、生き物を飼う事でそこらの情緒が培われたのかもしれない。
「多頭飼い…」
更なる高みを目指そうとする雷夢様に思わず失笑してしまった。