禁断箱から出てきた男の手によって、100余名の警備員と雷夢、黒子達が地に伏せた。しかし、その代わりに男の異能をほとんど使い切らせる。そんな折、ただ一人、狼牙だけが男の前に転移してきた。
数度の攻防で、お互いの技量の高さはお互いに知る所に。狼牙は男を怯ませてからでないと正拳を当てられないと悟り、右腕に“一具弓掛(いちぐゆがけ)”を溜め始めた。
狼牙は右腕に“
一方で男も考える。高硬度の硬化能力、あれを突き破るには点の攻撃、一本拳しか無い、と。握った拳の中指を浮かせた。
仕掛けたのは狼牙。5mの距離を二歩で詰める。しかし、男は今までの攻防と変わらない狼牙の前のめりの構えを見て、至近距離での戦闘に持ち込みたいと看破。
一本拳に構える右腕はそのままに、左腕を前に伸ばして狼牙を近づけさせない。無理に近付こうとすれば、髪の毛を掴まえられ、一本拳が飛んでくることは明らかだ。
狼牙と男の身長差は20cm。リーチ差にして約10cm。たったそれだけの差を狼牙は攻略しかねていた。
男が前に突き出している左腕を無暗に払おうとすれば、逆に腕を捕まえられ、そのまま展開を握られかねない。狼牙は左腕を突き出し、左腕同士での
手を伸ばす、引く、指だけを動かしてフェイント、足さばきで距離を詰める、空ける。
傍から見れば、じゃれ合いにも見えるやり取り。しかし、その
長い間膠着状態が続くと、余計な考えがよぎるもの。元々臆病な狼牙は、“このまま時間稼ぎをすれば、援軍が来るまで持ちこたえられるのでは”、そう考えてしまう。
真剣勝負の最中には余りに不純な邪推。結果、狼牙は左手の甲を男に掴まれていた。
腕を引っ張られ、体勢を崩しながらも
狼牙の横面を一本拳が叩く。
三半規管に近い急所を突かれ、一時的な
丁度、蹴りの間合いまで離れた二人の距離。男は容赦なく上段前蹴りを放ってくる。不調に見舞われる狼牙は、
そうして仕切り直しの距離に。男は変わらず左手を前に出し続けている。一方で狼牙は体を沈め、四つん這いに構えた。
安全を追ってどのように死闘を制そうと言うのか。
狙いはあからさま。男は避けやすいよう半身に構えた。
2人は僅かな間、動かない。
「にゃあ」
雷夢の猫の声がキッカケ。瞬く間に事は終わっていた。
男の遥か後方で狼牙が転がりこけている。
――避けられた、通用しない。技だけでなく
ジワリと冷や汗がにじみ出る。まだ自分の技を全て試したわけでも無いが、漫然と何をしても通用しないイメージだけが頭に浮かぶ。
狼牙は体勢を立て直すが、構えが定まっていない。今までに模倣してきたどんな構え、技を使えば良いのか分からない。
狼牙が最悪の想像に到達するのは遅くなかった。汗の代わりに涙が滲み初める。そんな折だった。
「にゃあ」
また猫の泣き声。いつの間にか狼牙の近くに雷夢の飼っている猫がいる。
「……獣、か」
狼牙の構えが定まる。
腰を落とし、右腕を上に、左腕を下に。腕でトラの口、指でトラの牙を模した
狼牙の構えが変わる。
「どうして今まで思いつかなかったんだ」
だが、狼牙は
狼牙の構えが決定する。先ほどと同じく四つん這い。その姿は、隣に居る猫とそっくり。
同じ猫科でも虎ではなく、猫を選んだ。その理由は、狼牙が猫カフェに行った時に感じた猫の動きの読めなさ。
今、狼牙は右腕に
そのために、気分屋で予測不能なイエネコの動きを模倣しようと決意した。その構えに名付けるなら
「……狼牙なのに猫か」
冗談を呟いたのは、構えが決まったことによる僅かな心の余裕の現れか。とはいえ“自分の技が通用しないのなら、いっそ新しい型を“、という考えは危険だ。いくら模倣が得意とはいえ、ぶっつけ本番の技が通用するのか。
一方で、男は狼牙の構えを見て困惑していた。戦闘経験豊富な彼とはいえ、流石に四足歩行と手合わせした経験は無い。ひとまず対応力の高いオーソドックスな構えで待ち受ける。
狼牙はゆっくりと距離を詰める。まるで手のひらに肉球がついているかのように音がしない。
視線は外しているが、狼牙の注意は確実に男に向いている。どれほど小さな音、空気の乱れすら見逃さないだろう。わざと隙を見せて仕掛けさせようというのか。
男が逡巡する間にも、距離は縮まる。残り5m。
そこで狼牙は再び男の方を向く。その顔にはびっしりと汗。命懸けのよそ見。精神を大きくすり減らした代価として、男に迷いを植え付けた。
不意に狼牙が寝転がる。文字通り、地面に寝転がった。相手に無防備な腹を見せて。
明らかな隙だが、男は動かない。いや、“何かあるのでは“と動けない。彼我の距離は3m。1歩踏み込めば届く間合い。
男は混乱を消すために決断する。次に隙があれば必ず行く、と。
狼牙は死の
狼牙が再び寝返りを打つ。仰向けから四つん這いに戻ろうとした瞬間、男は踏み込んだ。狼牙は男の動きを察知する前に決め打ち。地面に手を突き、足払い。
男の踏み足に直撃。しかし踏み込みの足。体重と勢いが乗った重い足。
その足が崩れた。
狼牙の
男は膝を付き、狼牙は足払いから流れるように膝立ちへと移行。そして右手の
もちろん男は腕で防御。しかし、防御の上からでも男は一瞬気を失う。それだけの威力が
そうしてできた隙。狼牙が男の胸に正拳突きを叩きこむには十分な時間だ。
男の体は数十メートル向こうへ吹き飛んでいた。
狼牙は確実な手ごたえの余韻に浸りながら、大きく息を吐いた。決着。
いや、彼の持つ知識の限りではまだ決着は先のはず。男は不死の
とはいえ、事実として男に
はずだった。
「……正直、負けたと思ったんだけどね」
男はゆっくりと体を起こす。その姿を見て、狼牙は激しく動揺する。
「本当は生き返るだけの
男自身も驚いている。彼にとっても予想外の事態。
「君の攻撃で僕は死んだ。ほぼ即死だったよ。肋骨が折れて、心臓に突き刺さった。
……とはいえ、心臓の隣にある異臓にも刺さったんだ」
男は自分の胸を指差す。
「そこから
未来にならこの病気の治療法も確立されてるかと思って、あのでっかい箱に仮死状態で引きこもったんだけど、封印されちゃってね……あぁ、今この話はどうでも良いか」
淡々と語る男とは対照的に、狼牙の目には涙が浮かんでいる。
「とにかく、骨が折れて
蘇生時に傷は全部治るから
男は狼牙の弱弱しい所作から判断する。彼の見立て通り、狼牙の残り
元々、彼の
「勝ったと思っていた所悪いけど、もう1ラウンド付き合ってもらうよ。
ここで僕が勝った方が君の絶望も大きくなりそうだし、張り切ろうか」
男が再び構える。
一方で狼牙は自分の腹に手を置き、服ごと握りしめる。その表情はまさに苦渋。しかし、すぐに腹を
シャツの下には腹巻。腹巻の下には大型の針が収納されている。
それを引き抜き、間髪入れず自分の胸に突き立てる。黒子の
針は狼牙の体に深々と突き刺さり、肋骨をすり抜け、適切な角度で異臓に刺さる。異臓厚壁症の狼牙だ、針を抜けば今までに蓄えられていた
はずだった。
現実には狼牙の手に針は無く、力強く胸を叩いただけ。
「な、んで……」
「本当、運が良いな今日は。それに勘も働く」
「君が持っていた針。多分そっちで寝ている女の子の
男が無表情で、しかし調子の良い口調で語り続ける。
「だから、さっき女の子から奪った
男は黒子から奪った
狼牙は男が何をするのかを察し、急いで距離を詰める。しかし、遅かった。
男はさっきの狼牙と同様に、自分の胸に針を突き立てた。異臓に穴が開く。針を抜けば、血と一緒に
高濃度に圧縮された
「これで僕の圧倒的有利」
針を抜いた傍から、男の怪我は
男は全盛の勢いを取り戻し、蹴り飛ばした狼牙に一瞬で肉薄する。
男は自分の元まで狼牙を引き寄せ、まじまじと表情を観察する。絶望的な状況に追い込まれた彼の表情を見て、男は思わず口角を引き上げる。
「こういうのを楽しみたかったのに。今日は随分と遠回りしたな」
体を引き寄せられ、手を伸ばせば相手の体に届く距離。狼牙は男の目に指を入れる。
「いっ…たた。目は困るな、君を見れなくなる」
男は
「ぐ…ッ!」
そして、空中のナイフを掴み、狼牙の両腕に突き刺した。
「な“ッ! んで……?」
腱を切断され、だらりと垂れ下がる両腕。一方で男の目は再生し終わっている。
「異臓を打った。ショックで異臓がびっくりして、少しの
一時的に
「ぁ“……っ”……!」
体に酸素が供給されず、消費するばかり。分かりやすく死が近付いている感覚に、狼牙の気が
紫に染まる顔色、瞳から流れる大粒の涙、眉間に寄った苦悶の皺を男が楽しみながら呟く。
「こういうのは終わり際が大切なんだ。だらだらと引き伸ばしても反応が単調になる。
……それに、君みたいな目をした奴はトドメを刺さないと面倒な事になるんだよね。昔にもいたよ、死に近付くほど潜在能力を発揮する人種は」
男が右腕を振りかぶるのと、狼牙の首を掴んでいる男の手が滑るのは同時。
僅かな時間、自由になる狼牙の体。それは男の右腕に破壊されて終わった。
男は滑った手を見る。
「……油? いや、涙か。
すごいな、涙をこんなに滑りやすく。体を硬化させたり、力の流れを変えたり、あれもこれも
呟きながら、男は倒れた狼牙の方へ歩み寄る。すでに瞳孔は開き切っており、対光反射が無い。
「折れた骨が心臓に刺さったかな。意図せずしてお返しになったわけだ。本当は腹を打つつもりだったけど、滑って体が落下したせいで打点が上にズレた。
彼も僕と同じ病気だったみたいだし、異臓に刺されば第3ラウンドもあり得たのかな。……まぁ、生き返れればの話だけど」
男は立ち上がり、大きく伸びをする。
「さ、お風呂を探そうっと」
汚れた体に