落ちた。
また落ちた。
二度目の挑戦は成功ならず。
今年は倍率が下がったから、今度こそは、と思ったのに。
蓋を開けてみればこの通り。
結局5倍も8倍も変わらなかった。
受からなきゃ意味ない。
新卒の頃から挑戦して、これで二度目。
初回が駄目だったもんだから、何度か挑戦するもんだろうと思っていたが、多少は進歩があっても良いんじゃないか?なんて思う。
結構な努力をしているから、少しは見返りがあっても良いじゃないか!
……確かに、今の職場は魅力的だけれど。
知り合いはみんな偏差値の高い、格のある学校だから良いじゃないかなんて言うけれど。
何故ここに受かって県の採用試験に合格しないのか不思議で不思議で仕方がないけれど。
ここは俺のホームじゃない。
ここは俺の地元じゃない。
俺の母校じゃないんだ。
だからここで満足してはいけないんだ。
母校で教鞭をとるって決めてるんだ。
ここで終わっちゃいけないんだ。
だからまた来年のために研鑽を積む。
来年は結果に結びつくと信じて努力する。
来年こそは、と意気込んで前を向く。
振り返っても仕方ない。
仕方ないんだ。
……仕方ないのだが。
「先輩、飲まないんスか?」
「……あぁ。手が止まってたか」
後輩にぼーっとしてたのを咎められた。
『本日の主役』なんて大仰な襷を付けてるもんだから目立つのも当然か。
仕方ないだろう。
まだ自分で飲み込めてないんだ。
一年で一番の一大イベントが終わったんだ。
そりゃあ喪失感とかで胸が一杯だろうが。
「何飲みます?またラムネサワーッスか?」
「またそれで頼む。みんなの注文が揃ってからで良いから」
「りょーかいでーす」
すたすたと別のグループの方へと駆けていった。
足取りも軽やか。
きっと毎日満たされた日々を過ごしてるんだろうなぁ。
あいつ、ここが志望校だったらしいし。
にしてもまぁ、体裁は取り繕ってるもんだが、結局は職場のみんなで集まって飲む口実が欲しいだけだろうが!
この襷なんて使いまわしだし。
結婚記念で飲みに行ったときもこれだったし。
見ろ、周りの同僚達を!
俺を気遣う心なんて欠片も無い!
みんな俺を、わざわざ収入もステータスも無い田舎に行きたがる変人だって思ってやがるし。
リスペクトのリの字も無ぇ。
「お前も災難だよなぁ」
「……余計なお世話だよ」
同期の鍋島がやってきた。
……完全に出来上がってやがる。
真っ赤になるよなぁ、コイツ。
酒にそんなに強く無いのに、飲み会が好きなのか参加しては潰れてる。
無防備なのは良いけどよぉ、女としてはどうなの?
でも、自力で帰るくらいは出来るのが憎いところだ。
「そんなに地元に帰りたい?」
「だから毎年受けてんだよこっちは……」
「地方の奴は面倒だねぇ」
「……やりづれぇよ、お前ホントに」
こいつは大学がウチの系列校で、そのまま採用されて付属高校に教員として在籍している。
なりたくてなったし、地元もこっちだし、非の打ち所がないタイプの人生を歩んでやがる。
この学校に先生として赴任するのが夢だったらしいし。
ホントに憎たらしい奴だ。
「あっちの私立は受けねぇの?」
「……うちの地元に私立高校は無ぇんだよ。何回言わすんだよホントに……」
「そうだっけ?」
「覚えとけよホントによぉ……」
ごめんねぇ、なんて言って去っていった。
酔いが回ると記憶もなくなるんだよコイツ……
「ホント、やりづらい……」
ストレス反応で髪の毛を掻きむしる。
「……はぁ……」
頭は冴えたかな。
周りを見ると学年毎でグループを作って飲んでいる。
参加しておかないと、だな。
俺をほっぽりだしてんのはどうかと思うがね!
「主任ー!俺を置いとかないでくださいよねー!」
「やっと意識が戻ったか!来い来い!」
「全くもう……」
受け持つ1学年担当は宴席の中央で恐ろしい量のグラスを積み上げている。
ホントもう好き勝手やりやがって……
ホントに新入生の教育を担当してる面々なのか?
「皆さんで奢ってもらえるんですもんね!好き勝手やらせて貰いますよ!」
「望むところだよ!引き払うまでにどんだけ食えるかね!」
「言いましたね……!とりあえず焼き鳥を全部一本ずつ!……他にも変わり種の串がある?それも全部一本ずつ!ラムネサワーは注文しました?」
「……ホント、いい性格してるよ、お前」
「良いでしょ!こちとら夢は来年にお預けなんですもん!やけ食いのひとつやふたつ!良いでしょ!」
「……まぁ、お前が良いならそれで良いんだけど……」
「お〜い!注文!ウチの『本日の主役』サマがご注文ですって!」
「今度はどんだけ食うのかね」
「明日に響かない程度にして下さいね」
偶にはこれくらいガヤガヤしなきゃね。
明日から頑張らなきゃだし。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
またやった。
「うげぇ……」
食べ過ぎたし、飲み過ぎた。
結局店が潰れる寸前まで食べては飲んで、二軒目には行けずに家に帰って、夜明けまで吐いては寝て。
意識が朦朧とはしているが仕事に穴を開けてはいけないと、全精力を尽くして学校までやってきたのがついさっきの事。
とにかく、やり過ぎた。
加減を忘れてしまうのがやけ食いの悪いところだ。
毎年のように同じことやってる気がするのだが。
毎度大事なときに忘れてるもんだから、随分と都合のいい脳みそでございますこと。
「……」
「やっぱりそうなると思ってたよ!」
鍋島がやってきた。
にこにこしている。
とにかく上機嫌そうだ。
いっそ気味が悪い位に。
「……鍋島ァ……分かってんなら止めてくれよ……」
「……なんでさ?面白くなるのに」
「はぁ?……うぷっ……」
コイツ、ホントにいい性格してるよ……
……まぁ、最初から期待してなかったけどね!
頼みの綱になんてなりやしない。
全く、困った奴だ。
……コイツに責任の一端を担わせようとしてるのが、俺のヤバいところだ。
ホント、いい性格してるよ、俺も。
「ははっ!頑張り給えよ、和田クン!」
「……あいよ。……うぐっ……」
「当分、トイレとお友達かな?」
「……だろうなぁ……うえっ……」
うるさいのが去っていった。
あぁ、気が紛れていたのだが。
気持ちの悪さが戻って来た。
口の中が酸っぱい。
血の気が一気に引いてきた。
やばい……またトイレに行かないと……
「和田?……また羽目外したのか!」
学年主任の横溝さんに、副主任の田子さん達に見つかった。
みんな険しい顔でこちらを見ている。
見に覚えがあり過ぎる。
最悪のタイミングで落ち合ってしまった……
「……お恥ずかしながら……うげっ……」
「……全く、何時になったら学ぶんだか……」
「和田君、しっかりしないと!学年で一番評価の高い先生なんだから。見込まれて1学年を任されたのに、これじゃあ示しがつかないだろう!」
「……止めなかったのは主任達じゃありませんか……」
「……まぁ、確かに」
「……それはそうだけど……止められなかったというか……」
諫めるのか慰めるのかはっきりして欲しいんだが。
こっちはいつ決壊してもおかしくないってのによぉ!
「まぁ、とにかく。体調を崩すようなことはあまりしないように。君は優秀なんだから、周りに流されちゃいかんよ。欠勤なんてされたら、父兄の方になんと申し開きをすればいいか!」
「そうだぞ。上層部は君に大いに期待している。それに恥じない活躍をするように。……お酒は程々にな」
「……了解しました……失礼します……」
職員室を後にする。
ひとまずトイレに行って落ち着こう。
何事もそれからだ。
ありがたいことに過去の俺が今日の授業の流れを纏めてくれているから、あまり気圧される必要はない。
体調が落ち着けば、何と言うこともない。
とにかく、トイレへ……
「先生?どうされました?」
「……」
まずい。
限界が近いのに。
顔色もヤバくて明らか人に会えたもんじゃないし。
今人に、特にも生徒に会うわけにはいかないし、会ったらスルーしていきたいのだが……
「ご機嫌よう、内宮さん」
「えぇ、ご機嫌よう、和田先生」
理事長の娘となると話は別ですよねぇ……
結構教室からは外れた方なんだけどなぁ……
ホントにタイミングが悪いったらありゃしない……
「どうされたのですか?妙に顔色が悪いように思われますが……」
「……お気になさらず、内宮さん。授業までには間に合わせますので……ここでは見逃して頂けると……」
「……そうですか。……私には言えない事ですか?」
この子、圧が強いのが特徴だ。
我を通してくるもんだから、色んな意味で扱いに困る。
変に神経を逆撫でたりでもすれば、それこそ首が飛ぶのが恐ろしいところだ。
事実を述べる他無いのかなぁ。
「……いえ、ただ昨日食べ過ぎてと言うか……飲み過ぎたと言うか……」
「……そうですか」
納得して頂けたかな?
――いや、全然そんなことなさそうだ!
「先生」
「はい?」
「勿体ぶるような話ですか?」
「……まぁ」
「私にしても問題のない話でしたよね?」
「……そうですね」
目が怖いんだ。
顔は取り繕われて慈愛に満ちた笑みなんて浮かべてるが、目が笑ってない。
瞳孔が開いていらっしゃる。
そんな目で見られても困るのだが……
「毎度のことですが、先生は私に対しての接し方に問題があります」
「……そうですか?」
「大いに問題があります」
「……はぁ」
「もっと砕けた接し方をされても良いのではありませんか?もっと親しくしても宜しいのではありませんか?」
「……えぇと……つまりは――」
「私にもっと自分を曝け出しても良いのではありませんか?」
「……」
毎度言われる決まり文句だ。
俺に取り入ろうとしてるのか何なのか分からんのだが親しくしたがる。
矢鱈と押しが強いのが困りどころだ。
流石に駄目なんじゃないかなぁ。
理事長の娘ですよね?
「それは、その」
「はい?」
「先生と生徒の関係ですから、駄目ではないでしょうか?」
「……」
「思考が飛躍してますよ、内宮さん。それは先生生徒の関係を越えたものです。それは宜しくない」
「……」
「これで失礼します。……頭をひとまず落ち着かせたほうが良いでしょう」
流石にそれは、許されないだろうよ。
距離感バグっちゃったら終わりでしょうよ。
「分かりました。……失礼します」
危なかったー。
アレ、自分の顔の良さを知ってやがる。
そんなのちらつかせて来られても困るっての。
「良くないってそういうの……」
ホントに良くない。
追い落とされてしまうわ!
「時間的には……間に合うか」
腕時計を見れば朝会まで10分。
ギリギリのラインだが間に合うね。
呼び止められてからは生きた心地がしなかったが、話してる間に山は越したらしい。
「早めに終わってくれよ……」
この先、どうなることやら……
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
淡々と授業をこなしていく。
特に創意工夫なんてせずに、インストラクション通りに授業をする。
これでも毎度の作り込みを加味すればまだまだお釣りが来るもんだと思うんだが。
そういうことにしておいて欲しい。
俺の担当するクラスは所謂トップ層なもんだから、みんな物分りがいいもんでストレスフリーに授業を進められるのが大きい。
変な質問をされたり、授業をカットして解説を必要とされることもないんで、とにかく精神的に楽だ。
こういったクラスにいる奴は大抵が精神的にも余裕がある奴らなもんで、俺の体調不良を察して授業の内容が薄いのを許して貰えたり、労いの言葉をかけてもらえたりする。
あったけぇ。
おかげで少しずつだが肉体的にも精神的にも楽になってきた。
体力にも余裕が出来てきたし、吐き気もなくなってきた。
何より峠を越したのが嬉しい。
これであとは快方に向かう一方のはずだ。
トドメに保健室で胃薬を処方してもらおう。
飯なんて食ってる場合じゃないし、食えたもんじゃない。
この昼休憩を上手く使わないと。
さて、ここの突き当たりのはずなんだが……
「先生?」
「……奇遇ですね、内宮さん」
「はい。本当に、奇遇ですね」
またもご令嬢に出くわした。
運が悪い。
「どうかされたのですか?保健室から出てきたようですが」
「はい。貧血になってしまいまして、学友に運んで貰っていたのです。安定したので、教室に戻ろうと」
「そうですか。体調が良くなったようで良かったです」
「先生も、体調が良くなったようにお見受けしますが」
「そうですか?」
「はい。血色が戻っていますね」
「そうですか。目に見えて良くなっているなら良かったです」
……さて。
どうしましょうか、この状況。
周りにちらほら生徒が居るのですが、廊下のど真ん中を占拠してしまっています。
しかも保健室の目の前です。
邪魔で仕方がないでしょう。
ちょっと待てよ。
こいつ等、面白がって見てないか?
……ギャラリーが出来てしまったようだ。
「内宮さん。他に話すことはございますか?」
「はい。少々お時間を頂いても?」
「では、少し横にはけませんか?」
「……そうですね。はけましょうか」
ドアの近くから避けた。
生徒が保健室に入っていくのを確認した。
これで大丈夫。
現状は全然大丈夫じゃないが。
気付かれないように視界にギリ映るくらいのところで人集りが出来ている。
被害妄想ではないよな?
だよな?
……やっぱりこっち見て笑ってるからクロだ。
「先生」
「なんでしょう?」
「周りはお気になさらず。勝手にやらせておけばいいんです」
「左様ですか。」
そうは問屋が卸さないと思うがなぁ。
「さて、お話とは?」
「……今日の朝の件です」
「はぁ……今朝の話……」
またそれか。
立場が危うくなるから駄目だっての!
本当に理事長の娘か?
問題児が過ぎるぞホントに!
そういうの駄目だと思うんですけど!
「何度言っても駄目なものは駄目――」
「駄目なんですよね?」
「へ?」
「『先生と生徒の関係では』駄目なんですよね?」
「……そうですね」
「そういった関係でなければ、いいんですよね?」
「……?」
なんだそれ。
言葉遊びってか?
重箱の隅をつつかれる感じでいい気はしないんだが……
「先生」
「はい?」
「来年の辞令、楽しみにしておいて下さいね」
辞令?なんでこんな時期に?
「……嫌な予感がしますがね」
「そうですか?私は楽しみで仕方がありませんが」
「……」
ホントに嫌な予感がする。
お父様に何を言ったんだろうか?
……きっと碌でもない事になるんだろうなぁ。
職権濫用が過ぎると思うんだが。
「では、授業でお会いしましょう、先生」
「そうですか。お気をつけて、内宮さん」
「先生こそ、お気をつけて。何が起こるか分かったものじゃありませんもの」
「?」
変なこと言う子だとは前々から思っていたが、言ってることが現実味があって不気味なのは初めてだ。
何しでかすつもりなんだ?
……問題を起こすのは止めてくれよ……
「では、ごきげんよう」
「……」
行ってしまった。
「なんだあれ……」
さて、職員室に戻らなきゃ……
「あ」
保健室に行くんだった。
失敬失敬。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「では、こちらでお待ち下さい。理事長が後程お呼び致します」
「はい」
「失礼致します」
「……」
使用人の方が部屋を後にする。
部屋は途端に静まり返る。
変に静かで気味が悪い。
「はぁ……」
やりやがったあの御令嬢サマ!
理事長室に呼ばれたんだが!
ホントに洒落にならんわこれ!
授業は恙無く終わり、あっという間に放課後になった。
特にも残した仕事は無かったもんで、さっさと家に帰って静養しようとした所で、横溝主任に神妙な面持ちで呼び止められた。
「和田」
「どうしました?仕事ですか?」
「……いや、違う」
「となるとなんです?」
「……理事長がお呼びだ。」
「え?」
「お前何やった?理事長に呼ばれるなんて前代未聞だぞ」
「……特に思い当たる節は無いと言うか何と言うか……」
「……まぁ、良い。詳しくは理事長との話が終わってからにしよう。遅くならないうちに理事長室に行ってくれ。場所はわかるか?」
「分かります」
「じゃあ、宜しく。……くれぐれも粗相の無いように」
その後とぼとぼと理事長室に向かい、理事長は準備があるとのことで待合室に通されて、こうして待つことになった。
そわそわするったらない。
手持ち無沙汰なのもあるし、今からどんな話があるかも分からんので、とにかく落ち着けない。
「……」
ホントに何言われんだろう……
あの御令嬢サマ、何をふっかけた?
内容が内容なら取り返しのつかないことになるんだけど、考えていらっしゃってるかなぁ?
「……あぁクソっ!」
考えても仕方ないよな。
とにかく事情を説明……してもどうにもならんか。
誤解を解けるようになんとかしよう。
それでも駄目なら証人としてあの子に来てもらえばなんとか……ならないでしょうかね。
「和田君、入り給え」
「はいッ!」
理事長に呼ばれた。
緊張するが、気圧されても仕方がないと割り切って気丈に振る舞おう。
なんとかなるさ。
「失礼します」
見た目とは裏腹に軽いドアを開いて、中へ。
「和田、参りました」
「うむ」
「して、何用でございましょうか?」
「……長くなるからな。座り給えよ」
「失礼します」
向かいの椅子に座らされた。
仕方なし。
そんなことより。
そんなに長くなるの?
困るんだが。
何を吹き込んだんだよ本当によぉ……
「お前の様な男を、あやつは……」
「はい?」
「いいや、気にせずとも結構」
「そうですか……」
「今日呼んだのは他でもない、君のこれからについてのお話だ」
「と、言いますと?」
「君が欲しい」
「はぁ、左様でございますか」
欲しい?なんだそれ?
腕を買われてるってことで解釈していいのかな?
何か裏がありそうだが、果たしてどうだろう。
「君がこの学校に来て大体半年だね。君を採用担当がえらく買っていてね。一学年に配属したが、上々の成績を収めているね」
「そう言って頂けると嬉しいです」
「君の担当教科は数学だが、他の科目についても非常に頼りになると聞いている。おかげで一学年の学力が今までにない水準になってきていると」
「そう、ですね。一学年の生徒は皆優秀に育っています」
「それによって全国模試などでわが校の生徒が躍動し、上位を独占するに至った。間違いなく全国でトップクラスの学校へとなってきている。本当に有り難い限りだ」
「この上ないお言葉です。私と一学年教員みんなが協力して事に当たった結果です。みんなに助けられたおかげで私も上手くやっていけています」
「それはいいことを聞いた。君は良いね。性格能力共に申し分ない。外部に行ってしまうのが勿体ないくらいに、ね」
急に矛先が変わった。
話の本筋はこっちらしいな。
「君は今地元宮城県の県教員になるために勉強に励み、採用されればここを辞めて地元に帰るのだと聞いた。今年こそ結果は出なかったが、挑戦を続けるつもりであると」
「……その通りです」
「君は、我々のもとをいずれ去る事を織り込んでいるわけだな?」
「そうなりますね」
「それは学校理事としては非常にいただけないことなんだよ。私の承服致しかねる所だ」
「……」
どうしような。
思ったより評価されている。
少なくとも失うに惜しい人材だと判断されている。
嬉しいことではあるが、彼らにとってはこの能力を失うのが問題なのだろうな。
俺が地元に戻るのは快く思われていないのだ。
当たり前っちゃ当たり前だがそういう事。
彼等はそう簡単に俺を手放さない、ってことだ。
「君は、やはり地元に帰りたいかね?」
「……そうですね。母校で先生になりたいので、どうしても地元に戻りたいのがあります」
「その夢を、どうしても叶えたいかね?」
結構踏み込んでくる。
なかなか圧があるな。
……そこまでして留め置きたいかね?
「何でも犠牲にできる程ではありませんけれど、目下唯一の目標ですので、どうにも諦めるわけにはいけないというか……」
「そうかい」
「そうなります」
「ふむ……」
考え込んでいるようだ。
そこまで思い留まらせたいか?
何か裏がありそうなんだけど。
やっぱりあの子?
「……君、ウチの娘と親しい様だね」
「へ?」
「君のことがよく話題に挙がるんだよ」
「はぁ……」
「君がお気に入りの様でね、担任に出来ないか、とか家庭教師として雇えないか、なんて言われているんだよ」
「左様ですか……」
「最初は微笑ましいと思ってはいたがね。君に関して、その……なかなか圧が強くてね。元々我の強くない子だから、どうしたものかと思ってね」
「……」
「話を聞くとね、君が外に出たがってるなんて聞いたもんだから確認を取ってね。そうしたら事実と来たもんだ」
「……」
「それは困るよ、和田くん。君にはまだまだ働いて貰わないと。ウチの娘にも示しがつかないからね」
まずいぞ。
風向きが宜しくない。
「どうかね。給料を2割増しにしようか。それで思い留まってくれないかな」
「……それは」
「悪くない話ではないかね?……あぁ、報酬は出来高で増減させようか?今の君ならもしかすると年度末に給料が倍になるかもね」
給料的には問題ないのだが。
金銭的なもので楔を打たれると問題になる。
これではいけない。
このままだとまずい。
行動を制限されてしまう。
夢を見る場合ではなくなってしまう。
夢を叶えられなくなってしまう。
「それは……」
「勿論タダで条件を呑めとは言わないよ。代わりに好きにポストを選び給えよ。出来るだけ意向に添えるようにはするからさ」
「……」
「申し開きはあるかね?」
「……」
「……特に無いかな。なら今日の話はここまでだ。これからも宜しく頼んだよ、和田くん」
「……」
「娘のことを宜しく頼んだよ。……まぁ、悪いようにはしないでくれ給え」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なんとも酷い話だった。
有無を言わさずに勝手に話を進められてしまった。
これでは申し開きも何も無い。
どうすれば良かったんだ?
あれではどうすることもできなかったのだが。
何か機転が利けばなんとかなったのかも、なんて思ったがそんなことはなさそうだ。
「なんだったんだよこれ……」
独り言も漏れるといったものだ。
これが件の何が起こるか云々の結果なわけだよな。
どうなるかと思えば、将来を決められるなかなかハードな結末が待っていた。
アレが裏で手を引いてるからこうなった。
親も親だ。
あんなことでは娘が増長してしまうだろうに。
どうするつもりなんだろうか。
「……さて」
明日からのことを考えて何かやって帰ったほうが良いかなぁ?なんて思ってきたぞ。
何と言うか負い目みたいなのを感じる。
みんなとこれからどう接していけばいいんだろうか……
まぁ、とりあえずは主任にお話をしとかないといけないかな。
職員室職員室、っと。
「……」
職員室までの道のりが長く感じる。
主任になんて言えばいいのかな。
給料をエサに学校に釘付けにされたなんて口が裂けても言えないのでは?
まずいよな。
何とも説明しづらい状況だ。
「……」
「……!」
あぁ、憂鬱だ。
どうにもいい気はしない。
「……」
「……田!」
体調不良がぶり返してきそうだ。
……トイレに行っとくべきだったか?
……どうにもそんな気がしてきた。
何か嫌な予感がする。
「……」
「和田!」
なんだ?
「……?」
「和田!どうしたんだよお前!」
「……鍋島か」
鍋島だ。
どっから出てきた?
急に視界に現れたもんでびっくりする。
「理事長に呼ばれたって聞いてさ、どうしたもんかと思ったんだよ。何があった?」
「特に何も。ちょっと生活習慣を諌められただけだよ」
「ホントか?……分かるぞ。お前が嘘をつく時は目が泳ぐんだよ。……ホントは何があった?私には出来ない話なのか?」
「……お前には話せない」
「なんでだよ!あんなに相談してきた癖に、今回はだんまりかよ!」
「……今回は、お前に関係ない」
「なに言ってんのさ……!そんなこと言うお前じゃないだろ!」
「……落ち着けよ鍋島。怖いって」
壁に追いやられた。
鍋島は結構身長が高い。
大体俺と同じくらいある。
女性の中では飛び抜けて大きいので、あんまり舐められなくて良い、なんて話を聞いた。
そんなこいつに凄まれると、これが結構圧があって怖い。
目が笑ってないし。
真剣に自分の身を案じてくれているから、申し訳無い気持ちも出てくる。
そんなもんで目を見て話が出来ない。
いじけている子供みたいな態度しかできない。
こればっかりは許してほしい。
「なんでこうなったのか説明してくれよ……!」
「……」
「納得がいかないんだよ!」
「……」
「なんでお前がこうなってんのか合点がいかないんだよ!」
「……」
「だから頼むよ……」
「……」
「頼むよ……心配なんだよ……」
「……それは」
「それは無理な相談ですよね?和田先生」
「……君は」
声の主は、廊下の向こう。
多くないガヤを横目に見て、彼女はやってきた。
「……お前は」
「口が汚くなっていますよ。いつものひょうきんな先生は何処に行ったんですか?鍋島先生」
事情を知っている癖に、知らない体でやってきた。
ここまで事態を拗らせたその元凶が、やってきた。
奴・がやってきた。
「……内宮さんですか」
「はい。職員室に用事があって来てみれば先生たちが見えたものですから。お声をかけずにはいられなかったのです」
「……お前……いや、内宮の出る幕じゃないと思うけど」
「鍋島先生も関係はございませんよね?出る幕ではないのは先生の方では?」
「……」
「そこまでにしておきなさい、内宮さん。鍋島先生も落ち着いて」
「分かりました」
「……チッ」
舌打ちをしながら体勢を整える。
これで拘束から解かれた。
事態は好転してないけど。
「とにかく。私は主任にお話してきますので、ここで解散にしましょう。良いですね?」
「私はそれで構いませんが」
「……お前がそう言うなら……」
「では、解散します。それでは」
さぁ、早いとこ話をつけて帰ろう。
「和田!」
「はい?」
「……」
引き止められた。
……まだ言うことがあるのか?
「私、何時までも待ってるからな」
「……了解」
「先生?先を急ぐのでは?」
「……ではまた」
やっとのことで職員室へ向かう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その後はびっくりする程何もなかった。
主任には最近の一年生の成績について大いに褒められたと嘘でもホントでもある事だけを伝えて事なきを得た。
主任の疑念も、「感謝を伝えるために呼ばれた」と言ったら妙に納得された。
翌日は一学年の先生を集めて俺の報告した内容の共有があって、みんな心を踊らせていた。
みんな良かった良かったなんて言っていた。
……一部がボーナスの事とか昇給のこととかを口にするもんだから心臓が飛び出るかと思った。
気にし過ぎかなぁ?
そっからは普段通りの日々が過ぎた。
授業をこなして、テストの採点をして、模試の解説をして。
先生らしいことをした。
学校生活は特になんともなかった。
内宮さんが何か変に関わりを持とうとしてくることもなかったので、気が楽だった。
鍋島も調子を取り戻した様だったし、あの時のあれがホントに起こったこととも信じられないくらい普通になった。
そんなこんなでもう春休みだ。
生徒は部活くらいでしか学校に来ないし、俺は部活を担当してないから、仕事がぐっと減る。
予定ではこの時期を使って試験勉強をするはずだったのだが……
「流石にそれはできないよなぁ……」
あれから法外な額の報酬を受け取ってるもんだから、下手に動けない。
もし今回の試験も落ちようものなら、ここには居られなくなるだろうし、無職になってしまうだろう。
それは出来るだけ避けたい。
出来れば先生を続けていたい。
出来るだけ自分の好きな仕事をしていたい。
贅沢、とは言いたくないな。
仕事は、選べるものだ。
ならば、今年は見送る他無いだろう。
今年は、試験を受けるわけにはいかないのだろう。
「つったって暇なのはそうなんだよな……」
一学年でここまで暇な先生は他に居ない。
参考に他の新人先生を見ても、仕事ばっかりの人か部活に精を出してるのしか居ないもんで、全く参考にならない。
先輩で暇な方はいらっしゃるが、訳アリなのが大抵。
真の意味で暇なのは俺くらいなのだ。
「……キャリアアップでも目指すか?」
自分磨きは無駄にならないよな。
なら何かしらの資格を取ってみようか。
「でも何取りゃいいんだ?」
学校で活かせる資格なんてあるのだろうか?
そんな都合のいい資格があったらみんな取ってるのでは?
なら無しか?
「どうしたもんかなぁ……」
どうにも最近調子が狂う。
年度末にこんなに仕事がなくなるとは予想してなかった。
鍋島がそこそこ忙しそうにしてるのを見て俺もそうなると思ってたのに。
蓋を開けてみれば窓際族の俺。
「……」
どうしよう。
「和田」
「……なんでしょう主任」
主任がやってきた。
……前みたいに険しい顔をしている。
まさか。
「……理事長がお呼びの様だ。遅くならないうちに理事長室に行ってくれ」
「またですか?」
「みたいなんだよ……前はこんなに人を呼ぶような人じゃなかったんだがな……」
首を傾げる主任。
どうにも納得がいってない様だった。
「変ですね……」
「……まぁ、気にしても呼ばれてる事に変わりはない。気にせず行ってくれ」
「分かりました」
早いとこ行ったほうが良さそうだ。
さっさと席を立つ。
「和田?」
「鍋島か」
鍋島が職員室に戻ってきた。
こんもりと書類を持ってきている。
「暇なら手伝ってくれない?」
「……また理事長に呼ばれたんだよ」
「……そっか」
「遅くならなかったら手伝ってやるから」
「よろしくな」
さて。
理事長室に向かおう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「こちらになります」
「ありがとうございます」
待ってくれ。
前回はこんなにスピーディーじゃなかったぞ。
物覚えに耽る位に待ち時間があったはずだ。
「……」
なんでもう部屋に通されてるんだ?
あっという間過ぎて違和感を覚えなかったけど、やっぱりおかしいよな?
……なんか変だぞ。
理事長室に着いて、使用人の方に声をかけたら、あれよあれよとしているうちにさっさと部屋に通されてしまった。
前は「少々お待ち下さい」なんて言われて結構待たされたのに、今日は変に性急だ。
勘だと何か良からぬことが起こりそうなんだが、ここまで来たら引き下がれない。
ここはとにかく、理事長と話をしなければいけないらしい。
「和田、参りました」
「……」
……返事が無い?
「どうかされましたか?」
「……」
「理事長?」
「……」
理事長の姿が見えない。
いかにも良い椅子が背を向けているから、きっと座っているのだろうが、全く返事がないのが怖い。
何が起こってる?
「私はどうすれば良いですか?」
「……」
「……」
「……」
埒が明かないんだが。
ユーモアって言われても問題があるんだが。
「りじちょ――」
「――流石に気づきませんこと?」
……その声は。
「……お前は」
「はい。内宮でございます」
「なんで、なんでここに……」
「まさかここまで気づかれないとは思いませんでした」
なんてこった、嵌められた……!
「……おい、説明してくれ」
「面白いものでしたよ。父上の名前を出すと面白いくらいに皆信じ切ってしまう。疑念を持たれても私の名前を出せばイチコロです。簡単なものですね」
「なんのつもりだよ」
「さぁ?なんのつもりでしょうね?」
ふふっ、なんて笑ってやがる。
口角を酷く吊り上げて、その癖目は笑っていない。
更に俺が何か動く素振りを見せると、それを制するようにこちらに歩を進めてくる。
余りに不気味だ。
「……何をするつもりかだけ、一応言ってくれるか?」
「……」
「おい!待て!まだこっちに来るんじゃない!話をつけてからだ!」
こちらを制しながら、てくてくと近づいてくる。
手元を後手で隠して、それが妙に印象的だ。
やっぱり本能的に危険な気がする……
「……」
「なんとか言ったらどうなんだ!」
「……」
「なんで無言なんだよ!」
「……」
「おい!もうこれ以上は下がれない……!」
扉まで追いやられてしまった。
「……!」
「あぁ、その扉。鍵は開きません」
「糞ッ!なにがどうなってんだよ!」
力任せにドアノブを回そうとするが、どうにもならない。
暖簾に腕押し。
これこそ埒が明かない。
「そう興奮なさらないで下さいな。大丈夫です。直ぐに終わりますから」
「終わるって何がだよ!」
「簡単なことです。契約書を書くだけですから。私の用意した書類にサインして頂ければ、直ぐにでも外に出られますよ」
「……目的をまだ聞いてないぞ」
「……父上は先生を貴重な人材だから手放せないと立場を変えませんでした。私の要求を呑まなかったんです。どうしたものかと思って何度かアプローチしましたが、どうにもなりませんでした。」
「さっきから何言ってるんだ?」
「そこで対抗策を考えました。策を実行するために方々につてを頼って、色んな人に協力してもらって、家の中で賛同者を募って。どうしても成功させたかったので、抜かりなくやりました」
「おい!反応しろって!」
「そして計画を実行に移しました。株主総会で出資者の方が父を糾弾して、理事の座から引きずり下ろしたんです。なかなか食い下がってきて苦労しました」
「……は?」
計画?
紛糾?
引きずり下ろした?
さっきから何を?
「でも職務を解かれたのはその通り。一族の旗手だったのに、一夜でそれを追われる立場になった。当然我が家の格は落ちます。私も多少不便になるでしょうが、そこは問題ありません」
「……」
「新しい理事長には私の息のかかった人物を据えます。これで何をするにも私の好きに事が運べますので、思うがままです。それこそ人ひとりの自由を奪うことだって造作でもありません」
「……それはつまり」
「察しが良いですね、先生。つまるところ、先生を好きにできるようになったんですよ」
「……なんだって?」
「でもただ学校で好き勝手やるのもどうかと思いましたので、家で大切に扱うことにしたんです。丁度鍋島先生も先生を狙ってるようでしたから。手がつけられないようにしようと思いまして」
……状況がさっぱり飲み込めない。
口をついて出るのは現実と思いたくないことばかり。
理事長が解任?
内宮が俺を好きにできる?
家で大切に扱う?
超展開過ぎて何も言えないぞ。
「それで先生を家に連れて行こうと思うのですけど、もしものことを考えずにはいられません。誰かと内通して脱出でもされようものなら、大変なことになってしまいますから。何か縛るものが必要と思いまして。その為の契約書なんです」
「……それを俺に書けと」
「そうなりますね」
そんなこと、できる訳ないだろう!
こんな得体のしれない奴に契約書なんて書こうものなら、人生一つおかしくなってしまうわ!
「拒否する」
「……そう言うと思っていました。でも大丈夫。策は用意してありますので。今すぐでなくても良し、です」
「……何をする」
「もしここで私が悲鳴の一つでも上げようものなら、先生はどうなるでしょう」
「……」
「直ぐ様守衛が飛んできて、先生を捕縛するでしょうね」
「……」
「そのまま引きずられて学校内を歩いたあとに、職員室へつまみ出されるはずです」
「……それは、つまり」
「えぇ、想像の通りです。先生は『理事長の娘に乱暴を働いた』男になるんですよ」
「そんなこと認められてたまるか!きっとみんな俺のことを信じて――」
「くれません」
「は?」
一気に眼前に突っ込んで来た。
扉に押し付けられる。
「信じてはくれないのです。だって何度も理事長に呼ばれているんですもの。あれだけあった私との接点が急になくなったんですから。何かを勘繰らずにはいられませんよね?」
「……」
「先生に信用なんてあってないようなものです。急に現れた目の上のたんこぶを消せるチャンスですからね。先生を快く思っていないのがあることないこと言い出すでしょう。そうなるとどうなりますか?」
「……」
「先生は一躍犯罪者の仲間入りです。当然職場には戻れない。となると私を頼るほかなくなりますよ。どれだけ嫌でも、私の力なしでは生きていけなくなる」
想像したくない。
頭の隅にちらついたのを振り払う。
ちょっとでも想像しそうになったら、頭を振って思考を飛ばす。
こうでもしないと平静を保てない。
「なら契約書を書くのが合理的ではありませんか?」
「……」
「『私に絶対服従する』。これだけの条件で、一生の安寧と、もしかすれば内宮家の家督が手に入る」
「……」
「……なんて素晴らしい契約なんでしょう!これで私と先生はずっと一緒に居られるんです!これで私も我慢しないで済むようになるんです!」
「……」
「悪い虫のことなんて、外のことなんて考えないで、ゆっくり過ごせるんです!私達だけの世界で生きていけるんです!幸せにすべてを曝け出して、ありのままの自分をぶつけられるんですよ!」
「……」
「さぁ!」
腕を掴まれる。
力は然程掛かっていない。
その気になれば振り払える程度の力だ。
でも、振り払えない。
最早俺にはどうする事も出来ない。
ここまで緻密に計算された計画だ。
俺の付け入る隙がない。
強引にいこうにも、それでは解決にならない。
俺はどうすればいい?
俺はどうすれば良かった?
未然に防げなかったのか?
未然に察知出来なかったのか?
「おっと。少々興奮しすぎてしまいました。失礼しましたね」
「……」
「さぁ、先生。契約書はこちらです。ペン書きで中味を埋めて、最後に拇印をしてください。それで全部です」
「……」
「その後はもう家に向かいます。私が使っている別荘をそのまま先生と私の為に使います。あとは着いてから色々と決めましょう」
「……」
ペンを手に取る。
書類の内容なんて入ってこない。
ただ
……そこまで時間は掛らなさそうだ。
「あぁ、先生を自分のものにできるなんて、夢のようです。私に初めて対等な立場で接してくれた、勇気ある人が。私の夢を叶えてくれる力を持った、先生が。皆が惚れ込んだ学校イチの男が、私だけの人になる」
「……」
無心で中味を埋めていく。
頭なんて使わなくていい。
どうせ何か考えたって無意味だ。
なら考えるのも、考えないのも一緒。
考えないほうが楽だから、頭を空っぽにして。
とにかく手先に集中する。
「考えただけで未来のことで頭が一杯になりそうです」
……書ききった。
あとは、拇印をするだけ。
親指を朱肉に押し付けて、インキを指に浸ける。
「まず今日は何をしましょうか。部屋を一通り案内したら、ひとまずは夕食になりますよね。特別なディナーを楽しむとしましょう。それからそれから……」
……押した。
これで、書類は完成だ。
「……出来たんですか?」
キラキラした目でこちらを覗き込む。
「……書いたよ」
「そうですか。なら、こちらは頂きますね」
書類を折り畳んで、アタッシュケースらしきものに封入する。
セキュリティ対策は万全、ということなのだろう。
「なら、参りましょうか。私達の家へ」
「……」
「私達の、帰る場所へ行きましょう」
「……分かった」
「さぁ、こちらです。使用人には事情を伝えてありますから、直ぐに出発できます。一時間後には家に着いていますよ」
「……分かった」
「先生」
「……なんだ?」
こちらに意味ありげに向き直って、畏まった感じになる。
「楽しみですね」
そう言われたら。
「……そうだな」
こう言う他ないじゃないか。
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意外と家の中の生活は悪くない。
時間になれば食事は出てくるし、娯楽もほぼ制限なしに楽しめる。
外に出たくなったら敷地内を散歩できるし、外出もお嬢様同伴なら可能だ。
私室も用意して貰えたから、ひとりになりたかったら部屋に籠もったりもできる。
因みに自分の部屋から外には出られない。
窓が全部嵌め殺しになっている。
おまけに窓ガラスはとびきり強度が高いものになっていて、割ろうにもどうすることも出来ないと聞いた。
試してみようとは思わない。
もし失敗したらどうなるか分からん。
「……悪くない映画だったな」
シアタールームで映画を見ていた。
好きだった小説の映画版。
カリスマ教師が訳ありの生徒たちを更生させて、トップ大学の合格を目指す話。
結果として殆どの生徒が志望校には合格出来なかったけれど、学歴以上に大事なものを手に入れて物語は終わる。
映画版は良く出来ていた。
必要な話は残しつつ、冗長になる、または尺の都合上削らなければいけない話を減らしながらも、しっかりと見応えのある映画に仕上げている。
「時間はどうだ?」
見ると時計は五時を回っていた。
そろそろ切り上げないと。
六時には夕食になるし、そのうちアレが帰ってくる。
「今日は何かな〜」
シアタールームを片付ける。
プロジェクターとかの電源を切って、食べ散らかしたポップコーンとかを纏めてゴミ袋に詰めていく。
食べ滓とかを箒で掃かないと。
「お手伝い致しましょうか?」
「では、お願いしますね。僕は機械類をやるので、ゴミとかをお願いします」
「かしこまりました」
協力して貰えると早く進んで有り難い。
ぶっちゃけここの勝手はまだ分からんから家の人にやってもらえたほうが安心なのもある。
ゴミの始末とか区ごとに違うし。
そういうのは都会だとうるさいから。
「……」
そんなこと言ってたら急に実家が恋しくなってきた。
今はようやっと過ごしやすい気温になってるかな。
雪はそろそろ溶け切るかな。
年末年始に行ったっきりだ。
来年末は実家に帰れるのかな?
「……やけに感傷的だな、今日の俺」
朝からずっとこんな感じだ。
内宮にもちょっと心配された。
もうここに来て一ヶ月になるのに、今になってホームシックだろうか?
どうにも日常に張り合いが無いのも大きい気がする。
仕事が無くなったもんだから、特にやることもなくぼんやり日々を過ごしてるもんで、どうにもしゃきっとしない。
お嬢様の相手ってのもなかなかだけれど、日々に占める時間はそこまででもないし。
「……こんなところかな」
これで良し、と。
「終わりましたか?」
「ありがとうございます。これで大丈夫です」
「そろそろお嬢様がお帰りになられますので、玄関に待機して頂けますか?」
「了解です」
「では、残りはお任せ下さい」
宜しくお願いします、と言って外へ。
離れにある部屋なんで、屋外に出ることになる。
「涼しくなってきたな」
群青色の空を見上げる。
星は見えそうにない。
「……おっと」
正面玄関の開く音だ。
これは急がないといけないな。
「居ないと拗ねるんだもんな……」
事後処理が面倒なんで、出来るだけその場に居たいのだが……
「こりゃ間に合わんな」
まぁ、仕方ないか。
「今日はご容赦頂こう」
屋敷が見えてきた。
入り口にいつもの姿が見える。
「ありゃあお冠か?」
こうなったら仕方ない。
ご要望のひとつでも受けないと収まらないかな。
「遅いですよ!」
「……離れから結構距離があったもんで。こんなに掛かるとは思わなんだ」
「……今日は一緒に寝てもらいますからね」
「はいはい。寒くなるから中に入りましょう」
手を取ってやればこっちのものだ。
内宮は案外チョロい。
「……」
「ひとまずは夕食ですよ」
「……先生」
「なんです?」
「先生はいつまでも一緒にいてくれますよね?」
なかなか答えにくいのを投げてきたな。
「いつも言ってるだろ。さしあたり一緒に居るってさ」
「……さしあたり、ではありませんか」
「約束は難しいよ」
「でも言ってほしいんです。嘘でも良いんです」
「困ったな……」
時たまこんな感じに不安定になる。
家庭環境に何か問題があったんだろう。
誘拐するくらいだから、結構歪んでいる。
「駄目ですか?」
「……わかったよ。いつまでも一緒さ」
「……頂きました!」
「お前……!」
ボイスレコーダーだ。
証拠集めかよ!
もう俺が居るんだから要らねぇだろうに。
「ささ、冷める前にいただきましょう!こっちですよ!」
「引っ張るなって!」
調子が狂う。
どうにもやり込められない。
「いつまでも一緒ですよ!」
「……はいはい」
まぁ、悪くはないというのが本音だ。
必要とされるのも悪くはない。
今のところは、これでいい。
多少の修正を加えつつ、自分なりの幸せを模索しよう。
「……どうしました?そんなに見つめられても困ります」
……こいつの幸せも、出来るだけ尊重してやるか。
「……割と幸せなのかね」
「何か言いました?」
「気にすんな。独り言だよ」
割と未来は明るい気がする。