夜風というものは良い。
酒で火照った体に染みるそれは、何か自分にある悪い何かを運び去ってしまう様に感じる。
当てられると、心が洗われる様に感じるのだ。
夜というものは良い。
何者であっても黙る他ない暗い闇は、心を静かに落ち着かせてくれる。
都会やら、宴席の喧騒やらを呑み込んで、闇は、夜は暗くそこにある。
貴族というのは難しい。
人間関係というものが何よりも重要視されて、その相手との関係というものも重要視される。
家柄がどうだとか、どの派閥に属しているとか、今は協力関係にあるとか、今は敵対しているとか。
こういったものを理解しながら、自分に、自陣営に益のあるように立ち回るのが貴族だ。
僕はそう云うのに疎い。
人の名前を覚えるのが苦手だし、自分らにとってどんな相手かさっと分からない。
人に興味が無さ過ぎると言われた。
周りのものに興味が無いと。
自分さえ興味にありそうにないと、父に窘められた。
全くもってそのとおりだ。
僕は何にも興味がない。
いま自分が相対している誰かにも興味がないし、何かをしたいという欲求もない。
母が死んだときもなんとも思わなかったし、命に関わる怪我をしたときもそのままにして過ごそうとした。
僕はきっと何かがおかしい。
致命的に人として生きることに向いていない。
しかし、我が家に男は僕ひとりしかいない。
父は頑張って男を産ませようと頑張ったが、結局うまく行かなかった。
お陰で我が家は十二人兄妹だ。
元々あまり財政的に明るい家ではなかったので、経済的な圧迫は恐ろしい事になった。
それで困るのは当然家だ。
最初は母方の援助でなんとかなっていたが、末っ子を産んだときに母が亡くなってしまったので、経済的援助を受けることが出来なくなった。
我が家は荘園経営で収入を得ていたが、その額を増やすというのは現実的ではない。
国に領地を与えでもされなければ、荘園を増やすことが出来ないようになっているのだ。
我が家は八方塞がりになりつつあった。
それでも父はあの手この手を使って金を、コネを作ろうとした。
綱渡りの様な生活を続け、なんとか生活をしていたわけだが、我が家の状況を好転させうる転機が訪れた。
僕が成人したのである。
僕が経済力、或いは国に影響力のある家の娘と結婚できれば、我が家は安定した生活を送ることが出来る様になる。
経済的に苦境に立たされた我が家の命運は、人間的に欠落した僕にかかる事になった。
父は成人した僕の婚約者を求めて奔走している。
とにかくお金の有りそうな、我が家を救ってくれそうな相手を探している。
自分の仕事もそこそこに、嘗ては付いてこない様にと釘を指してきた僕を伴って方々に出向いては、婚約者が、そうでなくとも良い話が舞い込んで来ないかと日々社交場へと出向いている。
社交場へと僕を向かわせるに当たって、様々な手ほどきを受けた。
元々多分な期待を受けて社交辞令を学ばされていたのだが、年を経る毎にあらわになる人ならざる僕の異常性を鑑みて、逆に社交辞令を学ばせず、家に幽閉する方向で物事を進めた。
しかし、先程の通りである。
僕の代わりは現れなかったので、仕方なく貴族の世界での生き方をこの歳で学ばされているのだ。
とにかく手を焼いたと思う。
しかし僕も家のためだと言われたので、家族の為には頑張るものらしいので、頑張って色々と学んだ。
どうすれば喜ばれたり、好意的な印象を持たれるのか。
どうすれば嫌われたり、否定的な印象を持たれるのか。
自分なりに研究もした。
それが家のためだから。
社交界での立ち回りを長く教えられて、約一年。
初めての場として、建国記念の祝宴が選ばれた。
地方からなかなか出てこない貴族の方々もやってくる、きっと今年行われる中で一番の行事だ。
父はこのまたとない好機に合わせて、色々としていたらしかった。
朝食もそこそこに準備をすると、人と会ってばかり。
辺境伯やら言われていた、何時も都に居るわけでない方。
今日のためとおめかしした、華美なドレスで着飾った方々。
王族の方ともお話した。
失礼が無ければ良いのだが。
他にも様々な人々と会って、夜になっての大きなパーティーで、僕はバルコニーで夜風に当たっている。
あまり人馴れしていないので、沢山の人ばかりだと疲れる。
会場の方を見るに、父は方々の人々と会ってはゴマをすっているらしかった。
僕は家族の為になれているだろうか。
僕は、人らしくやっていけているだろうか。
皆に変な目で見られてはいないだろうか。
変な目で見られてはいる。
もう少ししたらパーティーに戻ろう。
まだ僕に会わせたい人がいるらしかったし。
「少し、宜しいですか?」
話しかけられた。
見るといかにも高そうな、美しい装飾の施されたドレスを着た女性が一人。
綺麗な人だ。
後ろには、これまた金のかかった服装の使用人が数人居る。
なかなかに位の高そうな女性だ。
家のためにうまく取り計らっておこう。
「良いですよ」
「では」
「少し、お話をしましょう」
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「貴方、見かけない顔ですね。名前は?」
「シベリウス・コルネリウス・カエルレウムと申します。今年成人致しまして、そのお目通しとして参加しております」
「そうですか」
「不思議な雰囲気が、ありますね」
「よく言われます」
当たり障りのない会話だ。
位の高い人とはあまり踏み込んだ会話はしない。
それで上手くいく。
そういうものだと教わった。
相手から踏み込んでこない限りは。
「率直に言って」
「貴方のような男が、好みなのです」
「そうですか」
「私の私室で、お話しませんか?」
踏み込んできた。
だいぶ深く、懐へと。
ええと。
この場合はどうすればいいのだろうか?
女性に言い寄られた場合は、大抵父に相談していたのだが。
今この場には、居ない。
どうしてしまおうか。
「そうですね、少々お待ち下さい」
「と、言いますと?」
「父に一言伝えておかなければなりませんので」
「席を離れる、と」
「何も言わずに姿を消してはなりませんからね」
こう言えばなんとかなるはず。
上手く父を巻き込もう。
見たところ位の高い人だろうから、見てどんな方なのか分かるだろう。
「そうですね」
「そうすればよいでしょう」
相手もにこやかに返答してくれた。
善意たっぷりの、所謂貼り付けたような笑顔でそう答える。
貴族の世界とは、そういうものだ。
さて、父には何と言ったものか。
女性に言い寄られたことなど無い。
これは千載一遇の好機なのだろうが、生憎まともな回答札を持っていないのだ。
ここはとにかく、父に指示を――
「貴方が」
「私とお話をしたいと」
「心の底からそう思っていらっしゃるなら、の話ですが」
急に、彼女の纏う雰囲気が変わる。
形容し難い、しかし敵対的ではない、不思議な雰囲気だ。
まるで
「本心で話せと?」
「はい」
「そういう意味です」
「伝わりづらかったですか?」
それは申し訳ありません、と彼女は静かに笑った。
気の所為では、無い。
僕は今、この女に試されている。
きっと何か、大事な何かを、試されている。
包み隠すことは出来ないのだろう。
「本心では」
「私室を持っているのだから位は高いのでしょうから、今すぐにでも私室へついていって、お話をして親睦を深めるのが良い」
「というのが、貴族としての僕の本心です」
「しかし家の為という殻を破るなら」
「貴族としての一個人の私としては」
「貴方に、興味がない」
「興味がない人とはあまり関わらない」
「それが普通だとおもいます」
「これが裸の本心です」
相手の反応を待つ。
彼女は全く動じず、目をつぶり、うつむき加減で僕の話を聞いていた。
後ろの従者らは眉一つ動かさなかった。
彼女は僕のことを何処で知ったのだろうか?
思い当たる節がありすぎる。
僕はパーティーにおいて浮いた存在だったからだ。
いつもの面子には居ない、謎の存在。
社交的な父が連れてきた、謎の男。
その正体は、今年成人して、急に貴族の世界にやってきた、秘蔵っ子の息子。
皆あの一族の後継者が、ということで好奇の視線を向けられたのだが、色々と突っ込みどころがあるのが問題で。
なぜ今更と聞かれると、明らかに父の目が泳ぐので、皆怪訝な表情をする。
僕も人との応対で付け焼き刃の技能で何とかしようとするのでぼろが出る。
そんなことになれば変に注目を集めるもので。
僕はあっという間にパーティーの
一部は、僕のことを避けるようになった。
一部は、僕に積極的に関わるようになった。
一部は、僕に関心を失ったようだった。
だから、話しかけられたことに驚きはすれど、変な感じはしなかった。
しかし気になるのは、彼女の腹の中。
一体何故、僕に話しかけたのか?
貴族というのは話に必ず裏がある、と聞いた。
自身にとって有益な何かを得るために、会話の形を取るのだと聞いた。
そうであるのなら。
謎の告白をしてきた彼女にも、意図というものがあるのだ。
僕にそこまで言う理由が、彼女には、ある。
「そうですか」
「私を知らない」
「私に、興味がない」
「そう言う訳ですね」
「そうなりますね」
こちらに急に近づいて来た。
一言発するごとに、こちらへ歩み寄って来る。
勢いはない、上品な佇まいのままでやってくるが、その裏には逸る気持ちが見える。
何故?
明確な拒否の回答が、これ?
人間というのは不思議な生き物だな。
「であれば尚更、私室にてお話しましょう」
「為人はなんとなく把握しました」
「貴方の拒絶を受けても、私の態度は変わりません」
「貴方と、お近づきになりたい」
「そうですか」
僕にはそんなに利用価値があるのか?
そうじゃなけりゃここまでやらない。
僕には隠された何かがあるのだろうか?
だから今の今まで家に幽閉されていたとか?
なわけ。
やはりなぜかが分からない。
もしかして僕に純粋に好意が有るとか――
「これはこれは!」
「第三王女殿下!」
「見目麗しゅうございます!」
聞こえてくるのは父の声。
目上の者のための、やや上ずった声で、父は彼女にそう言った。
第三王女。
3番目に生まれた王位継承権のある女性に与えられる位だ。
そういった尊称を受けるということは。
位の高い、高いというか、何と言うかそんな世界ではなく。
「あら」
「子爵殿」
「ご機嫌麗しゅう」
王族の、その中でも上澄み。
今相対している人物は、
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「こちらです」
「さあ」
「お入りください」
手招きされる。
使用人に開けられた扉の向こうには、薄暗い、月明かりでぼんやりと照らされた部屋がある。
第三王女殿下の私室だ。
「では」
「失礼します」
中へと入る。
父に言われたままに誘いに乗ってしまった。
高貴な、それも王族の方からの厚意を無下にするなんて、と叱責された。
とにかく言われた通りにするように、強く、それは強く言われて、使用人の方に連れられやってきた。
部屋は広い。
部屋は我が家の居間くらいはあるだろうか。
人一人に与えられるなんて考えられない位に大きい。
調度品は綺麗なものが並ぶ。
暖炉の周りは彫刻が施されているのだろうか。
成程、こういうのが高貴な方の部屋なのか。
「失礼致します」
気がつけば使用人の方々は出ていったようで、メイド長らしき者がそう言って出ていくと、部屋には僕と第3王女殿下だけになった。
ランプに明かりが灯されて、思いの外明るい。
ランプを使うとこんなに明るくなるのか。
我が家にランプはあるが、終ぞ使われているのを見たことがない。
何を見るにも珍しい。
「ふたりきりですね」
「そのようです」
「さて」
「そちらへ腰掛けて下さい」
指示された通りに席へと座る。
喫茶店とやらにあるような、二人が向かい合って座るような椅子と机がある。
美しい白色をしている。
これにも相当の値打ちがあるのだろうか。
机の上、目の前には、ティーカップとソーサー。
紅茶が準備されているらしかった。
彼女の方には、紅茶がない。
どういうことなのだろう。
おもてなしとはこういった作法なのだろうか。
彼女もゆっくりと椅子に座る。
こういった立ち居振る舞いが優雅、というのだろうか。
「さあ」
「とびきりのものを用意しました」
「まずはそれをお飲みになって、それからお話しましょう」
「わかりました」
「頂きます」
ソーサーを持って、カップを持って。
頭の中で工程を反復しながら行動する。
ゆっくりと飲み下す。
さっき準備されていたもののはずなのだが、ぬるい。
これもおもてなしの作法なのだろうか。
飲みやすくするため、みたいな。
「どうですか?」
殿下が目をぱちぱちさせて尋ねてきた。
「ええと――」
「ああ」
「本心で、どうぞ」
「ありのままの貴方に興味があるのです」
「では、思ったままに申しますと」
「美味しくありません」
「紅茶は熱いほうが良いのですね」
「初めて知りました」
素直にそう答える他ない。
思ったとおりに話す。
読心術やらを使われると困る。
しかし、王女様はこんな欠落者に何を求めているのだろうか?
愛玩動物へのそれみたいなものしか想像出来ないな。
「そうでしょうそうでしょう」
「美味しいわけがありませんもの」
「と、言いますと?」
「だって」
「入れてありますからね」
「とびきりの媚薬を、ね」
媚薬?
相手に好意を持たせるとか、性的欲求を高めるそれか?
何故?
なんと突飛な。
「どんな感じですか?」
「私を手籠めにしたくなりませんか?」
「自分の欲求が抑えられなくなりませんか?」
急に興奮したように捲し立てて王女様はそう言う。
椅子から立ち上がり、こちらに詰め寄ってきた。
目を大きく開いて、こちらの反応を見ている。
即効性のものなのか。
であればどうだろう。
性的な欲求は無い。
全くと言って、無い。
僕に、そういった欲求は無い。
最初はそういったものがあるのが人だと思っていたので、
しかし、なんとも思わなかった。
人間には、三大欲求というものがあると本で見た。
なんでも食欲、睡眠欲、性欲がその3つであり、それぞれが影響しあって、人間の欲望というものが形成されると。
欲望があり、それと上手く付き合い、己を律するのが人間のあるべき姿であると。
それが正しいなら、僕は人間ではない。
一体、僕は何なのだ?
「……」
「まあ、そうなると思っていました」
「貴方に、そのような欲求は無いと」
「つまるところ、貴方をまた試したことになりますね」
「そうですか」
興奮した様子は変わらない。
寧ろ悪化しているように見える。
頬は上気し、肩で息をしている。
明らかに何かがおかしい。
背筋がぞっとする感覚?とやらを覚える。
これが、恐怖?
「探していたのですよ」
「退屈な貴族の家への訪問のときに居た、不思議な男の子を」
「一目惚れだったのです」
「なんとかして私のものにしたかったのですよ」
王女様がこちらに更に詰め寄る。
のけぞって、椅子から転げ落ちてしまった。
足腰に力が入らない。
「だからお父様に掛け合ったのですが」
「子どもの戯言と取り合ってくれなかった」
「でも、ずっとずっと、ずーっとお願いして」
「一緒になることを」
「私のものにすることを」
「ようやく認めてくれたのです」
彼女が、机を乱雑に跳ね除けた。
壁に叩きつけられて、酷く間抜けな音がする。
「体が動かないでしょう?」
「惚れ薬と一緒に、痺れ薬を入れておいたんです」
「こっちが、本命の薬」
「こっちが、私の求めた結果を与えてくれる」
女が、こちらへにじり寄ってくる。
何もできない。
体を動かすことも。
声を上げることも。
「愉しみですね」
「貴方のために、
「貴方がどんな反応をするのか」
「気になって気になって仕方がないです」
獣が舌なめずりをした。
僕は、逃げることが出来ない。
自分の身が危ういと。
自分の身を守りたいと初めて思っている。
「さあ」
「こちらへ参りましょうね」
「私、か弱いですが」
「ここぞというときには力が出ると思うんです」
助けて。
誰でもいいから助けてほしい。
後生だ。
なんとかしてたすけて――
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第三王女婚約の報は一斉に、恐ろしい勢いで国中に広まった。
示し合わせていたように。
まるでそうなると初めからなっていたかのように。
我が一族は王族に列する存在となり、婚約の印として様々な特権や俸禄が与えられ、将来の繁栄を約束された。
これでもう、これからの心配も、さしあたりの心配もしなくて済む。
僕は今、居城として与えられた国北部の城で過ごしている。
過ごしているというより、監禁されているというのが近い。
僕の身の回りを世話する使用人は、男だけ。
それ以外の雑務をする者も、全てが男で構成されている。
城の敷地から出ることは禁じられているし、夜になれば私室から出ることも許されない。
娯楽というものもない。
これらはすべて我が妻、ソフィアたっての希望によって実現されたものだ。
ソフィアは、これから僕が死ぬまで、一切自分以外の女とは関わらせず、触れることはおろか、視界にすら入れさせないつもりらしい。
全ては僕を自分好みにするため、と言って憚らない。
そんな彼女の求めるものとして、僕への
日々僕は様々なことを強制、矯正されている。
方々から用意させた食材から作った、贅を凝らした料理を毎食のように食べさせられては、その感想を事細かに求められたり。
夜になると寝室でソフィアとふたり密着しあって、ゆっくりと互いを見つめ合って眠ることを強制されたり。
ソフィアに求められれば、彼女が満足するまで
分かるだろう。
人間の三大欲求を僕に発現させようとしているのだ。
人並みの存在へ成ることを僕に求めている。
彼女の理想の存在になるべく日々を過ごしている。
その他にも賭博や音楽鑑賞等の娯楽も日々与えられて、より人間らしい存在に、生活ができるように矯正されている。
彼女は、僕を自分好みの、自分だけの、彼女のためだけに存在するものへと僕を変えたいらしい。
「何も入っていない空っぽの器に」
「自分の好きなものを詰め込んで」
「好きに装飾ができて」
「それを自分のものにできるなんて」
「なんて素敵なことなのでしょう」
「貴方もそう思いませんか?」
あれよあれよとしているうちに変わっていく周囲に、自分に戸惑う僕に、教え込むように何度もそう言った。
貴方は生まれ変わるのだ、と。
実際に僕は変わっていっている。
情緒らしいものが生まれて、感性というものがわかるようになった。
感情が豊かになって、多少感情の乏しいと世間で言われる人くらいには喜怒哀楽が存在するようになった。
欲求というものが理解できるようになって、それが自分の中に生まれてきていることに気づいている。
そして、与えられた人らしさによって、自分という人格が変わっていっている。
人付き合いも苦にならなくなってきた。
これが本来人間の経験する情操の成長なのだなと感じた。
僕は人になる機会を彼女に与えられたのだ。
「何を考えていたのです?」
「いや」
「感謝してもしきれないなと思ってさ」
「ふふっ」
「そうですか」
城のバルコニー、海の見えるそこで、ふたり安楽椅子に座ってそんなことを述懐していた。
「何度も言うようだけどさ」
「僕はやっぱり、人になりたかったんだと思うんだ」
「それを実現させてくれている君には」
「本当に感謝してるんだ」
「ありがとう」
「いえいえ」
「私が好きでやったことですから」
「そんなに畏まって感謝されるいわれはないですよ」
何度やったか分からないやり取りだ。
それでもやはり感謝する。
そう、僕は。
人間になりたかった。
心の何処かではいつもそう考えていたのだろう。
そうして今、僕は人間に近づいていっている。
人になりつつある。
それがとても嬉しい。
なりたいようになれるのは、嬉しいことだと学んだ。
だから、嬉しい。
「私も、とても嬉しいんです」
「私の好きな人のしたいことを」
「何よりも望んだことを」
「私の手で実現させていることが」
「私の
「とても嬉しいです」
「貴方に私を刷り込めているのも」
「とても嬉しい」
さあ、今日はどんなことをするんだろうか。
ふたり薄暗い簡易牢獄で一夜を共にしたり。
ボードゲームとやらを一緒にやってみたり。
一日中ふたりで抱き合っていたり。
どれも楽しい思い出だ。
「普通とは、ずれた貴方の普通が」
「私ありきの存在となった貴方が」
「私を自然に求めるようになった貴方が」
「とてもとても愛おしい」
ずれていたって構わない。
それで幸せだから、問題ない。
ソフィアが一緒に居てくれるから、気にしない。
ソフィアが一緒に居てくれるなら、気にしない。
とき偶にソフィアはこうやって変に気にしなくてもいいことを言うことがある。
僕との生活に不満があるのだろうか。
そう思うと哀しい。
さっきまでの満ち足りた気持ちから変わって、孤独な、泣きそうな気持ちになる。
僕ではいけないのだろうか。
ソフィアの望んだ僕になりきれていない僕では、いけないのだろうか。
「あら」
「大丈夫ですよ」
「そういった意味で言ったわけではありませんからね」
優しく撫でられる。
悲しくなったときは、必ずそうしてくれる。
だから撫でられると、幸せな気持ちになる。
満ち足りた気持ちになる。
だってソフィアがそうしてくれるのだから。
「ただ」
「私の望む方向に」
「私達が幸せになれる方向に」
「物事が進んでいっているのを」
「ありがたいと」
「噛み締めているだけですからね」
そうか。
それなら良かった。
「ソフィア」
「なんですか?」
「いつまでも幸せでいようね」
「!」
「そうですね」
「いつまでも、いつまでも」
「ふたり一緒に」
「幸せであり続けましょうね」
彼女の目が輝く。
美しい。
幸せに満ちている彼女の目だ。
なら良かった。
欠落者として生きてきたこれまでも。
この人と出会うために経験しなければいけなかったのだとしたら。
大いに結構だ。
「でも」
「痛いのは嫌だよ」
「首のこれとか」
「まだ痛むんだ」
首の噛み跡。
愛する者同士はそうすると聞いたけど。
痛いのは、どうにも苦手な人間だったらしい。
嘗ては死にかけたのにもなんとも感じなかったのだけれど。
「我慢なさい」
「それが、貴方への愛の証明なのです」
「言葉では幾らでも虚飾出来ますが」
「そういった
「私は貴方の愛を感じられる」
「常日頃そう言っているではないですか」
怒らせてしまったらしい。
「今日の予定を変更します」
「私の部屋に来てください」
「あなたにしっかり、その跡の意味を」
「私の、貴方への愛を」
刻みつけて差し上げます。
さて、今日は。
どこまで意識を保てるだろうか。