人は家に何を求める?
様々な答えが想定されるが、あらゆる人間が念頭に置いているであろう、それを家に求めないものは無いであろう要素がある。
安寧、或いは安息。
静けさや、自分の心が休まるということ。
その延長線上に様々な理由が付随し、それぞれの人々の答えとなる。
家に安心感を求めない人間はいないだろう。
居たとしたらソイツは相当なトンチキだ。
かくいう私はしっかりと安心できる、心休まる場所というものを家に求めていて、最早それに取り憑かれていると言っても過言では無い。
ベッドは大きく遮音カーテン、部屋を選ぶときは角部屋にするし、職場にはなるべく近くに。
冷蔵庫には作り置きした料理をストックして不意な繁忙に備える。
私の趣味はきっとリラクゼーション。
自分の心を休めるということに凝っている。
その私が転勤で引っ越すことになった。
配属先は都会も都会、大都会。
職場周辺は大きな幹線道路が通っていて四六時中騒音を撒き散らしていて、良さげな物件は真横に線路が通っている始末。
仕方なく職場より少し遠い、自転車ならぎりぎり出勤圏内のアパートを選択した。
ここに似た条件の物件はいくらでもあったが、角部屋なのはここだけだった。
やはりベッドはどの部屋にも接していないところに置きたい。
騒音を気にせずに眠りに就きたいので、ここにした。
部屋は今住んでいるところよりやや小さく、家具の取捨選択を迫られた。
幸い使っていない家具が明白だったのでそこまで悩んだり、断腸の思いをせずに済んだ。
嘗ての家を離れて列車を乗り継ぎ3時間。
我がニューハウスに到着した。
引越し業者は予定だとあと少しで到着するはずだ。
業者が来て色々する前にやることがある。
所謂ご近所付き合いのためのご挨拶だ。
幸い二階建てのアパートの角部屋になったので、上の部屋と隣の部屋に挨拶に行けば問題ないと思う。
先ずは上の部屋からにしよう。
インターホンを鳴らす。
「はいはーい」
声は男性のものだ。
ドアが開く。
「休日でお休みのところ申し訳ありません。私本日からこちらに引っ越してきた野田と申します」
「はぁ、野田さん」
「真下の部屋に住むことになりましたので、どうぞ宜しくお願いします」
「いえいえ、こちらこそどうぞ宜しく」
「こちら、菓子折りになっております」
「ご丁寧にどうも」
部屋に戻っていくと、りんごを数個くれた。
お返しだそうだ。
つやつやしていて美味そう。
「この時期に引っ越しとは珍しいですねぇ」
「ピンチヒッターなのです。前任者が病気で職場復帰が遅れそうで……」
「そういうこともあるんですねぇ」
「なにかその、ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、ご容赦下さい」
「いえいえ、とんでもない。こんなに丁寧にご挨拶されるのなんて初めてですよ」
何か困ったことがあればご相談を、と言われて部屋に引っ込んでいった。
悪い人では無さそうだ。
部屋もあまり汚く無かった。
粗雑では無さそうだ。
階段を降りて、隣の部屋。
きっと一番お世話になるお隣さん。
インターホンを鳴らす。
どんな人なんだろうか。
強面の大男とかだったら困るんだが。
ドアが開く。
ドアチェーン越しにこちらを見られている。
「休日にすみません。私今日からここに越してきた野田と申します」
「隣の部屋になりまして、これから何かしらご迷惑をおかけすると思いますが、どうかご容赦下さい」
「……」
人が居ることは分かる。
どんな人間かは分からない。
何分部屋が暗いのと真っ昼間なのもあって明暗の差で何も見えない。
「どうか菓子折りでも受け取って頂けませんか?」
「……外に置いておいて下さい」
「わかりました」
「……宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しくお願いします」
菓子折りを置いておく。
引越し業者がやってきた。
トラックの地響きが聞こえてくる。
さて、レイアウトは考えてある。
一応寸法も測ってあるからいけるとは思うが、結構ぴっちり詰まるもんだから、技術的に行けるかは相談次第だろうか。
「どうも!XYZ引っ越しサービスです!」
「どうもどうも。今日は宜しくお願いしますね」
今日から私の、新しい日々が、始まる。
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転勤早々、なかなかに歯ごたえのある仕事だった。
今回のクライアントは、なるほど確かに私が来ないとどうにもならなかったろう。
新しくできたばかりの支社だ。
その中でベテラン枠になっていた山上が癌で入院すりゃ回る訳ゃ無い。
私が送られるのも納得だ。
若手か老いぼれしか居ないんだもの、仕事が上手くいくはずもなし。
もっとまともな人選は出来なかったのかと問い詰めたい。
割りを食ってるのは私なのだが。
しかも私転勤しても良いって伝えてたのに。
気にしてもどうにもならないか。
私としては前のとこよりも仕事量が増えるのが気がかりだ。
本社に評価されるなら良いのだが。
出来高なんだから私には割増でお願いしたい。
流石にボーナスは出るか。
さて、ぼーっとしていたらもう自宅だ。
結局電車を使ったほうが早いということで自転車を使うことにはならなさそうだ。
我が自慢のロードバイクは仕事をしない、ということでひとつ。
思うのだが、このドア、ペラッペラじゃないか?
空いたときの音がなんとも拍子抜けするのだが。
金具に油を差しておくか。
荷物を置いて、ゆっくりしようといったところで、インターホンが鳴る。
何か荷物が来たのだろうか?
注文した覚えはないぞ。
実家から何か?
今年分の米はもう届いたぞ。
「はーい」
一応ドアスコープで確認するか。
「?」
線の細い女性が立っている。
顔はやけに暗い表情だ。
綺麗な顔立ちなのに。
何か紙袋を持っている。
見たことあるぞ。
何処か忘れたが洋菓子屋の紙袋だ。
てか誰?
あぁ。
隣の人か。
ドアを開ける。
「どうしました?」
「……この前のお礼です」
ぶっきらぼうに紙袋を渡される。
なんそれ。
何故にこんな態度?
「その……これは一体どうゆう――」
「……私はこれで」
さっさと隣の部屋に入って行ってしまった。
なんだったんだ、これ?
……人付き合いが苦手なのかな。
分かるぞ。
頑張って勇気を出してくれたんだな。
部屋に戻って中身を確認する。
さて、何が入ってるんだ?
……なんだこれ。
ぬいぐるみ?
熊の?
――あぁ、やっぱりそうだ。
テディベアだ。
本物のテディベアだ。
生まれて初めて見るぞ。
この洋菓子の袋から出てくるとは思わなかったな。
すぐなくなるお菓子より嬉しいかもしれない。
テディベアだし。
可愛いし。
テーブルにでも置いておこう。
インテリアはあるが、確かに装飾は少ないな。
嬉しい誤算だ。
これで部屋に彩りがもたらされる。
今まではこういったものは買ってこなかったが、この際取り揃えるのもアリかもしれないな。
女ウケというのも考慮したほうが良さそうだし。
もう婚期は逃した気がするけどね!
……さて、今日の夕飯は週末用意した炊き込みご飯で良いだろう。
他におかずになるものってあったっけ?
漬物とか煮浸しとか煮卵とか……
思い返してみると酒のつまみばっかりだな。
酒は飲まないぞ。
キンキンに冷えてるけど誘惑には呑まれないぞ。
週末に取っておく。
もしかすると、部署で飲みに行くかもしれない。
「酒に弱いんだよなぁ、これが」
とにかく早く潰れてしまうのがつらい。
飲みに行く際は出来るだけソフトドリンクで済ませている。
飲みに来た奴らも、酔っぱらいの介抱なんてしたくないだろうし。
「まぁまぁ、気にしない気にしない」
茄子の煮浸しにしとこう。
塩分が気になるけど、今日昼ごはんを食べてないし。
これくらい許容範囲だ。
「ちゃっちゃと温めましょうねー」
電子レンジはやはり良いものを買っておいて本当に良かった!
一人暮らしだからな。
作り置きしたのを温かくできるのは良いし、調理も出来る。
その気になれば結構手の込んだ料理だっていける。
やらないけどね。
鼻歌混じりにぱっぱと作業を進める。
さて、明日はまたもや大企業の案件だ。
なんでこんなになるまで放置したかな……
まぁ、文句を言っても仕方ない。
やるだけやる。
できなかったら本部に投げる。
それが私の仕事だ。
「板挟みになっちゃうんだけどね……」
それまぁ、中間職の性というもので。
文句言ったってどうにもならん。
もう、なるようにしかならないのだ!
明日は上手くいくといいなぁ……
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まずいぞ。
結構複雑に絡み合ってやがる。
こんなの本部に投げ様が無い!
状況説明だけでお腹一杯になって解決にまで至らんだろこれ。
なんでこんなになるまで本部に指示も仰がず放置したんだよあいつ等!
結局私のところに皺が全部来たんだが。
状況把握だけで一週間かかっとるんだぞ畜生!
しかも何だあの担当の奴!
覇気が無いというかなんというか……
だから先方の再三の催促を
あっちの機嫌を取るのでもう一週間かかったわ畜生!
しかも他の業務はとにかく配分して回してるが、人手が足りない!
中間管理職の奴らは何をしとったんだ!
本部に言って追加の人員を要請してはいるが、用意するのに少し時間がかかるときたもんだ。
そりゃそうだけどさ。
こうなるのは予測出来たんじゃないか?
こっちのクライアントの機嫌取りのために此処作ったんだろうが!
碌な人員寄越さないなら今まで通り本部がやるべきだったろ!
あぁ糞ッ、ろくでもない!
……家に着いた。
全く、駅から家までが遠い遠い。
体感一時間はあるぞ。
まぁ、精神をやられてるからだけどね!
「はぁ……」
全くもう……
「これからどうしろってんだよ……!」
「……やけにお怒りですね」
「うわっ!びっくりしたぁ……」
お隣さんか。
ぬるっと出てきたな。
「おどかさないでくださいよ……」
「……そんな佇まいでこちらに来るんですから、身構えますよ」
「それはそうですね」
「……お仕事、上手く行ってないんですか?」
「ま、まぁ、そうですね」
「……貴方のせいではなさそうですね」
「……」
「……どうかなさいましたか?」
やりづらい。
こう、見透かされている気がするぞ。
私より相当年下に見えるのだが。
雰囲気は相当に大人びて、落ち着いている。
相手は多分大学生だぞ祐一。
臆することはない。
深呼吸して気丈に振る舞うのだ祐一。
「……ふぅ」
「お気になさらず。こういうこともあるのですよ」
「……そうですか」
お体には気をつけて、と言うと部屋に戻っていった。
なんとも、間が悪い……
愛しの我が家へ辿り着いた。
全く、心労が多いな。
明日からも色々と立て込むんだろうなぁ。
「?」
何か違和感があるな。
どうにも気持ちが悪いぞ。
なにかこう、いつもと違うぞ。
「なんでだ?」
気の所為か?
「気の所為じゃなさそうだけどなぁ」
疲れてんのか?
……疲れてるだろうな!
そりゃ相当、疲れてるだろうよ!
今日はやけになってファストフードだ。
駅前のハンバーガーチェーンでハンバーガーセットを購入した。
そこで食ってくりゃ良いのに持って帰ってきてるのがやばい。
私の人間としての限界を感じる。
「今日から2日でなんとかならないかなぁ……」
2日休めばなんとか……なって欲しい。
なんとかならないといよいよこの支部が終わる。
「なんで私に命運が託されるかなぁ……」
急にインターホンが鳴る。
「なんだ?」
荷物なんて頼んでないぞ?
となると、前と同じく……
「お隣さんだ……」
なにか荷物を用意してやって来ている。
顔は相変わらず暗ぁい表情だが、持ってきている物の数が結構あるぞ。
何をする気だ?
「どうなさいました?」
「……あまりにも可哀想なので、来てみました」
「はぁ。それで?」
「……まともなものを食べているように見えないので」
「……お裾分けでも、と思ったのですが」
そう言うと紙袋から色々と料理を取り出してきた。
色を見るに煮物とかだろうか。
……結構な数出てくるな!
そんなに紙袋の中に入るの?
「……食べませんか?」
「生憎出来合いのものを買ってきてしまいましてね」
「ご厚意に預かれないのは本当に申し訳ないです」
「……そうですか」
丁寧に紙袋に料理を戻していく。
申し訳ないな。
嘘でも貰っとくべきだったか?
頭が回ってないんだよ……
こんなんじゃ正常な判断がつかん。
「……では、お酒は嗜みますか?」
「いえ……あんまり得意ではなくて……」
「……そうですか」
「その……その心はなんですか?」
「……一緒に晩酌でも、と思いまして」
見ると缶チューハイも紙袋に入っている。
私と飲みたくて来たのか?
その……ただの隣人だぞ!
しかも異性だし、歳も結構離れていると思うのだが。
「良いんですか?その、私男ですし、あまりにも無用心というか……」
「……そうですよね」
「……ご迷惑をおかけしました」
一礼して、とぼとぼと帰っていく。
どうにもそれが可哀想で、それが私のせいなのが分かっていて。
罪滅ぼしになるようなことが、なにかできないか?
「あのっ!」
「……なんですか」
「今日は都合が合いませんでしたけど、いつもはこうじゃないんです!」
「いつも料理のストックを消費して生活してるんですけど、最近仕事でそれも作れなくて困ってるんです!」
「やっぱり、少しお裾分けして頂いても、良いですか?」
「!」
「……分かりました」
何個欲しいですか、と紙袋を差し出された。
結構な数入っていてどれを取ればいいかわからんぞ?
何個取っていいかも分からんし。
「何個までならいいですか?」
「……全て余りです。どれだけ取っていかれても問題ありません」
「では6つ頂きますね」
上から6個を取って、靴箱の上に暫定的に並べる。
どれも美味しそうだ。
「……また余ったら伺います。今日はこれで失礼します」
「ありがとうございます!器は洗って返しますので!」
ぬるりと部屋に戻っていった。
急に来たかと思えば、晩酌に付き合えとな。
私のことを気遣ってのことなのだろう。
有り難い。
有り難いのだが……
「ちょっと背徳的じゃないか?」
道徳的な問題とかが発生しそうなのだが。
それは困るぞ。
「ただ、本当に純粋な厚意なんだよなぁ……」
どうしたものか。
またひとつ、頭痛の種が増えてしまった。
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吐きそうだ。
すっごい気持ちが悪い。
むかむかするぞ。
あっちが引っ込めばこっちが飛び出る。
こっちを引っ込められれば、そっちが飛び出る。
そっちが引っ込めば……あとは言うまでもない。
イタチごっこ。
ホントにろくでもない。
マジでろくでもない。
本部から追加で人員が来た。
中規模クライアントまでは人員の配置でカバーできるようになったが、大手クライアントの対応が出来るのがやはり私しか居ない。
本部に掛け合ったが流石にそんな人員をポンとは出せないとのことだ。
しかし私だけで大手を8社同時に受け持つというのはどうなのだろうか?
相手方が満足のいく結果とか、プランを提示するのがコンサルタントの仕事ではあるが、こうも業種の違う大手企業を複数受け持つのは流石にきついのだが。
もうひとり、私程でなくてもいいから大手を任せられる奴が欲しい。
本部に嘆願している。
本当に来るかは分からん。
しかしそうしないと私が死んでしまう!
いつから家に帰ってないか分からない!
職場で何日夜を明かしたか覚えてない。
本部の頃じゃ考えられない。
この私が、ここまで追い詰められるとは思っても見なかった。
茨の道、貧乏くじだとは思ったけれど、ここまで酷いとは思ってなかった!
あぁ、もう辞めたい!
本部の頃は良かったなぁ。
仕事ができれば出来る程褒められて、出来高制だから多分会社で五本の指に入るくらい稼いだ。
そのくせ残業には絶対にならなかったから、プライベートと仕事、メリハリがちゃんとついていた。
でもこっちに来てからは地獄の様な日々だ。
日を経てば経つほど事態は悪化し、対症療法と本部への案件移譲を駆使して首の皮一枚繋がっているといった感じだ。
家に帰れなくなるなんて思わなかった。
酷くても多少残業するとかかなぁなんて考えてた私が馬鹿みたいだ。
……ホント、馬鹿みたいだ。
「……はぁ」
愛しの我が家だ。
この景色を見るのが一週間ぶりだ。
感慨深いな、全く。
鍵は……何処にあったっけ?
「あれ?」
いつもならここにある筈なんだけどなぁ?
変なとこに入れちまったか?
そうなりゃ一大事だぞ。
「……」
無い。
いつも入れる場所に無い。
それ以外の入れそうな場所にも無い!
これじゃあ家に入れない!
家に入れないとなりゃあ、どうすりゃ良いんだよ!
「あれ?ここにも無い……」
バッグの中身を全部とりあえずぶちまける。
このバッグにポケットって何個付いてたんだっけ?
服のポケットもまだ探してない。
見た感じ家の鍵らしきものが全く見当たらないんだが。
「……やばい」
血の気が引いてきた。
人間限界を迎えるとこうなるのか。
勉強になるな。
……出来ることなら知らないままで良かったのだが。
「無いぞ……無いぞ……」
全部確認したが無いぞ。
何がどうなってる?
会社に置いてきたってのか?
考えたくないな。
最悪だ。
もう終電も出ている。
自慢のロードバイクは事故りそうで乗りたくない。
真冬の東京。
西日本より寒い。
このままどこかしらで一夜を明かすなんて無理だ!
きっと凍えて死ぬ!
あぁ、マンガ喫茶があるか。
駅前までもう一回歩けばあった筈――
「……あの」
「?」
「……お久しぶりですね、野田さん」
「……どうも、足柄さん」
お隣の足柄さんが出てきた。
そりゃ玄関前でこんなに騒いだら出てくるか。
申し訳ないな。
「……どうしたんですか?」
「いやぁ……お恥ずかしながら、家の鍵を失くしまして」
「何処にやったかなぁなんて思ってたんですよ」
「……コートのポケットも調べましたか?」
「へ?」
「……コートの内ポケットです。調べましたか?」
「……!」
「あった……」
え?あったぞ?
言われた通り調べたら出てきたんだが。
なんで?
「……お役に立てて何よりです」
「ありがとうございますね、ホントに」
「……最近、姿を見ませんでしたけど」
「仕事で色々ありまして。今月は殆ど家に帰れませんでした。今日ようやく休める目処が立ちまして、帰ってきた次第です」
「……そうですか」
あの時お裾分けしてもらってから、まともにものを食べてない。
またの機会にも宜しく、なんて言ったのにこのザマだ。
本当に、何がどうなってるんだか。
「……丁度、夕食を作った所なんです。如何ですか?」
「……それは」
有り難い話なのだが……
部屋に上げるってことか?
私を?
「有り難い話ですけど流石にそれは……」
「……目の隈が酷いです。頬もこけて、肌に生気がありません。目の焦点も合ってない」
「……何か食べる宛はあるのですか?」
「……無いですね」
「……なら、すべきことは分かりますね?」
「でも、年端も行かない女性の部屋に、私なんかが入るのは、ちょっと……」
「……私、成人してます。大学四年生です。問題ありますか?」
「……」
「……冷める前に入って下さい」
言われるがままに、お隣へ入っていく。
部屋は、異様に暗い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「……先に中に入って行って下さい」
「えぇ、分かりました」
「えぇと、スイッチはここだったかな?」
眩しい。
高輝度のライトだ。
付け替えてあるのかな?
小綺麗な部屋だ。
女性らしい整えられ方をしている。
私の部屋も綺麗な方だが、ベクトルが違う。
鍵が閉まる音がした。
「……奥へどうぞ」
「あぁ、分かりました」
居間へ通される。
居間も小綺麗だ。
生活の導線もしっかりと確保しつつ、部屋を美しく整理している。
おや?
テーブルには向かい合うように座椅子が設置されている。
まるで、来客を想定してるような……
「……先に座ってて下さい」
「どっちじゃなきゃ駄目とか、あります?」
「……ベッド側が私の椅子です」
言われた通りに座る。
失礼だと思うのだが部屋を細かく見てみる。
私の部屋と同じ大きさなのだが、部屋の広さの体感はきっとこの部屋のほうが大きく感じる。
インテリアはパステルカラーで、必要最低限。
そのスタンスは私に似ている。
ベッドにはテディベアが鎮座している。
私に贈られたものと、全く一緒だ。
こちらは長年愛されているのか経年劣化でくたびれているが。
「……こちら、どうぞ」
「あぁ、ありがとうございます」
出てきたのは、ビーフシチュー。
私の好物だ。
相当手が込んでいそうだ。
私が作るものよりも具材の量も、質も違う。
香りから違う。
「……召し上がって下さい」
「えぇ、頂きます」
大きめのスプーンで皿の中の具材をたっぷりと掬い取る。
肉は相当に柔らかそうだ。
口いっぱいに頬張る。
旨い。
もう頭に栄養が行ってないからそれくらいしか出てこない。
とにかく旨い。
肉は口の中で解けるし、他の具材も歯に力を入れるまでもなく崩れていく。
くたくたに煮るとこうもなるのだろう。
相当に時間の掛かっていそうな料理だ。
「……どうですか」
「美味しい……美味しいです。こんなに旨いのは初めてです」
「……なら良かったです」
掻き込む様にシチューを食べる。
旨い。
旨い。
脳に栄養が、体中に栄養が行き渡っているように感じられる。
気がつくと食べ終わっていた。
「ご馳走様でした」
「……良い食べっぷりでしたよ」
「いや、どうにも行儀が悪かったように感じられます」
「申し訳ないです」
「……いえ。常識の範囲内でした」
「そうですか」
なら良かった。
引かれるかと思った。
私の皿を回収すると、今度は飲み物を持って来た。
綺麗な、青色の飲み物だ。
「……珍しい飲み物を巷で見つけたんです」
「……美味しかったので是非」
「良いんですか?そんなの貰って」
「……良いんです」
頂きます、と言って飲み込む。
確かに、味は良い。
味は良いのだが、これ、普通のサイダーと何が違うんだ?
市販のサイダーと味の違いが分からんぞ。
「……どうしました?」
「これ、あんまり変な味がしないというか、どうにも不思議な味がするわけでも無いというか」
「……それで良いんです」
「……はぁ、そうなんですか」
「……そのうち効いてきますから」
「効いてくる?」
「……えぇ。効いてきますよ」
「何を言って――」
カラン、と音がしてグラスが床に落ちた。
青い飛沫がカーペットに吸い込まれていく。
力が抜ける。
座椅子にもたれかかる形になった。
「へ?いったいなにがどうなって――」
「……デートレイプドラッグって知ってますか?」
「……いえ」
「……相手を意のままにするための布石。自由意志を奪うクスリ」
「……その代名詞が、青いカクテルなんです」
「……睡眠薬をこれでもかと溶かしたものです」
「睡眠薬……」
「……効いてきましたね」
力が入らない。
意識も朦朧としてきた。
なんだこれ。
なんでそんなものが出てくるんだ?
デートレイプドラッグ?
何を言ってる?
「……さぁ、ベッドにどうぞ」
「……はい?」
「……もう私の力でもどうにだってできます」
抱え上げられてしまった。
抵抗することすらできない。
意識を保つだけで精一杯だ。
「……ゆっくりお休みください」
「……いい夢が見られますように」
「なにを……なにをした……」
「……明日、もしくは明後日お教えしますから、お気になさらず。ゆっくりとお休みになって下さい」
あぁ、抗えない。
こんなにも強い眠気が襲ってくるのか!
睡眠薬、末恐ろしい。
しかし今一番恐ろしいのは、目の前のこの女。
レイプなんて単語の出てくる用法で私をどうするつもりなのだろう?
全く意味が分からない……
「あぁ……」
「……ゆっくり休んでください。全てはそこからです」
意識が、急速に奪われる……
……
…………
………………
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真っ暗だ。
何も見えない。
どこまでも歩いているが、果てもない。
きっとこれは夢なのだが、果たしてこれを夢と呼んで良いのだろうか?
暗闇を彷徨うだけの夢。
視界を奪われ、何も聞こえず、触れる感触もなければ、何か臭う訳でもない。
実に、実に気味の悪い夢だ
「どこまで行けば良いんだよ!」
どこかしらで響くこともなく、闇に吸収されていく叫び声。
何をすることもできない。
出来るのは、覚醒を待つこと。
私が現実世界で目覚めるのを待つこと。
あとどれだけかかる?
あとどれだけ歩けば良いのだろうか?
疑問は尽きないが、それがこの夢なのだから、仕方ない。
あぁ、面倒だ。
「うわっ!」
足場がない!
しまった、
どこまでも落ちていく。
崖から身を投げるとこうなるんだろうな。
自由落下だ。
成る程。
覚醒の合図だな。
底にたどり着いたら、きっと目覚められる。
そう思うと急に楽になって、からだを空気抵抗に預けるようになった。
――底が近い。
来た。
底面に叩きつけられるその瞬間!
「……!」
目が覚めた。
どうやらベッドで寝ていたらしい。
……やけにファンシーな布団だな。
こんなカバー買った記憶ないぞ。
部屋も私のじゃない。
こんなにも女子っぽい部屋になるわけ……
女子っぽい部屋……
そうだった!
あいつは今どこに居る!
「……急がなくとも結構ですよ」
「……お前……!」
「……敵意を向けられても仕方ありません」
「……覚悟の上です」
「覚悟?」
何言ってやがる?
覚悟?
何をする覚悟だ?
「……ぐっすりでしたね」
「……みたいだな」
「……今は日曜日の午前11時位です」
「……遅めの朝食をご用意しましょうか?」
「……」
どう答えるのが正解だ?
こいつは何をしでかすか分かったもんじゃない。
刺激しちゃいけない気がする。
「……お願いするよ」
「……では少々お待ち下さい」
そう言うとキッチンの方へと消えていった。
いつもと違って、明るい表情だった。
今まで見たことない顔をしていた。
そう、にこにこしていた。
はにかんで、にこにこしていた。
キッチンからは何かを焼く音がする。
匂いを嗅ぐに肉だろうか。
朝食といえばベーコンだな。
今、逃げようと思えば逃げることは出来る。
荷物は手の届く範囲にあるし、特に拘束されたりはしていないからだ。
安全な場所へ逃げ込むことは、充分に可能と言える。
でも、そうはしたくない自分がいる。
あれだけ優しかった足柄さんが何故こんなことをするのか?
それがどうにも分からない。
それがどうにも腑に落ちない。
理由が気になる。
それを、警察とかを通して聞くのではなく、自分の手で聞き出したい。
何故、そんな手段を取ったのか、聞き出さずにはいられない。
何故こんな気持ちになるのかは分からない。
わからないが、情動のまま突き進むことにする。
その為だったら何が入っているか分からん朝食だって食べてみせる。
「……出来ました」
「おぉ……」
クロックムッシュが出てきた。
喫茶店以外で見たことないぞ、これ。
自宅でも作れるものなんだな。
「よくこんなの作れますね」
「……料理が趣味なんです」
「そうなんですね」
「では、頂きます」
ナイフとフォークでトーストを食べるというのは少し珍しいので、知らないやつは戸惑うだろう。
私はどのタイミングで卵を崩すか考えている。
端から切り取って、口に運び込む。
「……美味しい」
よく出来ている。
私の行きつけの店と遜色ない美味しさだ。
これだけよく出来てれば店が出せるぞ。
「こういった料理はよく作るんですか?」
「……得意分野は和食です。洋食はあまり得意ではない」
「その割にはとても良く出来てますよ」
「……勉強しましたから」
「勉強、ですか」
「……そうです」
勉強した甲斐がありました、と彼女は笑う。
どうにも変だな。
いつもと態度がまるで違う。
なんというかその、距離感の近い相手とのそれだ。
隣人関係ごときでこうはならない。
何か意図があるはずなんだ。
凶行に及んだ理由が、何処かにある筈。
それが簡単に分かったら苦労しないんだが。
「……ご馳走様でした」
「……お粗末様でした」
「……単刀直入に言いますね」
「……良いですよ」
「何でこんなことしたんです?」
「……好きだから、です」
「はい?」
「……野田さんのことが、好きだから、です」
「はぁ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「そう言われましても……」
好き?私のことが?
なんということでしょうこのタイミングで出会いがあるとは!
んなこと言ってる場合じゃない!
「だからってこんなこと……駄目じゃないですか!」
「能天気に着いていった私にも責任はありますけど!」
彼女はうつむいたままだ。
「……私、最初は何もするつもりもありませんでした」
「……お返しにお揃いのぬいぐるみをあげるくらいで満足する筈でした」
「……でも、みるみるうちに野田さんはやつれていって……」
「……心配になってきたんです」
確かに、仕事のあれこれで余裕はなくなってたな。
それはそうだ。
間違いなく私はやつれていっていた。
「……だから最初は、料理をお裾分けして、それで元気になってもらおうって」
「……私が微力でも力になれればって」
「……でも」
「でも?」
「……下心が無かったと言えば、嘘になります」
「その心は?」
「……テディベアには、仕掛けを施してあったんです」
「……所謂盗聴器を中に仕込んでいました」
「……」
まさか……
「……定期的に部屋に入って盗聴器の電池を替えて、野田さんの体調とか、健康を推し量っていました」
「……野田さんは、お酒が苦手だと聞きました」
「……お酒を飲むと、酔ってなにがなんだか分からなくなると」
「……そうなってくれれば、緊張もほぐれるかなって」
「……ストレス解消になるかな、って思ってお酒を忍ばせていたんです」
「そんな……」
部屋は検められていた。
だから違和感を覚えたのか!
だからあのとき、変だなぁと。
あの感覚は、間違いではなかったのか!
「……でも、無理強いするつもりはなかったので、断られたから素直に帰ることにしました」
「……料理では、お役にたてないと思ったんです」
「……でも、最終的には料理を受け取ってくれましたね」
「……嬉しかったです」
「……私の作ったものが、野田さんの血肉になるんですから」
その表現はいただけないのだが。
でも実際、助かったのは事実だ。
作り置きを用意する余裕すら失った私には渡りに船だった。
結局、あまり恩恵には預かれなかったが。
「……最初の分は受け取ってもらえましたけど、段々と野田さんが家に帰って来る時間とか、頻度が変わっていきました」
「……そのせいでどのタイミングで伺うのが負担にならないのか、分からなくなって」
「……何もできなくなりました」
「……そうこうしているうちに野田さんは家に帰ってこなくなりました」
「……とっても心配しました。職場に居ることまでは分かりましたけど、細かいことがなんにも分からなかった」
「……2、3週間そうなって、とっても心配になって」
「……でも私に出来ることなんて待つこと位なんです」
「……迷惑だけは、かけたくない」
「それで帰ってきて、こうなったと」
「抑えが利かなくなった?」
「……GPSが家に向かってきたので、準備を始めました」
「……頃合いを見計らってお裾分けを、と思っていたのに」
「……あんなに憔悴し切った野田さんを、初めて見て、なんとかしなくちゃって、助けてあげないとって」
「……野田さんは、気丈に振る舞うんです」
「……だから今回は強引に行かないと、きっと取り返しのつかないことになると思って」
「睡眠薬を飲ませた訳だ」
「……よく眠れるように、4mg溶かしました」
「……ちゃんと効いて一日ずっと眠っていました」
「……でも今度は、もう起きないんじゃないかって思うようになって」
「……居ても立っても居られなくなって、でもどうする事も出来ないから」
「……待ち続けていました」
結構、重いな。
色々と。
こんな重力を向けられてたのか?
気付かないんだから私に婚期は来なかった訳だ。
女心がわかんないんだからな。
「事情は、分かりました」
「ただ、私にもどうしたら良いかさっぱりで」
「状況を飲み込むだけで腹いっぱいです」
「ただ、はっきり言えるのは」
「前の関係には、もう戻れませんよね」
「……その通りです」
「……堰を切ってしまった以上、責任を取ります」
「そうですか、なら――」
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なんとか仕事が回るようになってきた。
案件もだいぶ消化したし、本部からの応援が追加で来たので、私一人で太客の相手をしなくても良いようになった。
中規模から小規模な企業案件は完全に下に投げているが、管理職の奴らにだいぶ圧力をかけたもんだからなんとかしていることだろう。
それも出来ない様じゃこの会社ではやっていけない。
早急に辞めたほうが良い。
「さて……そろそろ家だ」
ちゃんと九時前には家に着けるようになった。
仕事が健全に進んでいる証拠だ。
有り難い限りだ。
「只今帰りましたー」
まぁ、決まり文句だ。
そうすると当然返事が返ってくるもんで……
「……」
「……」
「……」
「……あの……足柄さん」
「……」
「なにか言って下さい」
「……」
「今更恥ずかしがるのは無しですよ」
「……そう言われましても、慣れないんです」
「……まだまだ先は長そうですね」
「……本当に」
「……本当に良かったんですか?私を彼女にするだなんて」
「……畏れ多いというか、なんと言えばいいのか」
「何度も言ってるじゃありませんか」
「そうする他無いでしょうに」
「隣人を警察に突き出すわけにはいかないんです」
「ならあれは強引なアプローチってことにしないと」
「私としても納得がいかないんですよ」
誰も不幸にならないように事を収めるなら、どうするのか。
お互いにプラスになるとすれば、どうすれば良いのか。
あのときの私が弾き出した結論は、足柄さんを彼女にすること。
突拍子もないが、私が納得するためにはこうする他無かった。
私にも私なりに矜持というものがあるのだ。
それに則って裁定を下すなら、こうだった。
彼女にとってもマシな結果だと思ったし。
……ぶっちゃけ優良物件だったし。
「……野田さんも変人ですね」
「……そういうことにしといて下さい」
「……さて、今日はカレーにしました」
「……カレーライスにしますか?」
「今日はカレーだけにしときます」
「……分かりました」
「……いえ、やっぱりカレーライスにします」
この娘、扱いづらい。
自分の意見を曲げる。
相手のために自分を殺すきらいがある。
相手のためを思って、とは聞こえがいい。
実態は相手の事を誇大に妄想して、何があっても自分に非があるとか、責任があるとかって言って聞かない。
私が来るまではどんな生活をしていたか分からないくらい自分がない。
私の型にはまろうとする。
私に合わせるがために、自分を歪める。
なんと恐ろしい話だろうか。
「足柄さん」
「……なんでしょう」
「難しい事は承知の上で言いますよ」
「もっと自分に自身を持って下さい」
「私にアプローチしていた頃の主体性は何処に行ったんですか?」
「……それは」
「ゆっくりで良いです」
「ゆっくり改善していきましょう」
「このままじゃ私が居なくなったらどうなるか――」
「……いなくなるんですか?」
「いや、それはものの例えというか……」
「……居なくならないで下さい」
「……じゃないと私、上手く生きていけません」
「……それを改善しようって話なんですけどね」
なかなか上手くいかない。
こればっかりは彼女の性質だから仕方ないところもあるのだが。
まぁ、ゆっくりでも改善できれば良い。
帰るのがいつもよりちょっとでも遅くなるとヒステリックになるのは流石に止めて欲しいのだが。
「さぁ、用意してもらえますか?」
「……分かりました」
「配膳は私がしますので、よそっててください」
「……本当にカレーライスにするんですか?」
「その方が美味しいんでしょう?」
「……そうです」
「足柄さんもカレーライスですよね?」
「……私は、食が細いので……」
「本当は?」
「……私の分のお米はありません」
「……そりゃ駄目だわ」
なんでこの人は自分を勘定に入れないかなぁ……
「先が思いやられますよ、ホントに……」
「……なにか気に障りましたか?」
「……いえ、なにも?」
「そんなことより早く行きましょう」
「冷めてしまえば美味しくありませんからね!」
皿を持って居間へ向かう。
今日は私の部屋の日だ。
ふたりの部屋をローテーションして使っている。
時たま間違えて大変なことになるが。
「ささ、頂きましょう!」
「せっかくの週末なんですから!」
「ゆっくりできる時間が減ってしまいます」
「……そうですね」
「では」
頂きます。