シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
感想評価お気に入り誤字報告で得られる栄養素があります。
静謐に包まれるシャーレで先生は目を開けた。どうやらいつの間にか寝てしまった様で、時計の針は最後に見た時刻から15分ほど進んでいる。惰性で天井を見上げると、明るい蛍光灯の光が網膜を焼いて視界がホワイトアウト。少し顔を顰める。だが、即座にピントが合って、見慣れた天井が視界いっぱいに映る。
書類の束が何もない殺風景な机の上には冷めたブラックコーヒーが置いてあって、芳ばしい香りが意識の覚醒を促す。マグカップを持ち、冷えたソレを飲み干すと寝ぼけた頭が少しずつ冴えていく感覚。クオリアが目覚めるとも。どちらにせよ、先生という個体は覚醒した。
覚醒すると、今まで意識の外に追いやっていた事が気になってくる。例えば、付けっぱなしにしていたノートPCのバッテリー残量。僅かに皺になってしまった連邦生徒会の制服。寝汗。特に制服に関しては二日ほど替えていないため、衛生的とは言えないだろう。時期的に寝汗もそこまで掻いている訳ではないが、気になったものを再び意識の外に押し出すのは難しい。
クローゼットの中に替えのスーツとシャーレのコートがある事を思い出す。これなら数日は保つだろう。先生は使ったスーツ数着を纏めようと思い、チェアから立ち上がって──────。
「……ッ」
くらり、と立ちくらみがして、そのまま後ろに倒れ込む様にして椅子に座った。沈み込む様なクッションの感覚。長時間のデスクワークを行っても体に負荷が掛からないように人体工学に基づいて設計された椅子の快適さが、今は少し恨めしい。立ちくらみの原因には脱水や貧血等があるが、恐らく今回は疲労だろう。体に無理をさせ過ぎてしまった。自己管理が出来ない大人なんてみっともないにも程がある。
シャワーは落ち着いてから浴びようと思った。万が一シャワールームで倒れて、全裸の姿を生徒に見られたら普通に死にたくなる。尚、過去のループでは何度も見られている為、何を今更とも思うが、それはそれだ。
右手と左足を寸断され1人で日常生活を送ることすら難しくなった状態、介護の一環として入浴補助を行ってくれた時に味わった恥ずかしさと……自己管理を怠った結果倒れ、それで見られる恥ずかしさは違う。
先程の様に急にではなく、ゆっくりと立ち上がる。立ちくらみは起きなかった。もしかしたら酸欠だったのかもしれない。立ち上がったまま軽く伸びをすると、全身の骨がパキパキと悲鳴を上げた。整体に行ったら間違いなく怒られそうな体だな、なんて思って苦笑する。
ぐるりとシャーレの室内を見渡すと、奥の方にあるホワイトボードを視界に収めた。見つけた途端、なんだか懐かしくなってしまって、近くまで行ってボード上にそっと手を置く。以前は此処に、空きスペースが無くなってしまうほど生徒の落書きが綴られていたな──────と思いながら。一番最初に書いたのはアリスだっただろうか。ゲーム開発部の誰かだった筈だったが、細かい部分は思い出せない。記憶が破壊されている。
いつかこのボードも落書きで一杯になるんだろうな、と期待をして……彼はその足をエレベーターの方向に向けた。そのまま搭乗し、ボタンを押す。行き先は地下、クラフトチェンバーがある場所。カードリーダーにICを通すと、権限が認証されてエレベーターが動き出す。
数秒間、微弱な振動に体を預けると目の前のドアが開いた。寒色のライトで照らされた巨大な機械が一つ鎮座しているのみの薄暗い空間は、上階のシャーレと本当に同じ館の施設なのかと疑ってしまうほど異質だった。
コツコツと靴底で音を奏でながらクラフトチェンバーに近づく。目当ての生成物は既に出来ている。幅30cm、奥行き23cm、高さ20cmの、取手がついた白い直方体と……針なし、針ありが混じる、パッキングされた大量の注射器。
これが先生がクラフトチェンバーに作らせたもの。緊急時医療キット、Flower。脆弱な体のまま、戦場の最前線に立つために必要なお守りだ。
Flowerはその名の通り、全ての薬剤に花の名を冠している。
活性アンプルには鈴蘭、止血用血液凝固剤にはアネモネ、痛覚消去剤にはスノードロップ……他の効能を持つ薬にも全て花の名前がコードネームの様に与えられている。理由は──────。
「……アツコ……」
アリウススクワッドの姫、秤アツコ。目を離せば何処か遠い所に行ってしまいそうな幻想的な彼女に依る所が大きい。花が好きな彼女に言われて、無機質なアルファベットと数字の羅列から、花の名前へと変更した。どれも彼女が好きな花で、フラワーショップや図鑑で見ながら決めたのだ。『こっちの方がいい』と微笑む彼女を見て、思わず此方も笑みが零れた記憶は──────まだ、憶えている。
「ノアみたいに記憶を書き記さないとね……いつまで覚えていられるか分からないし。大切なものは、仕舞って残しておかないと」
先生は一つ一つ薬剤を確認しながら白い箱へ、又はシャーレのコートの内ポケットに収納していく。この薬剤達はFlower、と随分可愛らしい名前が付けられているが……効能、離脱症状共にファンシーさが欠片も無い。劇薬と呼ぶに相応しいものだ。
幻聴、幻覚、記憶の混濁、強迫観念や不安で心が押し潰されそうになるのは当たり前。騙した神経が戻らなくなったり、穴という穴から血液が吹き出したり、指先等の末端が壊死したり……その場凌ぎ、命の前借りという言葉が相応しい代償が待っている。
さらに効果時間も1時間程度と短いため、使用後は超短期で決着を付けなければならない。重ねて服用した場合は最悪死ぬ上に、効果時間の延長もあまり見込めない。
一見、リスクとリターンが釣り合っていない様に思えるが……その実、先生にとってはリターンの方が大きい。この薬剤を使うだけで、心臓や脳を吹き飛ばされる等の致命攻撃以外はある程度無視できる。
硝煙弾雨が飛び交う戦場で指揮を取る先生にとって、これは何よりのメリットだ。何せ、先生が斃れたら指揮系統が総崩れになる。そうなった場合は余程単騎での殲滅力に長けている──────ヒナやツルギ、ミカ等のキヴォトス最強クラスの生徒以外は、本当にどうなるか分からない。
最悪、生徒のヘイローが破壊される可能性があるのだ。そのリスクをある程度軽減できる──────利点と言わず何と言うか。
それに比べたら、地獄の様な副作用も甘んじて受け入れられる。
全ての整理が終了した後、先生は「ふぅ」と一息を吐いた。これがあれば、いざという時にある程度の無茶と無謀は押し通せる。勿論しない方がいいのは彼も重々承知しているが……生徒達が最前線で戦っているのに、自分だけが安全圏に居られるわけがないだろう。せめて、有事の際は命を張らなければ。
そんな事を考えながら、先生はクラフトチェンバーから背を向けた。
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選別が終わった先生は、そのままシャーレのシャワールームで寝汗を流した。36度の生温い温度が自分の体にへばりついた淀みを洗い流してくれる様な心地がして、随分と長い時間、無心でシャワーを浴びていた。
麗らかな春先とはいえ湯冷めは風邪の原因になる為、手早くドライヤーやスキンケア等を済ませてスーツに着替える。連邦生徒会に対を成す黒、誰かの思い通りになんて染まらないという……決意の証明。
「らしく無い事を考えて……感傷的になっているのかい? 私は」
夜はとても静かだから、独りぼっちだから、昼に考えないことが頭に浮かんでしまう。この分だと作業も手につかないだろう。気分転換に散歩でも行こうかと思った。
窓の外側には水滴が付着している。雨が降っているのだろうか。雨音は聞こえない。だから恐らく小雨だろう。ユウカが濡れずに帰れたらいいな、なんて考えて。
傘を持ち、シャーレの外に出ると、やはり外は雨が降っていた。ポツポツと降る雨。ビニールの表面を撫でて、滑り落ちていく。
雨が奏でる音、ペトリコール。先生は夜の街が好きだった。眺めるのも、こうやって歩くのも。雨も好きだった。
水溜りの中に街灯りが反射してキラキラ光っている光景は幻想的で、夜の雨にしか魅せてくれない表情。そういった、限定的な条件でしか見られないものはきっと価値がある。
特に行き先はない。ぶらぶらと当てがなく歩いていく。直進、右折、左折。偶に戻ってみたり。
その中で先生は──────見知った、見知らぬ少女を見つけた。
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その少女に雨の中佇む理由を聞いても『理由なんてないよ』と返ってくるだろう。ただ、芽吹いた場所に咲く花の様に……ここにいる。雨が降っていてもそれは恵みで、心に溜まった弱い部分を洗い流してくれる様な。でも、少し冷たくて、寂しい。そんな夜。
いつも夜は悲しかった。4人皆で寝ていても仄暗い欠落と孤独は何処にも消えず、ただ意識が消えるその時まで暗い心と鬩ぎ合いをしないといけない。きっと全員同じ気持ちを抱えているのだろう。太陽が出ているときは、4人でいると孤独なんて感じない。でも、夜になると4人の仲間から、独りぼっちが4人集まっただけになるような気がしてならなかった。だから、夜はいつでも、寂しくて寒かった。
その孤独は消えない。何度夜を重ねても薄れることはなくて、寧ろ補強されるばかり。
それが、もし消えるとすれば──────。
「なんて、ね」
自嘲を孕んだ鈴の音のような声は夜に溶けた。消えない後悔と、時の雨。花瓶に水を灌ぐように、孤独はじっくりと満たされる──────そう、思っていた。
「……?」
降り注いでいた冷たさが消えた。でも、雨が止んだわけではない。見上げると透明な膜が雨を遮っている。誰かが、彼女に傘を差し出した。
「風邪、引いちゃうよ」
声が聞こえた方へ、少女は俯いていた顔を上げる。優しい笑み、此方を心の底から慈しんでいることが手に取るように分かる表情。ユリとジャスミンが混ざった、花の香り。
「先生……?」
彼女がその名を呼ぶと、彼は雨空が晴れる様な陽だまりの笑顔を浮かべて。
「正解。私はシャーレの先生だよ、アツコ」
アリウススクワッドの姫、深窓の令嬢、ロイヤルブラッドの血統……秤アツコは先生と出会った。
▼
先生はアツコを見た時、少し驚いた。恐らく、現在の時系列的にはベアトリーチェが彼女達アリウススクワッドを私兵化している頃だろう。エデン条約の締結阻止、という名目で彼女達を動かし……本命たる儀式をひた隠している。
ロイヤルブラッド、ユスティナ聖徒会の直系たるアツコはその計画の中核だ。そんな彼女が、仮面も付けずにこんな時間に一人で出歩いている……何かがあると勘繰るのも無理はないだろう。アリウススクワッドの誰かがいる場合は問題ないが、ベアトリーチェがいた場合……交戦は避けられない。
先生は懐にある
「アツコは何でこんな所に?」
「……散歩?」
「そっか、私と一緒だね」
──────アロナから応答、周囲200m内でヘイロー及びゲマトリアの反応無し。その報告に先生は少し肩の力を抜いて、もう一度気を引き締めた。決して油断はできない。ベアトリーチェは他のゲマトリアと異なり、最初から先生を排除対象としている。仮に接敵した場合、間違いなく殺しに来るはずだ。そこに遊びも隙もない。
──────アロナ。念の為、『天命』の準備をお願い。
滅びを滅ぼす刃の装填を済ませる。対ゲマトリアを想定した武装ではない上に、神秘を持たない己が振るったところで勝てるとは思わないが、時間稼ぎにはなる。上半身と下半身を真っ二つにすれば、ベアトリーチェでも暫く動けなくなるのは過去のループで確認済みだ。
「でも、傘くらいは持っておかないとね。体は資本だからさ、風邪は引かない様にしないと」
「大丈夫。先生が持ってきてくれた」
そう言って、ルビーのような真紅の瞳を向けてくれる彼女が何とも愛おしくて。
「……そうだね。確かに、そうだ」
「うん」
先生が差し伸べた手をアツコはしっかりと掴んで、立ち上がった。雨に濡れた彼女の温度は少し冷たかった。
「先生の手、あったかいね。安心する温度」
先生の実在を確かめる様に手を握るアツコと、されるがままの先生。アツコの表情は読み取りにくいが少し嬉しそうで、先生は苦い表情をしていた。
彼女が言った、安心する温度。その言葉に胸が締め付けられる様な苦しみを覚えた。彼女達はこの暖かさがずっと与えられない環境にいたのだ。それを不幸と嘆く事も許されずに、兵器として在る事を望まれた。彼女の人生を大人が消費している。ただ、使えるからという理由で。彼女達はこの空の元、何処にでも飛べるはずなのに……それを心底身勝手な理由で閉じ込めているのだ。
──────あぁ、やはり私は貴方を許せないよ、ベアトリーチェ。
「アツコはこれからどうするんだい? 帰るのだったら傘はあげるけど……」
彼女は少し考えて、「もう少し、此処にいる」と言った。先生は少し驚いた後、いつもの様に微笑んで。
「そっか……うん、分かった。じゃあ私も、アツコが帰るまでは此処にいるよ」
「優しいね、先生は」
そうして、2人は一つの傘で雨の中佇んでいた。会話はない。ただ、お互いの呼吸音と心臓の鼓動が、雨音に混ざるだけ。時折アツコは先生の横顔を眺めて、それに気づいた先生が微笑みかける。
雨夜に眠った街、2人きり。恋愛漫画で使い古された様なシチュエーション。流れる沈黙すら心地が良くて、まるで微睡の中にいるみたい。
「ねぇ、先生」
その静寂を切り裂いたのは、意外なことにアツコの方で。
「先生は、今、幸せ?」
アツコの問いに、先生は少し驚いた様な顔をして──────そして、直ぐに見惚れる様な笑顔を浮かべて。
「勿論、幸せだよ」
「そう……なら、良かった」
彼女は心底安心した様に微笑んだ。
感想へのリンク
※以下には拙作8話の小ネタやモチーフ等が書かれています。本編には全く関係ございませんので、興味がある方以外は読み飛ばしてくださいませ。
拙作8話、閑話/
このお話は伊藤計劃トリビュートを読んで啓蒙を高め、PSYCHO-PASSのアニメを摂取しながら書きました。変身を使ったのも『理不尽なものはみんなカフカだ』というセリフが虐殺機関にて出てくるので、そこから色々と繋げました。ハードカバーの実本はcv.櫻井◯宏の白いあの人からです。紙の本を読みなよ。
尚、「こんな話突っ込んだら透き通るような世界観で送る学園×青春×物語RPGが壊れるぅ〜」と思いましたが、「色相クリアホワイト!犯罪係数0!透き通ってる!ヨシ!」と判断しました。
本来、私自身は後書にこの様な語りを書くのは好きではないのですが、気付いて頂けた嬉しさと、感想に返信させて頂く事ができなかった為、こちらにて認めさせていただきました。
さて、長々とした作者の語りに付き合っていただき、誠にありがとうございます。感想、評価、お気に入り等頂けますと幸いです。
では、また次話でお会いしましょう。