シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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白く、白く、殺菌された塩の牢獄。外界からの干渉の一切を遮断するこの場所は病院の無菌室。
「────」
そこで力なく横たわるのは、無数の機械に繋がれて無理矢理生かされている先生だった。輸血は終了しても、傷が消える訳ではない。人体に付けられた傷は肉体がある限り不可逆で、元通りになんてならない。あの斬首痕は、文字通り彼が埋葬されるまで残り続ける。まるで、罪人の証のように。
病院から連絡があった。先生の自発呼吸が一時的に停止した、と。
「────先生」
呟く声。小さく、弱い、消え入りそうな音階。それが誰から発せられたものなのかは分からない。ユウカか、或いはノアか。もしかしたら二人の声が重なったかもしれない。だが、そんな事なんてどうでもよかった。目の前に聳えるこの現実を前にしてしまえば。
どうやら先の出血性ショックで内臓の一部に血液、及び酸素の供給が滞っていたようで、その症状が遅効性の毒のように彼の体を蝕んでいる。内臓障害、特に呼吸器系が重いらしい。その障害と神秘の毒性が相乗効果を生んでしまい、彼の機能を1つ殺した。まだ心停止はしていないが、いつそうなっても不思議ではなく、彼は少しずつ暗い死の方に足を進めている。まるで、そうである事の方が自然なように。
一報を聞いて、病院に全力で向かって、説明を受けて。現実に根付いているはずのそれらを聞いても何故かその出来事が現実であるという実感が無くて、綿で絞殺されているような心地で言わるがままに通されて。
────そして、現実を突き付けられた。
最後の面会になるかもしれない、なんて縁起でもない事を言う医師は意識の外から弾き出されて久しい。彼女達はただ、ガラス越しの彼を見つめている。数多の願い、幾多の意志を背負い────そして、その果てに断崖に立つ彼を。
小さく響く電子音がガラス越しに聞こえてきて、思わず足の力が抜けて地面に座り込んでしまった。タイツ越しに伝わるリノリウムの冷たい温度が妙に気持ち悪くて、現実が脳の奥で少しずつ弾けて浸透していく。理解を拒んでも時間は止まらない、という当たり前の道理に苛立ちを覚えても何もできない。死神に胸倉を掴まれている彼を抱きしめる事は不可能なのだから。彼女達と彼はガラス一枚という紙切れに等しい防御壁を隔てている。
「……先生ッ」
絞り出したような、掠れた声。涙で滲んだ視界の所為で彼の顔がよく見えない。何度も目に焼き付けて、記憶に留めたあの顔。時折見せてくれる屈託のない笑顔が花のようで、その笑みを引き出したいと何度も思って幾度も試行錯誤した。今はもう、人形のように眠るばかり。
ふと、靴底が床を叩く音が聞こえてきた。病院だから、と気を遣って走らないようにはしているが逸る心がそのまま早歩きとなっている。揺れるヘイローと、長い桃色の髪。黎明と黄昏、二つの空を抱く瞳は焦燥と不安で滲んでいた。
あの、少女は────。
「……アビドスの、小鳥遊ホシノさん……でしたか?」
「うへ、やっぱ先越されちゃってたか」
ひらひらと力なく振られる手にはスマホが握られていて、取りつけられた鯨のストラップが揺れている。無理矢理取り繕ったような、力のない体。彼女もきっと、彼の状態を聞いて駆けつけてきたのだろう。彼女はそのままノアとユウカの近く……ガラスまで歩いて、彼を見下ろした。
「……また、無茶したんだね、先生」
その声には有り余る悲しみと後悔が滲んでいた。また守れなかった────という一念。ホシノは二度、傷を負った彼を見ている。落ち込んだ双眸、彼に輝かしい未来を見た瞳は暗く澱んでしまった。本当に大切な人の息が止まったという知らせを受け取った彼女の内心はどれだけ痛み、悲鳴を上げているのだろう。でも、それでもと────彼の為に祈る暁の少女は、酷く美しかった。
彼女は伏せていた目を開眼し、もう一度祈る。どうか彼に
「アビドスの皆さんは?」
「皆はお留守番してるよ。ほら、押しかけちゃ迷惑になっちゃうでしょ? だから私が代表として来たんだ」
ホシノは「委員長特権はこういうときに使わないとね」と笑うから、釣られて2人も笑みが零れた。それは職権乱用だろう、と。思えば、ここ最近はずっと笑えてなかった。しかし、その笑みも一瞬。直ぐに現実が覆い隠して、ユウカは重々しく口を開いた。
「……ホシノさんは、私達を責めないんですね。あの場に居ながら先生を守れなかった、私達を」
「いや~、おじさんも傷心の女の子に追い打ちをかけるほど鬼じゃないよ」
ホシノは緩んだ笑みを見せてから────それを引き締めて俯き、噛み締めるように「それに」と言って。
「手の届くところに居たのに守れなかった辛さは……よく知ってるから」
もっと自分がちゃんとしていればこんな事にはならなかったのではないか。もっと自分が強ければ誰かを奪われずにいたのではないか。そう思うと自分への不甲斐なさと怒りと絶望と憎悪で心が満たされて、何処にも向けられない感情が大きく育っていく。誰よりも許せない自分自身が、傷ついた誰かの代わりに生きている現実が認められない……ホシノという少女は何度もその呪いに身を焦がしてきた。それが残された者に与えられた罰だと思って、誰かの分まで苦しむことを受容した。
その誰かが、残された者の幸せを願っていた事から目を逸らして。
「……こんな偉そうな、説教みたいなこと言っちゃってごめんね」
「いえ、そんな……」
呟き、ユウカは下を向く。震えているホシノの手。彼女もきっと無理をしているのだ。折れかけている心を『彼はまだ生きている』という一縷の希望に縋って何とか持たせているに過ぎない。達観したような言葉を発しているが、彼女だって17歳の……ユウカやノアと1歳しか違わない女の子。大切な誰かを失いかけて平静でいられるはずがないのだから。
それを何とか取り繕い、泣きだしそうになる心を押さえつけて、誰かの心に寄り添う言葉を投げかける……ホシノという少女はあまりにも強かった。例えそれが今この場で取り繕った張りぼての強さでも、尊敬に値する事は間違いない。彼女だって、泣きたいだろうに。
「……ホシノさんも、先生に助けられたんですか?」
「うん。私が此処に立っていられるのは先生が救ってくれたから。こんな面倒な生徒なのに、私の手をずっと離さないでいてくれたんだ」
「先生らしいですね」
そう言って、笑い合って。互いの思い出を共有する。こんな一面があったとか、こんな事があったとか。アビドスでの彼、ミレニアムでの彼。生徒を心から想っていて、愛していて。それ故の極度の巻き込まれ気質で、厄介ごとばかりに引きずり込まれる。だが、彼はそれを邪険にするどころか、生徒に頼られる事が心底嬉しいようでいつだって笑っていた。
そうして親睦を深めてからホシノは少し雰囲気を固くして────ずっと聞きたかった本題を切り出した。
「……多分そっちも機密とか事情とかいろいろあると思うから、さ。答えられるなら答えてほしいんだけど……」
しん、と静まり返る世界。
「誰がやった?」
その一言と共に空気が凍り付いた。ホシノの発する圧倒的な、世界そのものが押し潰しにきているようなプレッシャーを前にしてユウカは戦慄した。
────強いとは思っていた。先のビナー戦での大立ち回りを見るに間違いなく自身よりは強いとは考えていたが……これは流石に想定外だ。冗談じゃない。ネル先輩に匹敵するか、或いはそれ以上の……!
「あんな傷は事故じゃ負わない。殺す気が無いと首の動脈なんて切れない。だから、悪意と殺意を以て先生を傷つけた誰かが居るんでしょ? それに、ちょっと前にミレニアムの部室棟で事故があったよね。ガス爆発がどうとか。アレも実はカモフラージュで、真相は別にあるって思ってるんだけど……どうかな?」
頭も切れるのか、とユウカは更に驚く。ホシノの推理はほぼ正解だ。先生の状態と、ミレニアムで起きた事故……たった2つの情報で、彼女は隠された真相を暴き出した。だが、『当然だろう』と何処か冷静に処理する自分がユウカの中に居たのも事実だ。先生の傷が大きなヒントになり過ぎている。彼の性格、訪れていた場所と、そこで起きた事故。これの関連性を疑わない方がおかしい。
「ねぇ、どうなの?」
ホシノの眼。鋭く細められた猛禽類を思わせる瞳に灯る激烈な殺意と憎悪。もし仮に、この場で人物名を出したら、彼女の手で殺されるだろうという確信があった。例えその道が地獄でも、そんな事をしても彼が決して喜ばないとしても……それでも、彼を傷つけた誰かが許せない。彼を傷つけて、のうのうと生きている現実を認められない。奪ったなら奪われるべきだと現実が絶叫を上げる。
「────ま、言えないよね」
途端、ユウカとノアを潰していた圧力が霧散する。息苦しくもなくなり、心臓を鷲掴みにされているような悪寒も綺麗さっぱり消え去った。僅かに恐怖を孕んだ目でホシノを見ると、彼女は「怖がらせちゃってごめんね」と緩く笑みを浮べて謝罪した。
そして、彼女は踵を返して。
「じゃ、おじさんは帰るよ」
それだけ言って、ホシノは振り返らず遮断された面会室から去っていった。まるで何かを堪えるように、これ以上あの場に居ると、動かない彼を視ると泣いてしまいそうだから。
その背を、何も言わずに眺めている2人。無力と遣る瀬無さを漂わせる背中に、思う部分はあった。特にノアは良く知っている。何もできなかった痛みを、噛み締めた無力を。彼を慕う者として、彼女が知る限りを伝えたかったが……それは無理だ。
彼女が得意なのは記憶に留める事、忘れない事。特別身体能力が高かったり、腕っぷしが強かったりはしない。戦闘も得意な方ではなくて、前に出て戦うよりも援護や支援の方が性に合っている。何かを知っているはずなのに、何もできない────その現実が、余りにも苦くて。
「先生……」
何故彼だけが────そう思った回数は数えきれない。いきなり知らない土地に連れて来られ、戦わないなら死ねと突き付けられ。争いを好まない彼は眉間に皺を寄せ、祈るように戦ってきた。死にたくないからではなく、生徒の為に。彼は生徒の為に多くを捧げた。時間も、体も、心も、愛も……命さえも。そして、救われたはずなのに。
それなのに、まるでやり直しだと言わんばかりに回帰して────彼は死後の安息すらないまま、また走っている。血を吐きながら、誰かの為に。
その生き方がどうしようもなく哀しく思えるのは────