シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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────この夜を幾つ超えたら、私は終われるのだろうか。
変質する肉体、変質する魂。自分が自分でなくなる感覚を覚えながら、先生はふとそんな事を考えた。宛先の無かった糸が何かに絡まって、結びつきが強くなるたびに、自分が何処にもいない虚無感を覚えた。漠然と、此処に居てはいけないと思うようになった。キヴォトスの為に、他ならぬ生徒達の為に今この場で自刃するべきだと。いずれ自殺すらできなくなる……と、脳の奥が警鐘を鳴らした。
────私は凡そ考え得る限り、最悪の死を迎える。
断崖を前に、彼は連邦生徒会長に笑いかけた。彼女の顔はよく見えない。だけど、きっと悲しんでいるだろうという確信があった。彼女の事なんて手に取るように分かる。それだけの時間を重ねてきた。それだけの思い出を育んできた。そして、逆もまた然り。
────此処から先、一歩踏み出せば二度と安らぎを得られないだろう。だが、それでもいいんだ。
こんな役目を彼女に背負わせる訳にはいかない。消えるのは、死ぬのは1人で充分。その1人もキヴォトスの異物であれば、厄介払いもできて一石二鳥だろうと言った。しかし、彼女は決して頷いてくれなかった。唯、縋るように手を伸ばした。
────分かってくれ、とは言わないよ。これは私の我儘だ。
生徒に光溢れる明日を。その誓いを違える事は許されない。これこそが己の生きる理由であるのだから。
そうして、彼は背を向けて……彼女の言葉に耳を傾けた。
「貴方の笑顔の奥にあった憂いに気付けなかった事を……今でも、悔やんでいます」
「────さようなら、連邦生徒会長。私の最初の教え子。なんでもない女の子。もう二度と会えないだろうけど……元気でね」
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────先生! アリスは勇者になります!
その綺麗な夢の果てを見届けたいと思った。例え、それが叶わない願いだとしても……それでも。彼女の旅路がどんな色で染まるのか、あの透明だった少女が鮮やかに色付くまで知りたかった。
────先生、アリスは……皆と違う生き物なのですか……? 皆と一緒にいるべきじゃないんでしょうか……?
それは違うと宣言した。アリスは皆と何一つ変わらない、この世界で生きて、誰かを愛する人間だと叫んだ。彼女はこの星の下で歩いていけるのだと、他ならぬ彼女自身に言い聞かせた。
────ケイ、君もだよ。君も、皆と何一つ変わらない。君も誰かを愛して、誰かと生きる人間なんだ。人間なんだよ。
この言葉は、果たして届いたのだろうか。それは分からない。だけど、その時……初めてケイは笑ってくれた気がした。アリスよりも大人びた少し冷たい笑みは彼女がアリスではない事の証左。
鍵ではなく、ケイとして。モモイの付けた名前を大切に口遊んだあの時、アリスとは異なる一つの命が芽吹いた。彼女はアリスの隣で星を見上げたのだ。
────これは先生だけの記憶。彼だけが覚えている世界の轍。もう過ぎ去ってしまった大切な残滓。何を失おうとも決して手放さなかった、生徒達との思い出。
先生が対話をしたのはあの世界のアリスとケイであり、この世界の彼女達ではない。故にあの記憶を彼女達は知らないし、別に知ってほしいとも思わない。彼女達は同位体であっても別人なのだから。
だが、それでも────。
アリスがまた泣いているなら。
絶望の淵に立ち、『消えたい』と呟いているのなら。
ケイが諦観しているのなら。
それが運命だと、兵器としての自身を受け入れているなら。
────その絶望と諦観を覆す事が、先生たる己の役目だ。
「────あ、り、す」
痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。生きているだけで、呼吸をしているだけで死にそうになる。声帯が震える度に血の味がして、激痛で意識が遠のく。目が開けられない。体が動かせない。全身の感覚が鈍い。寒いのか暑いのかすら分からない。ただ、神経に直接流し込まれたような痛みだけが鮮明だ。
死に体、満身創痍。そういった言葉がよく似合う酷い状態。ただでさえ脆弱なのに、今は現代の医療に縋らないと細胞分裂すら儘ならない。心臓も止まりそうだし、呼吸だって上手くできない。内臓は何個か駄目になっているだろう。
だが、それがどうした。
喉を震わせろ。叫べ。生きているのだと。こんな絶命の淵でのたうち回っていても、確かにまだ生きているのだと。生きているから、まだやれる事が残っているのだと。この生にはまだやるべき事が残されているのだと、誇り高く宣誓しろ。
「────け、い」
自分の命なんて心底どうでも良くなるほど大切に想っている生徒達の名前を震えながら紡ぐ。止まりそうになる心臓を無理やり動かして、息を吸って、命を繋ぐ。途轍もない勢いで寿命を削っているが、そんなことは知った事ではない。元より先の短い生命、10年削れようが30年削れようが大差はないのだ。それに、自分の数十年よりも彼女達の先の方が大切なのだから────己は此処で灰になれ。
動かすたびに死ぬ体を無理矢理生かす。
呼吸するたびに止まる心臓を強引に動かす。
これ以上は、とアラートを出す脳を意志で捩じ伏せて、残骸と成り果てるはずだった肉体に喝を入れる。
目が開いた。赫く、赫く染まる視界。蒼く、蒼く堕ちる世界。だが、色も分かる。目も見える。それ以上なんて求めない。
手が動いた。痛覚以外の感覚なんてとうに消え失せている。だが、まだ動く。彼女の手を掴める。彼女の涙を拭える。彼女を抱き締められる。それで充分すぎるくらいだ。
足が動いた。走ることはおろかまともな歩行すら不可能だろう。だが、それでもまだ動く。動くなら、彼女の元まで駆けつけられるはずだ。
「いか、ないと……」
そうだ、行かないと。彼女達の元へ。涙を拭わないと。諦観を打ち砕かないと。そうでなければ、そう在らなければ何が先生か。何が大人か。
身を捩ると音を立てて体に接続されていたチューブが外れる。管の口から溢れる液体達は先生の肉体を生かし続けてきたもの。まるで縛鎖を千切るように、彼は死体から生命へと新生する。
口元に装着された酸素マスクを乱暴に取り払い、深く息を吸って────そして、掠れるような音色で咳き込んだ。ぽたぽたと口から唾液と胃液、血が混ざった液体が溢れ、口元とベッドを汚した。やはり呼吸器系はかなりダメージを負っている。完全な再生は難しいだろう。
そして、手を突いて上体を起こそうとするが……死にかけの体に上半身を支えるだけの力が残っているはずもなく、徒労に終わる。しかし、『それならば』と言わんばかりに身を捩り、ベッドから落下した。
「……ッ」
落下した距離は1mもない。だが、それでもこの体にはかなり堪えた様で、身を床に打ち付けた瞬間意識が飛びそうになり、衝撃を受け止めた右腕からは嫌な……骨が折れる音が鳴った。更に抜き忘れた翼状針が肉を抉るように刺さってしまい腕から僅かに流血。彼は痛みに顔を歪ませながら針を抜き、床を這いずりながらローテーブルに置かれたシッテムの箱へ手を伸ばす。
────あ、ろ、な。
確かにそうやって声に出したはずであるが、代わりに零れたのは枯葉のような咳の音。もう声も出せなくなったのか────否、違うだろう。まだ、やれるはずだ。
限界まで伸ばされた彼の手。震える指先は、確かにシッテムの箱を掴んだ。
「────アロナ」
僅かに血の香りがするシッテムの箱の表面を撫でても、明かりは灯らない。バッテリーの残量は充分であることは分かっている。何せ先生が手に取るまで電源ケーブルが接続されていたのだから。
となると、考えられるのは。
「守ってくれて、ありがとう」
彼女は、彼女の持てる全てを使って先生を生かしているのだ。今この瞬間にも死に行く先生を生に押し留め、死神の足跡を蹴散らしてくれている。彼女が、戦っている。守ってくれている。
それが嬉しくて、彼は深い感謝と────謝罪を紡いだ。
そのまま彼は病院のシステムを一時的にジャック。自身の部屋を掌握し、抹消し、漂白する。病院脱出も手慣れたものだ。何をやるべきか、何が必要か、その全てが把握できてしまう。救えないな、と自嘲。誰かに迷惑をかけっぱなしだ。
彼は病院着を脱ぎ、生まれたままの姿となり……数日変えていなかった人工皮膚を剥がす。
「クラフトチェンバー」
呟いた彼の眼前、落下したのは10にも及ぶ注射器とシャーレの制服であった。
ミントグリーンの患者服を脱ぎ捨て、シャーレの服に袖を通す。そうする事で、傷だらけでありながらも彼は再び先生となった。呼吸しやすいように首の包帯を少し緩ませ……彼は注射器を手に取る。
ナノマシンが入った注射薬や細胞活性薬。その他、多くの劇薬。それを一本ずつ打ち込み、肉体を蘇生させ、最後に追加でアンプルを致死量ギリギリまでバカ打ちして────彼は、その足で立ち上がった。
「ハァ……ハァ……ぉ、ェ……」
煩く跳ねる心臓。沸騰するほど熱を持つ脳。消えようとする意識。充血し、マーブルを描くようにぐちゃぐちゃになる視界。震える手足。過回復で細胞がネクローシスし、耳や鼻からの流血が止まらない。
全ての投薬は生きるためだ。だが、その投薬自体が危険そのものであるため、全てが『生きるために死ぬ』という支離滅裂で無茶苦茶な自殺行為に成り果てた。一瞬一瞬、彼は死んでいく。彼は生き返る。
「わ、た、し……は……」
死の淵、輪廻の断崖。身を投げる寸前だった深淵に背を向けて彼は生に疾走する。ただ、誰かの為に。
────別に、自分だけが彼女達を救えるなどと思い上がるつもりはない。彼女達の特別が自分であると自惚れるつもりも、ない。彼女達の旅路は長いのだ。これから先、もっと良い出会いが待っている。もっと輝く想い出が待っている。先生よりも良い誰かに必ず出会うだろうし、特別もきっと見つけられるはずだ。彼女達の長い旅路の中で僅かな時間を共に過ごした誰か……彼女達にとって、先生という存在がそれ以上の何かにはならないだろう。
だが、それでも────伸ばされた手を己が掴めるなら。流れる涙を己が拭えるのならば。否、そんな理由付けすら不要だ。
何故なら────私は。
「先生だ……ッ!」
それだけが己に残された、たった一つの譲れないプライド。
それを胸に、彼は一歩ずつ進んでいく。目的地は要塞都市エリドゥ、アリスとケイが囚われている場所。多くを抱え込んでしまった少女が座す場所。
こんな死に体で何ができると己を嘲笑いながら、それでもと前に進む。壁に凭れ掛り、手すりを使って、震える足を引き摺って。
ただ、その瞳の意志だけは────決して翳らなかった。