シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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あの後、先生とアツコの間に会話はなかった。ただ、雨の中、2人でそこにいて。夜を過ごしていた。
そして雨が止んだ頃、先生はアツコに声をかけようとして──────彼女が転寝している事に気づいたのだ。コートの袖を掴んで、彼の腕に撓垂れ掛るように。
気持ちよさそうに、穏やかに眠っている彼女を起こす気にはなれなくて、可能な限り振動を与えないように背負ってシャーレまで運んで、お風呂の準備をしていたら……彼女は起きた。キョロキョロと辺りを見渡しながら、ルベライトの綺麗な瞳を数回瞬かせて。
「ごめんね、先生」
「気にしないで、夜も遅かったんだ。眠くなるのも仕方ないよ……お風呂、使えるよ」
「何から何まで……ごめ────」
「アツコ」
その先はダメだよ、と言わんばかりに、先生はアツコの唇の前に人差し指を持ってきた。舌を少しでも出せば、唇を少しでも前にやったら触れそうな距離。アツコは少し驚いている。
「こういう時は、何て言えばいいか分かるかい?」
謝罪の言葉は使うべきではない、もっと他に相応しい言葉がある筈だと──────先生は言って。
「うん。ありがとう、先生」
「どういたしまして。さ、風邪引いちゃいけないから、早く行ってきなさい。着替えはバスローブが備品である筈だからそれを使って。今着ているのはランドリーに入れてくれれば大丈夫だよ……あぁ、浴場の場所は──────」
「先生は一緒に入らないの?」
先生は固まった。そして、同時に納得して、感慨深くなった。あぁ、アツコはこういう子だったなぁ──────と。
「色々と問題しか生まないし、入らないかなぁ……」
その言葉を発した時、恐らく顔は若干引き攣っていただろうな、と先生は思った。
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それからバスローブの着付けを手伝ったり、濡れた髪を乾かしたり。どちらも恐らくアツコ自身でできる筈だが、それでも先生にやってほしいとお願いしたのは──────単純に、彼と触れ合いたかったからだろう。
午前2時を過ぎると、また彼女は夢と現の境界線に立っていて、その狭間から現の方へ行かないように、彼はそっと彼女を横抱きにして──────先生用の仮眠スペースへ向かった。
現在、アツコはベッドで眠っている。寝息は一定で、魘されていない。白磁の様な肌と、サラサラと流れる紫の髪。本当に童話に出てくるお姫様のようだ。触れる事すら躊躇うような、完成された芸術品。
先生は、そんな彼女が寝ているベッドの隅に腰掛けている。理由は、彼の右手の人差し指と中指がアツコの手に握られているから。ぎゅっと縋るように握りしめている彼女の手を解きたくなくて……こうして、彼女が目覚めるまで、夜明けまで待っている。
こうして穏やかな時間を過ごすのは久しぶりだと、先生は思った。何もやる事がなく、考える事もない時間は極めて貴重だ。
スマホもPCもない。タブレットはあるが、中のアロナは多分寝ている。暇つぶし用の本もない。
故に、先生は完全に世界から切り離された気分だった。いつもの様な溢れんばかりの情報がない。あるのは指先から伝わるアツコの温度と、彼女の呼吸音。それは何処か浮世離れしていて、透明で。指先の温度から目を逸らせば、自分がいなくなったような気がして──────終わりと始まりが近くて。
「…………」
先生は軽く頭を振った。雑念を追い出す様に。そして、ポツリと自嘲気味に呟く。
「まるで
死を重ねすぎた結果か分からないが、1人になると世界に溶ける感覚を味わう。希死念慮のような、甘い毒。じわりじわりと蝕んでいく死世界。これは良くない物だ、漠然と思う。
死に引っ張られているのだ。生に在りながらも、その実、絶命に瀕している。昨日の散歩も心の何処かで死に場所を探していたのかもしれない。あのままアツコに出会わなければ、ふらふらと海にでも行って……身投げしていた可能性があるのだ。無意識下での自殺願望。思っているのか、思わされているのかは分からない。
後ろを振り向くと、救えなかった生徒達の縋る手がある様な気がして、滅びた世界の残骸がある様な気がしてならなかった。勿論それらは幻覚。だけども、それは目を閉じようとも消えてくれない瑕であり、彼が彼である限り背負わなければならない罪と罰。それらを抱いて生きると決めた。
先生は一度目を閉じて──────そして、開眼する。渦巻いていた自己否定と破滅願望は消え去っていた。彼女の温度、呼吸音、心臓の鼓動……全て、伝わる。もう独りぼっちではない。それに安心感を覚えて──────夜と孤独の残滓を飲み込んだ。いつか、誰にも見えない涙になる欠片達を。
「……本当に、どうしようもないなぁ」
嘲を多分に含んだ言霊を呟きつつ、左手で前髪をくしゃりと握った。
ふと窓の外を見ると、空が白み始めていた。時刻は5時半過ぎ、夜明けだ。アツコはまだ寝ている。彼女を起こさないように、立ちあがろうとしたら────。
「んぅ……せん、せい……?」
鈴の音のような声が聞こえた。ベッドの方に視線を向けると、体を起こそうとしているアツコがいて──────彼はそっと微笑んだ。
「まだ寝てていいよ……
先生が奇妙な
──────彼女がどんな環境で寝ているかは分からないが、恐らく良いものではないだろう。15歳の少女……思春期の女の子に、それは毒だ。だからシャーレにいる時くらいはゆっくり休んでほしい。此処には君を脅かす悪意も、君を傷つける敵意もいないから。
「なんて、ね」
そう思うのは、きっと傲慢なのだ。彼女の人生は彼女のもので、選択の自由は彼女にある。彼女の心を決めるのは先生ではない。
先生に許された行為は彼女の選択を受け入れて、尊重して、意見を述べて、背中を押して──────いつでも彼女の味方として存在し続けることだけ。
彼女を勝手に可哀想だと思って施すのは、彼が持つ大人の美学に反する。例え根底にあるのが善意でも、他人の心を踏み躙ったり、尊重しない行為は悪意と何ら変わりないのだ。ベアトリーチェよりも醜悪な大人に成り下がりたくない。
──────彼女達は、自分で自分の道を選び取れる強さを持っているのだ。それを信じてやれなくて、何が大人か。何が先生か。
彼はアツコから離れた右手で、そっと彼女の頭を撫でる。いつか、彼女が握るものが銃ではなく──────抱えきれないほどの花束になる事を祈って。
彼は部屋を出た。
▼
「先生? どういう事か詳しく説明してくれませんか?」
「違うんですよ、ユウカ様……私は何もしてないんです……」
先生は正座をして仁王立ちのユウカを見上げていた。いつでも土下座に移行できる素晴らしき状態であるが、背後にドス黒いオーラのようなものが見えるユウカは切腹を命じて来そうな勢いだった。とても怖い。
事の発端は単純で、ユウカと先生が仕事している部屋にアツコが来たのだ。勿論バスローブ姿で。しかも、若干はだけている状態。先生を見つめて妖艶に微笑む姿は、どう考えても事後だった。
そんなアツコを見た瞬間、ユウカは先生の視界を両手で塞ぎ、洗濯済みの彼女の服に着替えさせて……今に至る。
「何もしてないのにこんな可愛い女の子が来る訳ないでしょう! 私が帰った後に何してたんですか!? 誑し込んだんですか!?」
ぐうの音も出ない正論であった。
「先生、私は可愛いの?」
「勿論。アツコは可愛いし、綺麗だよ」
正座している先生の隣でしゃがんでいるアツコに微笑みかけると……真正面のユウカの顔に青筋が奔った。
「先生? 私の前で口説くとはいい度胸ですね?」
「はい、すみません」
言うや否や、先生は即座に土下座した。ピシッとした見事な、美しい土下座であった。百鬼夜行の面々に鍛えられた姿勢の良さを活かしたものだったが、ユウカのお気に召さなかったようで。
「で、なんでシャーレの仮眠室に女を連れ込んだんですか?」
「言い方に悪意ないかなぁ!?」
字面が酷いが、何も間違ってないのもまた事実だ。でも、もっとこう言葉のチョイスがあっただろうと先生は思うが──────悲しいことに、先生はユウカに逆らえない。完全に尻に敷かれている。側から見れば完全に夫婦漫才だ。
そんな2人を見ているアツコは、ふと何かを思い出した。そういえば、ベッドのお礼を言っていなかった、と──────。
「先生、ありがとう。一緒に寝てくれて」
ずっと側にいてくれてありがとう、おかげで寂しくなかったよ──────彼女はそう言ったのだ。だけども、ユウカには別の意味で捉えられてしまい──────。
「は?」
ユウカの握っていたペンが握り潰され真っ二つにへし折れた。まるで先生の未来を暗示しているようなそれに合掌しつつ、『あぁ、終わった』と思って。
「誰か私を助けて……」
その声は多分震えていた。
▼
「姫、戻ったのか」
「うん。ただいま、サッちゃん」
トリニティの
「マダムを誤魔化すの、大変だったんだけど」
「そうですよぉ〜。本当にあのおばさん、しつこかったんですよ……」
声の方を向くと、廊下の向こう側から歩いてくる少女2人が見えた。戒野ミサキと、槌永ヒヨリ。2人ともげんなりしていて、つい先ほどまでマダムやらおばさんやらと言われていた存在……ベアトリーチェと話していたのだろう。
「で、どこ行ってたの?」
「シャーレ」
アツコから、その言葉が出た瞬間──────3人は息を呑んだ。その可能性を考慮しなかった訳ではないが、アツコの口からシャーレというワードが出た事に衝撃を受けた。
そしてアツコは、3人が最も知りたかった事を告げて。
「先生は、あの人だったよ」
アリウススクワッド4名は、全員
「……そうか」
スクワッドという極少数のコミュニティとはいえ、その全員が回帰の記憶を持っているのは異常と言う他ない。超が幾つも付く特異現象だ。ワカモのように経験まで持っている訳ではないが……それでもおかしい事には変わらない。
その起点になったのは、秤アツコ。彼女がこの異常極まる状態を作り出したのだ。原因は
本来ならばアツコのみが記憶を持っていたのだ。過去のループ、先生の死を目の当たりにした彼女はその記憶を物心ついた時から保有していた。
エデン条約と、それより後の物語。楽しすぎて泣いていた日常、辛すぎて笑っていた逆境。アリウスの外でも沢山の友達ができて、過ごした全ての記憶が宝石のようにキラキラと煌めいていて──────その一切が血塗れになった惨劇。
その記憶が、伝播したのだ。サオリ、ミサキ、ヒヨリ……そして、此処にはいないアズサに。更に、ただ伝播した訳ではない。彼女達は自身が最も『悲劇』だと思う記憶を取り戻したのだ。宛ら、アツコの神秘と繋いだ縁、絆を確固たるパスにして──────世界のアーカイブにアクセスした様に。
故に、アツコを除く4名はそれぞれ異なるループの記憶を持っている。ベースとなるアツコの記憶と、彼女自身の記憶。そしてアツコは記憶のアクセス経路となった為、朧げではあるが他の4つの世界を保有している。
再現性は全くない、キヴォトスの中で唯一無二の血を持つアツコと、運命を共にしている彼女達だからこそ許された特権であった。
「先生、変わらなかったよ。優しくて、暖かくて。でも、少し悲しい」
「……そうか。あの人は……いや、そういう人だったな、貴方は。だから、私達は──────」
この世界で前を向けそうなんだ、とサオリは苦笑した。
「私達は私達で歩いていけると証明する。だから、まずは──────」
「ベアトリーチェを排除する」
ミサキの確固たる信念が籠った言葉に、「あぁ」とサオリは肯定する。
何度もアツコを狙ったあの女は決して生かしておけない。何としてでも排除すべきアリウス全員の怨敵だ。
「アズサを怪しまれずにトリニティへ送り出せたのは僥倖だった……お陰で、ティーパーティーの聖園ミカとコンタクトを取れた」
アズサをスパイと偽り、トリニティへ送り込み……そこで、聖園ミカの協力を得られた。ミカもまた同様に
「作戦はまだ煮詰まっていないが、決行は近い。それまで怪しまれないようにな。マダムは勿論、先生にも。だから、此処から作戦成功までは……先生と接触を禁止する」
「そうですよね。すぐ近くにいるのに会えないのは辛いですけど……バレたら、先生はきっと協力してくれますもんね、えへへ」
この作戦を考案した際、必ず守ると決めた掟──────先生を決して巻き込まない。その掟は、先生が彼女達が知っている彼だと判明した先ほど……絶対に遵守すべき天則になった。
「先生に顔向けできる様にする。異なる世界とはいえ、私達は先生に多くを与えられた。もう餌を待つだけの雛鳥ではないんだ。全てを終えたその時、先生に会いに行こう」
────そんな、
装備に散りばめられた聖典の一説、虚無を受容していた言葉ではなく──────彼が何度も送ってくれた言葉を、彼女達は紡ぐ。
「
──────きっと、祈りは届くはずだと。