シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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『貴女達はトロッコ問題を知っているかしら?』
突入部隊の通信をジャックしたリオは徐に口を開いた。誰かに理解されたい。誰かに分かってもらいたい。そんな当たり前の願望の発露。口では『誰にも理解されなくてもいい』と言っている彼女の少女性。ミレニアムの中……キヴォトスの中で誰よりも未来を見据えていた彼女だって年相応の女の子なのだ。
誰かに感謝されたい訳ではない。元よりそんな事の為に今までを積み重ねてきたわけではないのだから。だが、それでも……この決断は誰かの為であるのだと、誰かに分かってもらいたかった。例え、それが遅すぎた納得だったとしても。
「トロッコ……?」
「問題……?」
『簡単なお話よ。故障し、止まることができなくなってしまった列車がレールの上を走っている時。大勢を生かす為に1人を犠牲にするか……それとも、1人を生かす為に大勢を犠牲にするか。そういう選択肢を迫る問題よ』
トロッコ問題、或いはトロリー問題。
線路を走っていたトロッコの制御が不能になってしまい、このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
この時偶々A氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
これが最も有名なシチュエーションだろう。ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか────という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題。人間は一体どのように倫理、道徳的なジレンマを解決するかについて知りたい場合はこの問題は有用な手がかりとなると考えられており、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われている。
キヴォトスで広く実用化されているAI技術……特に自動運転系の技術に関連している。今リオが彼女達に問いかけたシチュエーションとほぼ同じ条件、衝突が避けられない状況での判断基準をどのようにするか……という問題。
道徳的に許されるか否かを問う問題。単純化したら『大勢の為に少数を殺していいか』を回答者に迫るものであり、当然の如く正解はない。ただそれが、回答者の倫理、道徳的に許されるかどうか。功利主義的な回答は大勢の為に少数を殺す事が肯定され、義務論に基づく回答は何もするべきではない────つまり、誰が死のうともその命を見殺しにする事が肯定される。
そして、リオは功利主義的な解答────つまり、
リオは自身を許す事も、正当化する事も無かった。
『誰かがレバーを引くか、見過ごすか。そして……私は喜んでその役を引き受けようとしているだけ。私はレバーを引く方を選んだわ。敵意も悪意も持ち合わせていない。私は、ただ────』
「もう! 分かんないよ! 難しい話はいいから、アリスを返して!」
リオの理論を十把一絡げに隅に置いたモモイは叫ぶ。その話はもういい、聞き飽きた。リオの事情はどうだっていいから、大切なアリスを返せと。
『……貴女は』
「話は聞いたんだからね! 会長が意味わかんない事言ってアリスを連れて行ったって!」
『……意味不明な話ではないわ。貴女なら分かるのではなくて? 他の誰でもない、名もなき神々の女王に攻撃された貴女なら』
「分かんないよ! これっぽっちも分かんない!」
確かに傷つけられた。モモイだって、先生だって。だが、たった一度の攻撃程度で友情が揺らぐことなんてありえない。今でもアリスとは友達だと思っているし、ずっと大切だ。そもそも、ずっと前に許しているのだ。だから後は仲直りするだけ。それを阻むというなら、容赦なんてするつもりはない。
今も眠る彼の心は分からないけれど、きっと同じだと信じている。
「私はただ、会長からアリスを連れ戻したいだけ! その先の事なんて後で良い! そもそも、キヴォトスの脅威だとかなんとか理由を付けてアリスを誘拐するなんてスケールが小さ過ぎるよ! 普段私が書いてるシナリオの規模の方がずーっと大きい! そんな話、通じるわけないじゃん」
『……そう。なら良いわ』
モモイの……否、この場全員の総意を聞いたリオはどこか諦観を感じさせる声で呟いた。
────ウタハに言われた事を元に、自分なりに言葉は尽くした。理解してもらおうと、納得してもらおうと歩み寄った。だが、結果は決裂。そして、これ以上彼女達に時間を割くのは難しい。アクセス履歴の中に、ヒマリではない痕跡を見つけた。エリドゥの根幹にアクセスできる人物なんて自身とヒマリを除けば1人しかいない。来たのだ、イレギュラーが。彼に対抗しなければならない今、彼女達相手に取る手段なんて一つしかないだろう。
『────アバンギャルド君、発進』
突入部隊から数セクション離れた区画の格納庫からリオは秘蔵っ子を解き放った。
途端に鳴り出すアラート。接近する時速300km……否、まだ上がる。途轍もない速度で此方に向かって来る巨大な機械。そのエネルギーの総量はいままで相手にしてきたドローンとは比較にならない程莫大だ。少女達は悟る、これこそがリオのもう1つの切り札であるのだと。
最終的な速度は時速600km。数セクションという離れた距離を僅かな時間で踏み潰した恐るべきリオの切り札が遂にその姿を顕わにした。そして、目にしたモモイは思わず叫ぶ。
「うわぁっ! ダサ……」
「確かに、あんまり可愛いデザインじゃないけど……」
スマホで『ロボット』と入力したら予測変換で出てきそうな絵文字そのままの頭部。ミレニアムの校章が大きく描かれたボディ。腕部は4本あり、右下の腕がシールド……なのだが、何故か黄金長方形の螺旋形となっている。左下の腕はガトリングガン。右上の腕と左上の腕はそれぞれバズーカ砲とアサルトライフルとなっている。下半身は戦車をそのままくっつけたようなキャタピラで、機動力も高い。
しかし、モモイとミドリが言った通り非常にアレなデザインをしている。美的センスは人それぞれ、とは言われるものの……多分これをおしゃれと言う人物は激レアだろうと思ってしまう。名は体を表す、とはよく言ったものでアバンギャルド君は極めて独特かつ
だが、エリドゥ中央タワーの管制室にこれのミニチュアフィギュアを置くほど気に入っていたリオは少しだけしょんぼりして目を逸らし。
『……見た目は関係ないわ』
「気に病む必要は無いさ。芸術とは得てしてそういうものだからね」
『同情も不要よ』
気の抜けるやり取りをしている間にも、アバンギャルド君はどんどん接近する。しかもアバンギャルド君単体ではなく、周囲には数多の
そして────ついに交戦距離に入った。
「……き、来ます!」
リオの秘蔵っ子と突入部隊の戦闘が始まる。
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エリドゥ基幹システムに侵入経路を残し終えた先生は1つ息を吐いて、シッテムの箱に接続されているケーブルを外す。これで少しは彼女達が楽になったと信じたい。欲を言うならばアバンギャルド君のシステムにまで手を出したかったが、エリドゥで制御している訳ではない完全なスタンドアローンだったためそれは叶わなかった。
しかし、当初の目的は充分に果たした。このまま予定通りビルから脱出するためエレベーターに乗り込み40階まで向かっていた両名であったが……突然、通信が届いた。秘匿回線。非通知。だが、先生は一切の躊躇いなくオープンした。
『……先生』
「やあ、リオ。元気かい? 食事も睡眠もちゃんと取ってる?」
『えぇ……』
ホログラムに映されたのは何処か浮かない顔をしたリオ。その表情を見て少し彼は驚いて数回瞬きして……理由に思い至った彼は「あぁ」と優しい笑顔を浮べて。
「君が気に病む必要は無いよ。勝手に私が死にかけただけだ。君に落ち度はないさ」
『それでも、先生がミレニアム自治区で怪我をした事実に変わりはないわ。貴方の怪我の責任の所在は、私にある』
「ないさ。私の痛みは私だけのものだ。君が背負うべきものじゃない」
互いに一歩も退かぬ意志と意志のぶつかり合い。その戦いで先に折れたのはリオの方だった。彼が決して引かない事を悟ったのだろう。彼はこういう時……責任に関する事柄や生徒に関する事柄には異常とも呼べるほど頑なだった。アリスとの一件……彼女に関する取り決めを擦り合わせた時からよく知っている。
『一応聞くわ。先生は何故ここに?』
「アリスの奪還だよ。彼女を助けて、
『その日常はもう崩れてしまったわ』
「確かにそうかもしれない。でも、壊れたならまた作ればいい。やり直しが効かない事なんて無いんだよ。誰だって、何度だってやり直せる」
『それは……綺麗事よ』
噛み締めるようなリオの表情と言葉。彼女の言う通り、彼が吐いた言葉は全て綺麗事だ。何せ、これらの言葉を吐いた彼自身がもうやり直せないのだ。文字通りのラストチャンス。与えられた最後の猶予。だが、それは彼だけだ。彼以外であれば、彼が愛した生徒達であれば、きっと何度だってやり直せる。
だから吠えよう。負け犬であろうとも────彼女達の先生として、誇り高く。
「リオの言う通り、私の言葉は綺麗事だ。だけど、私はその綺麗事が実現した世界を……都合の良いものが見たくて、今まで走ってきたんだよ」
『────』
「リオだってそうだろう? 誰もが当たり前に平穏と幸福を享受できる未来が見たくて、今まで頑張ってきた。どれだけ困難な道であろうと、君は前に進んでいる。それは肯定してあげるべきだよ。君の見据える先は、とても眩しい」
目指す理想までの過程の話ではない。彼はリオの理想の果てを肯定したのだ。その景色はきっと眩しいだろう、と。
────初めて寄せられた自らの理想への共感と羨望。それに対して、リオは何も言えなかった。何も言わなかった。何かを言ってしまえば、何かが崩れてしまいそうだったから。
『私は、私の意志で、アリスを殺す』
「……私は、その選択の是非は問わない。勿論、正誤や善悪もね。数多の葛藤と選択、決断を経てその答えに至った君に軽々しく『もっといい方法があったはず』だとか、そんな無責任な事は言えないし、言うつもりもない」
彼はずっと悔やんでいた。自身を呪い続けていた。居るべき時に何を呑気に眠りこけていたのかと、数日前の自分を殴り飛ばしたい気持ちで一杯だった。己が不甲斐なかったからアリスは涙の別れを告げて、リオは十字架を背負おうとしている。
リオはそれを望んだ事と言っているが、望む望まざるは関係ない。そんな選択肢を生み、彼女の前に与えたこと自体が問題なのだ。だって、キヴォトスの未来を高校生の女の子が背負う必要なんてないだろう?
……本当は、そう言いたかった。しかし────あの場にいなかった自分が、何かを嘯く資格はない。
だけど、それでも……己にリオに語る何かがあるとするならば。それは、きっと。
「君を人殺しになんてさせない」
キヴォトスを、其処に住まう人を愛した彼女の手を血で汚させない。彼女に誰かを殺させない。彼女を引き返せない場所まで行かせない。
────優しいリオに、そんな惨い事をさせてなるものか。
エレベーターが止まる。B41セクション統括タワー40階。地上約160mの高さのフロアに先生達は足を踏み入れる。
『……』
リオは先程から無言を貫いている。俯いているからその表情は分からない。何かを堪えるように。
────一度は振り払った手。彼が描いた理想は不可能で、絵空事だと。人は善性ばかりの存在ではない。善と同じ総量の悪があり、謳歌される日常の裏には消費される悲劇がある。誰もが平穏を選べるわけではない。誰もが幸福を謳歌できるわけではない。それらを享受できる座席は限られていて、その数は総人口よりずっと少ないのだから。だから、その席に座れる誰かを1人でも増やすためにリオは自ら望んで退いた。
それなのに、彼は『リオも同じだ』と言った。君も当たり前に平穏と幸福を享受していいのだと。誰かの為に身を捧げる必要はないのだと。顔を覆いながら誰かを手に掛けなくていい。真っ当に泣いて、笑って、怒っていい。それができない位に雁字搦めにされているなら、その鎖を全て彼が破壊する。彼にとって世界と個人は同じ重さ。アリスもケイもリオも、同じだけ愛する大切な生徒なのだから。
だから叫ぼう────リオが泣く結末なんて認めないと。望むのは完全無欠の大団円。誰もが手を伸ばしたハッピーエンド。
「アリスの犠牲と君の献身の上で成り立つ未来は、私が全てを賭して覆してみせる」
▼
眼下、見下ろした先には山ほどの
先生はジップラインを使用し、目的地の1km先のビルにアンカーを打ち込む。すると当然集まっていたドローンはアンカーの終点であるビルの方にも向かい、空戦型はジップラインを攻撃するが、高い硬度を持つワイヤーロープはその程度で切断されない。
────減った地上ドローン。空戦型ドローンもワイヤーロープを切断しようとそれなりの機体数が釘付けになっている。
「これで準備は終わりかな。今からデコイを散布するから……」
『はい、タイミングは先生に譲渡しますね』
ノアの頼もしい言葉を聞いて、先生はガラス張りになっている壁を見つめる。あとはタイミング勝負だ。ドローンの……否、リオの意識の縫い目を歩むのみだ。
そして────先生はハーネスを押し出す。先生とノアのテクスチャを貼り付けたダミーバルーン。だが、反応は全て本物に見えるように偽装している。当然リオもダミーを本物と誤認しており、流石に先生を銃で蜂の巣にする訳にはいかないという心理が働く。故に銃器ではなく他の手段……組み付き等を試みるが、そこまでは彼も織り込み済み。
ドローンがダミーを捕らえる為に接近したタイミングを見計らい────先生はダミーバルーンを破裂させた。途端に機能を停止するドローン、通信も悪くなり映像と音声が途切れ途切れになる。この現象にリオは当然思い当たる。アレはEMP攻撃だ。しかも、超高濃度。これではあの場にいた空戦型のドローンは暫くまともに動かなくなるだろう。
しかし、まだ動ける個体は幾つか残っている。それを先生に向かわせようとするのだが……そこで、リオは信じられない光景を見た。
『先生ッ!? 正気なのッ!?』
地上160mから彼は身を投げ出していたのだ。腕をクロスさせ、ガラスを突き破り、摩天楼直下へ。だが、彼は自暴自棄になったわけではない。それは彼の眼差しが物語っている。これは正真正銘、作戦の内なのだ。
彼の落下地点に重なるように影が飛び出てくる。都市部に映える白い姿は紛れもなくノア。落下してくる彼をしっかりと抱きしめた彼女は離れたビルの屋上へ向かう。
高められた身体能力は彼の支援によるものだ。多くのリソースを彼の生存に割いている今、本来はそのような事はできない。だが、先ほど掌握したビルのスパコンを外部の演算補助装置として使用しているならば話は別だ。これにより、ノアはまるで舞うように摩天楼を翔けることができる。
万全に見えた包囲網を軽々突破する2人。それを見てリオは素直に敗北を受け入れる。確かに彼は化かし合いでリオを上回った。限られたリソースで、あの圧倒的な不利な状況を無傷で突破する手腕は見事と言う他ない。これが試合なら完敗と言ってもいいだろう。
だが、悲しいかな────これは試合ではない。先生というイレギュラー相手に出し惜しみができない事を知っているリオはまだ、保険を残しておいたのだ。
彼がエリドゥに訪れた事を知ったタイミングはメインコンピュータをハッキングされたタイミング。通常ならプロテクトとカウンターハックを行うのだが、相手が先生だと分かった彼女はそれらを全てAIに任せて、自らは都市の区画移動と隔壁封鎖を行っていたのだ。
────彼女を向かわせる為に。
ノアは自身に猛追する影を感知した途端、銃を引き抜き射撃を行う。だが、空中機動は相手の方が圧倒的に上。軽々と弾丸を避けた彼女は速度を一切緩める事なく2人に接近。3つの影が完全に重なったその時、彼女はノアの襟を掴み────放り投げた。落下地点は近場のビルの屋上、この速度で叩きつけられたら先生は勿論ノアも無事では済まない。
最悪の結末を回避するため咄嗟に展開される障壁。彼の生命維持に割いていたリソースを使ったシールドは構築が甘かったため、叩きつけられた時点で崩壊した。その上、防御力を高める事もできなかったため完璧に衝撃を殺し切る事は叶わず、先生は全身打撲寸前、ノアは一時的に意識を失っている。一応2人の命を守る役目を果たしたが、及第点も上げれない。
蜘蛛の巣状の亀裂が入るビルの屋上。ノアをゆっくりと寝かせ、立ち上がった先生の眼前に降り立ったのは────メイド服の少女。
「トキ……」
「お久しぶりです、先生。このような形で再会したくはありませんでしたが……」
涼やかにそう告げるトキに相反するように、彼の表情は余裕がなかった。