シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
感想評価お気に入り登録誤字報告を主食にして生きています。
「降伏をお勧めします。貴方では私に勝てません」
トキの言う通りだ。キヴォトス最弱である先生が、有数の強者たるトキに勝てる見込みは皆無。文字通り、彼女は彼を指先一つで殺傷できるのだ。人差し指を立て、心臓目掛けて突くだけ。銃なんて大層なものはいらない。拳という暴力すら過剰だ。
加えて、先生の攻撃はトキに通用しない。神秘の有無という絶大な壁に阻まれているため、全力で彼女を殴りつけてもその表情を一切変化させることは叶わないだろう。それは、生命としてのステージの差。生命論や進化論における優劣は不明であるが、こと単純な殴り合いや暴力において、先生という生命は余りにも矮小で弱かった。
そもそも、事此処に及んでも先生はトキを傷つけるつもりは皆無だった。生徒に決して力を向けないと誓った彼はあらゆる暴力を肯定しない。例えその力が脆弱で矮小で、傷一つ付けられないとしても、それでも生徒には必ず力を振るわない。先生たる彼が生徒に向けるべきは力ではなく笑顔と深愛であろう。生徒に力を振るわなければ生き残れないと言うならば、潔く自刃でもしてれば良い。生徒を傷つけてまで生き残りたいとは思わないし、生徒を傷つけて窮地から脱した己なんて塵屑だ。
「降伏はしないよ。私は、まだ諦めていない」
「……そうですか」
呟き、眼を伏せるトキ。その表情は心底残念そうであり、先生に対する憐みの情を帯びていた。これから傷つく彼への憐憫。諦めなかったばかりに踏み潰される彼の未来を憂いたトキの感情の発露だった。
────尤も、彼を死なない程度に抵抗心をへし折るのは憐れんだトキ自身だ。どの口が、とは思うし許されるとも考えていない。
このキヴォトスにおいて先生を傷つける事はタブーだ。どれほど苛烈な戦いでも彼を狙わない事は暗黙の了解となっているし、どんなならず者でもその後の報復を恐れて銃口1つすら向けない。
そして、トキも彼の性格や為人にある程度触れている。優しく、暖かく、争い事が嫌いな……人好きのする性格。銃を向けたくないと思う誰かの心も分かる。無論、トキも自ら望んで銃口を向けたいとは一切思わないが……それでも、今の彼女はリオの
トキは全身に装着していた各種ギアをパージし、待機状態にさせる。銃器も運搬用のドローンに預け身一つの状態。先と比べて戦闘力そのものは落ちたが、彼を相手にするのに過剰な暴力は不要だ。力加減を誤って殺してしまえばそれこそ大問題。もし万一にも取り返しがつかなくなったら、リオが言っていたキヴォトス最強に名を連ねる猛者の中の猛者……
故に、生け捕りこそが最重要。彼を必要以上傷つけず、抵抗心のみをへし折る。攻撃自体も後遺症が残らない様に力の入れ方に気を付けなければならない。難易度の高いミッションであるが、可能であるとトキは判断。腰を落とし、油断も隙も無く構えた。
「手加減はします。ですが……手足の1、2本は覚悟してください」
その言葉と共にトキは動き出す。先生と彼女の距離は10m程度、踏み込み1つで潰せるレンジ。彼女は一瞬で彼の懐へと飛び込んだ。
────先生から見れば、文字通りトキが瞬間移動したように見えただろう。彼の動体視力ではどう頑張っても追えない速度で以て懐に潜り込まれてしまえば、もうどうする事もできない。初動すら追えなかった時点で勝敗は決した、と考えるのが筋であるが……彼は未来予測すら可能な優秀なシステムと、それを十全に運用するだけの頭脳と眼を持っている。
ギリギリではあるが、巻き返しは可能であった。
「……ッ!」
開かれたトキの五指が狙うは彼の首。首を絞めて失神を狙っていたのだろうが……その動きは分かっている。彼は全力で体を傾けて彼女の魔手を回避。耳の真横で鳴った風切り音に震えながらも、その蒼は次の攻撃を見ている。
二撃目は顎を掠めるような膝蹴り。狙っているのは脳震盪だろうか。彼の骨が砕けない様に速度と威力を落としているため、軌道を見切るのは容易かった。しかし、見切っても体の反射速度には限界がある。防御が間に合うかどうかはまた別問題だ。
────否、間に合わせろ。神経を研ぎ澄ませ。焼き切れても尚稼働させろ。ここで倒れる訳にはいかないのだから。
「……これを防ぎますか」
そう呟くトキには彼に対する驚愕と賞賛があった。伝え聞いていた彼のスペックでは初撃は兎も角、この二撃目はどうやっても回避も防御も不可能。彼の脳は揺さぶられ、意識は闇に落ちる筈であったのだが……どういう訳かトキの膝は両掌を重ねた彼によって受け止められている。
「お褒めに預かり、光栄だよ……ッ」
顔を歪ませる彼はお世辞にも余裕があると言えなかった。全力全開で、尚足りない……そういった不足を感じさせる表情。膝を受け止めている掌からは何かが軋む様な音が鳴っていて、一際大きな音が響くたびに彼の表情は苦痛に彩られていく。
そして、トキに伝わる軟い人体の感触。殆ど自身達と変わらない外見をしているはずなのに、その強度は雲泥の差だ。最低限の力しか込めていない筈なのに肉が潰れている。骨が砕けている。その度に彼の顔が歪んでいく。
トキは秘匿されていたとはいえミレニアム最強のエージェント集団の一角だ。争いの経験は豊富であり、それなりの数の人間を病院送りにしてきた。
故に、それと同じだと思っていた。武装した誰かを制圧する事も彼を制圧する事も大差ないと。だが……敵意も害意もない自分より圧倒的に弱い命を甚振るのは、思ったよりも気分が優れなかった。
伝わる温度。皮、肉、骨の感触。苦痛で歪む彼の顔と、漏れる痛そうな吐息。歯を食いしばるように堪えている彼を見てトキは心の奥底で言葉を漏らした。
────これが、人を傷つけるという事ですか。
自分の一挙一動に彼の命が左右される。彼に触れる度にその顔が苦痛で歪む。何かが壊れた感触が伝わる度にトキの心を嫌な色で染める。
殴りつけた先にある誰かの感触に痛みに似た感覚を覚えるのはトキにとって初めての経験であった。今までは任務であれば、命令であれば、必要であるならばと納得して力を振るい続けた。その鉄心で以て、己の心で感じることを止めてきたのだ。命令に忠実な、リオにとって使いやすい武器であるために。
だが、今は思う────
否、必要だ。彼は敵だ。主たるリオの邪魔をする者であり、何を差し置いても真っ先に排除しなければならない危険人物なのだから。
だから、躊躇うな。
トキは畳んでいた膝を伸ばし、最低限の動作で彼の防御をすり抜ける形で蹴りを繰り出す。両手を使ってガードしていた彼はその攻撃に対する有効的な手段を取る事が許されず、直撃を貰ってしまう。鳩尾に突き刺さった強烈な蹴りに流石の彼も一瞬意識を失いかけるが、それを何とか繋ぎ止めて気丈に前を向いた。
だが、その一瞬の意識の空白地帯を突いてトキは既に次の攻撃の装填を済ませてある。横薙ぎに振るわる右腕。狙うは彼の首筋。鋭く速い一撃は彼の意識を刈り取るのに充分な威力を保有していた。
咄嗟に引き戻した左腕でガードを試みるがその程度で威力を減衰できるわけもなく、防御に使った腕からは骨の軋む音と肉が潰れる音が鳴って────その衝撃のまま吹き飛ばされた。衝突したフェンスからけたたましい音が響いて、項垂れる彼は意識こそあるが満身創痍もいい所。もう真面に動けないだろう。防御に使った左腕は変な場所で曲がっていた。
胸の奥にある未知の感情を見て見ぬ振りして、トキは静かな足取りで彼の元へ向かう。そのまま彼女は何とか意識を繋ぎ止めている彼の胸倉を掴み上げて。
「……降伏を、お願いします」
彼女は今一度、降伏勧告をする。彼女は気付いていないが、その声は最初のものと比べて少しだけ震えていた。全身に残る、ほぼ無抵抗の弱者を一方的に痛めつけた感触は今も鮮明だ。これ以上はやりたくない、というのが紛れもないトキの本音。
だから言ってほしい、降参だと。もう抗わないと、抵抗しないと。それだけで良いのだ。彼がそれを選んでくれれば彼自身はこれ以上傷つく必要もなくなるし、トキもこれ以上彼を傷つけなくて済む。正にWin-Winの関係じゃないか────そう思っても。
「でき……な、い……」
気丈に彼はそう言うばかり。もう意識を保つのすら難しいだろうに、トキを見つめ返す眼には諦めが一切見えない。
そして、氷のような青い瞳の奥で揺れる感情を見つけた彼は唐突に表情を申し訳なさそうに歪めて。
「……ごめん、ね……」
眼と眼を合わせて、はっきりと。途切れ途切れで途中で咽たりもしたが、その謝罪の言葉はしっかりとトキの耳に届いた。あれは紛れもなくトキに対する謝罪だ。あそこまではっきり言われて分からない訳がない。
では、何の謝罪なのだろうか────思考がその領域に及んだ瞬間、トキは頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。この状況、彼の性格、トキの心情。そして、彼は心を見通す事が得意と聞く。ここまで出揃えば分からない訳がない。
彼はトキに望まぬ暴力を振るわせてしまった事を心から恥じて謝罪しているのだ。彼を傷つける度に痛んでいた彼女の心に寄り添うように、少しでも痛みを和らげるように。君は何も悪くない、君が傷つく必要はない……言外にそう言っているようだった。この期に及んで尚、他者の心を想う彼には呆れを通り越して感心すら覚えるが……それと同時に、怒りが少しだけ湧いてきた。
そこまで分かっていながら、そこまで至っていながら、何故無駄と分かり切っている抵抗をしたのか。勝算がある抵抗なら納得しよう、特攻として捨て駒になる覚悟なら理解程度はできる。しかし、彼は勝ち目なんて万一も無いと分かっていながら、それでも前に進むと固く意志を持っていた。碌な攻撃すらしないのにも関わらず。
その果てがこれだ。誰もが予想できていた当然の帰結。初めから分かり切っていた三文芝居。言い方を変えれば、彼は彼自身の選択によりトキに傷つけさせる事を強制させたのだ。
この言い分が身勝手極まりないのは分かっている。自分でもどうかと思うほど醜い感情だ。此方には此方の都合と事情があるように、彼には彼の都合と事情がある。その上、最終的に最後の選択……リオの命令に従い彼を捕らえる事を選んだのはトキ自身だ。
恐らくはそれを含めての謝罪だろう。トキに暴力を振るう選択肢を与えた事、振るわせる道しかなかった事、実際に震わせた事、それによりトキの心が痛んだ事。その全てに対する謝罪だ。この場に於ける全てを背負っているとしか思えないその発言に、トキも内心が穏やかでなくなっていく。
────早く、終わらせましょう。
彼女はその一念で以て、彼の首に両手をかける。そのまま細心の注意を払いながら、彼の首を少しずつ圧迫した。苦しそうな吐息を漏らし痙攣する彼を出来るだけ見ない様に目を閉じて、早く終わってくれと居るかも分からない神に祈る。時間が経つに連れて、彼の反応も弱く鈍くなっていく。痙攣は鳴りを潜め、吐息も短く小さくなっていく。
掌から伝わる温度は凍えそうなほど冷たくて、脈は弱く速い。手にかける首は少しでも力を込めれば折れてしまいそう。それに何も感じない訳がない。今だって、トキの心は搔き乱されっぱなしだ。だが、それももう直ぐ終わる────そう思った時、背後から発砲音が聞こえた。
「……ッ!」
身体に沁み込んだ条件反射。銃声が聞こえたら体が回避行動を取るようにトレーニングを積んでいる彼女は飛び退こうと全身の筋肉をばねのようにしならせたが────このまま回避したら彼に銃弾が当たってしまう可能性を考えた。
銃声が聞こえた方角、距離……それらを元に弾道はある程度予想できる。恐らくは当たらないだろう。だが、跳弾した場合は話は別だ。そうなってしまうと弾が何処に当たるかは誰にも予想できず、半ば運任せになってしまう。そして、運悪く彼にでも当たってしまったら……考えるだけで身の毛がよだつ結末だ。
勿論、彼が通常の状態であれば急所や内臓に当たらない限りは弾丸そのものが致命傷にはならないはずだ。だが、今の彼は万全とは言い難い。何がきっかけで、何が契機になって息を止めるか分かったものではないのだ。被弾は可能な限り避けた方が良いだろう。
そこまで一瞬で思考したトキは先生に覆いかぶさる。その数瞬後、背中に鋭い痛みを感じた。言い逃れができない被弾の証。これまで向けられた攻撃の悉くを回避、防御していたトキは今初めて手傷を負った。
勿論、この程度はどうという事はない。この程度の口径の弾丸一発で戦闘行動が出来なくなる訳もないし、戦闘力が落ちる事もない。だが、初めて己に傷を与えたのがネルではなく彼女だった事が意外であった。
「先生から、離れてください……!」
「────生塩ノア先輩」
トキから見れば随分と頼りない、サブアーム同然の銃を真っ直ぐと向けるノア。全身で戦う意志、抵抗の意志を示す彼女を見て、何処かほっとする自身が居たことにトキは気付いた。これで暴力の矛先を変えられる……と。
トキはノアの言う通り、先生から距離を取る。そして、すたすたと歩いていき……今も意識と無意識の境界線に立つ彼が戦闘の余波に巻き込まれない様に位置を取る。その意図に気付いたノアは内心で彼女に対する謝意を示し……彼女が用意した領域に足を踏み入れた。
「……降伏は」
「はい、しませんよ」
「……そう、ですか」
本日何度目かの降伏勧告は、これまでと同じように『一昨日来やがれ』と言わんばかりに突っ撥ねられた。どうやら、そんなにも主たるリオの目的は受け入れ難いらしい。
大勢の為にアリスを殺す……その手段と目的の正誤を、トキは考えないようにしている。道具は口を利かない、意志を持たない。それを決めるのは振るう主。ただ、主にとって使いやすい道具であれ────それが、C&Cとしてのトキの全てだ。
「降伏はいつでも受け付けます」
トキはドローンに持たせていた愛銃を手に取る。それに呼応するようにノアも銃を構えるが、その顔色は良いとは言えない。勝てない、と心のどこかで悟っているのだ。片やセミナーの書記、片や戦闘のスペシャリスト。勝負を100回やっても結果は見えている。勝ち目なんて無いに等しいが、それでも……ノアは目を逸らさず、前を見る。勝率が0%だと分かっていながらも、無謀な挑戦と嘲笑されようとも、全ては彼の為に。
酸欠により霞んでいた意識が鮮明になった先生も思考する。真っ当な手段ではまず間違いなく勝てない。ノアとトキでは戦闘能力の差が大き過ぎるのだ。己が万全であれば防戦くらいなら可能だが、今はそれも難しい。
加えて、彼女と戦っていたはずのネルの事も気になる。彼女が負けたとは思っていない。恐らくは隔壁の中に閉じ込められているだけだろう。タブレットに映るマーカーの動きから彼女がトキを追って此方に向かっている事は分かる。隔壁の枚数は不明だが、最低でも10分……否、先生の動き次第で短縮可能だ。
その時間をノアと己で稼げるか────そこが勝負の分かれ目だろう。
▼
トキとノアの勝負は酷く一方的な展開だった。彼女の代名詞とも言える各種ギアはパージされているが、そもそも彼女は身一つの状態でもC&CのNo.2であるアスナに匹敵する強者。ノアが勝てる相手ではない。
攻めるトキと、防戦一方のノア。防戦が成立しているのも先生の援護や支援があるからで、システムにより引き延ばされる体感時間をフルで使ってトキの鋭い攻撃を回避することに専念する。隙を見て反撃を差し込もう……なんて甘い考えは疾うに消えた。カウンターに意識を割かれたその瞬間に勝負が決する嫌な予感があったのだ。彼女の冷たい瞳はずっとノアの先を見ている。
攻撃の後隙、僅かに長い次の攻撃までのインターバル。誘っている、と気づくまでに時間は掛からなかった。カウンターを誘発しようとしている。しかも、それが抜群に上手い。先生と接続していなければ確実に隙と見做してカウンターを行い、逆に手痛い一撃で以て沈められていただろう。
別にノアの勝利条件はトキの撃退ではない。先生と目的を共有している今、時間稼ぎに徹して援軍……ネルを待てばいいのだから。だが、戦闘開始から2分も経っていないのに此処までジリ貧になっているのは非常に拙い。
「……ッ!」
通算18回目の直撃。それと同時に先生が展開していたシールドが甲高い音を立てて砕け散った。再展開は不可能。ここから先は身一つでトキの攻撃を耐えなければならない。
ノアはトキの手札を全て知っており、戦闘を何度か見ていた経験から次に取りそうな手も大体の予想が可能。そこに先生の未来予知に等しい指揮が加わればトキが取る手段は全て筒抜けにも等しい。実際にノアはトキの行動を全て先読みし、その上で自身の行動を決定していた。
ノアの不運は更に続く。トキの攻撃を回避しながら真っ当に射撃戦を行っていた彼女であるが、突如として銃から正常に動作せず弾丸が発射できなくなってしまった。装填不良……弾薬がマガジンから
トキはその隙を見逃す訳もなく、一瞬の驚愕を突いてトリガーを引く。その弾丸は狙いを逸らさずノアの銃に命中し、彼女の手から獲物が零れ落ちた。ノアの後方、3m。トキが眼を光らせている今、彼女に背を向けて銃を取りに行くのはあまりにも現実的ではない。しかし、アレが唯一の武装であるため取らない限りは太刀打ちはできないのだ。
────詰み。その二文字が、脳裏を過ぎる。
「……勝負は決しました。降伏をお勧めします」
「それは、できません……!」
「……先生も同意見ですか?」
「……そうだね。ノアが諦めないなら、私も諦めないさ。それに────」
先生がゆらりとした笑みを浮べた途端、トキの背筋に冷たい汗が流れた。どうしようもない程の嫌な予感。彼女は悟る、可能な限り最速で彼を潰さなければ────と。その本能の赴くまま彼女は拳を構えて突貫する。狙う先は彼の顎。そこを霞めて脳を揺らし、脳震盪を起こして彼の意識を奪う。
────必ず間に合う速度だった。彼が何かを起こす前に確実に彼の意識を奪える距離だった。しかし、先の一件で彼に対して力を振るう事に忌避感と痛みを覚えてしまっていたトキは僅かに迷う。その迷いが雌雄を決する要因になり……彼女は、彼の行動を止める事が叶わなかった。
「まだ勝負は決してないよ」
その言葉と共に、戦場となっていたビルの屋上が崩壊する。極めて効率的かつ芸術的な崩落はビルに仕込まれた自壊プログラムを局所的に動作させた結果。彼はノアとトキが戦っていた間、ずっとタイミングを見計らっていたのだ。このプログラムを動作させるチャンスを。
「先生……!」
先生が展開したシールドに包まれながら落下するトキは、ノアを横抱きにして落下する先生を見る。そこに浮かぶ表情は余裕に満ちた勝ち誇った顔……ではなく、額に脂汗を滲ませ、余裕なんて一切感じさせない顔をしていた。唇の端からは血が一筋零れ、眼球は充血し切っている。だが、瞳に灯る戦意と意志だけは全く消えていない。
落下したのは屋上から3階層分程度だろうか。倒壊した貯水タンクが作った水溜りに足を濡らし、トキは油断なく各種ギアを再び装着する。落下した階層、トキの前方10m先に見慣れた人影。想像よりも随分早い到着だ。恐らく、彼が何かしらのサポートをしたのだろう。
「ごめん、あとは任せるね────ネル」
「あぁ、任せろ先生。無茶はすんなよ」
「ネルの方こそ」
短いながらも強固な信頼関係を思わせるやり取り。バトンタッチを果たした先生はノアと共に窓から飛び降りた。
この場に残されたのはトキとネルの2人。
「って訳で、選手交代だ。先生潰すためにアタシの前から逃げるとはいい度胸してるじゃねえか、オイ」
ネルの感情は分かりやすい怒りを象っていた。額に浮かび上がる青筋、砕けんばかりに握り締められた銃のグリップ。獰猛な笑みと、口から覗く剥き出しの犬歯。
今受けているリオの命は『先生の捕縛』だ。ネルの撃破ではない。故にネルを無視し、彼の元へと急行しなければならないのだが……眼前の彼女はそんな事を許してくれないだろう。少しでも彼女から意識を逸らした途端、あの手に持つ銃が向けられると分かっている。
故に、多少遠回りでもネルを倒さなければならない。
建物内というスラスターの機動力を十全に活かせない閉鎖空間、タンクにより形成された深さ数cmの水場。総じて地上や屋上で戦っていた場合よりも総合的なスペックは落ちるが、問題にするほどではない。この状況でも充分にネルを相手取れる。
「……押し通ります」
「上等だッ!」