シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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ボロボロになった銀の部屋。薬莢と銃弾、布の切れ端、血痕、アビ・エシュフの残骸。部屋の酸素は元に戻っている。重力加速度も平地と同じ1G。変化させた環境は綺麗さっぱりフラットな状態だ。
部屋の中央には大の字で仰向けに寝転んでいるネルが居た。その少し離れた場所には気道の確保された楽な体勢で意識を失っているトキ。
勝ったとはいえ、余裕綽々の勝利ではなく接戦の末の勝利。意識を失っていないのが奇跡だ。もう指一本動かせそうな気がしない。だが、何時までも此処に居る訳にはいかないため、少し休んで動けるようになったら伸びているトキを背負って外に出るか────そう思った直後、重厚な扉が静かな音を立てて開いた。
「……よぉ、先生」
「……ネル」
扉の先に居たのは、この部屋のコントロールルームで各種操作を行い、結末を見届けた先生だった。ネルがぶち抜いた開放感溢れる風穴からの逆光でその表情は見えないが……きっと酷い顔をしているだろうという確信があった。
彼からすれば大事な生徒が2人、全力で殺し合ったようなものだ。優しい彼が歓迎する訳がないだろうし、ましてや喜ぶとは到底思えなかった。
「いいのか? こんな所で道草食って。目標はアリスの奪還だ。アタシに構ってる暇なんて……」
「それがネルを見捨てる理由にはならないよ」
相変わらずの彼は室内に足を踏み入れ、ネルのすぐ傍まで近寄り膝立ちになって視線を低くする。するとネルの眼に彼の表情が映った。
予想していた通りの酷い顔。泣きそう、という訳ではないが、身に余る痛みにのたうち回っているかのような。彼自身が傷ついたとしても、こんな辛そうな顏はしない。彼の表情を歪ませるのはいつだって他人の痛みだ。自分が傷つく事よりも、彼は生徒が傷つくことを心底嫌い、疎んでいる。
そんな彼が生徒を傷つける所業の片棒を担いだばかりか、呼吸に不可欠な酸素まで奪ったのだ。これらを彼はきっと許さない。誰が許しても、誰が認めても、彼は彼を責め続ける。それが死地に立つ生徒に何もしてやれなかった自身の罪だと思って。
勝つために必要なことだった。ネルの願いを聞いただけだ。そんな風に彼は割り切る事ができない。ネルは彼の痛みに対する姿勢を美徳……とは言い切れなかった。他人の痛みに共感し背負うのは確かに美しいかもしれないが、ともすれば傷の舐め合いにしかならない。それに彼は他人の傷を背負うばかりで、自身の傷は生徒には触れない場所に追いやっている。そんなのは一方通行が過ぎるだろう。
覗き込んだ彼の蒼い双眸は見たことが無いほど揺れていた。そんな顔もできるんだな、なんて思うほどに……普段の飄々として掴みどころのない彼からかけ離れている。
ともすれば実際にボロボロなネルよりも痛みを噛み締めている彼にネルはふっと笑いかけて。
「そんな辛気臭い顔すんな、アタシは勝ったんだぜ?」
「……それでも、君が傷ついた事実は消えない。こうしないといけない状況を作ったのは私だ」
「最後に納得して、実行したのはアタシだ。気にするな、ってのは無理だろうが……アタシは先生にそんな顔をしてほしくて戦ったんじゃねぇよ」
ネルは地面に手を突き立ち上がる。全てを出し尽くしたあの戦闘からまだ10分も経っていないのにも関わらず、立ち上がる事ができるほどに回復しているのは流石と言わざるを得ないだろう。だが、できるのはあくまで立ち上がる事だけ。それ以降は出来そうもない。
くらり、と視界がブレる。立ち眩みだ。当然、受け身を取れる体力なんて無いため地面に倒れたら頭を強打するだろう。失った平衡感覚、重力に引かれて落ちるが……それよりも早く、ネルの体に回された彼の腕が彼女を抱き留めた。
「無理はしないで。動くのもしんどいだろう?」
「そこまでじゃねぇよ。だが……一人で歩くのは辛いな。肩貸してくれるか、先生?」
「別にいいけど、私とネルの身長差だったら却って辛くない?」
苦笑いを浮べる彼は成人男性。その身長は小柄なネルと比較すると頭二つ分以上高く、肩の位置も相応に差がある。彼の云う通り、肩を貸した方が逆に辛い姿勢になることは間違いなかった。
言外に『チビ』と言われているような気がしなくもないが、彼にそういう意図がない事はちゃんと分かる。あくまで彼は現実問題を言っただけ……それはそれでムカつくが。
まあ仕方ないと彼女は溜息を吐いて。
「じゃあ背負ってくれ。しがみつくくらいの力はある。先生の事だ、どうせアイツも運ぶんだろ?」
そう言い、ネルはトキを指差した。
「アタシ等を運ぶのに時間は掛けられないだろ? なら一遍に運んだ方が効率的だ」
「……分かったよ。辛くなったらいつでも言ってね」
曇天を穿つような笑みを浮べた彼はネルを背負い、眠るトキを横抱きにして部屋の出口に足を向ける。彼は勝手知ったる様子で部屋を出て、瓦礫の山と化した廊下を歩き、生きているエレベーターに乗り込んで1Fのボタンを押し込んだ。
微弱な振動を味わいながら、ネルは最も知りたかった事を先生に問いかける。
「なぁ、先生。先生から見て、アタシはどうだった?」
「勿論────最高に、カッコよかったよ」
その返答に心底満足したネルは犬歯を剥き出しにした笑顔を浮べた。
▼
「ネル先輩ッ! 大丈夫!?」
「大丈夫な訳ないでしょお姉ちゃん……こんな血だらけで……」
「大丈夫だからぴーぴー騒ぐな、頭に響く」
地上に降りた3人を迎えたのはゲーム開発部の3人。彼女達もずっと気が気でなかったのだろう。背負われているネルの姿を見るや否や安堵の顔を見せ、その傷の深さに気付くや否や心配の声を投げかける。
忙しい表情筋だ、なんて思いながらネルはげんなりした声で少女達の心配を両断した。先ほどまで酸欠で頭に酸素と血が回っていなかったのだ。今は多少マシになったとはいえ、まだ後遺症のようなものは体に残留している。大声を聞かされるのは少しばかりしんどかった。
尤も、心配される事自体を嫌っていないため随分彼女達に対して甘くなっているが。アカネが見たら『変わりましたね、部長』と言う事間違いなしだろう。
「他の奴らは?」
「アスナ、カリン、アカネは傷が深くてまだ動けないから、少し離れた区画のビルで休んで貰っている。ユウカ、ノア、コユキは動けるようになったから、後に控えている事の為に動いて貰っているよ」
「コユキって……アイツも居るのか。あの問題児が、ねぇ……」
意外な人物がこの件に一枚噛んでいると聞いて、ネルの顔が分かりやすく驚きに染まった。まさかあの問題児と書いてクソガキと読むセミナーきってのトラブルメーカーが居るなんて思いもしなかった。
ネルが知るコユキは端的に言えば、話が通じない倫理感の欠けた爆弾魔。動いた挙句に勝手に火種を持ってきて炎上する生きた厄災兼火薬庫が黒崎コユキだ。
当然リオへの反逆に参加するような者ではなく、寧ろ保身のために何方の勢力にも関わらないタイプだと思っていたが……彼の口振りから察するに、どうやらかなり頑張っていたらしい。
────アイツも変わったのかもな。
そう思い何処か感慨深さを抱いたネルであるが、この件が終息した暫く後にコユキが問題を起こし彼女自らの手で金庫にしか見えない反省部屋に叩き込む羽目になるのは別の話である。
「クラフトチェンバー」
彼は音声入力でタブレットを操作し虚空から真白いブランケットを2つ取り出す。受け取ったモモイ達は彼の意図を察した後にそれらを地面に敷く。人一人分なら余裕で横になれる広さだ。
彼は「ありがとう」と少女達にお礼を告げ、片方にネルを寝かせてもう片方にトキを寝かせた。女の子を地面に座らせるのは如何なものかと思ったのだろう。そういった所は妙に紳士的であった。
「手当てをするよ。動かないでね」
「……前から思ってたんだが、それは一体どういう手品なんだ?」
「企業秘密だよ。知ったら最後、シャーレに永久就職だからね?」
悪戯っぽく笑い、ウィンクのおまけまで。
何かしらの制限があるのかもしれないが、それを差し引いても場所を問わず物資を持ってくることができるのは破格と言う他ない。これがシャーレに与えられた特権、或いは権限か……なんてネルは思いながら、彼の背後で「永久就職……」と呟いているミドリは見なかったことにした。ついでに発言も聞かなかった事にする。
「骨もそうだけど、内臓系と筋肉の断裂が特に酷い。あとは脊髄も傷ついている……本当に、無茶したんだね」
「まぁな。あんま認めたくないが、無茶を通さなきゃアタシが負けてた。それくらい強かったよ、アイツは」
血を洗い流し、清潔になった傷口に丁寧な処置を施しガーゼや包帯を巻いていく。水や消毒液が沁みて反射的にぴくりと体が反応するが、手間をかけさせたくないネルは何とか抑え込んだ。
「……随分と手際が良いな、先生」
「私は脆くて弱いからね。傷つくことなんて日常茶飯事さ。それに、私は戦えない。皆の後ろで指揮をする事しかできない。だからせめて、これくらいはできないと」
彼の医療技術は、治療の手際の良さは一朝一夕で身に着くものではない。こういった戦場の最前線を何度も経験しなければここまで上手にならないだろう。ともすればC&Cが抱える救護班に匹敵、或いは凌駕するほどにその腕は確かだった。
表面的な傷の処置は瞬く間に終わって、残りは内面的な部分だけ。これらは専用の設備等が無い今はどうする事も出来ないため、細胞活性剤と治癒、再生に特化させたナノマシンを体に打ち込んで様子見。
できる事を一通り終えた彼はタブレットをもう一度操作し、何かを呼び出す。黒のスカートと同色のスーツジャケット。白のブラウス。青のネクタイ。メカニカルなデザインのジャケット。ミレニアムの制服一式だった。
「汚れたまま、ってのは嫌でしょ? ミレニアムの制服、置いておくよ。好きに使ってくれて大丈夫だから。サイズはアカネに聞いたから多分合ってると思うけど……もし違ってたらごめんね」
「面倒見が良いな、本当に」
「私にできる事なんてこれぐらいだからね」
穏やかに微笑んだ彼はタブレットを仕舞い、少し真剣な表情を浮かべて。
「応急手当はこれでお終い。何処か気になる場所とかある? 包帯の締め付けとか、些細なことでも」
「特にはねぇな」
「そっか、なら良かった」
「……なぁ、
「お誘いありがとう。今は特定の学園に肩入れする訳にいかないから良い返事ができないかな。でも、シャーレが解体されて路頭に迷ったら頼らせてもらうかもね?」
「お? 言質取ったぞ、先生?」
互いに笑みを交わし、未来の約束を契る。ネルは新しい玩具を与えられた子どものような屈託のない笑顔を浮べていた。今日みたいに彼と轡を並べて戦える日が楽しみでならないのだろう。
その笑顔を見る度に、先生の胸は引き裂かれるかの如く鮮烈な痛みを訴える。
────先生は知っていた。いつか必ずシャーレがその役目を終えて解体される事を。その時、自分がいない事を。
だから、この約束は初めからどうやったって叶えることができない。作り上げた風景の中に彼の居場所は何処にもないのだ。
彼は悲しそうに一瞬だけ眼を伏せる。果たせない大切な約束を胸の奥に仕舞い込んで。そうして彼はもう一度眼を開く。その直前に生徒との接続を切断し、システムを切ったのだが……再び開いた彼の双眸、その右眼は未だ蒼かった。左眼は元の色彩に戻っているのに。
だが、それも一瞬。長い睫毛に縁どられた彼の瞳はどちらも元の色に戻る。アロナの教室の色ではなく、彼本来の眼に。だが、システムを切断したのにも関わらず一時的にとはいえ色彩が戻らなかった事を、彼は把握しておくべきだった。
この時点で彼は自身の体で起きている変貌と変換を知っていれば、何か手を打てたのかもしれないのに。
先生はその手に応急手当キットを持ち、立ち上がる。
「これ以上悪化しない様に、本当はベッドか何かに縛り付けたいんだけど……それは帰った後にアカネに頼めばいいか」
「おい先生、流石に冗談だよな?」
「ふふっ、どうだろうね?」
先と同じような悪戯っぽい笑み。だが、先と異なるのはその声音と表情に冗談が見当たらない事だろうか。まさか本気でアカネに頼むつもりではないだろうな、とネルの背筋に冷たいものが走る。アカネなら本当にやりかねないのだ。彼の頼みだから、という訳ではなく、その行為がネルのためなるのならば彼女はやる。
「じゃあ、私はトキの手当てをしてくるよ。すぐ傍にいるから、何かあったら呼んでね」
振り返り、手を振る彼に応えるようにネルもぶっきらぼうに手を振る。そして、彼が完全に背を向けたタイミングで彼女はブランケットの上に寝転び。
「……ふ、ぅ────」
肺の中の空気を絞り出すように息を吐いた。治療を受けたとはいえ傷が癒えたわけではない。深呼吸で空気を取り込めば肺が痛み、吐き出すと気道が軋む。身体に力が入らず、起き上がることすらできない。随分と無茶をしたもんだ、と何処か他人事のように思っていると「ネル先輩」と声が聞こえて。
「本当に、ありがとうございます」
ゲーム開発部の少女達3人がネルの傍で深く頭を下げていた。彼女達の顔には感謝と罪悪感と、申し訳なさ。
感謝はいい。だが、罪悪感と申し訳なさの感情は不要だ。そんな感情の為にネルは戦ったのではない。
「礼なんざいらねぇよ。アタシはアタシのやりたい事をやったまでだ」
「で、でも……その傷……」
「こんなん唾付けときゃそのうち治る。頑丈なのが取り得なんでな。誰よりも早く復帰してやるよ。だから、そんな顔をするんじゃねぇ。こっちまで気分が悪くなる」
同情してほしくて戦った訳ではない。痛みを覚えてほしくて戦った訳ではない。ネルは己の心に従い、やりたいと思った事、やるべきと思った事をやったまでだ。それが結果的に彼女達を助ける事になっただけ、故に気に病む必要は無いとネルは言う。
「笑いながら救いに行くのがテメェ等だ。なら笑え。笑って
「そ、それは……」
「なら、テメェがやるべき事は決まってるだろ? ほら、答えろ、
「……アリスちゃんに心から笑ってもらえるように、私達も笑顔でいる事……?」
「100点だ」
ネルは手を伸ばし、ユズの頭をわしゃわしゃと撫でる。彼女が満足した頃にはユズの髪はぼさぼさになっていたが、そこまで気にするほどの事でもないだろう。
「先生の用事が済んだら、アタシ等を置いて中央タワーに行け。怪我人を運んでいる暇はねぇだろ。アタシ等は大丈夫だ。今更ドローン程度に遅れは取らねぇ。あんな雑兵、寝ててもぶっ壊せる」
ネルは「流石に今すぐは厳しいけどな」と付け加えて、先生が置いていった2丁のMPXと大量のマガジンを見る。カスタムがネル好みのものではないが、別に扱えない訳ではない。そもそも、彼女は銃火器のスペシャリストだ。扱えない銃なんて無いに等しい。
手持無沙汰になった手でネルは銃を握る。掌の重さを感じながらネルは適当に弄っていると、『あぁ、伝え忘れたことがあった』と思って。
「どうしても礼がしたいってなら、チビを必ず助けろ。エンジニア部、ヴェリタス、セミナー、C&C。アタシ達が死力を尽くして此処までバトンを繋いだんだ。それを無駄にするな。今までの全部を吹っ飛ばす痛快なフィナーレを飾って来い。リオの鼻を明かせよ。期待してるぜ?」
「……うん! ネル先輩、ありがとう!」
突き出されたネルの拳に3人は軽く握った拳をこつんとぶつけ、その胸に彼女の意志を背負った。
▼
まるで水中にいるかのような心地だった。耳に届く音が不鮮明で、眼に入る光が不鮮明で。意識がまだ覚醒していないのだ。眠っている訳でも、明晰夢を見ている訳でもない。例えるなら、二度寝に入る直前のような。意識が何方にもいて、何方にもいない状況。
その状態から、トキは意識の覚醒を選び取った。揺らめく水面のような音が鮮明になり、光が眼を突き刺す。薄っすらと開いた視界の先、白の姿を見た。誰かが自分の前に居る。それも、とても近くに。
「……ここは」
「あ、気づいたかい?」
声はやはり思った通り、とても近くから聞こえた。視界のピントがあって、ぼやけた白のシルエットが像を結ぶ。腕章とコート。その顔立ち、声。見間違え様もない。聞き間違えもない。この人は。
「先生……」
呟き、トキは彼を呼んで……疑問が生まれる。何故彼は自分の近くにいるのだろうか。そもそも、ここは何処なのだろうか。自身が覚えている最後の光景は、あの部屋でネルと────そこまで思い出して彼女は「あぁ」と吐息に似た声を漏らした。
「私は、及ばなかったのですね」
その声には悔しさと口惜しさ。それから僅かな安堵が滲んでいた。口元に浮べた微笑は自身を真っ向から上回ったネルに対する賞賛か、ずっと抗い続けた先生への呆れか。
「……これが、敗北ですか」
噛み締めた苦い味。土と泥と、血の混合物。こうした荒事で言い訳のしようがないほど負けたのは生涯で初めてだった。
痛む全身がトキの敗北を物語り、一切の妥協なく懸命に彼女の手当てをする彼が敗戦処理を体現する。どんな立場であったとしても傷ついた生徒を放っておけなかったのだろう。彼のポリシーに反する、という理由で。相も変わらずお人好しだ。
……本当に、よく似ている。真っ直ぐな彼と、少し捻くれて分かり難い彼女。両方とも共通しているのは他者を慈しみ、愛する心。溢れんばかりの他者愛は、自己を捩じ伏せて余りあるもの。この2人は自分の為には怒れない。自分の為には憎めない。2人を突き動かすのはいつだって誰かの涙だった。
だから、こうなるのは必然だった。泣き顔を覆って、誰にもばれない様に仮面を被り悪役を演じる彼女を彼が放っておける訳がないのだ。理不尽な世界に磨り潰される幸福を見なかった事にできない彼女のように。
敗北したというのに心がこんなにも晴れやかな理由も分かる。トキ自身、この結末に納得しているのだ。
あぁ、そうだ。これでよかった。これでよかったのだ。トキが負ければリオもきっと諦めがつく。そもそも、この話はおかしいのだ。世界の為にアリスを殺すのも、その執行人がリオなのも。ふざけるのも大概にした方がいい。何故、彼女達がこんな重い荷物を背負わなければならないのだ。
命を落とすアリスが幸せな世界に居ないのは許せない。世界の為に身を削ったリオが幸福の輪に入れないのも許せない。努力や献身は報われるべきだろう。それが他人のためのものであったのならば猶更だ。
────彼も、そう思っているのだろうか。そう考えたトキの思考を読んだかのように、彼は嫋やかな微笑を浮べる。まるで『あとは任せて』と言わんばかりの表情。それを見てトキは『彼ならきっと大丈夫だ』と安堵を抱く。鏡映しのような彼がいれば、彼が彼女に寄り添えば……きっと、大丈夫だ。そう信じられる。理論に基づかない善意でリオが誰かを救ったように、彼もリオに手を差し伸べてくれるはずだ。後は願うだけだ。差し出された彼の手に、彼女が救われてくれることを。
「……処置は終わったけど……何か気になる箇所とかあるかな?」
「いえ、特には。丁寧な処置をありがとうございます、先生」
「これ位全然だよ」
彼は苦さを抱えた笑みを浮べる。誰かを傷つける事も、誰かが傷つく事も好まない彼は当然の如くトキの傷にも痛みを覚えている。だが、それを口に出す事はできない。彼女を傷つけたのは『アリスを助けたい』という彼の意志だ。同情は許されない。憐憫は許されない。勿論、後悔も。彼女と相対した時点でその権利は剥奪されている。
せめてもの想いでこの場の痛みは全て背負っているが……所詮は自慰行為に過ぎない。誰かを選び、誰かを捨てた自分の罪深さは嫌と言うほど理解している。生徒全員の味方、なんていう彼の信念は裏に蠢く醜さを覆い隠す方便だ。
少なくとも、今の自分が胸を張って『生徒全員の味方』だとは言えそうもない。トキを傷つけ、リオを傷つけたこんな自分が。もし傲慢にもそう嘯くのなら『どの口が』と罵られて当然だろう。嘘吐き。ペテン師。虚言癖。フェイカー。詐称者。
────あぁ、本当に塵屑だ。
彼は俯き、嘲笑を浮かべる。いつだって救えないのは自分だった。救うつもりがないのも自分だった。最後まで許せないのも、愛せないのも自分だった。
正しさという麻酔。善意という針。縫い付けて、誤魔化して、継ぎ接ぎだらけ。誰の為の正しさなのか。誰の為の善意なのか。アリスの為? ケイの為? リオの為? トキの為? 違う方を向く彼女達の正しさは交わらない。異なる誰かを想う善意は衝突を生む。
彼女達全員に笑ってほしかった彼はどちらを向けばいいのか。誰を想えばいいのか。探し求めた問いの正解はない。だからせめて、伸ばされた手だけは握れるように。助けを求める声だけは聞き逃さぬように。
彼がやれる事なんて多くない。皆のように天を舞うような才覚なんて持ち合わせていないし、できる事なんて悔やみながら、迷いながら、それでも一歩一歩前に進む事だけ。無力を噛み締め、這い蹲り土を食み、決して拭い去れない彼だけの地獄を抱きながら……現実には屈さず。いつまでも間違えたままでもこの手で何かが出来る以上、必ず救えるものがあると信じて。
────トキは彼をよく知らない。会話をしたのは数えられる程度。初対面の日は今日から1ヶ月も遡らない。彼とやった事といえば取引と戦闘だけ。だから知っている事なんて殆ど何も無い。彼がどんな思いで、どんな結論を出して此処に来たのか……何を望んだのか。知らないことだらけだ。
でも、それでも……彼が誰かから大切に想われている人だというのは分かる。彼に関する噂も判断材料の1つであるが、一番は彼を見つめる生徒の眼差しだ。彼を見つめる目の温度は暖かく、柔らかかった。あれが愛でなければ何なのだろう。
だが、彼は寂しそうだった。彼の横顔は誰も気づかないような孤独の香りを孕んでいる。少なくとも、トキが見た彼はどんな状況でも孤独感を感じていた。
あんなにも愛されているのに、誰かに囲まれているのに、彼は消えない孤独に苛まれている。生徒と教師だから壁を作っている、という訳ではない。彼とそれ以外にはどうしようもない程の溝が横たわっている。断絶しているのだ。愛に気付く事ができても、向き合う事ができても、決して応える事はできない。
……そんな彼があまりにもあんまりであったから。
「先生は、頑張っていると思います」
「……え?」
彼はその表情を分かりやすく驚愕で染めて。
「必死で、誰かの為に頑張っています。他の方がどう思っているのかは存じませんが、少なくとも私はそう思っています。ですから、どうか……そのような顔をしないでください」
何処かに根差した彼の孤独の棘を取り去るように。孤独こそが自身をこの世界に縫い留める楔だと言わんばかりの彼に、もう1つ縫い留めるものを。彼の顔からいつか孤独が消えるように。或いは、孤独すらも愛せるように。
トキは祈る。彼の首を絞めた両手を組んで。彼の為に。彼と同じ孤独を抱える彼女の為に。
「……ははっ。そっか……そうだね。ネルにも同じことを言われたよ。全く、私は駄目だな。生徒に慰められるなんて」
「それでも良いと私は思いますよ。先生も私達と同じ人間なのですから」
トキ達と同じ……そう言われた事がよほど嬉しかったのか、彼は屈託のない笑みを見せてくれた。初めて見る彼の表情。まるで陽だまりのような、木漏れ日のような。戦場に似合わない姿はきっと彼本来のものなのだろう。トキにはそれがとても眩しく見えた。
そう、彼とトキ達は同じだ。何かを想う心があって、何かに憤る心があって、何かに悲しむ心があって、何かを愛する心がある。彼だって人間だ。完璧な超人でも、聖人君子でも、ましてや救世主であるもんか。彼は
それが、彼について何も知らなかった彼女が知った────決して揺るがない彼の真実。
「同じ、か……」
呟く彼は酷く透明な表情で空を見る。暗い夜が明けた先にある青空を。例え先の見えない暗い道であっても、道の道中には必ず光はあるのだと雄弁に語る空は彼の眼と同じ色彩。連邦生徒会長の色。何か思う所があったのか彼は「君は……」と何かを言いかけたが、口を噤んで言葉の代わりに笑みを浮べた。まるで手向けの花のように。
そして、彼は音を立てずに立ち上がって。
「さて……私はそろそろ────」
行くよ、と言い切る前にトキの方から可愛らしいくしゃみの音が聞こえた。
「先生、私にも服を頂けませんか? この格好は少々肌寒く……」
夏の足音が聞こえているとはいえ、朝はまだ冷え込む。トキの纏うボディスーツに防寒防熱対策が施されているかは不明だが、そもそも布面積が少ないため仮に施されていたとしてもこの寒さは凌げないだろう。
「勿論。制服のサイズは幾つかな?」
「恐らくMです」
「恐らくなんだ……」
メイド服の次に普段使いするであろう服のサイズを恐らくでしか把握していない事に若干驚いた彼は苦笑いしながらシッテムの箱を操作。衣類をソートしてミレニアムの制服、Mサイズを検索する。
「はい、制服を含む日用品は全てリオ様が手配してくださいました」
「メイドの癖に主人に世話させてたのかお前」
少し離れた場所から鋭いツッコミを入れたのは多少動けるようになったネル。彼女は今から着替えに向かおうとしていたのかゲーム開発部の少女達に肩を貸して貰いながら立っている。恐らく場所を変えるつもりなのだろう。先生もいるこの場で着替えるのは流石に憚られた。
別に彼が席を外しても良かったのだが……トキの元から離れようとすると何故か彼女から痛い視線を感じるため離れられない。
甘えられている、のだろうか。もしそうであるのならばとても嬉しい。頑張り屋さんで、寂しがり屋で、それでいて感情表現が変な部分で不器用な彼女がそんな一面を見せてくれる事は。彼女が憂いなく自分を頼れるように、より頑張ろうと思える。
そんな感情を呑み込んで、微笑を浮べて。
「制服はあったけど……どう? 自分で着れそう?」
「無理です。指一本動かせそうもありません」
「即答かぁ」
彼は遠い眼をしていた。
▼
必要以上に触れないように細心の注意を払いながら先生は横たわるトキに制服を着させる。着付け自体は何度かやった事はあるため段取りで手間取ることはないが、それはそれとして神経を使う。加えて、手の感覚が死にかけているため、ボタンを留めたりネクタイを締める仕草は勿論、スカートのファスナーを上げることすら覚束ない。
感覚がない癖に震える指先を抑え込み、彼女の体に可能な限り触れないように、それでいて丁寧に制服を着つけるというのは中々に骨の折れる作業であった。
「……これ、どう見ても事案だよね」
100人いたら100人がセクハラと答える光景。仮にカンナやキリノ、フブキ……ヴァルキューレの生徒がこの場に居たなら、瞬く間に彼の両手に手錠が掛けられていただろう。彼の云う通りどう見ても事案。現行犯逮捕間違いなしだった。
「心配は無用です。仮に捕まって裁判に掛けられたとしても、精一杯弁護させていただきます」
「裁判に掛けられた時点で割と詰みだからね?」
「面会には訪れさせて頂きます」
「有罪になって刑務所に放り込まれる前提かぁ」
刑事裁判における有罪率は99%を上回るため裁判に掛けられた時点で詰みが見えているのはあながち間違いではないが、なんて彼は思う。キヴォトスの司法制度がどうなっているのか詳しく調べていないが、発言権や黙秘権が行使できることを願うばかりだ。もし仮にコハルが裁判官だったら間違いなく死刑であろう。
今まで事情聴取くらいはされた事があっても逮捕された挙句実刑判決を受けた事はない。もしあったら末代までの恥だ。尤も、どうせ自分が末代だろうが。
家庭や家族なんて……今よりも深い繋がりは望むべきではない。望む資格もない。どうやったって置いて逝ってしまうから。ずっと一緒に居る事なんて出来ない。作れる時間なんて長くて1年程度。そもそも、明日の命すら危ういのだ。それだったら生徒と先生の距離感が最も心地良い。
いつか、彼女達が先生を忘れてくれるように。彼との思い出をより大きな幸せで塗り潰してくれるように。彼女達にとって自分が代替できる何かであってほしい。過去にしてほしい。もし思い出してくれたとしても、その記憶が痛みではなく幸福でありますように。
先生は最後にトキのネクタイを結ぶ。鮮やかな青色。今日の空と同じ色。結ぶのも慣れたものだ。シャーレの制服にもネクタイはあるし、最近だとアリスに着付けをせがまれたり。思い出、というには散らかっているかもしれないが記憶なんて得てしてそういうものだ。脳に残留する切り取られた瞬間が時系列関係なしに配置されている。思い出して、組み換えて、時間が経てば入れ替わって。
きゅっとネクタイを締めて、全体のバランスを見る。特段不自然な部分はない。
「どう? 息苦しかったり、傷が痛んだりとかは」
「特にはございません。感謝します、先生」
「これ位全然だよ。お礼なんて……」
「それでも、です。私の感謝を先生は受け取ってくださらないのですか?」
流石にそんな事を寂しそうな表情と共に言われたら彼も引き下がる事しかできない。感謝は素直に受け取るべき、なんて誰かが言っていた気がする。受け取らなかったら誰かの感謝の感情はそのまま宙ぶらりんになってしまうから。
「……いや、有難く受け取らせてもらうよ」
微笑みながら彼はそう言って、トキの感謝を愛おしそうに受け取った。それで些細な蟠りも雪のように解け消えて、彼女も穏やかな顔を浮かべる。だが、それも一瞬。彼女は戦闘時にも引けを取らないほど真剣な表情になった。
「……先生。烏滸がましいお願いである事は重々承知しております。ですが……」
「そんなに改まらないで。もっと肩の力を抜いて。私は君の先生だ。ギブアンドテイクの関係じゃない。甘えていいんだよ。君の願いも意志も心も、必ず聞き届ける。君が私に何かを望むなら、私の全てを賭して叶えてみせる。だから遠慮なんてしないでよ」
彼の言葉で決心が付いたのか、トキは真摯な顔で彼を見て。
「……リオ様を、お願いします」
「あぁ、任された」
トキの大切な願いを彼は確かに受け取った。