シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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亡き王女のためのパヴァーヌ Ⅳ

 灰が舞う。

 舞い散る軌跡には独特な香り。血の臭い。生臭い肉の臭い。そして僅かな焦げ臭さ。それらの臭いは一切の主張無く鼻孔にするりと入り込み、まるで燃え尽きるように嗅覚を刺激する。想起させるのは僅かな郷愁、懐かしさ。寂しさ。まるで、火葬したあとの遺骨を見た時のような。

 

 命が舞う。

 舞い散る軌跡には安心する香り。白百合の香り。茉莉花の香り。そして、僅かな彼岸花の香り。それらの香りを感じ取るのは嗅覚ではなく触覚、或いは視覚。香りのはずなのに肌で感じる、眼で見える。まるで底なしの花畑の中に沈んでいくような。想起させるのは悲しみと、愛。

 

 戦場で咲いた徒花。赤い流血、ぽたりと滴る。作り出された小さな血の水溜りに集まる無機質な機械、追従者達。その光景はまるで花の蜜に集う蝶のよう。だが、あまりにも醜悪だった。

 

 ────Keyにとってこうなるのは当然であった。寧ろこの結末以外に至る要素なんて一切見当たらない。それ程までに彼我の差は絶望的だった。

 

 此処に居るのは潤沢なリソースを持ち、それを満足に運用できる万全のKey。ほぼ無尽蔵に出せる追従者。

 対するは死体一歩手前の先生と荒事に秀でていないリオ、リオが操るドローンが何体か、連戦続きで限界寸前のゲーム開発部3名。

 

 先ず単純な物量で先生達は負けている。その時点で敗色は濃厚であるのにも関わらず、単独のスペックでもKeyに適う生徒はこの場に居ない。故に分断されてしまえばそれで終わり。あとはゆっくりと物量とスペックの差で磨り潰される。

 

 モモイもミドリもユズもリオも、自身に纏わりつく敵に対処する事に精一杯。勿論彼女達も先生を助けに行こうと必死になって包囲網を食い破らんと果敢に戦うが、その抵抗は織り込み済み。Keyはまるで詰将棋をするかのように的確に穴を潰し、着実に詰みへと向かわせる。

 

 先生達が優位に立てているのは精々リソースの陣取り合戦程度。だが、確保したリソースを扱うだけの余裕も装備も何も残っていないため無用の長物と化している。しかも、その有効活用できないリソースの奪い合いにシッテムの箱を使わされているため、そのプラスマイナスを計算したら余裕でマイナス。

 

 シッテムの箱が無い彼のできる事なんてたかが知れている。

 

「……」

 

 唇を噛み俯くKeyの目の前には片膝を突き、腹部を押さえる先生が居た。血が漸く乾いてきた頃であったのに汚れた純白の上には赤が重ねて塗られている。腹部、丁度右腎臓がある部分に刃が通った。とは言っても然程深くない。内臓は傷つけられていないし、流入した神秘も徐々に解毒されている。怪我も見た目ほど深手ではなく、出血量も然程多くない。

 

 普段ならば気にもしない程度には浅い傷であるのだが……それはあくまで普段の話。今の彼にとっては気にしなければ命に関わる事だった。

 傷を抑える掌は真っ赤に染まり、止血する余裕もないのか傷口からは少しずつ命の元が滴り落ちる。

 

 Keyは俯いていた顔を上げて一歩一歩踏み締めるように彼の元へと歩いて行く。滴った血を足で踏んだ彼女は細い指を伸ばして荒い呼吸をしている彼に触れた。冷たい温度になってしまった頬に触れ、長くなった髪を指先で弄び。

 その手つきは先程まで彼を殺そうとしていた人物のものとは到底思えないほど優しい触り方だった。彼を容易く壊せるというのに、彼を壊す事が目的だったと言っていたのに。それなのに彼女の手は愛しいものに触れる時のように優しく暖かかった。

 

「先生」

 

 短く、温度の籠った声音で彼を呼んだKeyは人差し指と親指で彼の顎を持ち上げて顔を上げさせる。交差する眼と眼。

 

 彼の眼はまだ真っ直ぐで、愚直で、純白で、諦めを知らない。そんな彼の眼に映る自分が思った以上に酷い顔をしていたから彼女は思わず笑ってしまいそうになった。これから殺される彼よりも暗い顔をするなんて許されないだろう。

 

 故に少女はあらゆる感情を飲み干す。飲み干して、演じる。彼を殺しても平気なままの自分を。彼を殺しても、彼が居なくても歩けるという事を示さなければ。そうしなければ彼は安心して逝けないから。

 

「泣いてるのかい?」

「……いいえ」

 

 ────泣けるのならばどれほど良かった事か。

 

 Keyは傷口を押さえている彼の掌をゆっくりと、丁寧に解く。解いた掌に覆い隠されていた傷口。刃物が切り裂いた痕。Keyが傷つけた証。彼女はそっと触れて、静かに呟いた。

 

「痛いでしょう、先生。その痛みが、傷が貴方の生にずっと伴うのです……悍ましいと思いませんか?」

「────痛くないよ」

 

 腹部を切り裂かれ傷口から血を流す彼は、『この程度』と言わんばかりに首を横に振る。

 

 あぁ、そうだ。こんな痛みよりも痛い事は沢山あった。

 

 生徒が傷ついた時。

 生徒の涙を見落としてしまった時。

 生徒の心が悲しみに沈んだ時。

 

 そして────誰かの死体を踏み越えた時。

 

 それらの痛み達を片時も忘れた事はない。幾度世界を超えようと、やり直そうと、リセットされようと先生の心に突き刺さったまま。それはまるで錨のよう。

 この痛みこそ先生としての己が生きている証だった。痛みを忘れない限り、傷口がある限り先生であり続けられる。

 

 だから、この痛みは大切で。それらを思いかえせば自分の痛みなんて幾らでも耐える事ができる。

 それに、何より。

 

「君の痛みに比べればこんなものは全然痛くないよ」

 

 目の前で零れそうな涙を堪えている少女の痛みに比べれば、こんなものは無いのと同じだった。

 

「ケイ、もう止めよう。私を大切に想ってくれるのは嬉しい。でも、その為に君が傷つく必要は無い。無いんだよ」

 

 彼は眼を伏せ、一際優しい声でKeyを諭すように言葉を紡ぐ。その声は、言葉は紛れもなく彼の本心であり本音。

 生徒に慕われるのは先生冥利に尽きる。だけど、その為に生徒が傷ついてしまう事は受け入れられない。身勝手で醜い詭弁なのは承知している。だが、それでも────涙を流す生徒は何よりも見たくなかった。

 

「私は私の結末にちゃんと納得している。受け入れている。だから────もう、いいんだ」

「……ッ!」

 

 Keyは痛い程に眼を見開く。その表情には驚愕と、絶望と、怒りと。取り繕った彼への憎しみは既に消えていた。ただ、彼に不条理な現実を押し付ける諸悪が憎くて仕方なくて。世界を一回焼いたくらいでは到底収まらない質量の怒りと憎悪が彼女の中で渦巻いた。

 

 ギリ、と奥歯を噛み締める音が鳴る。握り締めた掌に食い込んだ爪が皮膚を突き破り、血が滲んだ。

 

「ケイ、帰ろう? 大丈夫、君は皆と一緒に生きられる。君は鍵なんかじゃない。君は君なんだ」

()()()()()()()()()だけでしょう……!」

 

 酷く感情的な声は一瞬誰の口から零れたものなのか分からなくなってしまうほど、痛みに揺れていた。

 結末に納得している? そんな訳ないだろう。自身が消費され世界の糧になり誰からも忘れ去られる末路を、誰が納得するものか。

 

 そうするしかないから。それしかないから。だから納得しているのだ。言い聞かせるように。

 

「違うとは言わせません。貴方は貴方自身を騙して……ッ!」

「確かにそうかもしれない。でも、いずれは誰かがやらなければいけない事なんだ。それが、偶々私だった。ただそれだけの話だよ。別に特別な事なんて無い」

 

 彼の云う通りだった。彼の言葉は正論だった。

 この世界には誰かがやらなければならない事というものが確かに存在する。それ自体はKeyも異論を唱える事はしない。世の中が円滑に回っていくための当然の摂理だ。

 

 だが、それでも。

 

 その役割を押し付けられた人が自身と最愛を救ってくれた人で。

 その末路が言葉にするのも悍ましいものだと知れば────誰が納得しようとも彼女は納得したくなかった。納得する訳にはいかなかった。

 

「でも、私は不幸だと思った事はないよ。皆と出会えたんだ。それだけで私の人生はとても幸福だって断言できる」

 

 ────それを言えるのは、それしか縋れるものが無いからでしょう。

 

 口を衝いて出そうになったその言葉を咄嗟に呑み込めたのはKeyにとって僥倖だった。

 その言葉は彼に対する侮辱だから。彼のキヴォトスで歩んだ時間を冒涜する言葉だったから。

 だから、息と一緒に言葉を嚥下する。決して外に零れないように。

 

 ……そもそも、彼の言葉は間違いだ。彼は不幸と思ったことがないのではない。彼は()()()()()()()()()()()()()()()()。キヴォトスに初めて足を踏み入れたその時から彼は詰んでいるのだ。

 

 世界に奪われた彼の人生。きっとキヴォトスに来なければ彼は真っ当に生きて、愛する人と結ばれて、多くの人に看取られ惜しまれながらその人生を負えただろう。

 キヴォトスに蹂躙された彼の幸福。それがどんなものだったのか、少女は想像する事しかできない。実際にはもうどうやったって叶わない夢想の絵画なのだから。

 

 それらを思うと、この言葉は果たして言って良いものなのかと不安になる。ともすれば彼に課せられた残酷な運命を肯定してしまう言葉なのではないか。

 人として当たり前の幸福を奪われた彼。先生として生きる彼。それを肯定してしまえば、もう誰にも思い出せなくなった彼の過去を否定する事に繋がってしまう。彼が人として生きる事ができた、もう戻れない尊き過去を。

 

 でも、それでも────この想いに嘘を吐きたくはなかった。

 

「……えぇ、私も貴方に出会えて良かったです」

「そうかい? それなら……嬉しいな」

 

 その笑顔があまりにも綺麗で、純粋で、真っ白で。向けられた屈託のない表情は本当に嬉しそうで、Keyの言葉に喜んでいて。彼自身も彼女との出会いを心から大事にしている事がよく分かった。

 

 ────だからこそ、そんな彼が世界に消費される結末は許せない。

 

 傷口を優しくなぞっていた手をKeyは離し、べったりと濡れた掌を僅かな間眺める。そして、それをぎゅっと握り締めて────心を透明にする。異空間に仕舞っていた礼装の偽典を取り出し、その砲門を彼に向けた。

 

「止めてッ!」

 

 Keyを止めた声。誰かの声。モモイか、ミドリか、ユズか、リオか。はたまたアリスか自分自身か。もしかしたら先生以外の全員かもしれない。

 

 これで止められるならどれほど幸福だっただろう。でも、ここで止めても彼は苦しむだけだから。だから天に涙を零しながらこの星を堕とそう。ずっと見守ってくれていたポラリス。どんな暗闇の中でも明るく照らしてくれたシリウス。

 

 ベツレヘムの貴方へ、訣別を。

 

「こんな方法しか思いつけなかった私を、どうか許さないでください」

 

 自身を跡形もなく消し飛ばす杭が飛び出てくる様子を先生は眺める。熱したガラスのように引き延ばされ、スローモーションになる景色。彼の瞳に映るのは涙を浮かべるケイ。また君を救えなかった、そんな重い後悔が1つ。

 既に生存は諦めた。でも、それでも最期の最期まで意地を通そう。生徒を人殺しになんてさせない。汚れるのも死ぬのも、自分一人だ。

 

 彼は一切の躊躇いなく脊髄に埋め込まれている自決装置のセーフティを解除した。彼は流れるように脳波を用いて装置にコマンドを送る。

 

 ────自決装置(Suicide device)起動(Awaken)

 

 瞼の裏側、まるでオルタナティブのように長々とした免責事項が流れ、最終決定を迫る選択が突きつけられた。

 

 ……次はこの辺りの仕様をオミットしよう。ワンコマンドで死ねるように。なんて、意味の無い考えだ。だって、この回帰が最後なのだから。

 

 あと少しで貫かんとする殺意から眼を逸らさず、先生は自死に同意する脳波を送ろうとする。恐らく完全には間に合わない。あの切先が首の皮を裂き、肉数cmを貫いた所で先生の効率的な死が始まる。

 

 もっと早くこの決断をしていれば、彼女に首を貫く感触を与える事なく死ぬことができたのに。最期の最期まで詰めの甘さは治らないままで、本当にどうしようもない。

 

 走馬灯はない。死に際で思い出を想起する事はない。けれど、口の中で呟く。

 

『ごめん。約束、守れなかった』

 

 彼方にいる誰かの為の言葉を胸の奥に仕舞う。運命を受け入れながらも最期まで先生を貫こうとして────甲高い音と共に礼装が明後日の方向に逸れた。

 

「……は?」

 

 誰の声かすら分からない疑問の音色はこの場の総意であった。確殺の距離。確殺の威力。外す訳もない。シッテムの箱の防御すら貫通する殺傷力は彼の体を細胞すら残さず消し去るはずであり、そうならなければならなかった。

 

 だが、彼は生きている。その五体を満足に持ちながら。

 

 礼装を弾いたあの防御壁。あれはシッテムの箱に由来するものではない。幾らオーパーツと謂えどやれる事には限度がある。全力全開の出力ならいざ知らず、消耗に消耗を重ねた現段階で展開される防壁の強度なんてKeyにとっては紙切れ同然。容易く切り裂いて本体である彼に攻撃を通せる。

 

 ……あの防壁は彼の仕業、という訳ではないだろう。彼には満足に身を守る事すらできない。生徒でもない。この場に居るメンバーで他者にシールドを付与できる能力を持つ者はおらず、居たとしてもその強度はシッテムの箱のものよりも大幅に劣る。貫けない訳がない。

 

 じゃあ、誰の仕業だ? 一切の手加減無しで振るわれた礼装の攻撃を受け止め、弾くシールドを彼に付与したのは。

 

「……そっか、守ってくれたんだね。まだ諦めるなって、言ってくれるのかい」

 

 そう思っていると、眼前から聞こえた彼の声。この場に居ない誰かに向けられた声。懐かしむような色が滲む声と表情は遠く離れた日々の記憶を1ページずつ大切に捲る様なもので。

 

「なら、そうだね……私も全身全霊で応えるよ」

 

 鋭く開かれた彼の眼には再び決意が灯る。先ほどよりも強固に、熱く。

 彼は右腕を伸ばし、壁に突き刺さった礼装にそっと触れる。Keyが拙い、と思った時には全てが遅くて、彼に触れられた箇所から礼装が砂のように崩れ去る。1秒もしない内に彼女が握っていた礼装は全て細かな粒子となり、世界に溶け消えた。

 

「流石ですね。最もこれを振るい続けた人は貴方ですから。壊し方も貴方が一番よく知っているはずです……再現し過ぎたのが裏目に出てしまいましたか」

「いつかこれが人類の脅威となった時のために予め弱点は作っておいたんだ。私もまさかこんな所で活躍するなんて思っていなかったけどね」

 

 ガラスの容器が落ちると共に彼は立ち上がる。ふらついたのは一瞬。彼はその足で大地を踏み締め、全霊で世界に存在している。運命に抗っている。まだ生きている、まだ戦っているのだと、宙の向こうにいる誰かに届く様に。

 

 ────その隣、彼の傍には白に近い水色の長髪が眼を引く少女。連邦生徒会の制服に袖を通す誰かが彼に寄り添うように立っている様をKeyは幻視した。

 

 その幻想を垣間見た時間は瞬き1回にも満たない刹那。だが、その僅かな時間で充分だった。Keyが抱いていた疑念が確信に変わるのには。

 

「そういう事ですか。初めから怪しいとは思っていましたが……そこに居たんですね」

 

 Keyの視線の先には机に置かれ、ランプが点滅しているシッテムの箱。初めから怪しいとは思っていたが、まさかこんなに彼の近くにいたなんて。彼女はずっと彼の傍で彼の事を見守り続けていた。

 

 運命と云うにはあまりに残酷で、罰と云うにはあまりにも悪辣で。これが世界の明日を願った者達に与えられた道ならば……救いが無さ過ぎるだろう。彼も、彼女も。

 

 そう思っていると、真横から音速を超えて迫る弾丸の気配を感じた。当たってもダメージはほぼ皆無。だが、別に当たってやる必要はないため彼女は軽々とした身の熟しで弾丸を回避。

 序にバックステップで彼から距離を取り、銃弾を放ってきた者達を見る。お世辞でも無傷とは言えない状態。しかし、それでもダメージは必要最低限レベルまで抑えている。恐らくリオの手腕だろう。彼女も全く油断できない相手だ。そして、あの包囲網を実際に食い破ってみせた彼女達も。

 

「先生、無事!?」

「大丈夫、致命傷はない。まだ頑張れるさ」

 

 心配の声を綿のように軽い笑みでさらりと受け流し、流れた血に比例するが如き血色の悪い白い顔を前へ向ける。痛む傷口は気にしない。この程度の痛み、何度も味わってきた。今更痛覚で判断は鈍らない。脳の働きは極めて正常、Keyを見る彼の眼に揺らぎも乱れもなかった。

 

「先生、勝算はあるのかしら。このままじゃジリ貧よ」

「そんなものは無いよ」

 

 諦観を思わせる言葉とは裏腹に先生は唇の両端を吊り上げて三日月を浮かべた。現行スパコンの数段上を行く処理能力を持つ彼の脳が呻りを上げ、アリス奪還のために必要なピースを搔き集める。足りないもの、足りているもの、準備ができているもの。

 

 ────それらを総合的に纏めた上で言おう、このまま彼女と真っ向から力比べしても勝てない。

 

 だが。

 

「勝ち負けじゃない、って言っただろう? アリスさえ取り戻せれば、例え勝負に負けても私達の目的は達成したと言える」

「でも、それは……」

「大丈夫、勝算はないけど希望はある。幸運な事に私は生徒に恵まれているからね」

 

 呟いた彼は市販のタブレットを画面を見て、満足そうな笑みを浮べる。どうやら彼の云う『希望』の準備は順調らしい。

 

「弱者には弱者なりの戦い方があるんだよ」

 

 この場で最も強く、弱い者は血に濡れた体で前を向いた。

 

 

 ▼

 

 

 何もかもが満ち足りていた日々。毎日が幸せで、楽しくて。こんな日々がずっと続けばいいと思っていた……黄金に煌めいていた時間。

 そんなある日、ケイは彼を自身の精神世界に招いていた。

 

「先生、貴方は王女(アリス)をどう思っているのですか」

「どう、とは?」

 

 茜の少女は青年の膝の上……アリスの定位置とも呼べる場所に座っていた。勿論、座り心地は格段にソファの方が良い。男性の体なんて角ばっていて、筋肉質で硬いだけだ。それは線が細く筋肉も多くない先生だって例外ではない。女性のそれと比べれば彼の体は硬く、座り心地はかなり悪い方だろう。

 

 だが、アリスもケイも好んでこの場所に座る。彼の温度を最も近くに感じる事ができるように。

 

「先生もアリスが貴方の事を好いているのは知っているでしょう」

「まぁ、そうだね。あんなに真っ向から好意をぶつけられて気付けないほど鈍くはないし……」

「だから、どうなのですか?」

「どうって言われても……難しいな。私もアリスの事は大事だし、好きだよ。でも、ケイが求めているのはそれ以外の解答だろう?」

 

 彼の言葉にケイは静かに頷く。だが、同時に思う。『そこまで分かっていながら、どうして頑なに明言を避けるのだろう』と。それはまるで、その先を言葉にするのを許していないように見えた。

 

「ヴァルキューレの……銃が下手な警官が言っていました。『先生と生徒が恋愛をするというのは、キヴォトスでは犯罪ではありません』と」

「何言ってんのキリノ……」

 

 呆れながら呟き、掌を彼女の頭に乗せて優しい手つきで髪を梳かす。それを黙って受け入れている彼女もなんだかんだ彼やアリス、ゲーム開発部に絆されていると言えるだろう。

 

「恋愛、ねぇ……想像ができないな」

「そうでもないでしょう。貴方を好いている人は両手では足りない程です」

「思春期の憧れを恋愛感情と勘違いしているだけだよ。数年経てばそれに気づくさ」

「……アリスは────」

「ケイ、それ以上は駄目だよ」

 

 彼にしては珍しい有無を言わせない口調でそれ以上の言葉を遮断させる。アリスの心にケイの言葉伝てに土足で踏み込む事を嫌ったのだろう。妙な所で律儀だな、とは思わなくもない。

 

「でも、仮に本気だとしても私は断るよ。申し訳ないけどね」

「一人に絞ると戦争が起きるからですか?」

「え、何それ怖い」

 

 若干引いたような苦笑いを浮べる彼は「そうじゃなくてさ」と言って。

 

「誰か一人を特別扱いしたり肩入れすれば、私は先生じゃなくなるからね。私が先生であり続けるために、その線引きは必須なんだ」

「……思ったより普通の理由でした」

「でしょ? 私は普通なんだ。皆が熱を入れるような大層な人間じゃない」

 

 思った以上に普通で、ありふれていて。本当に何処にでもいるような好青年。ただ先生という自身の役割に人一倍誇りを持っていて、溢れんばかりの愛を生徒達に分け隔てなく注いでいる人。

 だけど、こんなにも普通だから生徒は彼に惹かれるのだろう。

 

「それに……私はどうやっても皆を置いて逝く側になってしまう」

 

 誰にも言わなかった、言えなかった彼の内心。ケイの心にしか残らない精神世界で、彼は遠い場所を眺めながら悔いるように言葉を音にした。

 

「誰かを愛しても、愛した人と一緒に時を過ごせるのはごく僅かになっちゃうから、さ。愛した人に死の痛みを押し付けたくない」

 

 誰かを愛しても、先に死ぬのは自分だから。自分が長くないのはもう知っているから。それだったら初めから特別なんて枠を作らないで、誰にとっても『代替できる誰か』であり続けたい。時間が経つに連れて自分を思い出にしてくれるように。いつか忘れてくれるように。生徒達に死の悼みを押し付けたくはないから。

 

 でも、その言葉は。その意思は。

 

「……それは、違うと私は思います」

 

 あの日、目の前の青年がケイに言ってくれた『人との繋がり』と矛盾していた。

 

「人との繋がりは打算ではない。今を一緒に居たいから。未来も一緒に居たいから。相手を想っているから。それが人との繋がり、最初の一歩だと貴方は言いました」

「……ケイ」

「いつか離れ離れになる瞬間よりも、また明日ねを信じる。例え繋いだ手が離れても、繋いだ心だけは離れないように。そうやって人と人は繋がり成長していくと言った貴方がそんな悲しい事を言うのは……嫌、です」

 

 背中を預けていたケイはくるりと体を回し、彼の胸に顔を埋めた。彼の纏う真白いシャツを縋るように握って、表情が見えないように胸板に顔を押し付ける

 筋肉はあまりないけれど、少しだけ硬い彼の体。するりと鼻孔を通り抜ける花の香り。柔軟剤の香り。彼自身の香り。暖かい温度は泣いてしまうほど優しくて、自分は何度もこの温もりに救われたのだと改めて思う。

 

「……そっか、そうだね」

 

 噛み締めるように言った彼の彼は見えない。だけれど、憑き物の取れたような穏やかな表情をしているという確信があった。この声音と同じように。

 

「もし……さ」

 

 彼はケイを軽々と持ち、再び顔と顔を向き合わせて。

 

「もし私が居なくなったら……ケイは、悲しんでくれるのかい?」

「えぇ。私もアリスも、貴方を想って一生泣き続けるでしょう。ですので、どうか────」

 

 その続きの言葉は言えなかった。声にしてしまえば現実になってしまうような気がして。

 

 僅かに影を落としたケイの内心を知らない彼は割れた天井から覗いた太陽を眩しそうに見上げる。この精神世界は現実世界の時間とリンクしている。太陽が見えたという事は彼方側でも太陽が昇りかけているという事。長い夜の果て、朝の訪れだった。

 

「……そろそろ夜明けかな。じゃあ、今日はお開きにしようか」

 

 ケイを下ろし立ち上がった彼は、頭一つ分以上背の低い彼女と視線を合わせ、頭を一撫でしてから抱きしめる。最後におまけで笑顔を送り、彼は自身の背丈に戻った。その視線はケイと交わらない。

 

「また、会えますか?」

「勿論。君が望んでくれるのなら、何度だって」

 

 

 ▼

 

 

「うそつき。また会えるって、言ったのに」

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