シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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少女達が最初に辿り着いた場所はミレニアムサイエンススクールの一室であった。敷かれたカーペットとラグ、部屋の中央のソファ。モニターにはゲーム機が繋がっていて、コントローラーが幾つか。壁にはゲームのポスターやら付箋が張られていて、棚には大量のゲーム機とゲームソフト。生活に必要な一通りの家電、寝具、ロッカー。ボロボロで、狭くて、時々雨漏りする、見覚えのあるどころの話ではないこの部屋は────。
「
「お姉ちゃん、声大きい」
精神世界は本人にとって縁の深いもの、思い入れの強いものが中心にプロットされる。そう考えるとこの光景も然程不思議なものではないだろう。アリスにとって彼女達は無くてはならない人生の一部。何よりも大切な最初に結んだ縁なのだから。
アリスの物語が始まった場所と言っても過言ではない大切な居場所は、彼女の記憶の投影。戻りたくて、会いたくて。でも、もう戻れない場所は何時までも色褪せないままで。それを見て少女達は少し安心した。この光景を心の中で抱えてくれているならきっと連れ戻せる、と。
本音を言うと、少し不安だったのだ。もしアリスが本心から『戻りたくない』と言った場合が。だが、その可能性は彼方へと消え去った。あとはアリスを根気よく説得して、彼女の本心を引き摺り出すだけだ。立ち塞がる全てを薙ぎ払い、必ず彼女を取り戻そう。そして、もう一度あの部屋で皆と一緒に過ごすのだ。
ゲーム開発部の部室から出ると、一本の長い道が続いていた。部室等の構造そのまま、という訳でもないらしい。お誂え向きな一方通行の道を進んだ先にあった場所は大講義室。アリスもミレニアムの一員としてここで授業を受けて、クエストを熟して、学校に馴染んだ。キヴォトスに生きる1つの命として、彼女は大きく成長した。
次に訪れた場所はエンジニア部の部室。アリスが愛用する勇者の証こと
そして、場所は流転する。理路整然としたミレニアム校内の空間から打って変わって、寂れて朽ち果てた建物が点在する廃墟へと。
ここまで来れば自ずと分かる。遡っているのだ。アリスのこれまでを。彼女の居場所である部室から、クエストを熟した大講義室、勇者の証を貰ったエンジニア部の部室。そこまで来たら、次は廃墟。アリスの元居た場所へと至る道となる。
予想は的中して、廃墟を進んでいくと工場の内部に入る。最初に来た時は敵から逃げるために転がり込んだだけであり落ち着いて内装を見る機会なんて無かったため、今こうして工場内部を何の危険もなく観察できているのは変な気分だった。
ひと目見ただけでも分かる。投入されている技術のレベルが他の工場と一線を画していた。まず間違いなく当時最高峰の技術を惜しげもなくフル投下してこの工場……アリスが眠る場所を組み上げたのだろう。それ程までに工場を作った誰かにとってはアリスは重要で、何か役割があった。
その役割を円滑に進めるための補佐がトリガーAIたるKey。彼女の目的と存在意義は製作者が意図した覚醒で以て初めて果たされるのだろう。尤も、彼女は彼女で独自に突っ走っている気がしなくもないが。
だが、そんな事は今更どうでもいい。アリスは既にゲーム開発部の仲間であり掛け替えのない友達。アリス本人が望んでもいない事を無理矢理やらせようというなら、銃弾が返答代わりだ。売られた喧嘩は高く買おう。
そんな事を考えながら、少女達は進む。忘れもしない衝撃的な出会いの場所に。だが、今度の目的は出会いではなく再会。勝手にいなくなってしまったお転婆なお姫様を連れ戻すために。
記憶を頼りに少女達は進む。右へ左へ、前へ。数分間迷宮を歩いた先に在ったのは、監視カメラと……扉が二つ。この後の展開が読めていた……というか、実際に味わった経験があるモモイとミドリは迷わず先生にしがみついた。
「ユズ、おいで」
「え? は、はい……」
この場所に訪れた事の無いユズも確りと彼が抱き締め、次に訪れる半ば出オチのようなドアの開閉に備える。
「えっと……これは……?」
「今から落ちるから、舌を噛まないように気を付けてね」
「落ち────」
ユズの言葉は途中で遮られる。身体を襲った浮遊感は水中で感じるようなものではなくただの自由落下。出来れば当たってほしくない嫌な予感がした彼女はぎこちない動作で下を向くと────床が無くなっていた。
「ひゃぁぁぁぁぁ────!」
彼女の悲鳴は物静かな廃墟によく響いた。
▼
少女達3人を抱えた先生の落下した先にあった空間は一本道。相変わらず落下が正規ルートと言わんばかりの酷い設計。だが、二度も初見殺しは喰らわない。来ると分かっていれば自由落下程度は怖くないのだ。何の予兆もなく来るから驚くだけで。
少女達と先生は細い道を歩く。非常灯の明かりだけが唯一の光源。足音と呼吸音が4人分、あの日の再現、しかしあの日とは違う。目的も、人数も。口数も少なくなり、周囲に緊張感が蔓延する。この先の光景を知るモモイとミドリ、先生だけでなく初めて来るユズも否応なく分かった。この先にアリスが居る、と。
そして────暫く歩いた先にあったのは開けた空間。陽の当らない工場の地下だというのに木漏れ日が差し込んでいるかと錯覚するほど麗らかで暖かい空間にはポツンと存在する機械仕掛けの椅子。
あの時から片時も忘れる事が無かった光景。あまりにも神秘的で、美しくて。今まで見てきたどんな絶景や絵画よりも胸に響いた……運命と出会った場所。ここで彼女と出会ってからゲーム開発部を取り巻く全てが激変した。
ごくり、と誰かが息を呑む音と同時に皆は再び歩き出した。椅子に座り、眠る……黒檀のような少女を見つけたのだ。あぁ、見間違えるはずがない。会いたくて、会いたくて。どうにかなりそうなほど会いたくて。話したくて、離したくなくて。もっと一緒に居たくて仕方なかった……本当に大切な友達。
「アリスッ!」
「アリスちゃんッ!」
「アリスちゃん……ッ!」
三者ともそれぞれ彼女の名前を叫び、駆け寄る。モモイが付けた名前。皆が愛を持って呼んだ名前。彼女の為だけの名前。それを聞いたアリスの頭上に青のヘイローが浮かび、純真無垢な空色の瞳が薄っすらと開かれる。
「……だれ?」
「私達ゲーム開発部だよ!」
「アリスちゃん! 会いに来たよ!」
「アリスちゃんッ!」
光を灯したアリスの視界いっぱいに映る3人。見知った顔。見知った声。見知った温度。涙が出るほど帰りたくて、涙と共に見送った……大切な友達。その姿を見て、今まで錆びついていたかの如く動かなかった心臓が動き出す。止まっていた秒針が回り始め、感情が沸き出した。
何よりも────そう、何よりも。会いたくて、会いたくて、どうにかなりそうなほど会いたかった大好きな人達は何時もと変わらない姿でアリスの眼の前に姿を現した。
最初は自分が作り出した浅ましい、都合の良い末期の夢だと思った。夢の中に居るようなものなのに、そこから更に夢を見る事ができるのかは分からないけれど、兎に角そういう……現実に根差していない虚構に由来する何か、或いは走馬灯だと思っていた。
だが、何度瞬きしても消えずにそこに在り続けて。思い出を切り貼りしたかのような不自然さは何処にもない。精巧に作られた偽物ではなく、紛れもなく本物。アリスが焦がれたあの少女達が、泣きたくなるほどに暖かい温度を伴いそこに立っていた。
その温度に引かれるように、アリスは手を伸ばす。触れたい。触れられたい。温度が、暖かさが、人肌がほしい。ここは涙も凍るほど寒かったから。寒くて、暗くて、怖くて。でも、皆が其処に居て、触れられるなら……こんな場所でも、太陽の下のようになる。
だから────そう思って、伸ばそうとしたアリスの小さな手。しかし、彼女は思い留まり手を下した。まるで今の自分は触れる事すら許されないと言わんばかりに。代わりに零れたのは声だった。
「モモイにミドリ……ユズ……どうして、此処に……?」
「そりゃ、勝手に家出したアリスを迎えに来たんだよ!」
「アリスちゃん、早く此処から出よう!」
「帰ろう、アリスちゃん。皆が待ってるから」
「あ……」
三者三様の言葉。言っている事は違うものの、その本質と本心はどれも同じ。アリスと一緒にあの部室に帰りたい、唯それだけ。アリスが手を伸ばさないのならば、と言わんばかりに目の前に差し出された3人の掌。アリスと同じくらい小さくて、細くて……でも、何かの為に、何かを守るために戦い続けてきた証が色濃く残る手。彼女達はその手をアリスに向けている。この手を取って逃げ出そう、灰かぶりは君に似合わないと。
アリスは思う。この手達を取りたい。手を取って、連れ出してもらって、またあの日の続きを歩みたい。狭くて、ぼろくて、若干黴臭くて、でもどんな場所よりも居心地のいいアリスの居場所。この手を取ればきっとアリスはあの場所に帰れるだろう。何の憂いもない、甘くて夢のような日常に。
でも。
「アリスは……アリス、は……」
伸ばされた手を唯只管に掴めるような純真無垢な幼年期は流血と共に終わってしまった。
思い出すのは今までの事。何かを守るために戦い続けた少女達の向こう側に立つアリス自身の事。
アリスは何かを守れただろうか。いや、何も守れていない。寧ろ逆だ。壊してばかりで、傷つけてばかりで。
────一瞬でも、本心から『救われたい』と思った罪深い自身をアリスは恥じた。
「────帰れません」
首をゆっくりと横に振りながら、アリスは羽音のような小さな声でそう呟いた。
今まで俯瞰し続けてきた光景。脳裡に過るのは記憶。アリスとは異なる人格に記されたセーブデータ。青い瞳で見下ろしたこの手。健康的な白い肌である筈なのに、アリスには赤く染まって見えた。
「アリスが皆の傍に居たら、皆はその分傷ついてしまいます」
「アリスちゃん、違う! そうじゃない!」
「ミドリの言う通りだよ、アリスちゃん。私達はそんな事……」
「そうだよ! 私達はアリスが大切だからここまで来たの! だから────」
「ミドリ……ユズ……でも、アリスの所為で皆怪我をしてしまいました。モモイも、ユウカも……ネル先輩も……全部、アリスの所為です」
言い逃れはできない。元よりするつもりもない。アリスの意志は関係ない。誰が何と言おうが、アリスの体が誰かを傷つけたのは純然たる真実だ。でなければ、この掌に残る鮮明な感触がこんなにも気持ち悪くて恨めしい筈がない。
脳裡に過るのは記憶。アリスとは異なる人格に記されたセーブデータ。
────
────
それだけではない。彼女はエリドゥで起きたこれまでの事を全て見せられていた。
モモイが、ミドリが、ユズが強大な敵を相手に必死になって抗い、僅かな勝機を信じて駆け抜けた光景を。
ウタハが、ヒビキが、コトリが自身達の開発物を惜しげもなく投下し、限界を超えても尚戦い続けた光景を。
チヒロが、コタマが、ハレが、マキが自身達の数枚上を行く格上を相手に勝負を仕掛け、その果てに可能性の糸を通した光景を。
ヒマリが、エイミがたった一つの勝機を作るために孤立無援で戦っていた光景を。
ユウカが、ノアが、コユキがリオに対する明確な反逆と知りながらもアリスの為に戦ってくれた光景を。
ネルが、アスナが、カリンが、アカネがリオの最強の切り札であるトキの相手を務め、ボロボロになりながらも打ち砕いた光景を。
先生が自身の命を燃やし尽くすような勢いで駆け抜け、誰一人見捨てないと言わんばかりに手を伸ばしていた光景も。
全て、全て。アリスの為に捧げられたもの。痛みも傷も、悲しみもアリスを助けるために伴ったものと知れば素直に喜べるわけもない。アリスはそんなものは見たくなかった。それなのに突き付けられたのは願いとは正反対の現実ばかりで、もう嫌になってしまいそう。
そんな現実ばかりがある理由も分かり切っている。それは。
「アリスは……勇者ではなく、魔王ですから。いつか世界を……キヴォトスを滅ぼすかもしれない魔王として、生まれた……から……アリスがいるから……そこに居たいと、願ってしまうから……そんな魔王は……皆の傍に居ては、いけません」
傍に居たい。隣に居たい。体温が分かる距離に居てほしい。でも、そんな距離まで近寄ってしまったらきっと皆を傷つけてしまう。まるでハリネズミのようだ。
大切なものを壊したくないし、傷つけたくもない。優先すべきは自分ではなく、大好きな皆。皆が笑顔でいられるならそれに勝る幸福はない。例えその中に自分の居場所が無くても、その光景を守れるのならば……死ぬことも、悪くないと思える。悪くないと思いたい。
「アリスは、キヴォトスが好きです。ミレニアムが好きです。皆が大好きです。もし叶うのなら、アリスは皆と一緒にクエストをしたいです。でも……その所為で大切な人達が苦しんで傷つくのなら……いっそ……」
消え入りそうな、震えた声。その音階と共に雫が一粒、大きな瞳から零れ落ちる。悲しみと、後悔と、痛みと、愛と。アリスの感情が混ざりあって溶けだした、感情の輪郭。それは冷たい床に小さな痕を残した。
「アリス、はこのまま消えるのが正しいのです」
アリスの言葉は、全て自刃するかのような痛みが伴っていた。心の柔い部分に無理矢理メスを入れて、強引に切開するかのような残虐性。しかも、その矛先は自分自身にしか向いておらず、自傷行為にしかなっていない。
泣きながら、悲しみながら。恣意的に歪められた現実を見せつけられ、『こうした方が良いから』と思い込み、思い込まされ、最も言いたくない決別の言葉が口を衝いて出る。
そんなアリスの姿を見て────。
「『テイルズ・サガ・クロニクル2』は……!」
遂にモモイの堪忍袋の緒が切れた。
「私達が一緒に作ったゲームは! 特別賞を貰ったんだよ!」
アリスの胸倉を掴むような勢いで放たれたのは、アリスの中で最も煌めいていた思い出。誰も来なかった工場の一室、世界が終わるまで一人ぼっちだと信じていた彼女を外へと連れ出した日から始まる……アリスの冒険、最初の1ページ。
一緒にゲームをやって、ミレニアムに編入させて、共に過ごして。大切な居場所を守るために、
この先これよりも面白いゲームは作れたとしても……これよりも思い入れのあるゲームは作れないだろう。それだけ彼女にとってこのゲームは大切で、大事なものだった。人生で最初に遊んだ、このゲームの前作に当たるものと同じように。
「キヴォトスの終焉? 何言ってるの? アリスが居るだけで皆が傷つく? 誰がそんなバカな事言ってるの!?」
俯き、下を向いていたアリス。彼女の肩を両手で優しく、されど強く掴んで無理矢理上体を起こさせ、顔と顔を見合わせる。漸く近くで見た彼女の顔は酷く歪んでいて、悲しみに塗れていて……モモイは思わず奥歯を砕けんばかりに食い縛った。
ただ、只管に怒る。アリスが悲しまなければならない現実を突きつけた諸悪を。あんなに純粋で、友達思いで、皆と一緒に過ごしたかっただけのアリスが泣かなければならない『今』が憎くてたまらない。
この現実を作った神様とやらがいるならば一発殴りたいし、『アリスが居るだけで傷つく』なんて言った不届き者には10マガジンほど撃ち込まなければ気が済まない。今までの人生、これ程まで何かに対して怒ったことはないと断言できるくらいにはモモイは怒っていた。勿論、モモイだけではない。ミドリもユズも同じ気持ちだった。
「アリスに会って……アリスが居たから……私達はゲームを作れて! ミレニアムプライスで賞を貰って、部活を守る事ができたんだよ!」
「うん、そうだよ。アリスちゃんが居たから私達は守る事ができた」
「アリスちゃんが居てくれたから、私達は一緒に居られるんだよ」
「モモイ……」
アリスを見つけて、ミレニアムに編入させて、ゲーム開発部に入部させる。その一連の行動に少しも打算が無かった、と言えば嘘になる。あの時のゲーム開発部は正に崖っぷち。成果も無ければ部員もいない廃部秒読みの段階。そんな時に見つけたのが、どこの学校にも部活にも所属していないアリスであった。
彼女をゲーム開発部として迎え入れれば人数の問題はクリアできるから入部させよう……部の存続と自分の都合しか考えていない邪な気持ちで最初は彼女を迎え入れた。
────大切な友達に隠し事をしたくないと思ったモモイ達は3人で話し合い、ミレニアムプライスを取った少し後に当初の事情をアリスに開示した。最初はアリスの内心なんて考えていなかった、と。しかし、彼女は嫌な顏一つせず、寧ろ笑顔で。
『アリスは、モモイ達がアリスの気持ちを考えていないとは思いません。アリスはゲーム開発部に来て、皆と出会う事ができて良かったです。後悔なんて全然していません。アリスは、これからも皆とずっと一緒に居たいと思っています』
そう言って、受け入れてくれた。少女達の打算も都合も。寧ろその選択をモモイ達がしてくれたから、アリスは今此処に居れるのだと。一緒に居て、毎日が楽しくて仕方ないと。
だから、今度は3人の番だ。アリスの全てを受け入れていると、改めて彼女の前で宣誓する。あぁ、そうだ。既に彼女の全てを受け入れているのだ。外野やアリス自身が今更どうこう言おうが、この決定は覆らない。魔王だろうが勇者だろうが、アリスはアリス。それだけは決して揺るがない、彼女達の真実。
「部活を守れたことも……ゲームを作って、一緒に遊んだことも! ただ怖いだけだったネル先輩と一緒にゲームするような仲になれたのも! 全部! ぜーんぶ! アリスが居てくれたからだよ! それなのにアリスが魔王だとか、そう生まれついたとか……そんなふざけた理由で消えなきゃいけないとか! そんなの全ッ然分かんない! 絶対納得するもんか!」
「……な、なぜ、ですか? 皆、どうして……アリスは魔王なのに……アリスの所為で……皆、怪我したのに……なんで、皆……アリスを怖がったり……憎んだりしないで……そうやって……ッ!」
「だって! アリスちゃんは私達の大切な
迷いのない声にアリスの瞳が水面のように揺れる。感情が揺さぶられ、吐息が口から零れ落ちた。アリスの瞼の裏側を通り抜ける思い出と、それに伴っていた暖かな温度。アリスの心の拠り所。楽し過ぎて泣いていたあの日の確かな思い出がリフレインしてアリスの口から未練が飛び出してきそうになったが、彼女は血を呑むようにぐっと堪えた。言ってはいけないと思ってしまった。言う資格なんてないと思っている。
友達。仲間。今も尚、そう言ってくれるのは嬉しいけれど────いや、だからこそ、離れなければならない。この手に残る感触をこれ以上色濃くしたくないから。離れないと、消えないと傷つけてしまう。それだけは嫌だ。だから、この言葉を声にして伝えないと。
そう思ってもアリスの口からは息しか零れない。まるで声帯が凍り付いたみたいに。アリスの口が、声が意志を持ったかのように取り繕った本音を言いたくないと叫んでいる。
「この前、アリスちゃんが言ってくれた事があったよね? どんなゲームでも、主人公達は決して仲間を諦めないって」
「アリスちゃんは私達の居場所を守ってくれたから、今度は私達の番。アリスちゃんの居場所を私達が守るよ」
「例えアリスが魔王だったとしても、そんなの関係ないよ! そんなの、唯のジョブに過ぎない! 自分が誰なのか、それは自分自身で決めるものだよ! アリスは、唯自分がなりたいジョブを選んで転職すればいいんだよ!」
「戦士、騎士、魔法使い、僧侶……なんでもいいよ、アリスちゃん。勿論、他の職業でも」
「その……勿論、勇者もいるよ」
そう言って、部室で見た笑顔と何ら変わりない笑顔で手を差し伸べて。何者にでも、なりたい者になれると言ってくれて。世界はアリスの生存を認められないほど小さくない、アリスはこの空の下で何処にでも行けると寄り添ってくれて。
思わず手を取りそうになった。手を握りたくなった。こんな自分でも許されるのかと思った。大好きな人達を何人も傷つけた自分が、大好きな人達の元に帰れるのかと思った。許されてもいいのかと思った。
ずっと後ろを向いて、泣いていたアリスの心が少しだけ明日の方を向いた。
「アリス、は……」
力なく垂れ下がったアリスの手はモモイの指先に触れようとして────その直前、石化したかのように停止した。掌に残留した血の臭いと肉の感触、命の感覚が強まり、アリスを縛る鎖と化す。モモイの方に伸ばした手が真っ赤に染まる光景を幻視して、途端に自分が汚らわしいモノに思えてしまった。
……そんな手で、自分に名前を送ってくれた人に触れるはずがなかった。
「でも……ッ!」
「もーッ! 強情だね、アリス! こうなったら私達も手段を選ばないよ!」
どう考えても行けそうな雰囲気であったのに、まさか直前で拒否されるとは思わなかったのだろう。モモイは顏を分かりやすく怒らせた。まるで聞き分けの無い子どもを叱る母親のように。
そして、モモイは今までずっと後ろで事の成り行きを静観していた先生の手を引いてアリスの前に突き出した。
「ほら、先生! アリスに言わなきゃいけない事あるでしょッ!」
「────あぁ、そうだね」
大体の事はモモイが、ミドリが、ユズが言ってくれた。だから改めてアリスに彼の口から言わなければならない事なんて多くはない。
だから彼のやるべき事の多くは伝える事ではなく、彼女の言葉を聞くこと。彼女がずっと隠し続けた本音を引き出して、その上で彼女の願いを叶えること。
尤も、彼がアリスに伝えなければならない事もある。首に残る傷跡の事と、彼女が抱いている誤解。糸の結び目のように絡まった心達を少しずつ紐解いていかなければ。また、明日を一緒に歩むために。
先生はアリスのすぐ近くまで歩み寄り、片膝を突いて視線を合わせた。
「────久し振りだね、アリス」
「先、生」
先生の姿を見たアリスの表情が喜びで染まる。彼女にとっても特別に大切な人で……会いたかった人。ずっと会えなくて、寂しくて。また一緒に居たくて。でも。
「ごめんなさい……」
同時に合わせる顔が無い人でもあった。特別なのに、大好きだったのに、また一緒に居たかったのに……他ならない自分の手で彼を死の淵に追いやってしまって。また同じような事が起こらないとは言い切れない。だからもう、
一緒に居たいのは紛れもないアリスの本音。だけれども……大好きだからこそ、自分の手で傷つく彼なんて見たくないし、そもそも彼に傷ついてほしくない。それだったら涙を呑んで離れ離れになろう。この手が届かない距離まで離れて、本音を殺して。彼の事を忘れて。
「アリスは先生を傷つけてしまいました。だからもう、先生と一緒に居る事は出来ません。きっとアリスはまた、先生の事を傷つけてしまいますから」
首に在る痕。消えない痛み。アリスが彼を傷つけた証。その因果は誰にも否定できない。アリスにも、Keyにも……勿論、先生にも。アリスの体が彼を殺しかけた、それは決して揺るがないたった一つの真実。
────この傷はアリスの所為じゃない、と云うのはとても簡単だ。実際、彼もそう思っている。全ては己の至らなさが招いた結果であると彼は思っているし、責任の所在も全て自分に在るはずだ。生徒達が背負わなければならない事なんて何もない。
だから、その本心を伝えればいい。意志を、心を音にする言葉というツールを使って。言葉を相手に伝える声を使い、口を伝って彼女に届く様に。
だが、果たして彼女はその言葉で納得して、もう一度この手を握ってくれるのだろうか。罪を罪と想う機会すら奪われてしまって、彼女はもう一度あの日のような笑顔を浮べてくれるのか。罪を奪うという事は許しを奪うという事。許される機会すら簒奪してしまったら、彼女の悲しみの行き場は無くなってしまう。
悲しみも涙も全く以て尊くはない。悲しまなくて済むなら悲しむ必要は無いし、涙だって流す必要が無ければ流さなくても良いはずだ。涙も悲しみも美しいものではない。それを美しいとする価値観は、それが無くては生きていられない世界を耐え忍ぶための方便に過ぎないだろう。
だけれども────悲しむ自由や涙を流す権利を奪うのは違うと思う。悲しければ泣いていいし、腹が立てば怒っていい。楽しければ笑うのと同じように。
だから。
「先生、どうかアリスの事を忘れてください。アリスは先生に忘れられても大丈夫……です、から……ッ」
震えて、涙を流して。どう見ても大丈夫じゃないにも関わらず、先生の為に遠くに行こうとする。言いたくない事、本音とは真逆の事ばかり。でも、近くにいるだけで傷つけてしまうから仕方ない。
「会いに来てくれて嬉しかったです。アリスはずっと、先生に謝りたかったんです」
ずっと心の内側で燻っていた未練。彼を傷つけた事を謝りたかった。謝って許される事ではないと分かっていても、自己満足と言われようとも、それでも謝らなければならなかった。傷つけた事、彼の好意を台無しにしたこと、聞き分けの無い悪い子になってしまった事、その全て。
「ごめんなさい、先生」
────この声がちゃんと絞り出せていたのか、アリスは分からなかった。俯いた視界に映る薄灰色の無機質な地面は水底のように揺らめいていて輪郭すら定かではない。泣きながら言ってしまったからきっと声も不格好に震えていただろう。もしかしたら、言葉が正確に伝わっていないかもしれない。
でも、これ以上言葉なんて出せそうもなかった。大切な人を自ら手放してしまった悲しみはアリスの胸の中を暴れ回り、その激痛が嗚咽と涙になる。俯いたのも、彼の姿をこれ以上見てしまうと本音が零れてしまうから。彼にはこれ以上、傷ついてほしくない。叶うのならばアリスが見惚れたあの笑顔をずっと浮べていてほしい。彼には争いや血なんて似合わないから。
そう思い、涙と嗚咽で自身の世界を閉ざしたアリスを襲ったのは随分と軽い衝撃。背中に感じる腕の感触、前から伝わる温度。固く、強く、しかし────涙が出るほど優しくて。鼻孔を擽ったのは記憶の奥に刻み込まれた彼の香り。
「────いいんだ」
「せん、せい……?」
声は耳のすぐ隣で聞こえた。何もかもを溶かして、許して、優しく包み込んでくれるような甘い声。鼓膜の隣で猫が寝返りを打つようなこそばゆさは彼の吐息によるもの。
抱き締められた、とアリスは何処か他人事のように感じた。前から彼女の体をすっぽりと覆うように、腕の中から決して逃がさないと言うような抱擁は彼女の冷え切った温度に確かに熱を灯す。
別に、彼に抱きしめられたのは初めてじゃない。寧ろその逆、アリスは何度も彼との触れ合いを求め、その度に彼は『しょうがないな』と優しく我儘を受け入れて、彼女の願いを叶える抱擁を繰り返した。
アリスは彼と触れ合う事が好きだった。彼の温度、感触、香り、鼓動、呼吸。それらを間近で感じる事ができるから。彼の命がアリスのすぐ隣に在って、一緒の時間を歩んでいると感じられる瞬間がたまらなく好きだった。
だから彼と触れ合えなくて寂しくて、今こうしてまた抱き締められて嬉しくて。アリスは所在なく垂れ下がった腕を彼の背中に回そうとするが、まるで硝子細工に触れるかのように手は震えてしまって。それを背中越しに感じた彼は一層優しく微笑む。それに促されたアリスはおっかなびっくりと彼の背中に触れて……掌から伝わる温度に涙した。
触れたくても触れられなかった、触れると壊してしまうと確信していた彼の体。だけれども、アリスの考えに反して彼の体は触れられても尚、命の鼓動を鳴らし続けている。『ほら、壊れないでしょ?』と、彼が言っているような気がした。
「私は許すよ。他の誰もが糾弾しても、私だけはアリスを許し続ける。だから、私の傍でもう一度あの笑顔を見せてほしい。君の笑った顔が見たいんだ」
「でも、アリスは魔王で……皆を、先生を……ッ!」
「私が大切なのはアリスなんだ。魔王でも勇者でも、何でもいい。アリスがなりたい自分を選べばいいから、さ」
アリスが何だろうが、そんな事はどうでもいい。世界を終焉に追いやる存在として生まれようが、世界を救済する存在として生まれようが、そんなものによってアリスの歩む道が強制される必要は無いだろう。アリスはアリスの行きたい道を行けばいい。誰が何と言おうがその選択の邪魔はさせない。アリスは思うままに生きて良い。思う自分になって良いのだ。
それに、そういった背負わされた役割によってアリスに向けた感情が変化する訳がない。アリスがどんな選択をしようがモモイ達と結んだ友情に揺るぎはなく、先生の生徒であるという事実も覆らない。アリスの属性1つで、今までの時間の重みが消え去る訳が無いだろう。
彼が大切に想っているのは全てのアリス。どんなアリスも等しく大切に想っているし、愛している。だから。
「世界が君の死を望むなら、世界の全部を敵に回しても私が君の生存を叫ぶ。君が涙を流すなら、その涙が止まるまで手を握り続ける。私の命が終わるまでずっと君の傍に居続ける。だから、手の届かない遠くで息を止めたいなんて思わないで」
────もし、本当に世界がアリスの生存を認めず死に追いやろうとしたら。彼は本当に己の全てを投げ打って、守りたかった全てに背を向けてでもアリスの味方になるだろう。アリスの為に彼は一切の迷いなく、誇り高く世界の敵になる。その果てで誰かに憎まれても、彼はアリスの為の先生で在り続けたことを悔いない。アリスが生きるためならば、文字通り全てと戦うつもりだ。
否応なくそう思ってしまうほど、彼の言葉は重かった。虚飾も嘘も存在しない、彼の言葉は紛れもなく真実。
だから、続きもそうなのだろう。アリスが泣いていたらずっと手を握り続ける事も、アリスの傍に居続ける事も。アリスの憂いの無い笑顔こそが最大の報酬だと言わんばかりに、彼はアリスに寄り添い続けるつもりだ。彼女が一人ぼっちで消えてしまわないように。彼女が本音を殺さないように。彼女が明日を望んで、皆と笑ってくれるように。
「どうか忘れないでほしい。アリスは皆に祝福されて此処に居る。アリスは皆に愛されている。アリスの命はずっと、大切にされているんだよ。だから、一緒に帰ろう? 皆と一緒に……君が作った大切な場所に」
彼は抱擁を解いて、まるで姫に手を伸ばすかのように掌を空に向け差し出す。どうか、この手を取ってほしい。どうか、思うままに生きてほしい。だから、どうか────この手に少しでも、光を見てほしい。君の望んだ未来を一緒に紡がせてほしいと、彼は思う。
「先生は……」
「────うん」
彼は優しい声音で彼女の言葉を待つ。恐れる必要は無い、と。
「アリスの事、憎んでいないのですか?」
「勿論。寧ろ、どうして憎む必要があるのか聞きたい位だ」
「アリスの事、怖くないのですか?」
「全然。アリスは私の可愛い生徒だよ。これまでも、これからも」
先生にとっては改めて言うまでもない……決して揺るがない真実。アリスにとっては聞きたくて堪らなかった疑問。それを言葉にして、声にして、1つずつ解いていく。
1つずつ解くたびに、声にするたびにアリスの表情が明るくなる。本音が強く脈打つ。取り繕った偽りが剥がれ落ちて、ずっと抑え込んでいた願いが露になる。
「で、では……」
そして、最後の────アリスが最も聞きたかった、否定してほしい疑問に辿り着いた。
「アリスの事……嫌いじゃ……ない、ですか?」
「どんな事があっても、私はアリスの事を嫌ったりしない」
真っ直ぐとアリスを見る眼には一粒の嘘も翳りも見当たらない。この言葉は全て真実、紛れもない本心であると雄弁に語っている。
「アリスはいつまでも私の大切で……最愛の生徒だよ」
駄目押しと言わんばかりに放たれたその言葉はアリスの内側の闇を薙ぎ払うのに充分すぎる願いが籠っていた。
「だから、アリスの本音を聞かせてほしいな。アリスはどうしたい?」
君のやりたい事。望んだ事。したい事。したかった事。下らない事でも、大層な事でも。本当に何でもいい。だからどうか、アリスの嘘偽りない本当の本音を聞かせてほしい。先生はそう言った。
「アリスは……魔王なのに……世界を滅ぼしてしまう……のに……なのに……」
ゲームをプレイして、勇者になりたいと願って。勇者になるために日々のクエストを熟して、沢山の人と関わりを結んで。ある日、沢山の人達と……大切な人達を2人も傷つけて。世界を滅ぼす魔王だと言われて。これ以上大切なもの達を壊してしまいたくないから終わる事を選んだ。愛した場所を守るために、愛した場所から離れなければならなかった。そうしないともっと多くのものを取り零してしまうから。もっと多くのものを壊してしまうから。
モモイを傷つけたのは
多くを傷つけた。多くを壊した。大切だと叫びながら、大切なものをこの手に掛けた。
でも。そんな、
「それでも、アリスは……それでも、いいんですか?」
漸く、彼女は押し殺していた本当の願いを大切な人達に伝える事ができた。
「冒険を、皆と一緒に……
彼女達が、こんな
いや、そんなものは唯の言い訳だ。アリスの中に在るのはもっと根源的で、単純な……ただ、友達と一緒に過ごしたいという感情。その感情を、願いを、漸く彼女は口にする事ができた。
「こんなアリスでも……? 本当に……?」
「うん、勿論」
「それなら……アリスも! 勇者になって……! 皆と……モモイ、ミドリ、ユズ、先生と……冒険を続けたいです……! 魔王であるアリスが、そうしても許されるなら……!」
その言葉と共にアリスは自分の意志で顔を上げた。モモイに促される訳でも、先生に支えられる訳でもなく。自分のこれからとこれまで……今まで押し潰されてばかりだったそれらを正しく受け止めて、彼女は大切な人達を視界に入れる。4人の姿は何度も見た在りし日の姿、そのまま。漸く真正面から見る事ができた、とアリスの中に温かい気持ちが生まれた。
ずっと聞こえない振りをしていた明日の声に耳を傾ける。暗い部屋で塞ぎ込んで誰とも会わずにただ一枚絵のような世界を見続けていたから明日への進み方なんて忘れてしまったと思ったけれど、この体に思い出と共に刻まれた……大切な人達に教えてもらった『生き方』は忘れられる訳が無かった。
アリスの思い出は、ずっと彼女の背中を押していたのだ。彼女自身が、それに気づかなかっただけで。
生きて良いと言ってくれた。傍にいると言ってくれた。これ以上孤独な夜を進まなくていいと、彼女達は言ってくれた。
それなら、その許しを胸に。罪を抱えながら、少しずつ贖って。しかし、決して後ろ向きにはならず明日を想って生きよう。
皆と一緒に、あの青空の向こう側を見てみたい。生きてみたい。
その願いを彼女達は微笑みを浮べながら肯定する。
「うん! アリスがしたいならそれで充分!」
「魔王だって勇者になれるよ」
「寧ろ、最近だとそういう外したお話がヒットしているからね!」
「もしそういうブームがなかったとしても……私達が次回作として作ればいい……」
「だって、私達4人は色々な想像を形にする事ができる……」
「何でも作る事ができる……!」
「────ゲーム開発部だから!」
アリスとの出会いの場所。アリスの冒険が始まった場所。そこでもう一度スタートを切ろう。果ての無い、終わり在る旅路を歩むために。だが、ここでスタートを切るのはアリスの冒険だけではない。ゲーム開発部も此処で再スタートを切るのだ。アリスと同じ速度で歩むために。
「では……アリスは、勇者になりたいです」
「うん、勇者になっていいんだよ」
その願いを邪魔するものなんて何もない。君はこの空の下、何処にだって行ける。何にだってなれる。だからその祈りもきっと叶えられるだろう。
アリスはきっと、勇者になれる。
「アリスは……アリスになりたいです……!」
アリスはきっと、
「君がなりたい存在は、君自身が決めて良いんだよ────アリス」
星が落ちるような笑みと共に差し伸べられた彼の手。それをやっと、アリスは握る事ができた。