シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
感想、評価、お気に入り登録、誤字報告で救われる命があります。
心地の良い微睡から溢れたリオは薄らと目を開ける。遮光カーテンで窓を塞いだ部屋に太陽の光は入らないが、張り巡らされたセンサーが部屋の主人の起床を感知し、シーリングライトが点灯した。オレンジ色の暖色光が半覚醒状態の瞳孔に主張せずするりと入り込み、起床を促す。
「……」
いつもなら起きて、一日の最初のルーティンをこなしていただろう。時間は有限、惰眠を貪っている猶予はない。意識の覚醒と共に起床し、直ぐにやるべきタスクに手をつける。それが日常。何かに脅迫され、背中に銃口を突きつけられているかの様に走り続ける。いつか終わるその時まで。
けれども、今日は……否、今日もそんな気分にはなれなかった。
「……8:29」
手元のスマホのホーム画面に映る時刻は、これまでの起床時刻よりも2時間半近く遅い時間。彼女を知る人達が今の彼女を見たら別人にでもなったのかと驚愕するだろう。それ程には過去の彼女と今の彼女は乖離していた。
リオはそのままスマホのロックを解除し、何をする訳でもなく画面を眺めて……それから、思い立ったかのように操作。しなやかな指先で液晶をスワイプし、重要なファイルが入っているアプリをタップ。2重のセキュリティを解除してから……ある一つのPDFを画面に表示した。
そのファイルの作成日時は今から1年ほど前。つまりリオが2年だった頃のもの。門外不出を示す調印が連邦生徒会の名で刻まれたこの書類はこのキヴォトスに於いて知る者は10名と居ないほどに秘匿されており、徹底的な緘口令の元に情報統制されている。
────そこに刻まれている情報が示すものは不完全な『神』の降臨。
アビドスを震撼させた機神体……第三のセフィラたるビナーが完全顕現するよりも前に、このキヴォトスでは一度神が不完全顕現していたのだ。顕現した場所が人目に付きにくい場所であったことと、情報統制により知る者はほぼ居ないだろうが。
リオはこの光景を見てより強く世界の救済を目指した。謂わばこの出来事は、彼女の人生における有数のターニングポイントであった。
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記録────神暦XXXX年XX月XX日。
キヴォトス最外端、氷海地域。
21:03
連邦生徒会所属巡回職員が正体不明の白い構造体を目視で発見。
21:46
支部長の判断より研究員3名、駐屯中の分隊12名、計15名の調査団を現地に派遣。
22:07
カバーストーリー、『大規模な氷河の融解の危険性』の流布。周囲の封鎖並びに近隣船舶の避難誘導を開始。
23:01
調査団、現着。現場からの要請に従い、該当の構造体に危険度を設定。
23:14
調査団との通信途絶。通信妨害効果を持つ攻撃を考慮し、遠見が可能な人員を招集。
23:23
現場状況判明。構造体を中心に凡そ半径300m圏内に強力な神秘の放出があったものと推定される。現地に投入された調査団は全員生存しているものの、重傷。
23:44
緊急時対応マニュアルに従い、推定危険度を上方修正。
23:47
連邦生徒会本部、サンクトゥムタワーへのホットラインが作動。
0:00
キヴォトス災害時特別対策委員会招集。
0:04
危険度を上方修正。白の構造体を『名称不明』として『キヴォトスに於ける脅威』に登録。
0:09
初撃の被害半径を考慮し、避難誘導半径及び封鎖地域を大幅に拡大。半径5km圏内の全域封鎖と人員の避難を支部に要請。
0:21
緊急時に於ける特別規定第12条に則り、各学園首脳部へ情報伝達。支部から連邦生徒会へ情報規制及びヴァルキューレ警察学校、SRT特殊学園の出撃を依頼。
0:32
第一次封鎖範囲の策定完了。範囲内の施設従業員及び船舶、飛行機の避難誘導開始。
0:35
連邦生徒会、ヴァルキューレ警察学校、SRT特殊学園による連合討伐部隊の結成が決議。候補人員は別表参照。
0:38
討伐隊司令部を連邦生徒会本部サンクトゥムタワーに設置。
0:46
討伐隊の人員が決定。連邦生徒会から第四機動小隊24名、SRT特殊学園からFOX小隊4名、ヴァルキューレ警察学校から特務部隊12名、計40名に出撃命令が下される。この内、ヴァルキューレ警察学校特務部隊は直接戦闘を避け、避難誘導の監督並びに現地連邦生徒会職員の護衛に専念。
0:57
FOX小隊を除く討伐隊の人員が司令本部に到着。ミレニアムサイエンススクール協力の元、ヘリにて人員の移動を開始。FOX小隊は先行し、現地に移動中。以下、FOX小隊を除く36名の部隊を本隊と呼称。
1:13
現地職員による陣形構築完了。陣形が破壊されることを考慮し、200mずつ距離を取り4重のシールドを設置。このシールドは以降、内側から順にA、B、C、Dと呼称。
1:21
シールドの設置完了。名称不明個体、依然動かず。
2:35
FOX小隊現着。以下、FOX小隊と現地職員による混成部隊を先行隊と呼称。
2:40
司令部より、個体に動きがない限り本隊との合流を待って対処に当たるよう指示。
3:11
名称不明個体から再度強力な神秘放出を確認。爆心地から半径約250m圏内が蒸発。半径約760m圏内に甚大な被害。先行隊7名負傷。
3:12
個体が機動。
3:15
遅滞作戦を行っていた先行隊が半壊。シールドA、Bが破壊される。
3:22
個体が南下を開始する。また、現場のログより本件個体を『ゲブラ』として再登録。
3:24
シールドC破損。それに伴い、先行隊は総力戦体制に移行。動員可能な全職員を投入し、『ゲブラ』の進行方向を誘導。
3:56
本隊を搭乗させたヘリが現着。この時点で先行隊は7割の戦力を喪失。
3:58
部隊を再編成し、総力を挙げて進行方向の誘導と遅滞作戦を行いつつ、負傷者の運搬及び安全確保を試みる。
4:10
FOX小隊、
4:34
先行隊及び本隊の戦力の9割が損失。
4:36
事態を重く見た連邦生徒会はゲヘナ学園、
4:47
空崎ヒナ、現着。
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リオはスマホをスリープモードにして、画面を下にしサイドテーブルに置く。リモコンでシーリングライトを消灯し、跳ね除けていたブランケットを頭のてっぺんまで被れば二度寝の準備が整った。
自暴自棄。堕落。そんな事はリオ自身が一番よく分かっている。今までの正反対とでも言うべき惨状に驚いているのは他ならぬリオであるし、早くどうにかしなければと一番思っているのもまたリオだ。
だが、どうすれば、何をすれば良いのか分からなかった。
「────」
今までは自分の全てをキヴォトスの未来のために捧げてきた。エリドゥの建設、機能保全。武装の研究、開発。無名の司祭の対策。
それが今では、何度惰眠を貪っても有り余るほどになっている。セミナーの会長は辞めた。ミレニアムに行ってもやる事なんてない。緊急時の為に確保していた86に及ぶセーフハウスがリオの世界。リオが呼吸を許される空間。此処だけがリオの居場所だった。
ルベライトの理知が閉じる。次にこの目が開く時、自分を肯定できる何かが見つかるように祈りながら。
▼
「……ん」
意識の覚醒と共に耳に飛び込んできたのはインターホンのベルの音だった。幾ら自堕落でもドア先で待たせるわけにはいかなかったリオは自分の格好を見下ろす。至って普通の飾り気のないパジャマ。この服装のまま外に出ることはできないが、玄関先で応対をする程度なら大丈夫だろう。
だが、それはそれとして疑問は残る。今日配達予定の荷物はあっただろうか。後日に届く荷物なら幾つか心当たりはあるが、今日となると途端に分からなくなる。予定が前倒しになったのだろうか。
だが、何かの荷物であることには変わりない。受け取るだけ受け取り、中身を確認してから今日をどうするか決めよう。もう眠気は引っ込んでしまったから、人間的な活動を。少ないながらもやるべき事は残っているから。
そう思い、開けた先のドアには。
「こんにちわ、リオ。先生EATSでーす」
見ている側の方が気の抜ける穏やかな笑みを浮かべた先生が立っていた。
「……」
対するリオはその光景を見て絶句する。荷物じゃなかったのか、とか。何でここに先生がいるのか、とか。化粧はしてないしパジャマなんだけど、とか。
それらを吟味して、咀嚼して。少しだけ冷えたリオの頭と体は────取り敢えず目の前のドアを閉めることを選択した。
「待って待って謝るからドア閉めないで」
だが、妙な反射神経の良さを発揮した彼はリオがドアを閉め切るよりも前に右足を差し込んでストッパー代わりに。彼の鍛え上げられた直感が『このままドア閉められたら二度と開けてもらえない』と叫んだのだ。強引で申し訳ないと思いつつ、後悔はしていない。尚、この状況……生徒の家にノンアポで訪問した不審者同然の自身については全力で目を背けている。
「はぁ……」
ドアを完全に閉じれなかったリオは溜息を吐く。以前のような理路整然とした生活を送っていれば、寝起きでなければ、彼に反応速度で上を行かれる事はなかったのに。だが、そんな『たられば』には意味がない。
そもそも、リオには彼の来訪を拒むつもりはなかったのだから。ドアを閉めようとしたのは自分の都合。メイクも何もしていないすっぴんの自分を、パジャマ姿のだらしない自分なんて彼に見せたくなかった。
彼に失望されたくなかった。
「……何の用かしら」
「久しぶりにリオの顔を見に来たんだ。心配だったんだよ?」
「先生も暇なのね」
瞬間、先生の脳裏に過るシャーレの膨大なタスク。ここ数日、シャーレの業務をストップしてミレニアムの事後処理に奔走していたのだ。その間にも彼が処理しなければならない物事、各学園の行政や連邦生徒会から回された書類は当然溜まる。
フォルダを見た瞬間にそっと閉じたくなるほどにはやるべき事が山積みになっていた。此処に来る前に緊急性の高いものと今日が締め日のものだけは最低限終わらせたが、明日以降のものはノータッチ。ユウカが見たらまず間違いなく『なんでこんな風になるまで放置していたんですか!?』と有難いお説教が始まるほどには積んである。
「……暇だよ、うん」
だが、それを悟らせないように取り繕った笑みを浮べる。明日や明後日の自分が忙殺される事なんて些事。リンやアオイ、しっかり者な当番の生徒には口酸っぱく言われるだろうが、怒られるのは自分一人。頭を下げるのも自分一人だ。リオとどちらが大事で、優先すべき事かなんて問うまでもない。
「色々持ってきたんだ。食材とか飲み物とか。食事を疎かにしてるんじゃないかと思って」
がさり、と手に下げられたビニール袋の音が鳴る。少し透過して見える中には野菜や魚、肉、飲料。冷凍食品や出来合いの総菜といったものまで中に入っていて、何処かのスーパーかコンビニで買って来てくれたのだろう。
それを見て少しだけ食欲が沸いてくる。彼の言う通り、食事は随分と疎かにしていた。貯蓄していたゼリー飲料とサプリを新たに買い足す事もなく消費し、一食も食べない日すらもあって。
まるで自分の何もかもを見透かされているかのようであったけれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。
「少し待っていて頂戴。部屋を片付けてくるわ」
取り敢えず散らかった部屋を片付けて、着替えて来ようと思った。これが昨日と違う今日へ踏み出す最初の一歩だと思えたから。
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大体30分ほど経った頃、部屋の掃除と身支度を終えたリオは再び玄関ドアを開けた。今度は数センチではなく、人がちゃんと通れる広さ。誰かを受け入れるという意志の表れ。
「待たせたわね」
「いいや、全然。寧ろ突然訪れたのに上げてくれて嬉しいよ」
「えぇ、これを機にアポなしは止めてほしいわ」
そう言うリオであったが、1回目の訪問がこうなる事は当然であったと一定の理解をしている。何せ、彼とリオは連絡先を交換していない。プライベートの親交も一切なく、会話を交わした時間は数時間にも満たない。彼の権限なら生徒名簿に登録されている住所を閲覧できるだろうが、そこは既に蛻の殻。記録やデータに残されたリオの足跡の何処にも、リオは居ないのだ。
……そう考えると何故彼が秘匿されたセーフハウスを特定できたのか不思議であるが、問わない事にした。恐らくはぐらかされるだろうから。
そこまで考えて、リオは初めて彼の姿を視界に入れる。彼の服装は白を基調とし、青の差し色が入った連邦生徒会の制服と似ているシャーレの服装……ではなかった。
青い花の刺繡が袖口に入った白の長袖シャツ。黒のスラックスとローファー。シンプルながらも刺繡で遊び心を出した格好。腕に嵌められた時計以外、アクセサリーの類は一切身に着けていない。
初夏を明確に感じ始めた今によく似合う、少し涼しさを感じさせる装いだった。
「……何時もの服ではないのね」
「うん。シャーレの正装を着てたらリオも肩肘張っちゃうと思ってね。だから今日は私服。先生としての私も半分くらいはお休みさ」
つまり彼はシャーレの用事や誰かの要請があったからではなく、あくまで自分の意志でリオの元に訪れたという事。先の言葉通り、彼はリオが心配だから来たのだ。そこに一切の打算や目的はない。ただ、生徒を想う優しい心がそこに在る。
半分ほど休んでいる先生としての彼も、きっとリオへの優しさの表れ。先生ではなく一人の青年として、同じ地平を見ていた人間として此処に居ると言ってくれている。そして、リオが望めばすぐに『先生』としての彼になるだろう。
生徒を教え、導き、共に歩いて行く先生。キヴォトスで血を吐きながら生きる、何処にでもいるような青年の彼。
何方が本当の彼。何方も本当の彼。ただ、初めて見る側面があるというだけ。
「さ、上がって。人をもてなせる様なものは何もない、つまらない部屋だけれど……」
「お邪魔します」
上がった先に在ったのはごく一般的なマンションの一室。キヴォトスを探せば似た様な部屋なんて大量に見つかるであろう。こういう奇を衒わないありふれた部屋の方がセーフハウスとして優秀なのだろう。各地にあるセーフハウスの1つ1つに差異があったら管理も面倒だ。統一できるものは統一した方が使用時に混乱しないで済む。
それに、リオが住居に関してこだわりを持っているとは思えなかった。インテリアや装飾は二の次。機能性や利便性を何よりも優先しているであろう彼女の室内には家電こそあれど家具は皆無だった。余程急いだのか開けっ放しになっている寝室のドアの向こう側には簡素なベッドとデスク、チェア。通してもらったリビングにはロボット掃除機が1機充電されているのみで、あとは食事に使っているであろうローテーブルが1つ。ラグやカーペットも見当たらないため、まさかフローリングに座って食事を取っているのだろうか。
「人を部屋に上げるのは初めての経験ね……」
「奇遇だね。私も生徒の部屋に上がるのは初めてだよ……キッチン、借りてもいいかな?」
その問いに肯定すれば、彼は眩しいくらいに優しい笑みを浮べる。ただ表情筋が動いただけ、と言い切るにはあまりにもその笑みは美しく、儚く、なにより愛に溢れていて。
「ありがとう。腕によりをかけて作るから、少し待ってて」
言い、キッチンの奥に行く彼。袋を置く音が聞こえると、彼はひょっこり顔を出して。
「好き嫌いとかアレルギーはあるかな?」
「特に無いわ」
聞き忘れた事を聞けた彼は「分かったよ」とだけ言い、今度こそ料理に向かった。
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手元のタブレットでやるべき事をやりつつ、ちらりとキッチンに視線を送った。そこには私服の彼が立っていて、良い手際で何かを作っている。漂う香りは食欲を煽り、真面に向き合ってこなかった『食事』という機能が浮足立った。
それにしても慣れない。自分以外の誰かが部屋の中に居て、剰えその人が自分の為に料理を作っているなんて。少し前の自分に言ってもきっと信じてもらえないような光景。リオがこれまでとは明確に変わった証拠、とでも言うべきだろうか。その変化の善し悪しは兎も角として、自分以外の誰かが居る空間というものは存外心地良かった。孤独を否定してくれているようで。
「お待たせ。そんなに凝ったものじゃないけど……」
眺めていた場所には彼は居なくて、いつの間にか彼は触れられそうなほどに近い距離に立っていた。両手で昼食の乗ったトレーを持って、花の落ちるような笑み。ぼうっとしてしまった、よりにもよって彼の前で。
でも。
「大丈夫、どんなリオでも私は受け入れるよ」
なんて彼が言うものだから、思わず笑みが零れてしまう。人好きのする性格……と謂うよりは人誑し。声のトーンや距離感、話し方。そのどれを取っても心地の良い何かを感じる。人心掌握ではなく、単純に誰かと仲良くなることが上手いだけ。当たり前に誰かを愛し、信頼するから誰かに愛され信頼される。リオとは正反対にも思える在り方は少しばかり眩しかった。
「さ、冷めないうちに食べて。味は大丈夫のはず……多分」
眼の前に置かれたトレーにはパスタとサラダ、お水。栄養価やバランスも考えられており、量も少なすぎず多過ぎずで丁度良い。盛り付けられたお皿からは湯気が立ち、鼻孔を良い香りが擽る。何日か振りの温かい食事。味気の無い栄養補給ではなく、娯楽に近い料理。
「いただきます」
フォークとスプーンを手に取り、模範的な所作で巻き取ったパスタを口に運ぶ。するとクリームソースの優しい味わいが広がり、奥から魚介……恐らく盛り付けられた海老の風味が香った。お店で出されても不思議ではないほどにクオリティの高いリオはポツリと呟く。
「……料理、上手なのね。美味しい」
「リオの口に合って良かった」
真正面に座る彼は何がそんなに嬉しいのか、或いは楽しいのか優しい笑みを浮べながらリオの食事を眺めている。上手に作れて良かった、なんて思いながら。
料理上手な生徒……例えば給食部のフウカや玄武商会のルミ。あとはお茶菓子に限定されるが、2人に並ぶほど上手いナギサ。彼女達と共に何度も一緒に料理をした経験はこういう時に活きる。リオに料理を作るのはほぼ初めてに等しいが、どうにか口に合う味に出来て良かった。レシピを一緒に考えてくれたフウカには感謝してもし切れない。今度、またお礼をしないと。
「……先生は食べないのかしら」
「私は大丈夫。来る前に食べてきたからね」
「……そう」
作った彼を差し置いて自分だけ食べているのも悪い気がしたのだろう。別にそんな事を気にしなくてもいいのだが、気にするのもまたリオらしい。恐らくこうして他人から施されたり、寄り添われた経験がほとんど皆無なのだろう。
彼女はずっと孤独だった。だから今、彼に対してどう接すれば良いのか分からない。初めて獲得した人間らしさと、見続けた地平を共有できる存在。リオの悉くを否定せず、肯定した先生。
────焦っている、のかもしれない。与えられたから返さないと。優しくされたから優しくしないと、肯定されたから、肯定しないと。独りぼっちから解き放ってくれたから、彼の孤独も払拭しないと。自分の意志でそうしたいという感情と義務感が鬩ぎ合って身動きなんて取れなくて。どうすれば良いのか数式たちは教えてくれない。
────私は、何を。
そう思い、見た彼の双眸は何処までも澄んでいた。
▼
「ご馳走さまでした」
「お粗末さまでした」
食事を終えたリオのトレーを持って行こうとした彼の手をリオは掴む。少し角ばっているが、細く色白でしなやかな腕。リオよりも脆く弱い手は、本当に少しの力で壊れてしまいそうなほど。もし仮にこの掌にきゅっと力を入れたら、彼の骨は容易く折れるだろう。
────こんなに脆い手で、彼は何度も戦い続けてきた。何度も誰かの手を掴んできた。
「食器くらいは洗わせて頂戴。このまま好意に甘え続ける訳にはいかないの」
「私としては幾ら甘えてもらってもいいんだけど……じゃあ、お願いしようかな」
自身が食事を取った証を片付ける傍ら、彼はフライパンや包丁、木べらを片付ける。流水である程度汚れを洗い流し、スポンジと食器用洗剤で確りと汚れを落とし、再び流水で泡を流す。水気を布巾で取り、ラックで乾燥を待つ。以前までの食事では使い捨ての容器を使っていたため必要なかったが、これからは食洗器の導入を検討した方が良いかもしれない……なんて考えて、ふと思う。
────これじゃ、また先生が来てくれるのを期待しているみたいだ。
浅ましいと言うべきか図々しいと言うべきか、それとも夢を見過ぎと言うべきか。彼の多忙さは知っている。彼は暇と云ったが、そんな訳ない。この時間もきっとどうにかして捻出したものだ。唯でさえタイトなスケジュールを詰めて、時間を切り詰めて、そうして生まれた僅かな時間をリオの為に使っている。これ以上の高望みはするべきでないだろう。子どもでもあるまいし。
「リオが手伝ってくれたから早く終われたよ、ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃないわ」
「それでも、だよ。コーヒー飲む? 持ってきたんだ」
「流石にこれ以上は────」
甘えられない。その言葉を遮ったのは彼の人差し指。これ以上何かを言わないように、唇に触れそうな距離にあった。
「
なんて、柔らかな口調で有無を言わせないように言葉を紡ぐから。言うつもりの無かった『甘え』が口から零れてしまう。
「……ブラックでお願い」
出来れば、この甘さを忘れられるくらいに濃いコーヒーを。