シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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湯気の立つコーヒーと甘さが控えめなクッキー数枚。先生の位置はリオの正面……ではなく、彼女の右隣。彼女が正面でなく、隣にいる事を望んだ。我儘を言ってくれたことが彼は心の底から嬉しかった。
「……エリドゥで話した事、覚えてる?」
唐突にも見える話の切り出し方。恐らくはこれが本題、彼がリオの元に訪れた本当の理由なのだろう。
……彼と話した事。勿論覚えている。彼がリオの為に、リオを想って紡いだ数多の言葉。その内の1つ。リオと彼の未来の約束を忘れられる訳が無かった。一言一句、ちゃんと覚えている。
────リオ、これが終ったら話をしよう。私達には互いに知らない事が多過ぎる。だからまずは互いを知る所から始めよう。私の事、君の事。それらを取り巻く世界の事。過去の歩み、今思っている事、未来の事。友達とか好きなものとか……そういった何でもないようなことを話そう。それが多分、今の私達に必要なことだからさ。
互いを知ること。互いを見つめる事。それが必要だと彼は言った。彼はリオを知らず、リオは彼を知らない。初めましてを落ち着いて言う暇なんて無かったから。だから、その一歩を初めから踏み出すべきだった。きっと、誰かを知ることに『遅すぎる』なんてないと思うから。
「まぁ、突然話せって言われても何を言えばいいか分からないだろうから……そうだね、私の近況の話から始めようかな。リオは話したいと思ったタイミングで話してくれて大丈夫。リオの言葉はちゃんと聞くからね」
そう言って、彼はコーヒーで喉を潤して。
「今は事後処理も落ち着いて学校内は平和になってるよ。半壊した部室棟も一回全部取り壊して新築にして、被害が無かった部室棟も老朽化があったから改築して。ゲーム開発部の部室も雨漏りしなくなったから、あの子達は喜んでたよ。でも部屋の広さは変らなかったから、そこだけ不満そうにしてたっけ」
被害が酷かった部室棟……非認可の部活であるヴェリタスの部室などがある棟は、セミナーの年度予算の中から改修費を捻出して新築にした。だが、不慮の事故にあったとはいえ改装予算を全てセミナーが負担した事について他の部室棟に部屋を持つ部活が不満を持ってしまった事により直談判が発生。
加えて、事故をガス爆発という形で処理したことが裏目に出てしまった。老朽化の進んでいる他の部室棟でも同じような事故が起きるのではないのか、と言われてしまえばセミナーは言い返す手段を持たない。結局、改修するならこのタイミングがベストだろうと判断したユウカが物凄く苦い顔をしながら全部室棟の改装を承認。今年度の予算の5割を使用し、改装が行われた。
「あとは、そうだね……ユウカはリオがいなくなったことに対してカンカンだったよ。もの凄く怒ってた。『戻ってきたら説教です!』って意気込んでたら、覚悟した方が良いかもね」
「戻ってきたら……?」
「そう、戻ってきたら。リオの辞任をセミナーは認めなかったから、変わらず会長はリオのままだ。今はユウカとノアが会長代理の席に着いてるけどね……あぁ、ノアは『いつでも戻ってきてくださって大丈夫です』と言ってたよ」
それはつまり、セミナーにはまだリオの居場所があるという事で。リオの居場所を3人が守り続けているという事で。ミレニアムに居て良いのだと、戻って来て良いのだと言ってくれている。落ち着いたら、折り合いがついたら、また前を向けたら。自分の思うタイミングで帰ってきてほしいと言ってくれる仲間がいる。
「……そう」
それが、堪らなく嬉しかった。
「2人……いえ、3人に『ありがとう』と伝えてくれないかしら」
「勿論。でも、リオも直接言うんだよ? いつかでいいから、さ」
いつか。今すぐじゃなくてもいい。明日でも明後日でも、一週間後でも、一か月後でも構わない。リオが思うタイミング、リオが言えるようになったら。自分のこれまでとこれからを受け入れる事ができたら、また前に進む。その時、『帰る場所が無い』なんて事にならないように、彼女の居場所を守り続けている。
何故、とは思う。ユウカやノア、コユキにそこまでしてもらうような関係性は築いてこなかった。あくまで同僚、会長と役員の関係。先輩後輩の関係。それ以外に特筆すべき何かはないはずだ。でも、彼女達がそう言ってくれるなら……また、復帰するのも悪くないと思える。
「次は……そうだね。アリスとトキの話をしようか」
「……ッ」
彼が出した2人の名前にリオの肩が強張る。息を呑む。妙な緊張感が全身を包み込んだ。アリスとトキ。忘れる訳がない。忘れられるはずがない。あの一連の出来事で最も心を傷つけてしまった2人。アリスを『滅び』と判断し友人と引き離し、この手で抹消しようとした。トキに望まぬ戦いを強いてしまった。その罪悪は片時も忘れない。今でもずっとリオの首を絞めている。
「アリスとケイは被害に遭った生徒全員に真相を話したよ。勿論、他言無用って前置きはしてね。半壊した部室棟で何が起きていたのか。それを全部話して、誠心誠意謝っていた」
ミレニアムの日常が戻ってきた日、アリスとケイはあの日被害に遭った生徒全員、1人1人ときちんと向き合って説明と謝罪を行った。説明はケイ、謝罪は2人で。
「皆、許していたよ。本当の事を言ってくれてありがとう、って。これもアリスの人徳が成した事なのかな。アリスとケイを責める子は誰も居なかった」
想定よりも随分と呆気なく許した誰もに一番戸惑っていたのは他ならぬアリスで。何度悔やんでも悔やみきれない罪だと思っていたのに簡単に許しを貰えて困惑するアリスだったが、「またクエストに誘って」と言われると満面の笑みを返していた。
「今はまたゲーム開発部で活動してるよ。毎日楽しそうにね。ケイも部活に馴染んでるからもう心配はないと思う」
説明して、謝って、許してもらって。後腐れなく愛した日常に戻る。どうやら彼女達は上手く着地できたようだ。それ自体はリオも嬉しく思う。だけど、どうしても聞き逃せない事があった。
「待って頂戴、ケイって……」
「リオの想像通りのあの子だよ。でも、心配しなくて大丈夫。彼女も今は1つの命としてちゃんと立っている。世界を壊そうとは思っていないさ」
「……先生は、それでいいの?」
「勿論。アリスもケイも笑えて毎日を生きていける。彼女達の笑顔が私の幸福だ。これ以上なんて望めないよ」
「そうではないの。鍵……いえ、ケイは貴方の行く末を案じていた。貴方がこのまま進み続ける事を嫌っていた。恐らくその問題は解決していない。先生は────」
「私は大丈夫。だから、まだもう少し歩くよ」
最期の救いは貰えた。臨終の際にこれからも生きる彼女と対面する権利を与えてくれたのだ。だからそれを胸にまた歩き出せる。これからも。傘を離した手では降る
そして、彼は「少し話が脱線しちゃったね」と言って。
「トキは一旦元々の所属のC&Cに戻ったよ。アカネとカリンは『初めてコールサイン持ちの後輩ができた』って言ってアスナと一緒にトキを猫可愛がりしてる。ネルはまだどんな距離感で接すれば良いのか分かりかねているけど、ちゃんと大切にしている。多分、もう少し時間が経てば2人の間のぎこちなさは解消されるかな」
ネルとトキ、2人の仲は決して悪くない。寧ろ良好と言える。だが、未だ上手く距離感を掴めていないのだ。同じ任務にでも赴いたら2人の間の蟠りは消えるだろうが、タイミング的に難しい。
「今は出張って形で特異現象捜査部の方に向かってるよ。実働部隊が2人に増えたから、エイミ1人ではリスクの高かった任務を任せたりしてるみたい……偶にトキは『メイド活動』と称してシャーレに来るけど」
30分の仮眠を取り終わり、寝起き眼を擦っていた所に「おはようございます。モーニングコーヒーはいかかでしょうか?」なんて声を掛けられたら誰だって驚くだろう。まだ早朝とも呼べる時間にまさか自分以外の人がいるとは思わなかった彼も当然驚いた。
だが、驚いただけだ。各種ロックや施錠はトキの生体認証と学生証で解除された履歴があったため、不思議な点は早朝にトキがいる事以外に特にない。尤も、それが一番不思議なのだが。
────思うに、トキは主を探しているのだと思う。今まではリオに仕えていたが彼女に暇を出されてしまったため、特にやることが無くなってしまって。そうして出来た『メイドとしての自分』の心の隙間を埋めるように、主を求めている。リオに仕えた記憶を大切にしている彼女はリオに性質や性格が似ている誰かを『リオの代わりの主』として見做す事はせず、寧ろリオとは全く別系統……例えるなら先生やヒマリを主として選んだ。
彼女は今、自分探しをしている最中なのだ。リオに仕えていたメイドの自分、ミレニアムの生徒としての自分、C&Cのエージェントとしての自分、1人の女の子としての自分。いずれ揺ぎ無い『自己』になるであろう卵を探し、育てている最中。リオの隣で閉じていた世界は先生とネルの手で強引にこじ開けられ、隣に主は居らず、世界に放り出された。だが、決して一人ではない。彼女にはネルが、アスナが、カリンが、アカネが、アリスが、モモイが、ミドリが、ユズがいる。勿論、先生だって。孤独を感じる必要は無い。彼女はこの空の下、誰かと繋がっている尊い命だ。
頭上を埋め尽くす青を彼女はどう見ているのだろうか。この広い空の下、何処にでも行けると云うのは確かに不安かもしれない。だが、その足で何処かに踏み出してほしかった。君が笑える未来に至るための、尊い一歩を。
「こんな所かな、アリスとトキの話は。2人とも楽しそうに生きている。それは傍で見ている私が保証するよ」
「……先生は」
リオの言葉に彼は少しだけ戸惑いを浮べた様な顔をして。
「先生は、どうなの?」
「私かい? 私はいつも通りだよ。リンやアオイに怒られながら────」
「そうじゃないの」
彼の言葉を遮り、リオは顏を寄せる。鼻の先が触れるまであと10cmにも満たない。神秘的な赤い瞳が一切の虚偽を見逃さないと言わんばかりに細められた。
────リオの鼻孔を淡い花の香りが擽る。
「貴方は重傷だった。いえ、瀕死と言って良い。エリドゥに来る前から。そんな状態で貴方はあんなに無茶をした。あの日からまだ1ヶ月も経っていない。怪我の殆どはまだ治っていないんじゃないかしら?」
その問いに彼は何も答えない。ただ、困ったように笑うだけ。
「命に関わる様な重傷だけ重点的にナノマシンで治して、残る傷は表面的な治癒に留めて痕を消す事に専念。そうして『一見大丈夫な状態』を演出しているんでしょう? でも、その実内面はボロボロ。最低限動ける……いえ、常人なら真面に動けない状態で貴方は此処に居る。違うかしら?」
「……そうだね。私は入院とかはしていないし、精々シャーレの設備を使って再生治療をしたくらい。でも、ナノマシンは毎日投与しているから傷の放置はしていないよ。もう少し落ち着いたら治療に専念するから心配しないで」
「そういう事じゃないでしょう、全く……」
彼が多忙と云うのは重々承知していたが、入院すらしていなかったのは流石に予想外だ。あのネルやトキですら数日は入院し、アリスも検査入院したというのに。誰よりも脆く弱く、誰よりも傷の深かった彼が真面な休息と治療を受けていないのは色々と拙いだろう。
そして彼の言葉の中にあったシャーレの設備、それを使っての肉体再生。恐らくは少し前に運び込まれた医療用ドッグの事だ。専用の液体とナノマシンで満ちたドッグの中で20時間ほど治療を受けると、余程の重傷でもない限り完治するという優れもの。
少し前に実用化されたが導入コストと保守コストが桁違いのため、性能に反し殆どの病院で使用が見送られたのだが……シャーレの資金であればコストは捩じ伏せられるのだろう。技術者として少し興味はあるものの、今聞くべき事ではないと思いリオは一旦スルー。気になったらまた後日聞けばいい。今は、それよりも。
「……その、首の傷は……」
痛みを偲ぶようなリオの視線の先には彼の首筋。無名の守護者の凶刃により真一文字に切り裂かれた肌と肉、動脈。確かに彼が生死の境目を彷徨った証は何処にもなかった。色白の肌には傷はおろか汚れやシミも見当たらない。だが、あの深度の傷が完治する訳ないという事はリオとてよく分かっている。
「普段は隠しているんだけどね」
彼は首筋に爪を立て、まるでテープを剝がすように手先を動かす。すると少しずつ皮膚に見えていた部分が剥離し始め、指先で摘まめる長さまで剥がすと一気に捲った。
「今はこんな感じ。結構前に傷自体は塞がったけど……」
人工皮膚を剥がした彼の首にはやはり刀痕が残されていた。首の正面、端から端まで奔る斬首の痕。元が白い肌だからこそよく目立つ古傷のように変色した痛み。あの日、確かに彼の命がこの世界から離れかけた証は、その痛みを忘れる事を罪とするように肉体に刻み込まれていた。
「……傷跡は」
「消えないだろうね。小さくなることはあっても、完全に消える事はないと思う。だからこうやって誤魔化してるんだけど……リオは気付いた?」
「初めからあると知っていなければ不自然に感じないでしょうね。でも、勘が鋭い人なら違和感を覚えるかもしれないわ」
「そっか、リオに太鼓判を押してもらえたなら一先ずは安心かな」
リオの言う通り、皮膚の偽装はかなり上手かった。光による透過、境界の不自然さもない。言われなければ……否、言われても人工皮膚であるとは気づかない。初めからそこに傷があると知っていなければ皮膚に違和感を覚える事も難しく、余程勘の鋭い人か、或いは実際に触れなければまず間違いなく人工皮膚を使用していると分からないだろう。
リオはじっと傷跡を見つめる。思えば、肉眼で傷を見るのはほぼ初めてに近かった。彼が生死の境を彷徨っている時に足を運んだことはあったがガラス越しに面会する事しか叶わず、傷を視界に入れる事はできていない。揺ぎ無い痛みの証を見ていると、リオ自身すら予想できなかった言葉がリオから零れた。
「……触ってもいいかしら?」
「別にいいけど、触って楽しいものじゃないよ?」
疑問符を浮べている彼は「はい、どうぞ」と言って第一ボタンを外し首筋をリオに明け渡す。曝け出された人体の急所。姿形こそリオを含む生徒達と同一のフォーマットであるが、その中身は全くの別物。神秘もヘイローもない柔く脆く弱い体。そこまでフィジカルに秀でていないリオはおろか、明確に体が弱いヒマリですら彼の細い首であれば容易く圧し折れる。
────そこに、そっと指先を触れさせた。
「……ん」
「ッ、ごめんなさい」
「いや、少しくすぐったかっただけさ。リオが満足するまで続けていいよ」
彼の笑みに安堵を覚えたリオは再び先生の首筋に指を這わせる。色白で、きめ細やかで、すべすべ。だが、傷跡の場所だけがそうではない。凹凸があり、ざらついていて、変色して。
────聞くところによると、この傷はゲーム開発部の才羽ミドリを庇った時に刻まれたものらしい。誰かの代わりに自分を差し出したその選択はあまりにも彼らしいが、残された側の心を考えると素直に賞賛できなかった。痛みは美化できない、傷は正当化できない。それは傷と痛みを美談にして、正義にしてしまう行為だから。
「……ねぇ、先生」
「何だい?」
声は、静かだった。
「痛かったかしら?」
「痛かったよ」
彼とて痛覚は鈍っていない。殴られれば痛みを覚え、撃たれれば血が流れる人間。切られても痛くない、なんて事はなく、刃に撫でられてから意識を失うまでの僅かな間に彼は途轍もないほど痛みを流し込まれた。
「怖かった?」
「そりゃあね」
拳を振り上げられるのは慣れている。銃口を突きつけられるのは慣れている。刃を向けられるのは慣れている。だが、慣れているからといって恐怖心が消えるかと問われれば否だ。怖いものは怖い。
「死ぬのも?」
「人並には」
────そこだけ、少しの嘘を。
「……そう」
考えてみれば当たり前のことを聞いたな、とリオは少しだけ呆れる。痛かったのか、怖かったのか、死ぬのは嫌か。その全ての問いは当たり前に肯定できるもの。リオも、彼も。切られれば痛いし、刃の前に立つのは怖いし、命が失われる感覚を味わうのは嫌だ。
だが、彼はそれを呑み込んで立っていた。痛いのは嫌で、死ぬのは怖い、戦うのはしんどくて。立ち上がれば立ち上がる分だけ苦しみと痛みに愛されると知りながら、絶望を捩じ伏せて立ち上がる。どれほど罪深い地獄の中でも、眼を焼かれるほどの幸福の渦中でも、決して足を止めない。それは偏に誰かの為。自分以外の幸福の為。大切な約束を果たすため。
ケイの言った言葉の意味が漸く理解できた。確かに彼の生き方は自傷行為にしか見えない。そもそも自分の幸福を求めていないのだ。正確に言うならば、彼は自分が幸福になれると思ってない。幸福になるべきでないと思っている。
それが、リオは自分の事のように悲しかった。
彼の生に付随する痛みを偲ぶように目を伏せると、「リオ」と名前を呼ばれた。視線の先には真剣な……先生としての彼。
「今から残酷なことを聞くよ……君は、後悔しているのかい?」
「……どうなのかしら。今、この胸の中にある感情は後悔なのか、それとも別のものなのか。はっきりとはしていない。でも……」
────これでよかった。一切そう思わないかと言われると、違う気がする。リオ自身、この結末に僅かながらも納得しているのだから。
選んだ道に後悔はない。あれは自分で選んで、決めて、進んだ旅路だ。誰かを救いたいと願ったこの心を間違いとは思えないし、その為に歩んできたこれまでを否定する気にもなれない。ましてや後悔なんて抱けるものか。
だけど────少し急ぎ過ぎたのかも、とは思う。ヒマリの言う通り誰かと相談して結論を出していれば、もしかしたら違う未来が……なんて思うけれど、それも栓無きこと。
リオが急いだのは実際にミレニアムの生徒に、先生に被害が及んだからで。事態があそこまで動いてしまった以上、アリスへの対処は火急の要件だった。生徒への被害は無かったことに出来ない。先生の傷も同じ。痛みを無くしてしまえば、その嘆きは何処に向かえばいいのだ。立ち止まる事なんて出来るわけがなかった。
「……そっか」
そんなリオの内心を分かっているからこそ、彼にとっては残酷な問いだった。結末に異は唱えない。過程を悔しない。原初の願いを否定しない。ただ只管に、現実を直視する。叶わなかった理想と、踏み潰した悲鳴。
彼女にとっては何よりも見たくないものだろうが、それでも彼は『先生』としてリオの心を切開し、向き合わせる事を選んだ。
責任は大人が背負うもの────それは確かにそうだ。だが、何もかも背負いっぱなしにしていては成長を妨げてしまう。いつまでも彼が彼女達の事を見ていられるのならばそれでも良いのかもしれないが、生憎とそれは難しい。
だからせめて、彼女達が世界に対して責任を負う立場になった時に困らない様に。彼女達が背負えるものは、背負うべきものは抱えさせなければならない。
勿論、抱えっぱなしにはさせない。重さで潰されそうなら一緒に背負うし、転びそうになったならちゃんと支える。行くべき場所が分からないなら手を引いて一緒の歩幅で歩こう。それが彼のしたい事だから。
そもそも、責任はそれ自体が重く苦しいものではなく、必ず背負い贖わなければならないものではないのだ。
責任とはきっと過去の荷物。一分一秒が過去になる今に向けて過去の自分が残したボトルメール、足跡であり記憶。いつか遠い日、『こんな事もあったな』なんて思いながら荷物を下ろして荷解きができるように。
過去の自分を、ありのままの自分を許せるようになることが責任の本質だ。少なくとも、彼はそう思っている。
「私は、これを抱えて遠くまで行くのね」
リオは先生が言葉にしていない意図まで汲み取り、どこか済んだ声を出した。透明な青空のような音色。きっと、これが彼女本来の声なのだろう。大人びていて、天才で、視点が他者と隔絶していて。でも、それでも彼女は高校3年生の女の子。他の誰とも変わらない、一個の命なのだ。
「そう。リオはそれを抱えて生きて往く。遠くまで。不安かな?」
「……いいえ。先生が共に歩いてくれるんでしょう?」
「勿論。この命が終わるまで、君の隣で歩き続けるよ」
例え偽りだらけで、継ぎ接ぎだらけであろうと────この身はキヴォトスの人類。彼女の先生なのだから。
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淹れたコーヒーの温度が室温まで冷えた頃、彼が徐に「ミレニアムの写真、見るかい?」と言って。意図は見えないながらも特に断る理由が無かったリオは訝し気な顔をしながら了承。今は彼と肩を寄せ合い、彼の私物のスマホで切り取られた一瞬の光景を眺めている。
液晶に映る断片はどれも煌めいていた。ユウカの横顔。ノアの微笑み。コユキの転寝。アリスが満面の笑みで映る写真はレンズに接近し過ぎて若干ピンボケしている。トキが無表情でピースしている写真を見て、『こういう事をする子だったかしら』と思ったが、自分が知らなかっただけでそういうお茶目な側面があったのかもしれない。あんなに近くに居たのに知らないことだらけだ。
「写真、好きなの?」
「どうなんだろう。好き、と言えば好きなのかな。自分が美しいと思った光景とか、忘れたくないと思った事を記録として留めているんだ。また思い出せるように」
美しいと思った光景、忘れたくない事、また見返したい情景。ありふれている、と誰もが思うものに彼は価値を見出していた。それは、その尊さと美しさを知っているからなのか。失った事があるからなのか。
そして、リオも────この写真に写る様な日々こそが最も綺麗であると思っている。
「これが、先生が守った日々なのね」
「違う。この笑顔達はリオが守り続けた尊い日常だよ」
有無を言わさない口調で告げられたのはリオにとっては予想外の一言。守った? そんな訳ないだろう。寧ろその逆、自分は写真に写る様な日々をこの手で壊したのだ。アリスの幸福も、トキの居場所も。そして最後には自ら終末の引き金を引きかけた。少しでも手を誤っていればこの世界を壊していたかもしれないのに。
だけど、彼は一粒もそう思っていないようで。真摯に、真っ直ぐに、リオの目を見て言葉を紡いでいく。
「私は、君を肯定するよ。世界を救おうとした、眼に見える範囲を守ろうとした君の努力と、その意思を。それはきっと間違いなんかじゃない。他の誰が否定しても、君自身が否定しても、私が君を肯定し続ける。君は間違っていない」
世界の為に、誰かの為に捧げてきた日々と努力。それらは決して無駄じゃないと、無意味ではないと、罪ではないと────間違っていない、と。幸福の為に走り続けたリオの為に、リオを肯定する。
「ずっと、1人で戦ってきたんだね。ミレニアムの会長として……未来を予期してしまった者として。優しい君は見て見ぬ振りなんてできなかった。例えその果てに糾弾されても、君は誰かが笑えるならと納得した。でも、その役目は私が背負うべきものだ。だから、君の願いを私に背負わせてくれないかな? 君が、君の心を犠牲にして、世界の為に奉仕しなくていい。君が、未来の為にその身を捧げなくていい」
世界の救済、人界の守護。それはきっと立派な事なのだろうけれど、人の生き方ではないから。
「君が世界を救ったとして。誰もが笑える大団円を迎えたとして。君だけが失い続けて、その違和感を抱き続けるなんて……そんなのは、唯の悲劇だ」
彼は「だから」と言って────そっと、リオの手を握った。
「リオはリオの幸せを見つけてほしい。もし見つけられないなら一緒に幸せの種を探そう。勿論、今すぐじゃなくていい。リオは今まで頑張り過ぎたんだ。少し休んで、また一歩ずつ進もう。振り返りながら、道に迷いながら、戻ってもいい。怖くても大丈夫、君は決して孤独じゃない。この広い空を誰かと同じように見上げられる」
言いたかった事、伝えたかった事を漸く伝えられた彼はリオが見惚れるほどの綺麗な笑みを浮べて。
「リオはこの世界で生きる、私の大切な生徒だ」
先生はそっと、リオの吸い込まれるような赤い瞳から零れ落ちそうな雫を拭った。
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日付が変わる直前。リオは少しだけ赤い目元を携えながら玄関先で先生を送る。心の壁はもう無い。蟠りも同様に。弱音と後悔は全部彼の胸の中で吐き出した。明日から少しだけ前向きに生きれるような気がする。
「またね。今度はシャーレに遊びにおいで。ずっと待ってるよ」
「えぇ……また」
予想外で、不可解で。だが、とても有意義で、充実していて────幸せだった1日をリオは彼と共に見送った。