シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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四十八月の深夜、貴方の隣にアイリスが咲く

 

 カラン、と乾いた音が鳴る。吐き出した薬莢が地面を転がる音。自分が何かに対して照準を定め、トリガーを引き、弾丸を吐き出した証明は錠前サオリの耳の奥……脳に近い場所で寝返りを打った。少し遅れて嗅覚に訴えかけてくる火薬と鉄の香り。良い匂いとは決して言えないそれらであるが、サオリにとっては安心感を抱けるような慣れ親しんだものだった。例えるなら太陽の香りがするブランケットのような。生まれながら人の温かさに触れる権利を剥奪された彼女にとっては火薬の熱が暖を取る手段だった。

 

 鋭さを感じる冷たい眼光が射貫いた先には無機質なマンターゲット。弾痕は2発、心臓と脳天。遊びは無い、慢心はない。的確に人体急所を射貫き、絶命させんとする意志。それだけが陽の光が入らぬ罪人の掃き溜めである此処……アリウス自治区で叩きこまれた全て。

 

 人を殺せと銃を握らされた。銃口は自分を向いていた。

 人を殺せとナイフを握らされた。刃先は自分を向いていた。

 人を殺せと手榴弾を握らされた。ピンは抜かれていた。

 

 骨髄に沁み込んだのは数世紀前の憎しみ。誰の物かも分からない、使い古されボロボロになった……迫害されたであろう何者かが今際の際に残した怒りと憎悪。それはまるで石畳にべったりと付着した血痕と脳漿のようにしつこい狂気。光の届かない場所で受け継がれたパッチワークは最早言葉以上の意味を持っていなかった。

 

 復讐する権利がある。迫害され、弾圧され、排斥され、死体と共に地下に押し込まれた自分達には光の下で生きる万象を裁く権利がある。そうやって自分達に言い聞かせていた貌の無い大人は自身の放つ言葉に酔い痴れていた。

 

 右も左も分からない、捨てられた子ども達に憎悪を伝承する事でしか自分の存在を立証できない……何者にもなれなかった誰か。セカンドユースの憎悪をアイデンティティにして、憎しみの連鎖の頂点に立った気でいる御山の大将。

 

 結局の所、嫉妬しているだけだ。顔も知らない先祖の罪で地下に幽閉されている自分達と、学校に通い真っ当に生きている誰か。二つを比べて、劣等感を憎悪と誤認し、今は牙を研いでいるだけと自分を正当化する。でも、憎悪と嫉妬と怒りは消えないから演説で発散する。出来の悪い子ども、都合の良い駒になり切れない子どもに八つ当たり染みた暴力を振るう。

 

 そんな大人も数週間後には犬の餌になっていて、結局この世界は何処までも虚しいのだと知った。野犬に食い荒らされ、元から貌の無かった誰かは命ですらなくなって。何かに教えられたのは人の殺し方と誰かの憎悪だけ。

 

 憎悪しか知らない者は呪いを振り撒きながら死ぬしかない。呪いを受け継ぎ、呪いを教え込み、呪いをばら撒く。まるで生体濃縮のよう。この自治区は憎しみと呪いと怒りが渦巻く坩堝になってしまった。血で染まり飾り気のない銃。膨大な数の弾薬。ダース単位のヘイローを壊す爆弾。反して、少ない食料と衣服。殺す事ばかり、死ぬ事ばかり。憎悪に憑かれている、と思うには充分すぎる物的証拠だった。それも、数世紀前の貌の無い憎悪。だからこそ質が悪い。復讐したい者の名前すら言えないのだから。

 

 誰を憎んでいる? 陽の光の下で生きる者。

 具体的には? 我々を迫害した者。

 では、それは()なんだ? 

 質問を変えよう。この憎しみは、誰に対しての憎しみなんだ? 

 

 少なくとも、無念の内に殺された彼等或いは彼女達が真に復讐したかったであろう何かは既に骨だ。この憎悪は言葉以外の何かではなく、自分達が育んだものではない。迫害に対して復讐する権利を持ち合わせていた者も、復讐したかった者も全て死に絶えた。今の自分達は先祖が辿り着いた地で生きる何者かであり、迫害を受けた人間ではない。復讐の正当性は随分と昔に剥奪されている。今の自分達が外の住民に対して憎悪を振り翳したとしても八つ当たりの域を出ない筈だ。

 

 勿論、今のトリニティに何も思う所が無い訳ではない。自分達が地下で暮らさなければならない元凶が少数派を徹底的に排斥したトリニティにある事は否定できない事実であるし、サオリも否定する事はない。

 

 だが、地下から出ようとしなかったのも自分達だ。外の世界を知ろうとしなかったのも自分達。少しでも外に目を向ければ、過去のトリニティと今のトリニティが随分違う事なんて一目で分かっただろう。

 

 最高権力たる生徒会(ティーパーティー)は3人で運営され、1人の意志決定で全体を動かせないように。

 武力集団である正義実現委員会はティーパーティーの指揮下にあり、安易に暴走しないようにセーフティが掛けられている。それに加えて独自判断で治安維持を行い、時には権力と敵対する事もある自警団も組織されていた。

 そして、アリウスを徹底的に弾圧し、保護したユスティナ聖徒会の後身であるシスターフッドは権力からも武力からも遠のいている。

 

 その上、トリニティに通う一般生徒はアリウスの名前すら知らないのだ。名前も知らない相手に憎悪なんてある訳が無い。例え彼女達に『自分達はアリウス出身だ』と告げても『あ、そうなんだ』程度の感想しか抱かないはずだ。時代が変わったのだと、自分達は過去に取り残されているのだと思うには充分すぎる。

 

 思うに、人間の良い所は新陳代謝がある事……つまりは寿命がある事だ。世代が変わるという事は価値観が変わるという事。人間は過去の事を忘れる事ができる。過去の憎悪を、先人の因縁を切り捨てる事ができる。勿論、アリウスのように受け継いでしまう例もあるが……それでも、時間経過と共に憎悪の濃度と意味は薄れる。この憎悪に意味も正当性も無いと、何処かで気付く事ができる。

 

 尤も、随分遅くなってしまったが────そう思い見下ろしたハンドガンを見て、サオリはマスクの下で自嘲するように笑う。賢しらに考えている自分も、あの時まで憎悪と呪いを捨てる事ができなかったのに。大切な人と憎悪を天秤に掛けて漸く捨てる事ができた。捨てて、離れて、思い出して、あれには意味が無いと言い切れた。

 

 でも、それでも。あの憎悪に確かに意味はなかったけれど、それでも幼い自分達にとっては拠り所であった。その事実は否定できない。

 

 伝承された憎悪が拠り所であった。

 誰の憎しみか分からないまま、多くの罪を犯した。

 大切な人と憎悪を天秤に掛け、大切な人を選ぶ事ができた。

 子守歌のように言い聞かされた憎悪には意味が無いと知った。

 

「あぁ、虚しいな」

 

 でも、この世界はそれだけではないと自分は知っている。例え全てが空虚でも、嘘と偽り、欺瞞で満ちていたとしても────笑って許せる今日が愛おしい。

 

 ミサキが生きている。ヒヨリが生きている。アツコが生きている。アズサが生きている。ミカが生きている。彼が生きている。この星で、共に生きている。一緒の時間を刻んでいる。

 それだけで、この世界が好きになれた。今日という一日が美しく思えた。

 

「先生……」

 

 彼に会いたい。会って、話したい。この胸の中に残る多くの思い出。多くの幸福。多くの笑顔。多くの言葉。多くの煌めき。それを伝えたかった。

 

 貴方は知らないだろうが、貴方は私に触れる時は震えていた。大切に、大切に、決して壊れないように。本当に愛しいものに触れるように、貴方は手を翳していた。

 

 誰かと共に居る時の貴方は本当に嬉しそうで、楽しそうだった。細められた優し気な双眸と鈴を転がしたような柔らかな声。誰かが隣にいる時間の一瞬一瞬を本当に大切にしていた。

 

 夜、傍に誰も居ない時に覗かせる横顔はいつだって寂しそうだった。泣いていない事がいっそ不思議なほどに、寂しさと孤独で縁取られた表情は痛ましくて、直視できなかった。自分ではあの孤独と寂しさを埋める事ができないと知ることが、怖かった。貴方を助けられない現実を突きつけられることが、どうしようもない程恐ろしくて。

 

 そうだ、私は知っている。彼は何処まで行っても私達と違う事を。ヘイローの有無や神秘の有無ではない、その程度の差異じゃない。彼と私達の姿形は似ている、逆を言えば姿形しか共通点が無かった。私達と彼より、私達と虫の方が生物として近い。

 

 そもそも彼と私達ではルーツが違う。キヴォトスで生まれ育った私達。外の世界で生まれ育ち、キヴォトスに連れて来られる最中で『作り変えられた』であろう彼。何方が生命として真っ当なのかは言うまでもないだろう。彼は『命』と呼ぶには、あまりにも歪が過ぎた。

 

 利他的、なんて言葉は彼に似合わない。彼は助けを求める生徒がいなければ、自分の生に意義を見出す事ができないのだ。あり得ない話だが、仮にこの世界の全てが幸福になったとしたら────彼は生きる意味を見失い、後の悲劇にならないように速やかに自刃する。

 

 歪な命。自己愛も自己救済も持たない空白。いずれキヴォトスに捧げられる生贄のような彼の愛。自分の幸福をそもそも探していない、自分が幸福になれるなんて彼は欠片も信じていなかった。

 

 彼は自分を憐れむ事も、悲しむ事もしなかった。そのくせ人一倍誰かの悲しみと涙には敏感で、放っておけないお人好し。自分の幸福を望まないのに、誰かの愛を受け取らないのに、皆の幸福を祈り、分け隔てなく愛を与える。

 

 あぁ、そうだ────私は知っている。貴方は皆が思うほど、崇高でない事を。先生というペルソナの裏側、空洞と空白だらけ、等身大の青年。撃たれる事は当たり前に怖くて、殴られれば当たり前に痛くて、楽しければ当たり前に笑う。ただ人当たりが良くて、底抜けに優しくて暖かくて、誰かを愛し誰かに愛される唯の好青年。それがきっと、彼の真実。

 

 そんな貴方に救われたのだと、どこか自罰的に生きる彼に伝えたかった。貴方は遠くない。貴方は此処に居る。貴方は独りぼっちじゃない。貴方は愛され、大切にされている。

 差し伸べられた彼の手に希望を見た一人の生徒として、そう言いたかった。

 

 最期に見た、どこか寂しそうな笑顔を塗り替えてほしかった。本来なら呼吸をするだけで苦しい彼にも、どうにかして笑ってほしかった。貴方が虚しさを否定したこの世界で、生きてほしかった。

 

 貴方に逢えて幸せだったと、言いたかった。

 

 でも、その前にやるべき事がある。

 

「……」

 

 ────憎悪の揺り籠、アリウス自治区。

 

 受け継いだ憎悪に疑問を持つことは許されなかった。

 人を殺せ、出来なければ死ねと言い聞かされた。

 外の世界に出る事は許されなかった。

 誰かを傷つける事しか教えられなかった。

 生き方も、友達の作り方も、人の愛し方も分からなかった。

 教えられたのは人の殺し方と、死に方だけ。

 

『あの子どもは芽が無い。早く殺すべきだ』

『何を言う、まだ性根が甘いだけだ。片眼を潰せ、妹を殺させろ。そうすれば目も覚める』

『あぁ、そうだな。2人殺すより1人残る可能性に賭けてみよう』

『それが良い。我々の復讐のためだ。道具の数は多い方が良い』

 

 ────この因果は今代で途絶えるべきだ。これから生まれる命達はせめて光の当たる場所で生きてほしい。誰の物かも分からない憎しみに突き動かされるまま、誰かに殺意を向けないでほしい。この空の下、真っ当に、当たり前に生きてほしい。自分自身の事を誰よりも肯定してあげてほしい。

 

 彼は言った。サオリはきっといい先生になれる、と。その言葉の真意は今もまだ分からない、絶賛探している最中だ。いつか彼に恩返しできたら、胸を張ってそう言えるのだろうか。

 

 彼が言う『いい先生』の意味も分からなかったけれど、自分にとって理想の先生は、理想の大人は彼だった。

 

 彼は自身の腹に風穴を空けたサオリにすら寄り添うことを選んだ。

 サオリの願いを当たり前のように受け取り、一切躊躇うことなく自身の命を賭けた。

 彼はベアトリーチェの所業に誰よりも怒りを抱いていた。

 彼は誰かの幸福の為に、何時だって走り続けた。

 溢れんばかりの愛と幸福、笑顔を与えてくれた。

 

 いつか自分もそうなりたいと思った。彼みたいな先生に、大人になりたいと思った。だから、自分の善悪の指針はいつだって彼だ。彼だったらどうするか。彼だったら何を言うのか。何を思って、何を信じて、何をするのか。

 

 そう考えた時に真っ先に浮かんだのはアリウスの事。この場所をあの女の思い通りにさせたくないと、強く思った。例え、辛く苦しい思い出しかない場所でも、自分が生まれ育ち、大切な人や同胞が暮らす場所なのだ。其処をぽっと出のゲマトリアなんかに蹂躙されたくはない。此処は、私達(アリウス)の居場所だ。

 

 グリップを握る掌にいつも以上に力が入る。作戦決行の日時が近づき、気分が昂っているのだろうか。らしくないな、なんて思いながら……サオリはホルスターに銃を仕舞い、コートを翻した。

 

「リーダー、何処に?」

 

 背に投げられた問いの持ち主は同じくアリウスのコートを纏う少女……戒野ミサキ。サオリ率いるアリウスの特殊部隊、アリウススクワッドのNo.2であり火力と頭脳担当。パーカーから覗く首筋と手首には包帯が巻かれている。その下がどうなっているのか、サオリはちゃんと知っている。彼女はこの世界に大きな諦観と絶望を抱いていない事も。

 

 信頼できる幼馴染のような、少し手のかかる妹のような。何よりも大切な人達、サオリの最愛の内の一人は夜に溶け込むような双眸を向ける。込められた感情は疑問と少しばかりの心配、寂しさ。

 

「夜風に当たりに行くだけだ、すぐ戻る」

「ふーん……マダムが来たら誤魔化しておくよ」

「すまない、よろしく頼む」

 

 ガンラックに立てかけておいたSIG-SAUER SIG516(アリウス製アサルトライフル)を手に取り、サオリは射撃訓練所を後にした。

 

 

 ▼

 

 

 外に通じる階段をサオリは上がっていく。地面に転がる薬莢、壊れた銃の残骸、布の切れ端、腐った食べ物が端に散乱していて思わず顔を顰めてしまうほどの臭いが嗅覚に訴えかけてくる。ここは掃き溜めだという動かぬ証拠、地上の最底辺が此処では頂点になる。それ程までには酷い環境だ。

 

 一応、ティーパーティーの1人であり協力者のミカが『協力の見返り兼戦力の増強』を建前に食料や水等の物資を融通しているが、アリウスの生徒全員に過不足なく行き渡るほどの量はない。

 

 尤も、贅沢を言う事は許されない。栄養の豊富な食事、清潔な水。それらを1日1回与えられる現状は最高と言って差支えないだろう。少なくとも、蠅の集る食べ物を泥水で流し込まなければならなかったあの頃よりはずっといい。

 

 扉を開けた先にあったのは何の変哲もない雑居ビルと雑居ビルの間。人一人が漸く通る事ができるような隙間に今回の出口は通じていた。計17年間──以前の世界の記録も含めると更に増える──アリウス自治区とそこに通じるカタコンベで生きていたのにも関わらず、構造がどうなっているのか正確に把握できていない。分かるのはカタコンベが『アリウス自治区を逃げ出そうとした生徒』と『アリウス自治区を探そうとする者』に対して非常に有効な点と、10年前の内戦終結を機にベアトリーチェの神秘と細工により変質した事だけ。

 

 後ろ手に扉を閉めると、サオリが出てきた場所は完全に風景と同化してしまった。他の人物は勿論、サオリですら此処を通じて自治区に向かえなくなった。

 

 午前2時半。頼りない街灯の明かり、ほぼ皆無な人通りと車通り。取り残された様な静かな世界をサオリは歩く。コンバットブーツの靴底に取りつけられた金具が地面を叩く音と、サオリの呼吸音、布の擦れる音。

 ふわりと風が通り抜ける。長い髪が風に靡いて、肌の汗が冷却される感覚。そろそろ梅雨の時期に差し掛かる頃であるが、風には湿り気があまりない。

 

 誘蛾灯に沿いながら行く当てもなく道を歩いていると、一際目を引く強い光を見つけた。とは言っても、特異なものではない。ただの飲み物の自動販売機。思う所なんて何もないありふれた光景。いつも通り、通り過ぎようと思ったが────自販機の影、コンクリートブロックに腰を掛けている人影を見つけた。

 

 座っている姿から推し量るに背は高いだろう。167cmと女性にしては長身のサオリよりも更に高い。纏っている服はシルエットを見る限りロングコート。首に下げられているのはICカードだろうか。

 

 ────いつもだったら迂回していた。今のサオリに姿を見られるメリットはない。暗い場所であれば兎も角、煌々としている自販機の近くを通れば確実に顔も姿も鮮明に見られてしまうだろう。作戦が控えている以上、そのようなリスクを冒すような行動は避けるべきだ。何せ相手はゲマトリアが一角、ベアトリーチェ。油断も慢心も許される相手ではない。何処で何を見られているか分かったものではない。何が裏切りと見做されるか分からないのだ。今、彼女の敵として処分されるのは避けたい。だから此処は引き返すべき。

 

 だが、今日に限ってそのまま進んでしまった。何故かは分からない。姿はどうとでもなる、帽子を深く被れば顔も見られずに済む────なんて、誰に向けて言い訳しているのか分からない内心。それに反して、進む足に乱れはなかった。

 

 ────今思えば、このまま進んだ理由はこれから会える人にあったのかもしれない。蝶が花に惹かれるように、サオリも誰かに引かれていた。

 

「……ッ」

 

 明かりに照らされ人影が鮮明になる。その姿を見た瞬間、サオリは息を呑んだ。心臓が馬鹿みたいに高鳴るのに、声帯は凍り付いてしまった。言いたいことだらけのはずなのに、口から漏れるのは不格好で不規則な呼吸。

 

 まるで、時間が止まったかのようだった。

 

 刺繍が施された白地のコートに腕章。揺れるICカード。細身の白のスラックスと第一ボタンが開けられた黒のシャツ、革靴。

 

 優しく愛に溢れた心をそのまま映したかのような暖かな瞳。闇夜を退けるような長い睫毛。すっと通った鼻梁と色素の薄い唇。目元に少しかかった前髪。

 

 ────見間違えるはずがない。アツコの話を聞いて、何度も思い浮かべたあの姿。

 

 シャーレの先生が其処にはいた。

 

「……お?」

 

 単なる通行人Aだと思っていた誰かが自分の前で立ち止まった事を感じ取ったのか、彼は猫の顎を撫でていた手を止めて顔を上げた。

 視線が交差する。サオリの薄紫に近い瞳と、彼の瞳。なんて声を掛ければいいのか分からなくて、視線だけが右往左往するうちに……彼の顔が蠱惑的に歪んだ。

 

「……こんばんわ」

「こん、ばんわ」

 

 魔性のようでありながら聖女のような清廉さを感じさせる表情と声。顔も分からない母の姿を思わず重ねてしまうほどの母性、或いは優しさ。それはサオリの知る彼と全く同じであり、思わず抱き着きそうになってしまった。

 

 だが、あの彼はきっと自分を知らないだろうから。そう思って、サオリは胸の奥の衝動をぐっと殺す。逢いたかったのは事実だが、困らせたい訳ではないのだ。この願望は堪えるべきだろう。貴方に内心を、思い出達を吐露するのは全てが終わった時でいい。

 そんな彼女の内心を知らない彼は気の抜けるような笑顔を浮べて。

 

「深夜徘徊とは感心しないね。良い子は寝る時間だよ?」

 

 おどけた様な口調で彼は気持ちよさそうに目を細めている猫に「ねー」と声を掛けて同意を求めると、「にゃー」と鳴き声を返す。

 あぁ、そういえばこういう人だった。サオリは大切な記憶のページを見返すように思う。争いが関係しない時の彼は穏やか……と云うよりも緩い。肩の力を抜かせることが上手いのだろうか。物心ついた時から常在戦場を叩き込まれ、トリガーに張り巡らせた意識を片時も忘れなかったサオリですら彼の近くにいる時は争いを少しだけ忘れる事ができたのだ。

 

 本当に、日常の象徴そのものな人。銃も銃弾も、およそ暴力というカテゴリーから最も遠い。近づけば近づくほど、触れれば触れるほどに『自分なんかが彼の傍に居て良いのだろうか』と思ってしまう。

 

「……貴方こそ、こんな時間に護衛も付けずにいるのは不用心だ」

「心配してくれるのかい? ありがとう、でも大丈夫だよ。守ってくれる子はいるからね」

 

 サオリとて彼の云う『守ってくれる子』に心当たりが無い訳ではない。恐らくは彼が持つシッテムの箱、それが展開する防御壁。真面な兵器ではほぼ貫けないあの障壁は確かに頼れるものだろう。防御壁を展開しながら時間稼ぎに徹し、手当たり次第に生徒を呼べばそれだけで済む事。それを踏まえると確かにサオリの心配は無用だったのかもしれない。

 

 でも、サオリはあの防御が絶対でない事をよく知っているから言わずにはいられなかった。それが余計なお世話だとしても。彼の命は本当に一瞬で消えてしまうと、サオリは知っているから。

 キヴォトスに於いて引き金は軽い。弾丸は軽い。故に、彼の命もそれと同じくらい軽い。呆気ないくらいに、簡単に失われてしまう。

 

 彼は撫でていた猫に半分ほど残っていたチュールを与え、頭を一撫で。それが別れの合図だったのか猫は茂みの奥に向かい、闇夜に紛れて姿を消す。その後ろ姿にひらひらと手を振っていた彼は徐にサオリを見て……天使の羽根が落ちた様な微笑を浮べた。

 

「初めまして、かな。私は────」

「シャーレの先生だろう、知っている。姫……いや、アツコが世話になった」

「私の方こそ楽しい時間を過ごさせてもらったよ。またおいでって伝えてくれると嬉しいな」

 

 これは紛れもなく彼の本心。ユウカに物凄い勢いで怒られたが、それはそれとして本当に楽しい時間だった。懐かしい顔に、この世界で懸命に生きる彼女に会えて嬉しかったのだ。だから、また来てほしい。別に今すぐじゃなくていい。アツコの思うタイミングで、ふらりと顔を見せてくれればそれで。

 

「勿論、君達もね……サオリ」

「私達の名前を知っているんだな」

「まぁね。これでも先生だから、生徒の名前は全員把握しているよ」

 

 情報の出所は分からない。そもそも、あれほど先生の近くに居たのにも関わらずサオリが先生に対して知っている事は多くないのだ。

 知っている事と謂えば彼が生徒を第一に考え自身を顧みない困るほどに優しく暖かい人である事。連邦生徒会長に『何か』を託された事。シッテムの箱と呼ばれるオーパーツと、彼自身を対価に奇跡を起こす特権(大人のカード)を保有している事。

 ざっと羅列するだけでこのくらい。あの異常な戦術眼と指揮能力、頭の回転が何処で培われたものなのか、陽の当らぬ場所で生きるアリウス生徒の名前すら把握している情報網が何であるか、トリニティやゲヘナの上層部すら入手していない『聖典』の原典やアーカイブを何故持っていたのか……その一切が詳細不明だ。サオリが知る限り、聖典をアーカイブとして保有していたのはマダム(ベアトリーチェ)のみ。原点に至っては彼女すら保有していなかったのだ。

 

 彼は、先生とは何なのか……あまりにブラックボックスだ。彼をよく知るミカであればもう少し何か分かるのかもな、なんて思いながらサオリは苦笑を浮かべる。

 自身とミカ、育った環境も周りにいる人も思考も行動も何もかもが違うのにも拘らず、鏡合わせのようなもう一人の自分。世界を知らずに育ち、取り返しのつかない罪を犯し、多くを傷つけ、自身も傷つき、絶望をしながらも────それでも『生きていい』と思えた自分と、そう叫んでくれた誰かを否定したくなくて罪を贖いながら生きる事を選んだ者達。

 

 一度は敵対し、胸の内側から湧き上がる憎悪に突き動かされるままに銃口を向け合い殺し合って。許し許され、助けられた。世界が流転した今は腐れ縁のような、或いは良き友人のような。そんな何とも言えない関係性だ。

 

 ────ミカには悪い事をしてしまった。作戦が完了するまでは彼に会わない……未練を作らないようにする約束であったのに、抜け駆けのような事をした。恐らくは彼女の方がずっと彼に会いたかっただろうに。

 

「サオリはこんな時間に外で出て何を?」

「……夜風に当たりに来ただけだ。先生は?」

「私も同じ。もう少ししたら湿気が多くなって微妙になっちゃうけれど、この時期はまだ夜風が気持ちいからね。仕事で使った頭をクールダウン中さ」

「こんな時間まで仕事をしていると、いつか体を壊してしまう」

「大丈夫だよ。ちゃんと仮眠は取ってる。それに、一度仕事をしたら集中力が切れるまでやり切った方が良いんだ」

 

 彼は「私にとってはね」と付け足して、夜空を見上げた。星を仰ぐ彼をサオリはじっと見つめる。どの所作を取っても、一挙手一投足がサオリの知る彼そのもの。刺激される記憶、溢れそうな想いと声。それをぐっと堪える。

 

 別に、彼の荷物になりたい訳ではないのだ。サオリも、ミサキも、ヒヨリも、アツコも、アズサも、ミカも。自分の記憶の中に彼が居て、彼の思い出の中に自分の居場所があればそれでいい。胸に残る思い出達を伝えたいという思いも自己満足でしかなかった。ただ、貴方の生涯は多くの幸福と笑顔を齎した、貴方の命は決して無価値ではないと言いたいだけ。多くを抱え、僅かな煌めきの為に嘆きと痛みを踏み潰しながら遠くを歩く彼の巡礼の旅を想うならば、何も言わない方が良い。

 

 その現実は分かり切っている。だが、これは理屈じゃないのだ。放っておいたら独りで誰も居ない場所まで行ってしまう彼の楔になれればそれでいい。それ以外は望まない、そう決めた。

 

 彼の生きる意味になりたいとは思わない。ただ、彼が死ぬのを躊躇う理由になれればそれだけで充分過ぎる。

 

 そんな事を考えている内にも、毒にも薬にもならないような取り留めのない会話は続く。アツコは元気か、だとか。先生は無理をしていないか、とか。或いは最近起きた事、頑張った事、少し嬉しかった事。次の日になれば忘れてしまいそうなほどに穏やかな会話はサオリの強張った肩の力を抜くためのもの。

 

 先生は一目見て、サオリが何かに対して緊張している事に気付いていた。そして、何か隠し事をしている事も。それらを詮索したり、追及するつもりはなかったが、彼は自分の前くらいは唯の生徒、1人の女の子である錠前サオリでいてほしかった。先生が居る此処ではベアトリーチェの眼も届かないから監視を気にする必要は無い。サオリと先生以外の他に誰も居ないから頼れる人間で在り続ける必要もない。

 

 ────だからどうか、君のありのままを。

 

 そうやって根気よくサオリの固い雰囲気を崩していく。すると少しずつ彼女は微笑を見せてくれて。

 

「初対面の人間相手に随分饒舌なんだな」

「私はあんまり人見知りしないし、お喋りだからね。話をするのも、話を聞くのも好きなんだ」

「……だから、先生の立場が務まるんだな」

「そうかもね」

 

 サオリ自身が放った『初対面』という言葉に形容できない胸の痛みを覚えていると彼の手元でプラスチックが擦れる音が鳴った。視線を向けると、中身が空っぽのスティック状の何かが握られている。恐らくは先程まで彼に撫でられていた猫に与えていた食事……確かチュール、だっただろうか。

 

 その視線に気づいたのか、彼は苦笑いを浮べながら。

 

「……これ、猫用だよ?」

「食べたい訳じゃないが」

 

 彼は「冗談だよ」と言って────漸くサオリが肩の力を抜いてくれたことを喜んだ。

 

「猫が好きな子がいてね。その子に野良猫がいる場所を教えてもらったんだ。本当はあまり良い事ではないけれど、それでもお腹を空かせている子を見て見ぬ振りするのは違うと思って。本当はシャーレで引き取れると良いんだけど、猫が苦手な生徒もいるからそういう訳にもいかなくて……今は保健所の人と連携しつつ里親を探してるって感じかな」

「……さっきの猫もそうなのか?」

「あの子は飼い猫だよ。ありがたいことに飼い主の方から餌を上げる許可も貰ってる。時々、夜の散歩なのか此処に顔を見せるんだ」

 

 どうやら彼とあの猫は何度も顔を合わせている仲らしい。だから随分懐いているのだろう。撫でられても嫌な顏一つせず、寧ろ気持ちよさそうに目を細めていた猫の姿は何処かミサキと似ているような気がした。尤も、本人が居たら途轍もない剣幕で否定するだろうが。

 

 彼は徐に立ち上がる。サオリは『帰るのだろうか』と思い、彼の進行の邪魔にならないように道を開けた。少し名残惜しいが、彼も彼の生活があるから仕方ない────と、思ったが、彼はまだ帰るつもりが無いようで自販機の前に立つ。

 

「何か飲むかい?」

「いや、私は────」

「遠慮しないでいいから、ね?」

「……じゃあ、水を」

 

 ふわりとした微笑を浮べた彼の指でボタンが押され、スマホが翳される。すると電子音と共にペットボトルが落下する。1回目は水。2回目はミニボトルのお茶。手渡された冷たい水を「ありがとう」の声と共に受け取り、メカニカルなマスクを外しキャップを開けて喉を潤すと清涼感が駆け抜けた。自分では気づかなかったが、それなりに喉が渇いていたらしい。

 

 その様子を何か言うでもなくじっと眺める彼と目線が合って……妙な気恥ずかしさを感じたサオリは深く帽子を被った。

 

「……無言で見つめないでくれ、先生」

「いやぁ、良い飲みっぷりだなと思って。気を悪くしたなら謝るよ。ごめんね」

「気を悪くしたわけじゃないから謝らないでくれ。ただ、どうすれば良いか分からなかっただけだ」

 

 彼は「そっか」と笑いながらサオリを手招きする。疑問符を浮べつつもその手招きに誘われたサオリは彼の近くまで寄って。

 

「どうした、先生」

「少し歩きながら話さないかい? 近くに公園があるんだ」

 

 その誘いにサオリは即座に頷けなかった。深夜2時半を回る頃とはいえ、人通りが完全な0という訳ではない。出歩く人間は少しはいるだろう。活動範囲を広げるという事は誰かに見られるリスクが上がるという事。当然、好ましい事ではない。

 

 だが────そう思い、彼女は彼の懐の中にあるであろうシッテムの箱を流し目で見る。ベアトリーチェの眼すら欺き、直接対面するまで何の情報網にも引っ掛からなかった隠蔽能力。その力は今も尚健在だろう。彼の近くに居れば恐らくサオリの考えるリスクは限りなく低くなる。少なくとも、悪意を持ってサオリや先生の位置を特定する手合いにとってはこれ以上有効なものはないだろう。

 

「……あぁ、構わない」

「ありがとう、エスコートは任せて」

 

 小さな笑みを浮べた彼は掌を空に向けてサオリに差し出す。何度も見た手。血の匂いも硝煙の匂いもしない、ただ人の体温と優しさが在る手。キヴォトスでは唯一無二、およそ暴力から最も遠い手。

 サオリは思う、何度この手に救われたのか。何度この手に光を、明るい未来を見たのか。自分だけではない。ミサキもヒヨリもアツコもアズサもミカも……それ以外にも沢山。彼は大人として、先生として、多くの生徒を守り、救ってきた。

 

 救世主の御手、と言うつもりはない。彼が本質的に普通の人である事は知っている。争いからは遠い、日常の象徴である事も。

 

 ────だから彼を表すならば……唯の底抜けに優しい、誰の為にも憂う人。

 

 サオリはそっと、決して壊れないように細心の注意を払って自身の手を彼の手に重ねた。

 

 

 ▼

 

 

 彼の云う通り200m圏内のすぐ近くに公園があった。それなりに広く、緑が豊かな遊具のある公園。昼間に来れば子どもたちの楽し気な声が聞こえてくるであろう場所は時間帯も相まって無人だった。虫の鳴き声と草木が風に揺れる音のみ。街灯の光に照らされるベンチでサオリと先生は並んで座っている。

 

「先生は、最近何かあったか?」

「最近かぁ……ミレニアムに行ったよ。ちょっとした用事でね」

「ミレニアム……」

 

 サオリのアリウスという立場に気を遣ったであろう彼の出した学校名は、生憎と彼女が殆ど知らない場所であった。

 精々知っているのはキヴォトスに於ける最先端技術の出所が大体この学校である事、ビッグシスターなる人物が治めている事、名もなき神々の女王が在籍している事、アリウススクワッドですら正面から戦えば勝ち目の薄いキヴォトス最強格が1名在籍している事くらい。

 

「それより前だとアビドスの方に足を運んだかな。アツコとはアビドスに行く前に会ったんだよ」

 

 アビドスは流石に知っている。知っていると言うべきか、忘れられない位のインパクトがあったと言うべきか。忘れもしないエデン条約締結日、サオリ達が世界に反旗を翻し、嘗ての同胞であり裏切り者のアズサを撃たんとした時に現われた覆面水着団がその学校の所属であった。この世界でも活動しているのだろうか。相変わらず水着要素が皆無な服装で。

 

 だが、それよりもアビドスに関しては大きな出来事が近頃起きた。サオリも無関係ではない、大きな……文字通り世界を揺るがすような争いが。

 

「アビドス砂漠では第三のセフィラが顕現したと聞く」

「よく知ってるね。一応、その辺りの情報は当事者と連邦生徒会の室長以上の子達以外には秘匿されてるけど……ま、目撃者も多かったし完全な情報統制は難しいか」

 

 今期の知性体が星の霊長となって以来初の完全顕現、機神体の降臨。今までのケースとは何もかもが一線を画すキヴォトスの滅び、星の自殺願望(デストルドー)の権化。或いは、神の御許に在るもの。

 

 過去、彼と共にサオリは何度も対峙してきた。ケテルから始まりイェソドに至るまで。全柱が災害と呼ぶに相応しい暴威を携えており、権能を振るいながら地上の生命を薙ぎ払う様は正しく神であり、ヒトがどれだけ手を伸ばそうとも届かない頂き。対峙した時に呼び起こされた本能的な恐怖は流転した今でも鮮明に思い出せる。

 

「先生は大丈夫だったか? アレはヒトの手に負えるようなものではないだろう」

「何とかなったよ。私も皆も無事さ。近隣の方には一時避難してもらったけどね」

「……そうか」

 

 サオリは彼に決してバレないようにマスクの裏で奥歯を噛み締めた。

 

 やはり、彼は────。

 

 取り返しのつかない事になってしまったと、サオリは俯く。

 

「……夜が明けるね」

 

 彼の声に釣られて顔を上げると、地平線の向こう側から太陽が顔を覗かせていた。空は梅雨を思わせないような透き通る青。大きな天使の降臨が陽の光に煌めいて、新しい一日の来訪を告げる。

 

 朝の雲雀が鳴いていた。

 

「そろそろお開きにしようか。話し相手になってくれてありがとう。このお礼はまた何処かで」

「構わない。私も先生と話せて良かった」

「そっか、そう言ってくれると嬉しいな」

 

 立ち上がり、ぐっと伸びをして全身の筋肉を少しずつ解していく彼を横目にサオリは画面の割れたスマホを取り出す。時刻は4時半前。約2時間もの間、時を忘れて彼と共に過ごしていた。

 

「今日は良い日になりそうだ」

「どうしてそう思えるんだ?」

「サオリに会えたからね」

 

 なんて、悪戯っぽく笑いながら言われるとサオリもどんな言葉を返せばいいか分からなくなってしまう。いつもこうだった。口先で彼に勝てた例なんて一回もない。何の恥ずかしげもなく、心の中から溢れた言葉を飾ることなくそのまま口にする。あまりにも真っ直ぐで、眩しい在り方。そんな姿に憧れて、でも同時に見ていられなくて。

 

「何か困った事があったら何時でも頼って良いんだからね。私はいつでも君達の味方だよ」

 

 別れ際、ベンチに座ったままのサオリに見せた彼の横顔。初雪のような儚さと美しさ。手を伸ばせばその瞬間に壊れてしまいそうで。彼女は掛ける言葉が見当たらなくて、「あぁ」と素っ気無い短い返事で返答する。だが、彼にとってはそれだけでも嬉しかったのか少し笑みを深めて背を向けた。

 

 歩き、遠ざかっていく背中。帰るべき日常に帰っていく。彼はきっと今日も仕事だろう。シャーレの業務に休日はない。キヴォトスに慢性的に蔓延っている種々の課題や学園から届く書類、生徒が起こした問題……他にも色々。思わず眩暈がしてしまうほどのタスクが彼の両肩に積もっている。いつか本当に倒れてしまいそうで心配だ。

 

「私も行かなければ。いつまでも席を外す訳にはいかない」

 

 彼の背中が完全に見えなくなるまで見送った後、サオリは立ち上がる。彼が帰るべき日常に帰ったように、彼女も日常に帰らなければならない。暗く、陽の当らない日陰の世界に。例え誰もが忌避するような場所でも、あそこにはミサキが、ヒヨリが、アツコがいる。それだけでも、サオリにとっては何を犠牲にしてでも帰りたい場所だ。

 

 照り付ける太陽に背を向ける。自分はまだ、あの空の下で胸を張って生きることはできない。あの人の生徒だと、自信を持って言う事ができない。だから、少しばかりのさよならを。

 

 いつか、あの空の下で彼の自慢の生徒として生きることができるように。

 

 

 ▼

 

 

「作戦決行の予定を前倒しにする」

「えぇッ!? 本当ですか!?」

 

 アリウススクワッドに与えられている一角、監視の目が無い事を確認したサオリは戻るや否や衝撃的な事を口にした。自分達を縛っていた世界と大人に対して反逆する日を変更すると言ったのだ。壁に凭れながら拾ってきたお気に入りの雑誌を読み返していたヒヨリも思わず顔を上げて、爆弾発言をした頼れるリーダーを見た。

 

「リーダー、それは何度も話し合いを重ねて決めたはず。決行日は姫が生贄に捧げられる日……儀式の為にベアトリーチェ自身が動く必要がある日。そこ以外に決定的なチャンスは無いって、アズサとミカ(あの女)も────」

「あぁ、分かっている。確かにそのタイミングがマダムに最も隙が生まれる。他日では接近するチャンスはあっても隙が作れない」

「なら、どうして態々リスクを取ってまで別日にするの?」

 

 ベアトリーチェは慎重だ。基本的に自身の根城であるアリウス自治区から出て来ず、護衛も山ほど付けている。それこそ、過剰なほどに。仮にそれらを潜り抜けてベアトリーチェの元に辿り着けても、特別な意味がある日でなければ確実に逃げられる。生徒を駒として見做し、命すら容易く切り捨てられる彼女であればアリウスを見棄てる事なんて想像に難くない。確実に何もかも見棄て、自分だけ安全地帯に逃げるだろう。

 

 故に選ぶのは彼女が逃げられない日付とタイミング。全員で話し合い、最後まで残った候補日は2つ。そのうち、儀式の日が最もベアトリーチェに隙が生まれる日であろうと結論付けて、決行日に選ばれた。この決定日は既にトリニティに潜入しているアズサにも、パトロン代わりのミカにも伝えているため今更変更するのは難しい。彼女達は表立って動きにくいアリウスと異なり、決行日まで根回しや場の整理等を行っているのだ。それを考慮すると、決行が迫るこの段階で日取りを前倒しするのは少々リスクがある。

 

 だが、そのリスクを背負ってまで決行日を変えなければならない理由を見つけてしまったのだ。

 

 それを伝えようとサオリは口を開くと、背後から靴音。振り返ると其処にはアツコが居た。彼女はこの場にスクワッドの面々しかいない事を確認すると顔に取りつけられた仮面を外した。

 

「サっちゃん、どこ行ってたの?」

「ただ、夜風に当たっていただけだ」

「もしかして先生に会ったの?」

「……何故分かったんだ?」

「花の香りがしたから。ホワイトリリーの……先生の香り」

 

 サオリは袖に顔を近づけてすんすんと鼻を鳴らすと花の香りがした。記憶に刻まれた彼の香りと同じもの。確かに、この香りを彼のものと知っていれば結びつけることは可能だろう。だが、香りの残滓なんてごく僅かだ。ミサキやヒヨリが気付かない程度には。花が好きだから嗅覚も鋭いのだろうか。

 

「リーダー……」

「サオリ姉さん……」

「勘違いするな。偶々会っただけだ」

 

 と、まだ先生に会えていない2人に釘を刺しつつ一旦仕切り直そうとすると……それよりも先にミサキが口を開く。

 

「じゃあこの変更も先生が絡んでるの? リーダーの事だから先生に何かを察された、なんて事は無いだろうけど……」

「……僅かだが、先生に主神の気配を感じた」

 

 その言葉に全員が息を呑む。

 サオリが彼に感じたのは世界最大の信仰を誇る宗教の唯一神の気配。僅かであるが、その残滓が彼に混ざっていた。それが意味するものは、全員が痛いほどに分かっている。

 

「最悪……本当に最悪、マダムが儀式の生贄に姫じゃなくて先生を選ぶ可能性がある。リーダーはそう言いたいの?」

「あぁ。姫の血統(ロイヤルブラッド)を使うより先生の縁を辿って主神にアクセスした方が、最終的に得られる権能の幅は広がる。その分、儀式の手段は複雑になるだろうが……マダムの目的を考えると先生を狙う可能性が高い」

「で、ですがまだマダムはその事に気付いていないんですよね?」

「まだ、な。だが、マダムも先生を監視しているはずだ。いつ気付いても不思議ではない」

「本当……反吐が出る」

 

 アビドスに行ったという事はつまり、ゲマトリアが一角たる黒服と接点を持ったという事。大人としての対極に位置する2人の対峙がどうなったかは知らないが、兎にも角にも彼はゲマトリアという存在を認知した。そして、それが先生と敵対する事も。

 恐らく彼も既に対ゲマトリアを意識した何らかの対策をしているだろうが……それも万能ではない。仮に彼に巣食う主神の気配を探知された場合、ベアトリーチェは己の持つ手札の大半を用いて先生を捕らえに掛かるはずだ。仮に捕らえ儀式の贄に使用できた時、投入した戦力と使用した手札を補って余りある莫大なリターンを得られる。

 

「サっちゃん、先生側が動かせそうな戦力は?」

「最低でも小鳥遊ホシノ……アビドス対策委員会は動かせるだろう。他は不明だ。ミレニアムに行っていたと話していたが、誰と関わっていたかまでは聞いていない。小鳥遊ホシノに加えて、コールサイン00(ダブルオー)を動かせるならある程度安心できるが……」

「確約はできない、か。そして私達5人とあの女(ミカ)。この時点で戦力としては申し分ないけど、まだ何か不安要素があるの?」

「カイザーコーポレーションに妙な動きがあるらしい。考え過ぎであるならそれに越した事はないが、警戒は必要だろう。カイザーは彼と敵対している上、煮え湯を飲まされたと聞く。それと、これは昨日ミカから秘匿回線で私宛に直接来た連絡なのだが……」

 

 その情報が示すのは。

 

「キヴォトスの未確認領域で聖典のアーカイブが起動された」

 

 致命的な臨界まで、あと僅か。

 

 

 ▼

 

 

「ミサキ」

「リーダーが決めたなら異論はない」

「ヒヨリ」

「辛いですし、苦しいですけど……はい、私はやります」

「アツコ」

「うん、その方が良いよ。きっと」

 

 3人の返答を以て作戦の日が再決定される。サオリは力一杯、今度こそ守り切れるように拳を握り締めた。

 

「決行日は────エデン条約締結日だ」

 

 作戦名、嚮導落とし(メフィストフェレス)。地獄を嚮導する女を冥府の底に叩き落とす。

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