シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
感想評価お気に入り登録誤字報告に感謝申し上げます。今回からお姫様のターンです。
キヴォトス三大マンモス校が一角、伝統と調和、友愛を尊ぶトリニティ総合学園は有数のミッション系お嬢様学校だ。良く言えば伝統的、悪く言えば古臭い校風と長い歴史に裏打ちされた由緒正しさは特に上流階級出身の生徒に人気であり、その生徒数はミレニアムやゲヘナと比べても劣らない。在籍する生徒の数がそのまま学校の発言力に直結するキヴォトスに於いて、長く続く伝統を持つトリニティを上回る影響力を持つ学校はほぼ皆無と言って差支えないだろう。
そんなトリニティ総合学園が収める自治区は当然の如く賑わっている。ミレニアムが科学技術の最先端、ゲヘナが自由と混沌を表した街並みであるならばトリニティの街並みは歴史を感じるものになっている。レンガ造りのメインストリートと建物。中世的な景色は生徒やそこに住まう人々以外にも観光客も多くおり、人混みがなくなる日なんて殆ど無い。それこそ、今日みたいな雨の日でもなければ。
「止まないなぁ……」
振り止む気配を感じない雨を窓越しに眺めながら、ふわふわとした可愛らしい部屋着を纏う少女……聖園ミカは憂鬱な気持ちを隠そうともせずに溜息を零した。物憂げに開かれた琥珀色の双眸と長い睫毛、通った鼻梁、蠱惑的で小さな唇、至高の絹のような桃色の髪、透き通るような色白の肌。しなやかな指先とアクセントのネイル、スカートから覗く細い足。全体的に細身でありながらも、確かな女性らしさを感じる体。総じて、過剰なまでに整った美貌。美の女神も裸足で逃げ出すようなお姫様は使用人も付けずに一人で部屋の中に居た。
それは雨の街を見ながら自身を取り巻く何かについて思考を巡らせているから……なんて、理由ではない。
「ナギちゃんも酷いよね、こんな雨の日に出かけろなんて」
ミカの幼馴染である桐藤ナギサから頼まれた事をやらなければならない今日という日に限って生憎の天候である事が憂鬱なのだ。勿論、別に彼女は出不精という訳ではない。寧ろ天気のいい日だったら散歩に行くし、年頃の女の子らしくお店巡りも好きだ。だが、雨の日となると何となく外に向く足が重くなる……なんて経験は誰しもある事だろう。つまりは単に気持ちの問題。雨は気分が上がらないのだ。
ミカは一人掛けのソファに身体を沈ませながら頬杖を突いて、窓の向こう側を眺めて……それから視線の向きを部屋の内側に変えた。
一人で住むにしてはあまりにも広い部屋。そこには一目見ただけで家主が気を使っている事が分かるインテリアが多くあった。カーペットやラグ一つとっても最上級の物で統一されており、ソファやテーブルに至っては老舗のオーダーメイド。一切の下品さを感じさせない上質で優雅な家具は程よく生活感があり、丁寧に使用されていることが伺える。今ミカが使っているソファも当然の如く最高級品であり、お気に入りの内の1つだ。
「まぁ、うだうだ言ってても仕方ないよね。他でもないナギちゃんの頼みなら私も頑張らないと」
誰かにいう訳でもなく、ただ自分を鼓舞する目的で。上がらない気分を無理矢理上げて、ミカはソファから立ち上がり足を進ませる。扉を開けた先に広がる空間はウォークインクローゼット。おしゃれや可愛いもの好きなミカらしく、多くの服やアクセサリーが丁寧に整理整頓されている。既に衣替えを済ませているようで、通年で使う服を除いて多くの私服は夏を見越した涼し気な装い。だが、ミカはこれをスルーして真白いトリニティの制服を手に取る。
今回は私人としてのミカの用事ではなく、公人として……ティーパーティーの1人にしてパテル分派首長の聖園ミカに、同じくティーパーティーの1人にしてフィリウス分派の長である桐藤ナギサが依頼したものだ。用事の概要も聞いている。学園へ新装備を提供してくれた企業へのお礼だ。所詮は社交辞令であると皆理解しているが、面倒でも形式というものはそれなりに大事だ。特に、伝統を重んじるトリニティにおいては一際。
招かれた立場である事や、生徒会長の一人として赴く事を考えれば私服は相応しくない。加えて、今回は学園の代表として行くのだ。制服以外の選択肢はないだろう。これが学園の用事じゃなければドレスでも着て行けたのに……なんて思ったが、ミカはその考えを即座に銀河の彼方に投げ飛ばした。
ドレスを一番最初に見せる人の予約は既に埋まっている。その初めてをこんな下らない事で消費したくないし、そもそも彼以外にドレス姿を見せたくない。女の子が一番可愛く、綺麗になる瞬間は一番大好きな人の為に残しておく。それがとっておきのサプライズだ。
手慣れた所作で、鼻歌混じりに制服に袖を通す。汚れ一つ見当たらない真白い服を身に纏わせれば、次はアクセサリーの番。ピアスやネックレス等は付けないが、代わりに自慢の翼を飾る。感覚はあるが別に飛べるわけでもない……言ってしまえば有っても無くても変わらない器官であるが、折角あるならおしゃれしなければ損だろう。
そして、制服とアクセサリーが終われば次はメイク。場所を洗面台に移して軽く洗顔し、水気をタオルでふき取ってから化粧水、乳液、クリーム、日焼け止めの順で付けてドレッサーに移動。前髪をピンで止めて、いよいよベースメイクを開始する。メイク下地、コンシーラー、ファンデーション。ベースが完成したら一旦鏡で見て、不自然な部分が無いかチェックを挟む。特に無い事を確認したら次はアイメイク。アイブロウ、アイシャドウ、アイライナー。ビューラーで睫毛をカールにして、マスカラを塗る。頬にチークを当て、最後にリップで唇に鮮やかな色を落とせばナチュラルメイクが完了する。鏡を見れば何時もの外出用の自分。
その後、前髪を止めていたピンを外し髪全体を櫛で形を整える。途中、「うぅ、湿気で髪が纏まり難い……雨嫌い……」とぼやきながらも、元がサラサラの髪質であるため櫛を通してしまえば直ぐに纏まった。その後にシュシュで髪を結んで、姿見の前でくるりと回る。
「よしっ♪」
気分は相変わらず上がらないけれど、大切な幼馴染のお願いを無下にする訳にもいかない。ミカは水滴が跳ねる外を見て……ふと、思う。あの人は雨が好きだった、と。
優しい人だった。優しすぎる人だった。初めて会ったあの日からその感想が変わった事はない。ずっと、彼は誰かに優しい人だった。困っている人がいれば迷わず手を貸して、道に迷ったら一緒に正解を探してくれる。泣いていたら理由も聞かずに寄り添ってくれるし、雨に濡れていたら自分が濡れる事も厭わずに傘を差し出した。
あの優しさは『先生』という役職から生まれるものではない。彼が彼だからこそ持ち得る生来の気質。確かにそれは素晴らしいものだと思う。でも、時折それが自傷行為に見えて仕方なかった。優しさというナイフで自分自身の喉を貫いているようで、彼はいつも血を吐きながら走り続けていて。
彼は誰にだって手を差し伸べた。明確な殺意を持ち、自身に凶弾を放ち消えない傷を作った少女にも。何もかもを失い、暗い水底に堕ちて魔女になるしかなかった少女も。等しく手を差し伸べ、その明日を守り抜いた。少女達を脅かす悪意から、利用する大人と真っ向から対峙した。『私のお姫様』と呼んでくれたあの日の事は片時も忘れた事はない。
「会いたいな……」
ポロリとミカの口から零れる本音。雨を見ると『雨が好き』と言った貴方を思い出す。晴れた青空を見ると、それと同じ色の瞳をしていた貴方を思い出す。白を見ると何物にも染まらない純白の貴方を思い出す。思い出と景色に貴方の残滓を感じていた。あの人がキヴォトスに来て、先生になってから早2ヶ月。春の風は止んで雨傘の咲く季節になった。その間に起きた問題は大小共に数知れず。
ティーパーティーの情報網から入手した情報によれば少し前は
それよりもう少し前はアビドス。ビナーが完全顕現し、更に神の権能まで行使したと知るや否や銃を片手に飛び出しそうになったが……ナギサとセイアに必死に止められて渋々引き下がった。
ティーパーティーという立場で条約締結前に勝手な事をすれば無用の軋轢を生んでしまう可能性があると言われれば……ミカとしても退くしかない。ナギサがエデン条約締結に向けてどれほど頑張っていたかを知っている身としては猶更。それに、過去になった世界では結局エデン条約は締結されず有耶無耶になってしまった。ならば今度こそは叶えてあげたいと思うのも無理はないだろう。
先生の助けになりたい、だがナギサの願いを壊したくはない。その二つの想いに板挟みになり、動くか動かないかを考えに考え抜いた結果……『後の事は後で考えよっか☆ 今は先生を助けなきゃ!』という結論に辿り着きそうになった直前、ミカの耳に
空崎ヒナの事は一方的であるがよく知っている。奇襲の巡航ミサイル、無尽蔵に沸き出る
同じことをしろと言われてもミカには不可能だ。いや、ミカだけではない。ツルギも、ミレニアム最強も不可能だろう。3名とも戦闘スタイルが前のめりだ。強いて言うならアビドス最強なら可能性はあるだろうが……彼女も元は攻撃特化型だと聞く。故に、誰かを守りながら戦う事に於いては空崎ヒナの右に出る者は居ないと考えていい。
癪だが……非常に癪だが、空崎ヒナが彼の傍に居るならば大丈夫だろうと、ミカはぐっと気持ちを堪えて大人しく2人の想いを汲んだ。そうして彼の無事を祈りながら次の報告を待っていると、暫くして大きな被害もなくビナーが倒された、と聞いて胸を撫で下ろしたのは記憶に新しい。その直後に先生が緊急搬送されたと聞いて震えた事も。
────最初、先生赴任の知らせを聞いた時は『まさか』と思った。誰かの悪戯か、尾鰭背鰭が付いた眉唾物の噂話か。何れにせよ信じるに値しないジョークの類だろうと思っていた。だが、時が進むに連れてその噂が信憑性を増し、外郭地区に見慣れた真白い巨大なビルが建造された辺りからミカは別の事を気にし始めた。
それは、これから来る先生が『ミカの知る先生』であるか否かだ。彼か彼以外かでは天と地ほど違う。ミカにとって先生とは彼だけ。大切なお姫様だと叫んでくれたあの人だけ。別に彼じゃない先生を排除するつもりはないが、そこまで積極的に協力する事も無い。精々、社交辞令的な付き合いをする程度だ。
だが、もし彼ならば────それは運命だ。それも、とびっきり悪辣な。この世界に存在する大きな意志が潜在的に先生という救世主の死を欲している証明に他ならない。正しくスケープゴートであり、消耗品。何度否定しても飽き足らない、この世界の悪意そのものだ。
先生には幸せになってほしい。戦いとは無縁の世界で、多くの善い人に囲まれてずっと笑顔で居てほしい。見惚れたあの笑顔が悪意と悲しみに翳らないでほしい。どうか元気でいてほしい。笑顔が枯れないでほしい。優しさを損なわないでほしい。その優しさで自分自身を傷つけないでほしい。ずっと、誰かの為に祈れる貴方であってほしい。
ずっと奪われてばかりだった生涯。そのように在れと望まれ、その後は無しと捨てられた生贄のような彼。だからどうか、もうこれ以上彼から何も取らないで。
────けれど、その祈りは結局聞き入れてもらえなかった。
何としてでも真実を確かめたかったミカが連邦生徒会に送り込んだ
────彼はキヴォトスに囚われている。神秘に呪われている。
そう思った日の夜に枕を涙で濡らした。彼がまた苦しむと分かってしまったのだ。散々痛めつけられ、傷つけられ、最期は……最期は。
────太陽さえ霞む笑顔を浮べた彼を、まだ覚えている。
「先生、今何してるかな。シャーレでお仕事してるのかな。それとも生徒のお願いを聞いてるのかな」
髪を切った日の午後は貴方に逢いたくなった。可愛く飾れた日も、何となく天気が良い日も。嫌いな雨の日だって彼が隣に居ればきっと快晴のように思える。
だが、作戦が無事に完了するまではリスク低減のため彼との接触は禁止されている。彼に危害が及べば元も子もない……とまではいかないが作戦の前提が破綻する事は間違いない。
尤も、『偶然とはいえサオリもアツコも会ってるんだから、私だって良くないかな?』と若干思っているのはミカだけの秘密である。
「うぅ……会いたいよぉ……」
彼が来てから2ヶ月、ミカの調子はずっとこんな感じであった。一人でいると先生の事ばかり考えてしまい、その度に『会いたい』と言葉を漏らして。
ミカは彼と接触する機会がある。エデン条約と、その締結を脅かす裏切り者、裏切り者の候補を集めた補習授業部についての説明。それにティーパーティーの1人として同席するのだ。それ以外にも彼とはきっと沢山話す機会がある……なんて理屈では納得できない。ミカは今、直ぐにでも彼に会いたいのだ。
彼に会えたサオリとアツコが羨ましい。自分も道を歩けば彼に会えるのか、なんて思ってトリニティ自治区やD.U.区を出歩いても一向に会う気配なんて無くて。
アズサはもっと羨ましい。今は会えなくとも、先生が補習授業部の顧問を請け負えば四六時中一緒だ。彼に補習授業してほしい……なんて言ったら迷惑だろうか。いや、優しい彼の事だ、きっと迷惑とは思わないだろう。寧ろ、『いいよ、何処が分からないの?』なんて言って分かるまで面倒を見てくれる。そういう人だ、彼は。
「優しい人。底抜けに、暖かい人。木漏れ日のような貴方。誰かの痛みを想える先生」
言葉を交わすかの如く銃弾が飛び交うこの世界では、自分の痛みにも他人の痛みにも鈍感だ。だって、そんなものに一々共感していては銃口なんて突き付けられない、引き金なんて引けない。弾丸が致命傷にならないから、傷ついても直ぐに治るし後遺症にもならないから痛みの価値が低い。
でも、彼は違う。彼は脆い。殴られれば斃れるし、撃たれれば死ぬ。そんな脆弱性を持っている。皆が笑い飛ばせる弾丸1発ですら彼にとっては致命傷で、爆弾なんか持ち出されたら最低でも四肢の1つを失う覚悟をしなければならない。対物ライフルを向けられたら一発アウトだ。
脆く、弱い彼は痛みと傷と共に生きている。だからこそ、他人の痛みと傷に寄り添えるのだろう。自分自身ですら気付かなかった痕を掬い上げて、『痛かったんだね』と優しく言葉にする。だから皆、彼に惹かれる。大切にしてくれているから。ありのままを肯定してくれるから。頑張ったんだね、と言ってくれるから。痛みに寄り添い、傷を想う。そこに心と体の差はない。等しく彼は愛しく慰撫する。
でも、彼は驚くくらいに自身の痛みに対しては淡泊で。自傷行為にしかみえない生き方、血と涙と痛みに愛されているような生は到底人間が歩むようなものではない。でも、彼は引き返す事を選ばなかった。その先に地獄が待ち受けていると知っていても、彼は誰かの幸福の為に進み続けた。
「……私は先生と一緒に居られるだけで幸せだったんだよ?」
先生と共に在れたなら、それだけで良かった。それだけで幸せだった。なのに現実は思ったよりも厳しくて、残酷で。
だから、もうこれ以上彼が傷つかないように。彼の優しさが痛みにならないように。彼の幸福が脅かされないように。
ミカは少しだけ微笑を浮べてから……胸の前で両手を組んだ。
────相変わらず世界は貴方から沢山の物を奪おうとするけど、貴方はこれ以上何も差し出さなくていいよ。
────貴方が何時か人前で涙を流して、弱さを晒せるように。
────貴方の優しさが何時か貴方を救いますように。
────貴方に救われた私が貴方の心を救えますように。
多くの願いを受けて、多くの笑顔を報いにして、彼はキヴォトスの最奥で星を見上げた。決して届かない星に手を伸ばし、多くの生徒の為に走り続けた。誰かの願い、彼の願い。片時も安らぐことは無かった貴方。キヴォトスに於ける異物、先生という役割の上でしか存在できなかった虚構の彼。
これは、誰よりも優しかった貴方に捧ぐ祈り。
傷ついた先生のためのキリエ。
「私はいつでも、貴方の手の届く場所で貴方の為に祈っているよ」
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祈りも終え、出発の時間まで手持ち無沙汰になったミカは制服が皺にならないように気を付けながら再びソファに座って窓から街を眺める。
「まだ止まないな……もう梅雨入りなんだっけ?」
寧ろ先程よりも勢いが増している気がしなくもない。スマホで雨雲レーダーを見るとこの辺りは既に雨雲に覆われていて、予報だと晴れるのは3時間後らしい。どうやっても雨を回避できない事を知ったミカは灰色の空を若干恨めし気に眺めてスマホをスリープモードにする。
「先生はこんな土砂降りでも好きなのかな。お日様なんて見えない曇り天も……」
多分好きなんだろうな、と自己完結。彼が雨を好む理由は知っている。あの人の最初の教え子が泣き虫だったから。涙も悲しみもどうか洗い流してほしいという祈り、余りにも彼らしくて笑ってしまいそうだった。
時計の秒針の動く音。雨が地面を叩く音。それをバックミュージック代わりにしながら足をぷらぷらと揺らす。
考えるのはこれからの事。エデン条約、
政治の事はあまりよく分からない。ナギサやセイアは政敵、パテルと対立するフィリウスとサンクトゥスのトップ……そう言われても、ミカにとって2人は大好きな幼馴染と大好きな友達。政敵には思えない。皆で仲良くテーブルを囲めないのかな、とは思うが……トリニティが現在の形になるまでの惨劇を鑑みると上手く纏まっている方だと思う。ナギサやセイアが治めていなければ間違いなく年に数回は小競り合いが起きていた。
そもそも、ティーパーティーだの何だのに属してドロドロの政治をやるよりも、普通の生徒と同じように過ごした方が何倍も楽しいだろう。青春は3年しかないのだ。その僅かな春を汚れ切った政治に費やす必要もない。少しは正義実現委員会やトリニティ自警団、シスターフッド、救護騎士団を除く普通の部活を見習ってほしいものだ。例えば放課後スイーツ部とか。
「とは言っても、派閥も悪い事ばっかりじゃないからな~……そこが難しいトコなんだけど」
少なくとも、即座に無くせばそれで大丈夫なんてものではない。派閥があるおかげで守られる何かもあるのだ。今すぐ無くせばトリニティの運営にも影響が大きい。やるなら少しずつ派閥の影響力を落としてから。最低でも解体には十年単位で年数を要する大仕事だ。尤も、現在の安定している状態から無理に変える必要があるかと問われれば否だが。
だが、その安定状態が何時までも続くとは考えにくい。いつか派閥が通う生徒にとっての害になるかもしれないのだ。自分達が巣立った後の生徒の為に今の内から地盤を作っておくことは必要だろう。
その為にもエデン条約は締結させなければならない。これが締結されればトリニティを取り巻く環境は大きく変わる。勿論、トリニティだけではない。ゲヘナも変わる。そして、アリウスも。
憎しみ合い、嫌い合う事を止めて手を取る事ができたなら、それはきっと素晴らしい事だ。皆が望み、彼が望んだ『誰もが笑える明日』へ確かな一歩を踏み出す事ができる。
ナギサやセイアと比較すると頭脳面ではそこまで頼りない。ミカ自身、自分が割と勢い任せに生きている我儘な気分屋という自覚はある。自分が案を1日考えて出した案よりも、ナギサやセイアがその場で出した案の方が優れている事なんてざらにあった。
だが、それでも考えなければならない。担ぎ上げられているだけの神輿だとしても、お飾りにはお飾りなりの仕事がある。何かのトップに立つとはそういう事。ミカにしかできない事は沢山あるのだから。
ミカはソファから立ち上がり、本棚に足を向ける。ファッション系の雑誌やデートスポット等の雑誌が押し込まれた下段と、トリニティで採用されている教本とBDが入った中段、漫画と小説が並べられている上段。その中に仕舞われている一冊は小説だった。彼がお勧めと言っていた本の内の一つ。シャーレの執務室でコーヒー片手に本を読む彼が妙に印象に残っていたから、柄じゃないと分かっていたけど思わず聞いてしまった。
今、手に持つ本に挟まる栞は中盤に差し掛かる手前。毎日少しずつ、彼の思い出のページを捲るように呼んでいる。今日も同じように数ページ捲り、物語を味わい、本棚に戻す。
その物語に、確かに彼が生きた残滓を感じて。
▼
「私、聖園ミカは先生が好きです。大好きです。愛しています」
よく幼馴染が言っていた愛の話。与える愛と、与えられる愛。誰かを愛し、誰かに愛される。確かに素晴らしい事だとは思うけれど、いまいちピンと来なくて。だって、愛って見えないでしょう? 思っているだけじゃ伝わらない、言葉にしなきゃ分からない。それに、言葉にしても伝わらないことだってあるのに。
あの人は私の
彼から受け取る愛は増すばかり。私の一世一代の思いは募るばかり。愛してるすら言わせてもらえない。告白なんてもっと遠い。
鈍感、意気地なし。でも、そんな部分ですら愛おしいのは惚れた弱みだろうか。
あの人の全てに恋をしました。笑った顔も怒った顔も大好きです。優しく手を握ってくれるところ、歩幅を合わせてくれるところ、些細な変化にも気付いてくれるところ、私服で会った時は必ず可愛いと言ってくれるところ、お別れする時は絶対に『一緒に過ごせて嬉しかった』と言ってくれるところ。全部が全部、大好きで愛しています。
だから、先生にはどうか幸せになってほしいんだ。生徒の幸せが自分の幸せって先生は言うだろうけど、それ以外の幸せも見つけてほしい。もし幸せになれないとか、幸せになる資格が無いなんて寂しい事を言うならば私が幸せにして見せるから。絶対に笑わせてあげる。世界中で誰よりも先生を幸せにしてみせる。
「私の初めて出会えた最愛は、貴方だったんだよ────先生」