シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

155 / 236

 感想評価お気に入り登録誤字、本当にありがとうございます。


雨傘の咲く6月、私は貴方に愛を送る Ⅱ

 トリニティ自治区の一等地。テレビで特集が組まれているような一流の店、SNSを通して人気になった店、長く続く老舗。流行と伝統の最先端、激戦区と化したメインストリートは雨天も相まって平時ほどの人は居なかった。外まで行列ができるような店も、この天気では店内満席が精々。客足が見込めないと店主が判断したのか、閉まっている店すらあった。まだ12時だというのに。

 

「はぁ……」

 

 ミカは憂鬱な気分を隠そうともせずに溜息を吐いて雨降らす雲を恨めしそうに視線で刺し貫く。こんな天気とはいえ折角外に出たならカフェでティータイムを楽しむか、アクセサリーショップに行って新作を見るかしたかったのだが、行きたい店は悉く閉まっていた。冒険がてら他の店に足を運んでもいいのだが、もし外れだった場合は『雨の中外れの店に入った』という気持ちを味わってしまうため、中々足が進まない。

 

 結局、最低限の用事は済ませたから寮に帰るという結論に至り……今は帰路に就いている。

 

 空から零れた雫が真白い傘に跳ねて、つうと滑り地面に落下する。水滴は石レンガに跳ねて水溜りの一部に。水溜まりを踏まないように時折足元を見つつ、ヒールでトリニティの石畳を叩く。湿度を伴った冷たい風が吹くと肌寒さを感じて震えてしまう。じめじめとして蒸し暑い季節とはいえ、やはり雨は相応に気温が下がる。ノースリーブにケープ、という軽装な制服ではこの冷え込みに打ち勝つことは出来なかった。何か一枚、羽織るコートを持ってくれば良かった……なんて思うが後の祭り。今この瞬間の寒さを凌ぐために店に入ってアウターを買う訳もないし、そもそも今の時期だったらもう既に夏服に衣替わりしてアウターなんて置いていないだろう。だから、この寒さの対処法は帰宅しかない。

 

「うぅ……寒い……」

 

 傘を持っていない方の手で二の腕を擦り、少し早足に。だけど、制服が跳ねた水滴で汚れないように注意を払う。速く寮に帰って、お風呂に入って暖を取りたい。その一心でミカは足を進ませる。今日はお気に入りのバスボムを使っちゃおうか。こんな天気でも外出した自分へのご褒美に。

 

 そう思うと少しだけ足取りが軽くなった。自分でも単純だと思うが、人間は楽しみがあるとそれだけで少しは憂鬱な気持ちが薄れる。

 

 そしてトリニティ自治区の一等地に立つティーパーティー生徒専用の寮まで残り15分圏内になった頃、ミカは信号で足止めを食らっていた。通常の日常生活では取るに足らない、赤信号から青信号に切り替わるまでの時間。それがやけに長く感じるのはこの寒さに堪えているからなのか。それとも別の理由があるからなのか。

 

 青信号に代わった瞬間、ミカは駆け出す。碌に左右を確認せずに飛び出したのはあまり褒められた行為ではないが、そもそもキヴォトスの民は車に撥ねられた程度では掠り傷にしかならない。流石に戦車やら大型トラックが時速100kmオーバーで激突してきたら話は別だが、それでも精々骨折程度。命に関わる傷なんて負う訳もない。

 生徒の中でも特に神秘に溢れ身体能力に優れているミカならば、寧ろ逆に追突した側がスクラップになりかねないほどだ。尤も、だからといって交通マナーを無視して良い理由にはならないのだが。

 

 ミカは煌びやかなメインストリートを進む。足取りは軽やかに。雨を感じさせないほどに。まるで御伽噺に出てくるお姫様がステップを踏むように。

 

 そうして、進んで。進んで。寮まで徒歩で5分の場所、閑静な高級住宅街が広がる区域に足を踏み入れた。あと少しで漸く寮に着く────なんて、思っていたのは束の間。視界の端に映った雨に濡れた白を見た瞬間に呼吸を忘れた。

 

「……え?」

 

 全身を駆け巡った驚愕の強さは人生で間違いなく三本指に入るほど。何度目を擦っても、頬を軽く抓ってもその光景は消えなかった。つまり、これは現実だという事。自分の脳が見せた都合の良い妄想じゃない。

 

 見間違えるはずがなかった。あの姿は、あの声は、あの暖かさは記憶に強く焼き付いている。

 

 ────会いたくて。会いたくて。どうにかなりそうなほど逢いたかった、私の王子様(運命の人)

 

「……先生?」

 

 手に持った傘が水溜りに落下する。それに伴い、全身に冷たさを感じる。降り注ぐ雨が容赦なく体温を奪い、体の表面を冷たくしていくが……内面だけは全く逆。熱でも出たのではないかと錯覚するほどに熱い。心臓が馬鹿みたいに高鳴って、姿を見るだけで胸がきゅっと切なく疼く。

 

 活躍は何度も人から聞いた。ハスミ、ヒフミ、スズミ。彼と共に戦った事がある生徒達から。

 トリニティにも何度か足を運んでいる事も知っていた。サクラコを筆頭とするシスターフッドの生徒達、ミネを筆頭とする救護騎士団の生徒達、それ以外にも沢山。なんでティーパーティーに来てくれなかったの、と小一時間ほど問い詰めたい気がしなくもないが、正義実現委員会にも訪れなかった事から政治色の強い場所には意図的に訪れていないだけだろうと無理矢理自分を納得させて。

 

 彼がこの世界で呼吸をしている証拠は、生きている証拠は何度も耳にしてきた。トリニティの内外問わず、キヴォトス全土で。彼が生きている、それだけで泣きそうなほど嬉しかった。

 

 ────一体どれほどの時間が経っただろうか。ミカの時が止まった秒数は恐らく60秒にも満たない時間。だが、永遠にも感じられる程に長くて。漸く思考が現状に追いついてきたころ、肌の冷たさで現実に引き戻され……そうして、改めて彼の今の状態を見た。

 

「……ッ!」

 

 その瞬間、落ちた傘すら拾わずに雨の中をミカは駆け出した。駆け出した先にいるのは当然彼。何度も恋焦がれた大切な貴方。

 

 いつもなら生徒を見た瞬間に吸い込まれそうな笑顔で『こんにちわ』と声を掛けてくれるはずの彼であるが、そんな気配は全くない。彼は建物の外壁に背中を預け、手足を投げ出し、ピクリとも動いていなかった。項垂れた顔、瞳は閉じられ世界を映していない。

 

 ミカは凍り付いた喉を鳴らした。瞳孔が開いて、呼吸は浅く、横隔膜が痙攣する。指先が震えるのは恐怖か寒さか。

 脳裏を過った最悪の予想。彼はもう動かないのではないか。ここに在るのは彼だったものではないか……そんな考えが脳に浮かんで消えない。

 

 彼は弱い。ミカは勿論のこと、何時も椅子に座り紅茶を飲んでいるナギサや病弱や繊細という言葉をそのまま形にしたようなセイアにすら、身体能力では逆立ちしたって勝てなかった。

 

 セイアは『我々と彼では進化の系統樹が異なる。そもそも同じ物差しで比べる事が間違いだ。彼はキヴォトスに於いて、唯一神秘を運用できない肉体だからね』と言っていたが……相変わらず言葉が小難しくて、その言葉が何を意味しているのかは分からなかった。きっとそれなりに言葉は選んでくれたのだろが、それでも難しいものは難しいのだ。

 

 兎にも角にも、例え口径が小さいおもちゃと呼んで差支えないようなハンドガンの弾丸ですら彼の皮膚と肉を貫ける。

 

 そして、彼は恨みを買いやすく敵を作りやすい。彼の行動の基本骨子には常に生徒がいる。生徒の為であるならば文字通り世界にすら喧嘩を売る彼に潰された悪は数知れず、その大半はいままで思うままに悪を謳歌していた報いと思わずに、自身達を叩き落とした彼の事を殺したいほどに恨んでいる。

 ミカから……否、大半の人から見ればその恨みは論理性を投げ捨てた身勝手な逆恨みでしかないが、それはあくまで第三者の視点。当事者から見れば彼は敵なのだろう。弱者を踏み躙りながら甘い汁を啜っていた自分達の邪魔をした、自身達の既得権益を害する敵。そういった手合いにとって彼を生かす理由はないし、殺すには充分過ぎる理由だった。

 

 カイザーコーポレーション、ベアトリーチェを筆頭とするゲマトリア、無名の司祭、神名十文字(デカグラマトン)等の神域に在るもの。ぱっと思いつくだけでもこれだけ彼の命を奪う可能性を孕む敵はいる。どいつもこいつも彼の命と幸福を脅かし、あの儚い横顔を翳らせる……ミカにとって何より許し難い怨敵。何度焼き尽くしても飽き足らない不俱戴天。彼が笑って生きられる世界のために必ず根絶やしにしなければならない。

 

 彼に守られてばかりだった。最期の瞬間までミカは彼の前に立てなかった。彼を傷つける悪意を前に何をする事も許してもらえなかった。

 

 だから、今回こそは。彼を守る。彼を救う。誰も居ない場所で死を選ぶ彼を見殺しにしない。孤独を抱えて、痛みと共に生きる彼がいつか皆と一緒の空を見上げられるように。あの日、多くを傷つけ魔女に堕ちても尚、手を差し伸べてくれた彼を忘れない。どれほど辛い未来が待ち受けていようと彼と共に生きると決めた。

 

 だが、そんな思いも……ミカのいない場所で暗殺という手を使われてしまえばどうしようもなかった。

 

 ────嫌だ、嫌だ、そんなのは絶対嫌だ。折角会えたのに。漸く会えたのに。初めましても言えないでお別れなんて絶対に嫌だ。伝えたいこと、話したいこと、沢山あるんだよ? 貴方がいなくなった世界の話、これからの世界の話、貴方が目指した世界の形。貴方が居なくても、私は頑張って生きたよ。貴方に託された命を大切にして、繋いできた。でも、本当は寂しくて。私、本当は貴方と生きたかったんだよ? 

 

 だから、どうか。

 

 祈りを込めて、彼の命を確かめる指先を首に触れさせる。伝わってきたのは人の肌の温度とは到底思えないほどに冷たく、濡れた感触。どれだけ長い間、この雨に晒されたのだろう。少なくとも数分ではこうならない。彼の体温は平均より若干低い程度ではあったが、それでもここまでではない。やはり相当冷えてしまっている。

 

 だが、それは今の本題ではない。今重要なのは────そう思ったミカの指先に脈拍が伝わってきた。次いで、気道の動き。今目の前にいる彼が呼吸をしている命である確かな証拠を見つけたミカはほっと胸を撫で下ろした。

 

「よかったぁ……」

 

 心の底から安心した声を漏らしたミカであったが、即座に安心している場合じゃないと意識を切り替える。今確認したのは脈拍と呼吸、つまり生きているか否かだけ。彼が意識なく項垂れている現状は一切変わっていない。首に触られても反応1つ返さなかった事から、深刻と見た方が良いだろう。以前テキストかBDのどちらかで見た記憶のある意識レベルなんて単語が脳裏でちらついた。

 

「先生! 大丈夫!? しっかりして!」

 

 ゆっくり、優しく。深海に沈んでいる彼の意識をゆっくりと水面に浮上させるように。決して体を揺すらず、肩を叩くに留める。大丈夫、彼は生きている。だから落ち着いて。

 

「先生!」

 

 ────焦らなくていい。大丈夫、大丈夫だから。きっとすぐ眼を覚ましてくれる。すぐ眼を開けて、宝石みたいな瞳に私を映してくれる。春のような、唄うような口調で私の名前を呼んでくれる。私を見て、宝物を見つけたみたいに優しく笑ってくれる。だから焦らなくていい、大丈夫だから。

 

 ────大丈夫、だから。

 

「起きてよぉ……先生……」

 

 嗚咽の混じったような弱々しい声がミカの口から漏れた。嫌なビジョンは徐々にその影を強めて、彼の意識の覚醒という細やかな願いを踏み躙らんとする。漸く会えたのに。漸く話せる距離まで近づけたのに。呼吸が更に浅く、速くなって。手足が震えて。視界が滲みはじめた時。

 

「……っ」

「先生ッ!」

 

 先程まで沈黙と静止を貫いていた先生から初めて反応を確認できた。僅かな身動ぎと喉から漏れた呼吸。震えと涙が一瞬で引っ込んだミカはそっと彼の顔を覗き込む。

 

 すると。

 

「……あ、れ」

 

 その声と共に薄っすらと長い睫毛に縁どられた双眸が開かれる。世界を映す瞳。悲劇を浄化する意志の権化。小さく開いた口からは僅かに息が零れて、酸素が体を循環した。投げ出され水溜まりに沈んだ手の指先が感覚を確かめるように動き、ミカの側からは見えなかった反対側の手で顔に張り付いた前髪を邪魔そうにかき上げた。

 

 ────その仕草1つ取っても妙に色っぽく見えるのは惚れてしまったからなのか。何かいけないものを見てしまったような気がしたミカは先程から愉快な百面相をしていたが、彼の傍だという事を思い出し即座に表情筋を固める。

 好きな人の前では可愛い所を見せたいのが恋する乙女の心というもの。決して愉快は表情変化を見せたい訳じゃないのだ。彼ならばそれすらも『ミカらしいよ』よ言ってくれる気もするが、それはそれ。複雑怪奇で、単純で、それでいてちょっと面倒な等身大の乙女心だ。

 

「ここは……」

 

 件の先生はミカがすぐ傍に居るなんて知りもせず、冷静に全身を蝕む激痛を噛み締めながら状況把握に努める。

 濡れているのは雨の所為。寒いのは雨に身を晒していた所為。激痛は後遺症。最後に見た景色と今の景色は変わらないから、場所の移動は発生していない。狙撃を防いだ後、無理が祟って意識を失っていたのだろうと当たりをつける。

 

 ────なんともまあ、情けない。病み上がりで、後遺症もあるとはいえ対物ライフルの弾丸一発防いだだけで意識を失うなんて。この体の脆さには辟易する。

 

 変色した虹彩を誤魔化すためのコンタクトに仕込んだオルタナティブで現在の時刻とシッテムの箱のバッテリー状態を確認。時刻は最後に確認したものから1時間弱進み、バッテリーは2%減少し現在64%。モバイルバッテリーもあるため、今後の活動には大きな支障はない。いざとなればクラフトチェンバーにもストックしてあるものを使えばいいだろう。

 

 時間を無駄にしている余裕はないのだ。一分一秒が惜しい、とまではいかないが、それでもある程度切り詰めなければ今後の活動に影響が出る。片付けようと思っていた外回りの仕事のプライオリティは然程高くないが、問題は観測した神秘の揺らぎの方。アレは最優先で確認しなければならない。

 

 ────トリニティ自治区の未確認領域内での、聖典の起動。

 

 ミカが掴みアズサやアリウススクワッドに流した情報はキヴォトス全域で活動する彼も掴んでいた。それも、ミカよりも更に精度が高く詳細な情報を。

 それは彼が持つ独自の情報網から齎されたもの……などではない。ただの直感。何度も死線に生き、何度も悪意と対峙してきた事により鍛え上げられ、過剰に研ぎ澄まされた直感が、凡ゆる論理を超えて『聖典の起動』という解を導き出した。

 

 その速度はシッテムの箱とほぼ同等。生身でキヴォトス最高のオーパーツに匹敵すると考えれば彼の異常性もよく分かるだろう。キヴォトスに於ける最大の不明点にして現実に空いた虚空(ヴォイド)と彼を称したキヴォトスの天才達は何度も彼の特異性を見てきたからこそ、そう形容した。彼女達は彼が単純な頭脳の良し悪しでは測れない、正に外れ値とも呼べる場所にある事を正確に見抜いていたのだ。

 

 彼は徐々に明晰になる頭で思考を回す。

 起動されたものは聖典で間違いない。それは彼とアロナが何度も確認したため決定事項だ。聖典は最大出力を抑えた代わりに扱いやすく最適化したアーカイブ形式のもの。現在進行形で信仰と神秘が積み重なる原典や原本ではない。

 だが、そのアーカイブは偽典と呼んで差し支えないほど起動者の手により恣意的に歪められている。しかも、歪めた方向性も最悪だ。直接確認しない事には分からないが恐らくは悪性情報の塊になっているだろう。精神汚染対策のプロテクトを施していないと一瞬で発狂し、廃人になるほどには。

 

 最後に、聖典の所属先は────拝火教(ゾロアスター)

 

 ────どこの誰だかは知らないが、本当に厄介で面倒な事をする。アヴェスターの偽典、悪性情報の塊を未確認領域とはいえ生徒のいる学校自治区内で起動するなんて。

 

 考えられる候補としてはベアトリーチェが最有力。彼女の根城はカタコンベから通じるアリウス、つまりトリニティの地下だ。入手した経路は不明だが、黒服かゴルゴンダ辺りが斡旋したのだろうか。マエストロの線も考えられるが、彼の持つ芸術性とベアトリーチェの主義主張は相性最悪のため除外。ベアトリーチェ自身が見つけて、実験がてら起動させた可能性もあるだろうか。

 

 第二候補は無名の司祭。起動場所に態々トリニティを選んだ理由は不透明になるが、入手経路は想像しやすい。大方、前文明の遺産から引っ張り出したのだろう。目的は恐らく報復。黒服に数名、先生の手によって3名が終了させられたのだ。アレの間に仲間意識があるかは知らないが、復讐するには充分な理由になる。

 

 ────何方にせよ、どんな経緯と目的があるに関係せず、この問題は生徒の手に負える範疇を大きく超えている。先生が動き、情報を集め、対策を練らなければいつどんな『詰み』が訪れるか分かったものではない。

 

 だから、さぁ。もう少し、この冷たく軋む体に鞭を打って前に進もう。そう思い手と足に力を入れて立ち上がろうとしたのだが、羽根のような軽い感触が彼の肩を抑えつけた。

 

「まだ動いちゃ駄目だよ、先生」

 

 隣から聞こえた声は聞き覚えのある声(初めての声)。自分は知っている、覚えている、分かっている。この声の持ち主を。

 

 気分屋で、お転婆で、天真爛漫。思慮深いと思えば肝心なところで行き当たりばったりで、一度動いてしまえば止まらない危うさを持っていた。多くを裏切り、多くを傷つけ、多くに奪われ、多くに傷つけられ、多くを許し、誰かの為に祈りを捧げた少女。友達が好きで、可愛いものが好きで、おしゃれが好きで、甘いものが好きな……ただの17歳の女の子。

 

 ころころと変わる表情。鈴が鳴ったような声。琥珀のような金色の瞳が綺麗で。本人の意志とは関係なくパタパタと揺れる翼が何とも可愛かった。そして、その心も。

 

 ────こんな自分を、こんな私を『好き』と言ってくれた健気な君の事をまだ覚えている。エデン条約とその後にあった儀式阻止作戦の後始末も終了し、ミカ自身も落ち着いてきた頃、彼女に『遊びに行こう』と誘われて。そうして1日楽しんだ後、別れ際に呼び止められて、告げられた言葉達。胸の内から溢れる思いを必死に声にして、どうにか届いてほしいと健気に祈るミカを見ても……私は、何も。

 

 最後、『重荷になりたい訳じゃないの。ただ、先生に伝えたくて』と言って背を向ける彼女の瞳が濡れていたのはきっと見間違いじゃない。返事はいらないよ、と言っていたのはきっと精一杯の強がり。好きな人の前でカッコ悪い所を見せたくないという彼女のいじらしい恋心の発露。

 

 何も言わなかった。何も言えなかった。何かを言う権利は既に剥奪されていた。人並の幸せも何もかも、全て捧げた。生徒の未来の為に、自分を薪に焚べた。この生は誰かの為の生だ。それは裏切れない。それを裏切る訳にはいかない。自分に後を託してくれた彼女の為にも。

 

 自分が今ここでミカを選んだら、目元を擦りながら遠ざかっていくミカを呼び止めたら……今までの全てを裏切ることになる。自分が幸福になる事を肯定してしまう。誰か()の為の先生でなくなってしまう。

 

 今まで踏み潰した幸福を忘れるな。今まで見殺しにした人々を忘れるな。今まで殺してきた世界を忘れるな。己の罪深さはよく分かっているだろう。キヴォトスの異物がキヴォトスで幸福になっていいはずがない。この世界は彼女達のものだ。

 

 だから────そう思って、無理矢理自分を納得させて、この痛みがミカの想いの証明だと信じて呑み込んだ。ミカが伝えてくれた想いを抱えて生きると誓った。この先、誰も選ばない事をミカに契った。それが返事を言わなかった自分が出来る唯一の贖罪だと信じて。

 

 ────結局、自分は何もしてあげられなかった。一世一代の、勇気を振り絞った告白だっただろうに。彼女の想いを受け入れることも拒絶する事もできずに。逃げを選んだ。視線を逸らした。真っ直ぐ己を見つめる彼女を直視できなかった。

 

 あの時、自分はどうするべきだったのか。どの選択が正解だったのか。もう戻れないと誰よりも知っていながら、今でも偶に考えている。想いを伝えてくれたあの少女(ミカ)はもう何処にもいないというのに。

 

 ミカの気持ちを受け止め、受け入れ、彼女の恋心に応えるべきだったのか。己の人類証明を否定するとしても、ミカが愛してくれた一人の人間として彼女の手を取れば。彼女の隣で、違う人類として歩んでいければ何か変わったのか。少しずつ自分を許して、自分を愛していければ、いつか皆と一緒の空を見上げられたら。あんなに遠かった皆に少しでも近づけたなら。

 

 それはなんて────羨ましい(罪深い)

 

 自分が幸福になることなんて許せる訳がない。こんな自分よりももっと幸せになるべき人がいる。幸せになりたかった人がいる。だから……だから? 

 

 そんな御託を並べたところでミカの気持ちを踏み躙った過去は変わらないのに。

 

 血を吐くような自嘲、自分の心を切り刻む。痛みを新たに顔を上げた。

 天幕の様な白は飾られた翼。多種多様なアクセサリーの表面に水滴が付着していて、この翼が自分を雨から守ってくれたのだと今更ながらに思う。

 

 綺麗に手入れされ、切り揃えられた桃色の長い髪。座り込んだ先生と視線を合わせる様に屈んだ体。金色の瞳は心配そうに彼を見つめていて、中途半端に伸ばされた指先は彼女の複雑な内心を投影する鏡のよう。

 

 どこを切り取っても、どこを見ても、自分が知る彼女そのまま。大切な、本当に大切な────私のお姫様。

 

「……君は」

「初めまして、先生。私は聖園ミカ、よろしくね」

「こちらこそ宜しくね、ミカ」

 

 ふわりと微笑む彼。天使の羽が空から落ちたような、春の花が咲いたような。そういった麗かさや美しさを思わせるからの笑みはミカが知るものと全く同一。彼は誰かを見つけた時、いつもこういう風に笑っていた。出会えたこと、巡り会えたことに対する喜び。 

 彼の口から、彼の優しい声で、心底大切そうに「ミカ」と名前を呼んでくれた。口遊むように、愛しい2文字を噛み締めるように。それだけでミカは嬉しかった。栓が壊れたみたいに感情が心の奥底から止めどなく溢れてきて、現在進行形で雨に濡れているにも関わらず暖かくなる。頬が熱を持ったように火照って、顔がにやけそうで、溢れる想いのまま直情的に彼に抱き着きたくなるが……ぐっと我慢。彼に変な子とは思われたくない。

 

 ミカは内心で『私、こんな単純だったかなぁ』と思う。彼が関わるといつもこう。元からティーパーティーやトリニティらしい権謀術数は得意分野から離れていたけれど、それでも感情を隠してアイスブレイクの要領で建前を話す事は人並に出来た。そうでなければティーパーティーの一員になる事は出来ないのだから。

 

 だが、彼の前だと建前も虚飾も何もかもがぽろぽろと剝がれていく。ティーパーティーの一人とか、パテル分派のトップだとか、トリニティ総合学園の生徒だとか、そういったものを全部無くした、唯の聖園ミカを見てほしくて仕方なくなる。貴方の眼に映る私を問いかけたくなる。

 だけど、今は何より彼が大事。だから、「それよりも!」と言って自分の意識を強制的に切り替えた。

 

「大丈夫? 痛い所とかない? 倒れてたからすっごく心配で……あ、待ってて、すぐ救急車呼ぶから!」

「大丈夫だよ、ミカ。心配させちゃってごめんね」

 

 スマホを取り出したミカをやんわりと静止して、壁に凭れ掛った背を少し起こす。その後、片手で畳んでいたコートを手繰り寄せ、内ポケットを弄り目的のものがある事を確認するとミカの方を見て。

 

「ミカ、ちょっと後ろ向いててくれるかな?」

「え? う、うん……いいけど……」

 

 若干訝し気にしながらも背を向けた事を確認した先生は音を殺して懐から注射器を取り出す。針が無いタイプのそれを首筋に押し当て、親指を跳ね上げてセーフティを解除。そのまま中の劇物を注入しようと指先に力を入れた。カシュ、と空気の抜けるような音が響いたと同時に────先生の手元から注射器が吹き飛んだ。

 疑問に思う暇はおろか、反応する時間すらない。認識した瞬間には手が明後日の方向に弾かれ、注射器が手元から離れていたのだ。少し離れた場所で甲高い落下音と破砕音が聞こえる。

 

 首の皮膚の上を薬液が滑り落ちる感覚も、体内に入り損ねた薬剤が化学的な香りを放ち気化する感覚も。その全てが何処か遠い。先生は驚きと後悔、それから少しの安堵を抱きながら……肩で息をするミカを見た。

 

「……駄目だよ、先生」

 

 特有の空気が抜ける音が耳に届いた時、ミカは生きた心地がしなかった。彼の体内に薬液が入る前に弾けたのは奇跡に近かった。

 ……分かっている。こんな事をしても彼の苦しみを和らげることはできないと。今苦しむ彼から縋れるものを奪っただけだと。

 

 だけど、あれは遅効性の毒なのだ。一見、何かを癒やす薬に見えるだけの張りぼてに等しいその場凌ぎ。使った瞬間は楽になるけれど、その安らぎの対価を後になって数倍増しで請求するインスタントな救いに手を伸ばす彼をただ見ていられる訳が無かった。

 

「そんなのを使い続けると、いつか本当に壊れて人間じゃなくなっちゃう」

 

 誰も見ていない所で血を吐く彼を。時折見せた線香花火のような顔も。デスクの引き出し、二重底の下に隠した……生徒宛ての遺書も。どれもこれも、彼が『ヒト』としての終わりを悟った時から露になったものだった。

 

「ね、一緒に救護騎士団の所に行こう?」

 

 それは、と先生の思考が回る。ここで救護騎士団と関わるのだけは不味かった。外見は兎も角として中身は全く以て完治していない。彼女達ならばこの程度の偽装は容易く突破する。見つかったら間違いなく3ヶ月ほどベッドに縛り付けられ、諸々のスケジュールが遅れてしまうだろう。

 

 ベアトリーチェを含む彼の敵が本格的に動き出すエデン条約締結前に、それだけ遅れてしまうのは流石に看過できない。戦局を決めるのはスピードと事前準備だ。よーいドンでやったら確実に敗北するのは見えている。だから、無理を承知で、体を引きずってでも動けるうちに動いておかなければならない。故に救護騎士団の元へ行く訳にはいかなかった。

 

 気遣いを無駄にしない穏便な断り方を必死に検索していると、痺れを切らしたミカが少し言い難そうにしながら。

 

「どうしても聞けないなら……」

「聞けないなら?」

「わ、私が先生を看病する、よ……?」

 

 歯切れの悪い、最後に至っては殆ど雨音に消されて聞こえなかったミカの言葉であるが、先生の耳には一言一句きちんと届いていた。どうやら救護騎士団の元に行かなければ誘拐され、彼女の下で看病されるらしい。

 

 様々な考えが頭を擦過する。ミカと救護騎士団。自分のこれからの予定はどちらを選んでも崩れる事は間違いないけれど……自分を想ってくれたミカにこれ以上悲しい顔をしてほしくなかった。それに、今現在この体は動きそうにない。全く、儘ならないものだ────そう思いながらも、悪くないと思ってしまう自分が何処かにいた。

 

 だから。

 

「……分かったよ、ミカの好きにして」

 

 彼はそう言い、少し柔らかく微笑むと……ミカは大きな瞳を数回瞬かせて。

 

「……へ?」

 

 なんて、気の抜けた声を漏らした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。