シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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ミカが彼に『要求を呑めないなら
ミカの想像上では、彼は『ミカに攫われる訳にはいかないな』と言って救護騎士団の元に行くはずだった。ミカの知る彼ならば多分そうすると思っていた。そして、救護騎士団本部に向かう道すがら彼とお話できたら嬉しいな、とか。相合傘なんて出来たら幸せだな、とか考えていたのに。
予想に反した彼の返事が聞こえた時、ミカは条件反射的に聞き間違いだと思った。自分の恋は遂に都合の良い想い人の幻聴すら伴うようになったのかと戦慄した。
昔、愛すべき親友に「ミカの頭には砂糖が詰まってそうだね」と言われた時は少し……いや、普通にムカついたが、彼女の人の見る眼は確かだったと言わざるを得ない。非常に不本意であるが、現状を鑑みて尚『砂糖なんか詰まってない』と返せるほどの胆力はないのだ。
ミカは『先生に会えたことが嬉しすぎて現実と妄想の区別がつかなくなっちゃたかー……』と自分のアレさにげんなりとしながら、それでもなんか妙な引っ掛かりを覚えて。『まさか幻聴じゃない?』と思って視線を下げると彼と眼が合った。
苦笑いする彼の「私を攫ってくれるんじゃなかったのかい?」なんて誘うような蠱惑的な言葉にくらりと頭が熱くなった事はちゃんと覚えていて……それからは記憶がぶつ切り。
────雨に濡れた彼の冷たい手を引いて、ダッシュで寮に駆け込んで。お互いずぶ濡れだねと笑い合いながらタオルで拭いて。風邪を引いちゃ不味いからお風呂入って、と彼を浴室に押し込もうとしたら華麗に躱されて何故か私が先に入る事になって。スキンケアもドライヤーも終わり、部屋着に着替えた私と入れ替わる形で、彼は現在進行形でシャワーを浴びている。私が入った後の浴室で。
「どうしようどうしようどうしよう……! なんか凄い事になっちゃった……!」
顔が熱くて、心臓が馬鹿みたいに高鳴っていた。ミカが日常的に過ごしている場所で、ミカが使った後の浴室で、彼がその身を晒してシャワーを浴びている。考えれば考えるだけ訳の分からない状況だ。
ミカが彼を自室や寮に招いたのはこの世界では当然これが初めて。今までも含めるならもう少し増えるが、それでも両手で数えられる範囲を超える事はない。これは彼女が特別ではなく、他の生徒もそうであり、殆どは彼を自宅に招いた経験なんて無い。仮にあったとしても何か特別な事情があった際の一回きりで、ミカのようにプライベートかつ複数回ある方が例外だ。
────まぁ、先生が積極的に生徒の家に行っているなんて聞いたらちょっと引いちゃうけど……。
兎にも角にも、彼はやむを得ない状態でない限り、生徒の自宅に足を踏み入れる事はなかった。それは生徒のプライベートを尊重する、といった意味合いも勿論含まれているのだろうが、ミカにはそれ以外の意図も含まれているような気がした。例えば、『先生じゃない自分を生徒の前で大っぴらに出さないため』とか。
彼はガードが硬い。隙を見せることはあっても、それは見せても良い半ばブラフのような隙だけ。彼の核心に迫る様な本当のウィークポイントには絶対に迫らせてくれる事はなかった。
人付き合い、生徒付き合いもそれは同じ。生徒を愛し、生徒を信じ、生徒の幸福を心から願っている。そこに嘘偽りは全くない。言葉を交わし、時間を交わらせ、絆を深める。互いを知り、良き関係であろうとする。頑張り過ぎる子には安らぎを、自分を卑下する子には絶対的な肯定を、暖かさに触れて来なかった子には無条件の優しさを。
生徒の事を誰よりも愛していた。この世界の救いのないシステムに誰よりも激怒していた。誰よりもこの世界で生きるという事と向き合っていた。何処にも同胞が居ないキヴォトスで、皆と同じ人類として生きようとしていた。生徒を教え、導き、守り、救い、共に歩く先生として。
故に彼は何処までも先生だった。キヴォトスという世界の中で彼は先生以外である事を許されなかった。彼だって同じ人間なのに。誰かを愛して、誰かに愛される人間なのに。世界はそれを決して認めてはくれない。
そして、彼自身もそれを認める事はなかった。誰かに弱さを見せる事はせず、常に仮面を被り続けて。先生じゃない一人の人間としての『彼』なんて殆ど何処にもなかった。取るに足らない日常の中、一瞬だけしか『先生じゃない彼』は存在しなかった。
思うに、彼は怖かったのだと思う。生徒の前で自分を晒す事が。もう空っぽになって、語る物が無くなってしまった虚構の自分を生徒に見せる事が。今更、そんな事で幻滅する訳ないのに……なんて思っても、ちゃんと言葉にしなきゃ分からない。思っているだけでは誰も分かってくれない。言葉を交わす事の大切さは色々な人が教えてくれた。
────だから、ちゃんと話さないと。話したいことがいっぱいある。彼と育んだ思い出。見知った見知らぬあなたへ贈る数多の言葉、確かな煌めき。眼を閉じながら星の虚に堕ちる貴方を涙と共に見送った私が生きた証。
どれもこれも彼が知らない事、覚えていない事。私が知ること。私が覚えていること。もし貴方が私と同じように覚えていたら、とは思うけれど……彼が覚えていたらそれは唯の悲劇になってしまう。彼の記憶には確かに楽しいものがあっただろうが、その何倍も辛い事があって苦しい事があった。
だから、彼は覚えていない方が良い。その方がきっと彼は笑える。彼は幸せになれる。思い出を話せないのは確かに悲しいけれど、それでも大丈夫。これからもっと沢山の思い出を今此処に居る彼と共に作ればいい。彼の今までの苦しみすら全部笑い飛ばせる様な大きな幸福を。貴方は愛されて此処に居ると、抱えきれない花束と、それに負けない私の全てで伝えたい。今度は振り向いてくれるのかな。
「なんて、ね」
きっと振り向いてくれないんだろうな。だって彼は先生だから。彼は皆の先生だから。誰かの為に頑張れる人だから。でも、それでいい。あの人を想っている、それだけで私はいい。この想いを口にしなくても、伝えられなくても、この想いに彼が永劫応えてくれなくても、それで。だって彼が振り向いてくれないからといってこの想いが無価値になる訳じゃないでしょう? 別に返答が欲しくて、想いに応えてほしくて、愛してほしくて彼を思っているんじゃない。ただ彼を愛した。彼を好きになった。彼に屈託なく笑ってほしくて、皆と一緒に生きてほしくて、幸せになってほしくて祈りを捧げた。だからこの恋はどんな形であれ彼が幸せになってくれれば報われたも同然だ。
────勿論、この想いに応えてくれて、私を選んでくれたら本当に嬉しいけれど。それこそ、死んじゃうくらいに。
「緊張する……」
何に対しての緊張かはミカ自身も分からない。だけど、緊張する。心臓は鳴りやまないし、変な手汗に気付くたびに手を洗っているからふやけ始めていた。素足のまま履いたスリッパをパタパタとさせ、お気に入りのクッションをぎゅっと抱きしめてソファに深く沈む。落ち着かない。まるで自分の部屋じゃないみたいだった。
彼が家に来ても基本的にテーブルでお茶菓子を食べながらティータイムを楽しんだり、取り留めのない雑談をするだけで、それ以上の事は何もない。一回だけ余りにも寂しくなってしまい、彼を閉じ込めて一夜を共に過ごしたが……その時は彼も「こんな事をしたら駄目だよ」と珍しく怒っていたし、怒られた手前彼に近づく事もしなかった。
「うぅ……」
今度はスリッパではなく翼をパタパタと揺らす。ミカの脳内検索履歴は『お家デート』の文字列で一杯になりショート寸前。作法も何もかも全然分からないし、何段か必要な段階をすっ飛ばしている気がする。そもそもこれはお家デートかすら定かではない。でも、これを単なる雨宿りと言われたらなんか違う気がする。
遠く聞こえるシャワーの音。自分以外の、彼が浴びるシャワーの音。別に聞き耳を立てるつもりはなかったが、意識から外そうとすればするほど逆に意識してしまって耳から離れなくなってしまう。
シャワーを浴びる彼。少し伸びた髪を滴る水滴。世界を映す万華鏡のような瞳と涼やかな目元、長い睫毛、通った鼻梁、色素の薄い小さな唇、イヤリングやピアスが良く似合う耳。ほっそりとした首。夏場に時折シャツから覗いていた鎖骨。しなやかだが筋肉の存在も感じる中性的な腕。羨ましいほど長く細い足。ちゃんと食べているのか心配になるほど細身の体。割れている腹筋。
……と、そこまで考えてミカは脳内に発生した煩悩を振り払う。
「私、そんな子じゃないのに……」
ミカは『こういう妄想はコハルちゃんの専売特許なのに』と彼女に対して若干失礼な感想を抱きつつ、ころんとソファに横たわる。トリニティの何処かから可愛らしい小さなくしゃみが聞こえた気がするがきっと気のせいだ。
ミカは壁掛けの時計を見る。夜と呼ばれる時間まではまだ遠い。そして、雨が止むのもまた遠い。雨の中彼を帰らせる訳にはいかないし、このまま彼には晴れるまで此処で休んで貰おう。きっと連日働きっぱなしで、碌に休めていないだろうから。
ミカが使っているベッド……は流石に恥ずかしすぎて貸せない。雨の日以外はお日様に当てているが、それでもきっと匂いが染みついているだろうから。来客用のマットレスか何かあれば良かったのだが、生憎と持ち合わせはないし今から買ってくるわけにはいかないため、ソファのリクライニング機能を使って簡易ベッドにしよう。一応、品質は最高だから仮眠を取るのには充分だろう。それにブランケットがあれば完璧だ。
早速準備をしないと、と思いミカは立ち上がる。収納の扉を開けて丁寧に畳まれたブランケットを取り出し、念のため顔に近づけて鼻を小さく鳴らす。数日前にお日様に当てた記憶があったため大丈夫だろうと思っていたが、やはり防腐剤等の化学的な香りはしない。
ブランケットをソファの上にそっと置き、枕代わりになりそうな適当なクッションを添えて寝具関連の準備は完了。ミカはそのままキッチンの方に向かい、ハーブが入っている缶とティーポット、ストレーナー、銅製のケトル、2人分のティーカップとソーサーを取り出す。
どうせ休むなら彼にはしっかりと休んで貰いたいのだ。彼の多忙さを鑑みるにこの先も長時間のお休みは取れないだろうから、質の方を拘ろう。ハーブティーで心身をリラックスさせ、良い寝具で効率的に脳と体を休ませる。そうすれば短時間の休息でも疲れはそれなりに取れるはずだ。きっと彼は仕事しながら机で寝落ちしているだろうし、こうして無理矢理でもいいから休める環境を作ってあげないと。
ケトルにミネラルウォーターを注ぎ、コンロに火を点けて沸騰を待つ。沸騰したお湯をティーポットに入れて温まるのを待ちながらケトルに再度ミネラルウォーターを注ぎ、ハーブとティーカップの準備をして……ふと思う。
「なんか、同棲しているみたい……」
シャーレのオフィスで当番として彼と働いたり、ミカの自室で遊んだりするのとは違う。彼の生活ルーティンの一部がミカの部屋で行われているのだ。決して交わる事が無かったはずの2人の別々の生活、それが彼女の部屋を交差点として交わった。そう考えると少しだけ吐息が熱を持ったような気がして、シャワーの音が雨音を打ち消す。
多分……いや、絶対にこんなチャンスは二度とない。そう考えるともう少し踏み込みたい。もう少し彼に近づきたい。彼と一緒に過ごしていたい。具体的にはもうあと1日くらい。そうすれば彼も纏まった時間彼も休むことができるしミカも彼と一緒に居られて嬉しい、正にWin-Winの関係だ。
けれど、流石に彼を泊める訳にはいかない。シャーレの外に泊まる場合は彼にも色々と準備があるだろうし、何よりミカの心臓が持たないのだ。明日の朝まで彼と一緒に居ると一日の幸福の摂取量を容易くオーバーしてしまう。
だから今日の幸せはこれで充分すぎるくらい……何て思っていると『ミカさんは肝心な所でヘタレですから』と愛すべき幼馴染が脳内で紅茶を飲みながら鼻で笑った気がするので、次会った時はロールケーキを口に突っ込んであげよう。いつもやられているのだ、これ位の意地悪は許してほしい。
少し雨脚の弱まった外を眺めながら、ミカは浴室に繋がる扉に視線を送る。
「先生、大丈夫かな……何もないと良いけど……」
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上部に固定したシャワーヘッドから降り注ぐ、人肌程度のお湯。それは先生の体を伝い、汚れと冷たさを洗い流し、床を滑って排水溝に流れ込んでいく。人工皮膚の下に隠した数多の傷跡、烙印。欠けた足の指。虹彩を誤魔化すコンタクトレンズも外しているため、今此処に居る彼は一切の偽りを取り払った状態。傷つきながらも確かに歩んできた証拠が全身に刻まれている。
それに僅かな感傷を抱きつつ、彼は浴室内に持ち込んだシッテムの箱に小さく語りかけた。
「アロナ、バイタルの表示をお願いしてもいいかな?」
『はい! 少し待っててください、先生!』
アロナがフォルダの中からデータを探している間に、少しだけシャワーの勢いを強める。それで以て自身から流れ出た血の臭いを洗いつつ、完全に消えた頃を見計らってシャワーを止めた。
『全体的に機能は低下しています。特に酷いのは呼吸器系、循環器系の2つです。原因は恐らく……』
「
『はい。血液と共にナノマシンが流れ出てしまったので、神秘の解毒スピードが通常時よりも大幅に下がっていました……ごめんなさい、アロナがもっとちゃんとしていればこんな事には……ッ!』
「アロナの所為じゃないよ。気にしないで、ってのは無理だろうけれど……どうかこの事で自分を責めないでほしいな」
そう言って笑いかけると、アロナは落ち込みシュンとした表情を少しだけ和らげた。影のある笑みは彼が望んだものとは少し離れているが、それでも先ほどの物よりもずっといい。彼はアロナの頭を撫でようと思ったが、自分が濡れたままだった事を思い出して留まる。シッテムの箱は当然防水だが、防水だからといって濡れたまま少女を触って良いわけがないのだ。
彼は音声認証を使用してシッテムの箱からクラフトチェンバーにアクセス、ストックしてあるバスタオルを顕現させ体の水気を拭き取っていく。身体の水気を取り終わったらシッテムの箱を持ち、浴室を出てからクラフトチェンバー内のアイテムから黒のスラックスとシャツ、ベルト、下着や靴下、人工皮膚一式を選択して出現させた。
『呼吸器と循環器の機能が落ちているので、今までと全く同じように先生の体は動きません。息切れや動悸、眩暈、酸欠は起きやすくなっています。なので、長距離の徒歩移動と階段は可能な限り避けてください』
「長距離の徒歩移動が制限されるとなるとアビドスが困るな……クラフトチェンバーにバイクと車をストックしておかないと。あとは顕現物資の格納も、か」
『そうですね……テイラーメイドで作った特殊な仕組みがある物資なら格納までワンセットで出来ますが、それ以外となると現在は軽い質量のものしか格納できませんので……これはアロナが調節しておきます!』
「ありがとう、お願いするね」
『はい! アロナにお任せください!』
先生は軽くストレッチをして体を伸ばしながら傷跡に人工皮膚を張り付けていく。それが終わり、特に違和感のない綺麗な状態の肉体に戻ったらコンタクトを付けてから衣服を纏う。下着を着て、スラックスを履き、ベルトを締めて、シャツを羽織って第一ボタンから下を閉めれば着替えは完了した。雨で汚れた服をクラフトチェンバー経由でシャーレ地下に転送しつつ、彼はシッテムの箱に表示されている自身のバイタルを眺める。
「血液中の白血球、赤血球の数も減少傾向。メラニン色素も減少しているのか。五感も全体的に鈍くなっている……運動機能も落ちているから無茶を通しにくくなってるな。今まで以上に限界ラインは注意して見極めないと」
『それも大事ですけど、体重にも気を付けてください! 初めてお会いした時から10kgも落ちちゃっています! ご飯はちゃんと食べてください! フウカさんやルミさんに連絡しちゃいますよ!?』
「耳が痛いなぁ」
彼は苦笑いしながらバイタルを確認していく。残りの部分は特別大きな問題がなかったり、そもそも既知の問題だったり、或いは前回見たした時から変わっていない部分だったため確認は直ぐに終わった。長いようで短い、楽しかったこの旅路も少しずつ終わりに近づいている事を改めて実感した彼は少し寂しそうに微笑む。
もう直ぐこの旅は終わる。この生は終わる。皆とは二度と会えなくなる。先生はキヴォトスの内海で眠るように息を引き取る。この魂は何処にも行けなくなる。寂しいとは思うけれど、それでも自分が納得して進んで来た道だ。後悔はないし、怖くもない。
────私は、
そんな感傷を抱いたが、即座に振り払う。迎えられるのだろうか、ではない。迎えた上で運命を超えるのだ。
彼はアロナに「ありがとう、また後でね」といって頭を撫でてからシッテムの箱をスリープモードにする。それから大きな姿見に映る自分を眺めて……一歩近づく。
「……言われてみれば、ちょっと白くなったかな」
確かに、記憶よりも少し肌が白くなったかもしれない。だが、あくまでその程度。明確に色が落ちている訳ではないから、以前の彼と見比べないと分からない差異だ。少なくともひと目みただけで気付かれるような劇的な変化ではないから、一旦は無視していいだろう。対策は変化が眼に見えて分かるようになってからで充分だ。
彼は忘れ物や浴室に汚れが無いか改めて確認してから電気を消し、シッテムの箱を持って────ドアを開けた。
▼
ティーポットが充分に温まるまで待っている時、がちゃり、とドアの開閉音が聞こえた。途端ミカの背筋がピンと伸びて、その拍子に手先に触れたティーカップとソーサーが音を鳴らす。
開いたドアの先にはシンプルなスラックスとシャツを纏った彼。シャーレのロゴや連邦生徒会特有の刺繍が施されていない事から、恐らく彼の私物だろう。私服にしては少しかっちりし過ぎていると普通の人は思うかもしれないが、ミカはこういう服が一番彼に似合うと良く知っている。ストリートやカジュアルも彼には似合うが、一番はこういう少し綺麗目なフォーマルチックな服装だ。
ミカは『また先生とショッピングに行って着せ替え人形にしたいな~』と考えていると、彼は近づいてきて。
「シャワー使わせてくれてありがとう、迷惑かけちゃってごめんね」
「ううん、全然! それに、あんな所で倒れてる先生を放っておけないし……」
「そっか……ミカは優しいね」
その言葉一つで舞い上がるほど嬉しくなる。優しい声が堪らなく好きで、その声音で名前を呼んでくれるのが本当に愛しくて。上機嫌になる自分の単純さに呆れて、でもこんなに幸せならそれで良いかと思って。そこでミカは彼の髪がまだ湿っている事に気が付いた。
「あれ? ドライヤー使わなかったの? 置いてあったはずだけど……」
「いや、流石にミカの私物を使うのは気が引けてね……」
「変なの。もうここまで来ちゃったらドライヤーの1つや2つじゃ変わんないよ?」
「ふふっ……確かにそうかもね」
その苦笑いを肯定と受け取ったミカは「ちょっと待ってて!」と言い残し浴室に入り、数秒後にドライヤーと櫛数本、ヘアオイルを片手に戻って来た。
「私が乾かしてあげる!」
「え、っと……ミカ?」
「遠慮は無しだよ、先生!」
やけにハイテンションなミカに手を引かれる。何か言う間もなくドレッサー前の椅子に座らされれば、ミカの手が彼の髪を触っていく。顔を赤らめながらも、楽しそうな表情で。
「先生って案外お手入れちゃんとしてるんだね。全然痛んでないもん。てっきり忙しくてやる時間が無いタイプだと思ってたのに」
「忙しいのはそうだけど、職業柄人前に立つ機会は多いからね。身だしなみはちゃんとしないと」
彼は「それよりも」と一旦言葉を区切って。
「態々こんな事をしてくれなくても……」
「ううん、私がやりたいからやってるの。それとも、先生は私に髪を触られるの……嫌、かな……?」
「そっか……じゃあ、お願いしようかな」
その言葉にミカは空が晴れるような笑顔を浮べて、櫛とドライヤーを手に取る。
「うん! 任せて! とびっきりカッコよくセットしてあげるから!」
────こんな幸せな時間がずっと続けばいいのになぁ。
ミカはそう思いながら、彼の髪に櫛を通した。