シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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ドライヤーの熱風で水気が飛ばされた髪が靡く。変な癖がつかないように丁寧に櫛を通すミカの手つきは真剣そのもので、一切の妥協を許さないと言わんばかり。自身の髪を手入れする時と同じ位に丁重に男の髪を触るミカの天職は美容師だろうか、なんて下らない事を考えて……鏡越しにミカを見る。
彼女はとても楽しそうな表情。目が合うと見惚れそうなほど綺麗な笑顔で先生を見て、また髪を手入れする。男の髪なんて触っても何が楽しいのかさっぱり分からないが、楽しそうなミカに水を差すつもりもないため彼女が満足するまでこのままで良いだろう。元より『人前に立てるような姿形』を保つこと以外に大きな拘りはないのだ。それに、楽しそうなミカの顔を見るだけで此方も嬉しくなってしまう。だから、もう少しだけこの笑顔を特等席で眺めていたい。
────それにしても、何故ここまで彼女は親身になってくれるのだろうか。ミカとはこれが初対面。この場以外で言葉を交わした記憶も無ければ会った記憶もない。ティーパーティーと書類上のやり取りは行っているが、その相手も大体がセイアかナギサで、ミカの名前で提出された書類は記憶に在る限り無かったはずだ。
加えて、ヴェリタスやアコが言っていた『ミカが先生に入れ込んでいる』という情報。この情報が齎されたのはアビドスに居た時期、つまり彼がキヴォトスに来てから日が浅い段階だ。その段階ではミカは勿論、ティーパーティーとの交流は今よりも更に少なかった。精々、ヒフミがナギサにカイザーの件でシャーレの名前を出した程度。接触と呼べる接触は皆無だ。あとは会談の申し出がティーパーティー3名の連名であったくらいか。だが、その会談も結局行えていないので動機としてはかなり弱い。
ミカがシャーレや先生の情報を全く掴んでいない……とは言わない。彼女はティーパーティーであり、パテル分派の首長。ティーパーティーの情報網もパテルの情報網も十全に使える。それに、赴任初日に起きたシャーレ奪還作戦にはハスミが居たのだ。ハスミ経由で何かしらの踏み込んだ情報が渡っていると考えて良いだろう。
だが、それを踏まえても彼女が先生に入れ込んでいる詳細は依然として闇の中。これまで齎された情報の中で、何が彼女の琴線に触れたのだろうか。
シャーレという組織体系。所属関係なく共に轡を並べられるシャーレのシステムに興味を持ったのか。彼女がアリウスに物資を融通している情報は把握している。過去のトリニティが徹底的に排斥したアリウスとの和解を望んでいる彼女であれば、確かにシャーレに目を付けるのは不思議ではないが……根拠としては弱い。
仮にそうであれば、その興味は先生本人ではなくシャーレという組織そのものに重きを置くはずだ。それにも関わらず、彼女の興味関心は先生個人に向いている。それどころかシャーレにはあまり関心を向けていないようにも思えた。
では、エデン条約に関連するものなのか……それも何か違う気がする。彼女はゲヘナがそこまで好きではなく、何方かと言うと嫌いだった。そんな彼女が態々ゲヘナと手を取り合うための条約の為に身を粉にするとは考えにくい。彼女は感情で動くタイプであり、公私を切り分けて動けるナギサとは対極に位置するような少女だ。
恐らく彼女個人の立場はエデン条約に対して中立か反対寄りの中立。パテル分派全体としては反対、という具合だろう。締結の邪魔をするつもりはないが、大っぴらに協力するつもりもない……そういった立ち位置。
それ以外、となると……本当に考えられる候補が無い。彼女がシャーレに興味を持つきっかけとなった出来事は幾つか思い当たるが、時系列が合わなかったり、『入れ込む』に至るものではない出来事ばかりだ。
今日まで関わりが皆無だったミカが、シャーレ関係なく先生個人に何かを向ける理由或いは動機。探せば探すほど分からなくなる。打算や政治的な意図はないと考えていい。彼女はそういった謀術が苦手だ。
だから、それ以外のものを。彼女個人が抱えている何かの中で先生若しくはシャーレに関連付けできそうなものは……そう考えて探しても、何も見当たらなくて。
────お手上げだね。
彼は自身の内側で苦笑する。これ以上は分かりそうになかった。彼女が自身に入れ込むに至る動機が。こんなにも初対面の自分に対して優しい理由が。良くも悪くも真っ直ぐで、感情的な彼女はこれらの言動に政治的な意図や打算を含ませることはできない。仮に出来たとしてもぎこちなくなる。だからこれは、彼女の言う通り『そうしたいからしている』だけだ。
……一応、もう1つ候補はある。それは彼女が────いや、止めよう。自分から回帰の話は出さないと決めている。それは今目の前にいる
「こんな感じでいいかな?」
「うん、ありがとう。上手だね、ミカは」
「そんなに褒めても何も出ないよ?」
悪戯っぽく笑うミカは軽い足取りでドライヤーを片付けに行って、ドレッサーに取り残された彼は鏡を見る。長い髪を毎日丁寧に手入れしているだけあって、ミカのセットはとても上手だった。自分ならミカの倍の時間を掛けてもここまで丁寧にセットできないだろう。
立ち上がり、椅子をドレッサーの中に仕舞うと丁度ミカが戻ってきたところだった。彼女はその足をキッチンの方に向けて。
「お茶淹れるからちょっと待ってて!」
「手伝うよ」
「大丈夫、先生はお客さんなんだから! それに、さっきまで倒れてたんだから、無理しないでほしいの」
倒れていたのは事実で、無理をしていたのもまた事実。身体の自由が効かなくなったところをミカに手を差し伸べてもらった身である彼は、それを引き合いに出されてしまうと反論する余地をなくしてしまった。口を噤んだ彼を見たミカはこれ幸いと手を引き、ソファに座らせてクッションを抱かせる。
────あのクッション、先生に抱きしめられて羨ましい。
そんな可愛らしい嫉妬を心のアクセントに加えつつ、ミカはキッチンの奥に向かう。お湯を入れて放置したままだったティーポットは充分温まっていたため、中身をシンクに捨てて中にハーブを入れる。その後、再びミネラルウォーターで満たしたケトルの沸騰を待つ。
カウンターから見る彼の姿はとても新鮮だった。脱力しているというか、肩肘張っていないというか。仕事ではないオフの日の彼を見ているような気分。リラックスできているみたいで嬉しいな、と思いながら彼を見る。
彼はぼうっと外を見ている。世界を映す万華鏡には無数の雨粒、ガラスを滴る水滴に彼は何を想っているのだろうか。トリニティの街に何を見ているのだろうか、何を見出しているのか。彼はこの世界を綺麗だと思ってくれているのだろうか。
外を見る彼を眺めるミカ。僅かな仕草や瞬き、触れたら消えてしまう雪のような儚い横顏。蜃気楼みたいに不確かだが、それでもこの世界に、ミカの部屋に存在している彼。不思議な感覚だな、なんて思っていると……ミカの耳に沸騰音が聞こえたから、慌ててコンロの火を止めた。彼を見るのに夢中ですっかり忘れていたが、今はハーブティーを作っていたのだ。現実に引き戻してくれた事には感謝しつつ、もう少し彼を眺めていたかったと僅かな後悔。
────尤も、あそこでケトルが現実に引き戻してくれなかったら何時間でも彼を眺めていただろうけれど。
ミカは鼻歌を歌いながら手慣れた動作でケトルを持つ。沸騰した後、室温で少し放置した事により温度が下がったお湯をティーポットに注ぐ。水の流れでハーブがくるくる躍る光景を見ながら、4カップ分前後の量を注ぎ終えたら素早く蓋をして、砂時計をひっくり返した。砂粒が全て落ちきるまでの4分間が抽出時間。
「先生、ちょっと待ってて! もう直ぐ淹れ終わるから!」
彼の返事は聞かずに最後の準備に取り掛かる。棚からお茶請け用の小皿とカフェトレーを取り出しティーカップとソーサーと一緒に並べる。その後、『ナギちゃんから貰ったお菓子どこに仕舞ったかな』と考えながら記憶を頼りに収納の中を探していく。
取り出したボックスの中には多種多様のお茶菓子。どれもナギサが手作りしたものであるが、その見栄えや味は店で出されるものに全く引けを取らない。その中で何がハーブティーと合うだろうな、と吟味しながら……取り出したのはフィナンシェ。何だかんだ、こういう小麦粉を使ったお菓子が一番ハーブティーに合う。
砂時計の砂粒が全て落ちたことを確認したミカはストレーナー片手に鼻歌を歌いながらティーカップにハーブティーを注ぐ。透明な容器の内側でハーブがジャンピングしているのを見たミカは内心喜んだ。上手く淹れる事ができた、と。ナギサほどではないが、ミカにもそれなりに紅茶やお茶には拘りやポリシーがあるのだ。それに、好きな人には美味しいものを飲んでもらいたいと思うのは当然であろう。
リラックス効果のある香りが鼻孔を擽り、思わず顔が綻んだ。2人分の満たされたティーカップとソーサー、ティーポットとストレーナー、お茶請けのフィナンシェをカフェトレーの上に乗せて彼の元へ足を運ぶ。
「お待たせ、先生! 冷めないうちに飲んでね!」
ローテーブルに置いたカップとソーサー、彼はそれを優雅な所作で持ち上げて口元に運ぶ。小さなリップ音がやけに耳に残ったのは部屋が静かだからか。
「……どうかな?」
「美味しいよ。淹れてくれてありがとう」
「やった♪」
僅かな偽りすら感じられない純粋な誉め言葉を受け取ったミカは大きな喜びを味わいながら、自身のカップとソーサーをテーブルの上に置いて、お茶菓子を下す。その後、ティーポットをマットの上に置いてコジ―を被せた。
そして、彼のすぐ隣……ちょっとした身動ぎをしただけで互いに触れてしまうような至近距離にそっと腰を下ろした。賑やかし代わりのテレビを点けようか、と考えたが……彼がテレビの方に集中するのは嫌だからやっぱり無し。尤も、ミカを放ってテレビを見るなんて事はないと思うが。
そうしてお茶を楽しみつつ暫く無言ながら心地の良い時間が流れた後……徐にミカが口を開いた。
「先生、聞いてもいい?」
「……何を?」
ミカが何を聞きたいか、彼もきっと分かっているだろう。だが、それでもワンクッションを挟んだのは念のための確認か、それとも何か別の意図があるのか。
聞かれたくない事なのかもしれない。彼は生徒に心配をかける事を良しとしなかったから。
言いたくない事なのかもしれない。彼は自分の事をあまり話してくれなかったから。
それでも、心配だから。ミカは思いを胸に彼へ一歩、心を近づけた。
「あんな所で倒れてた理由だよ」
先生は遠くを見るような眼でミカを見ているが、何も言わなかった。その沈黙を続きを促しているものであると直感したミカは退路を塞ぐように自身の手を彼の手の上に被せた。少し冷たい温度が伝わる。
「寝ていた訳じゃないよね。だって声を掛けても、体を揺すっても暫く起きなかったもん。だから多分……気を失っていたんだよね?」
「……そうだね。情けない話だけど、私はあそこで気絶していた」
言葉を選んでいるとミカは思った。特別歯切れが悪いわけではないし、関わりがそれなりの人なら一切の違和感を感じさせないほどにその偽装は完璧に近かった。だが、ミカにそんな虚飾は通用しない。それほどまでに絆を深めてきたのだから。
「……何か言い難い事があったの?」
「そうだね……あまり大っぴらにはできない事は確かにあった」
「無理に話してほしい、とは言わないよ。でも……私、先生の力になりたい。困ってるなら助けになりたい」
「……」
ミカの言葉に対して彼は再び沈黙する。だが、その沈黙は先程までのものとは異なる色を持っていた。あと一押しだと感じた彼女は更に彼に近寄り、真正面から彼の宝石のような綺麗な眼を見た。
「知ってると思うけど私、これでもティーパーティーなんだよ? トリニティの中の事ならきっと力になれると思う。だから……ッ」
「ありがとう、そう言ってくれて嬉しい」
強めた語気を宥めるように、少しミカの言葉に被せて彼は声を紡ぐ。瞬きの刹那、閉じられた瞳が再度世界を映すまでの僅かな時間……ミカは彼の瞳から蒼の燐光が零れたのを垣間見た。
まるで雲一つない青空のような。或いは星と宙の狭間に広がる空間のような。深い海の水底のような。地と天、その何方にも存在する色彩は彼自身が持つ物ではない。
遠い昔、彼は言っていた。
時折、色は性質と結び付けられる。『十人十色』という諺然り。『色彩』は神秘を反転させるものであり、神秘とは個人の性質とも言い換えられる。それを譲り受け、剰え十全に扱えるのは異常と言う他ない。
ここからはミカの推測になるが、彼が生徒の神秘を扱えるのは彼自身の色が大きく関係していると思う。狂おしいほどの純白。何者にも染まりつつ何者にも塗り潰せない白さが彼の基盤に在るからこそ、彼は様々なものを扱える。それは生徒から譲り受けた色彩で己が白さを塗り潰す
……保ち続けた彼自身の純白。それが僅かに侵食されているという事は、彼の性質が僅かに失われている事を示す。生徒の為の先生である為に彼は
────やっぱりこんな話、ふざけてるよ。
ミカはぎゅっと手を握り締め、歯を食い縛る。こんな悲劇は認めたくない。これが世界のあるべき形だなんて嘘だ。誰かの為に走り続けた彼が、誰からも遠い場所で居なくなるなんて……そんな末路を受け入れる事は出来ない。
だが、幾らミカがそう思った所で彼が贄である現実は変わりなく、彼自身もそれを受け入れている……とは言わないが、贄である事自体には納得していると思う。そうなる事が自然な事だろう、と。
思うに、彼は自身が生贄や消耗品である事に疑問は持っておらず、それに対しての怒りやら何やらは抱いていない。昔から彼は自分の為には怒れない人なのだ。自分がどれほど辛い目に遭ったとしても、彼は自分の為に一生懸命になれないし、そもそも自分の為に生きる事ができない。いつだって彼は誰かに心臓を預けている。
そんな……自身の生存に対して執着が皆無な彼が自身が復活の器になる結末を回避しようとしているのは、その後があるから。彼ではない誰かに新生した彼は多くを傷つけ、多くを殺すから、何としてでも回避しようとしている。自分の不始末で泣く誰かを作りたくないのだ、彼は。
ミカは流し目で先生を見る。彼の表情は思い悩むようなもの。やっぱり言い難い出来事なんだ、と彼女は当たりをつけて……少しだけ彼の方に寄った。考えるのは触れ合えるほど近くにいる彼の事。
数日前、サオリから『僅かだが先生に主神の気配を感じた』と秘匿回線で伝えられた。嘘だと、冗談だと言ってほしかった。実はそんな事はなくて、会った彼は一切の影を感じさせない人だったと言ってほしくて。だが、電話越しに痛みを伴う沈黙を返したサオリを感じて声帯が凍り付いてしまって……これがどうしようもない現実だと知った。
そして、この現実をどうにかする術は無い。不治の病のようなものだ。それも、進行したら確実に逃れられない死が待っているタイプの。こうなった時点で彼の詰みは確定しているようなものだ。彼はもうどうやっても長くは生きられない。世界が流転しても受け継がれる彼の短命、本当に酷い話だと思う。
手遅れという事は分かっている。もうどうしようもない事も分かっている。どうやっても彼は失われる。仮に何もかも上手くいって皆が明日を見れたとしても、彼はきっと失い続け守れなかった過去を見てしまう。自分が悲劇を生み出すと勝手に決めつけて、蜃気楼のようにいなくなってしまう。そんな事、絶対ないのに。
「……いいの? 本当に? 私が知りたいって言ったけど、無理に話さなくても……」
「気遣いありがとう。でも、ミカには知る権利があるからね。雨に濡れてまで私を助けてくれたんだ。ミカに嘘は吐きたくない……勿論、これはミカと私の秘密ね」
「うん、絶対に誰にも言わないよ」
力一杯頷くと、彼はまたふわりとした微笑を浮べてくれて……少しだけ背筋を正した。そのまま彼は「さて……何から話そうかな」と少しだけ頭の中を整理して。
「ミカは私が少し前までミレニアムに居たのは知っているかな?」
「うん。行政官の子から情報のソース付きで私の方に流れてきたよ」
「流石ティーパーティーだね。情報の速さも確度も申し分ない……と、話しが逸れたね。兎に角、私はミレニアムに居て、丁度そのタイミングで色々あってね……端的に言うと、ちょっと無理を押し通したんだ」
「ちょっと……?」
ミカは『絶対ちょっとじゃないでしょ』と言わんばかりの目で彼を見つめると、困ったような苦笑い。目を細めて、唇を少し歪めて。それを見てミカは確信する、絶対途轍もない程の無理をしたと。
「その辺りの事が片付いたのが2週間くらい前で、そこから今までほぼ働きっぱなしでね……今日は偶々トリニティに用事が出来たからこっちに来たんだ」
「そうなんだ……やっぱり先生は忙しいんだね」
そう言いつつ、ミカは内心盛大に喜ぶ。何の用事かは分からないが、そのお陰で先生に会えたのだ。詳細不明の用事に『よく分からないけどありがとう!』と思い……喜んでる場合じゃないと気持ちを切り替える。確かに会えたのは嬉しいが、肝心の彼は倒れていたのだから喜ぶのは違うだろう。
「それでちょっと体がしんどくなって路地で休んでたら、襲われちゃってね」
────瞬間、ミカの全身の温度が冷えた。血液も感情も、何もかも……聖園ミカを構成する凡ゆる全ての温度が失せるような感覚。掌の皮膚が裂けんばかりに拳を握り、立てた爪が産む痛みすら意識の外にある。瞳孔が開き、唇が交戦的に吊り上がり……質量を伴っていると錯覚するほどの感情が胸の内側で持ち上がった。久しく抱いていなかった感情。魔女に堕ちるような感覚。幻視する色は血のようなどす黒い赤色。
あぁ、これは────怒りだ。
「勿論、私には傷一つないよ。それに襲われたと言っても一発だけだし……」
彼の声や言葉ですら、まるで水中にいるかのように遠くに聞こえる。何もかもが遠い。自分の内側で膨張する怒り以外の全てが膜を隔てたかのように不鮮明だ。
確かに彼には傷一つないのだろう。身体の動かし方、息遣い、視線、声音。もし彼が怪我を負っていれば、そのどれかには違和感を抱く。ずっと彼を近くで見ていたミカだからこそ、そういった偽装の看破はお手の物だ。
だが、ミカから見てもそのような……近日中に怪我を負ったような様子はなかった。だから彼の言葉は真実であり、ミカの懸念は杞憂に終わる。襲撃は失敗し、彼は五体満足で此処に居る。ミカの怒りには大きな意味が無いのかもしれない。だって、彼は傷ついていないのだから。
でも────それで納得できるかと言われたら真っ向から否を返す。傷ついていないから大丈夫とか、丸く収まったから良いとか……全く以てふざけている。だって、誰かが悪意を持って彼を傷つけようとした事実は変えられない。言葉を尽くし、誠心誠意真っ向から向き合おうとしている彼に武器を向けた現実は確かにあるのだから。
「……誰に襲われたの、先生」
自分でも恐ろしいと思うほどに冷たい、平坦な声。アリウスに、サオリに憎悪を抱き殺そうとした時ですらもっと抑揚があった気がする。あの時は自分の中でのたうち回る大きなうねりに身を任せるように動いていたが……今は違う。今はその大きなうねりが凪いでいる。まるで静かな水面のように。
「……ミカ?」
瞳孔が開き切っているのにも関わらず刃物のように鋭い瞳。それに先生は膨張する太陽を見た。
「トリニティの生徒じゃないよね。トリニティの生徒が先生をトリニティの自治区で狙う訳ないもん。だから他の学校か、不良か、生徒以外だよね? ねぇ、誰か分かる? 先生」
言葉と共にミカの思考が巡る。
まず、トリニティ自治区でトリニティ生徒が凶行に及ぶ可能性は極めて低い。そんな事をすれば『捕まえてください』と言っているようなものだ。余程の自殺願望の持ち主でもない限り狙う訳ない。
そして、他の学校の生徒。候補として挙げたが、これも除外できる。トリニティ自治区でシャーレの先生を狙ったとなればトリニティは勿論、狙った生徒が所属している学校も黙ってはいられない。学校のプライドに掛けて全力で潰しに掛かるだろう。間違いなく狙った生徒は二度と太陽の下を歩けなくなる。
では、不良か……これも違う気がする。不良の中に自分の命を賭けれる人はごく少数であるし、他人の命を奪う気概を持つ人は更に少ない。そもそも、不良が足取りを掴まれやすい態々学園自治区で彼を狙う訳がない。狙うならブラックマーケット等の無法地帯だ。
最後、生徒以外の誰か。恐らくこれだ。相手としては先生を殺し、その責任を自治区に押し付ける算段だったのだろう。では、襲ったのは誰か。彼と関わり、彼を襲うに足る動機を持つ者……となれば、ミカは一人しか思い浮かばなかった。
────
恐らくアイツがアリウスを動かしたのだろう。スクワッドではなく、他の部隊を。アリウスとトリニティはカタコンベで繋がっている。襲撃準備も撤退も容易いだろう。彼が此処に来ることを何らかの手段で情報を入手し、張り込んでいた……そう考えれば自然だ。
ベアトリーチェが動かした部隊及び人数、手段、彼を狙った目的。今日の定期報告でサオリに伝えなければならない事が1つ増えた……と、そこまで考えて。
「えっと、ミカ……?」
困惑したような彼の顔が思っていたよりもすぐ近くにあった。あと少しで鼻の先が触れそうなほどの距離。瞳に映る自分自身すら見えてしまうほどの距離まで無意識に近寄っていたのだ。
そう認識した瞬間、ミカの顔は真っ赤になり眼を疑うような俊敏さで元の場所に戻っていった。
「ご、ごめんね! 近かったよね!?」
「いや、それはいいんだけど……」
「えーっと、どこまで聞いたんだっけ……あ、そうそう。誰がって所だったよね。多分先生も分かんないだろうから、それはいいよ。誰が先生を襲ったかは私が調べておくね。あと、正義実現委員会の子達にもパトロールの人員を増やすようにお願いしておくから、先生は安心してね!」
そう言って、赤い顔を誤魔化すように無理矢理話を閉じる。手で熱くなった顔をパタパタと仰いでいると、何が可笑しいのか彼はくすりと笑って……それに釣られてミカも笑った。
「まぁ、私の話はそんな感じ。色々と無理が募ってこの有様さ。情けないよ、本当に」
「────情けなくなんてないよ」
いつになく強いミカの言葉が聞こえたため先生は驚きと共に顔を上げると……真剣な顔をしたミカと目が合った。
「誰かのために頑張った先生を情けないなんて言う人は絶対いないよ」
「……ミカ」
彼は噛み締めるように、唄うように大切な二文字を口から零して、それから影の無い笑顔を浮かべる。ミカが好きだった笑顔。愛おしくて、大切で、大好きで。彼の、一番彼らしい表情。
「ありがとう、私のためにそう言ってくれて」
────あぁ、やっぱり好きだなぁ。