シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
感想評価お気に入り登録誤字報告に感謝です。ミカ編はこれにて一旦終了です。
先生が笑みを浮べて、ミカも釣られて笑って。その穏やかな時間が過ぎ去った後は沈黙が流れた。だが、その沈黙は気まずいものではなく心地の良い静寂。例えば、朝の太陽を浴びている時のような心地の良さ。音が無い事によって却ってリラックスできているような気がした。
窓の外で鳴る雨の音。段々と雨脚は弱くなっていて、恐らくあと少し……大体1時間から2時間程度で雨は上がるだろう。明日の天気は晴れだったから、この雨が上がればきっと曇天から光が差し込んで青空を見れるだろう。何もかもを包み呑み込む……彼のような宇宙色の青空が。
チクタクとなる時計の音。秒針を刻み、世界と時間を刻んでいく。2人の時間を世界に証として残すように。誰もが忘れても、自分だけは忘れないように。この意味と奇跡を思い出せるように。遺された誰かが一人ぼっちで泣かないように。いつか過ぎ去るこの時間を抱いて夜を超えられるように。
互いの呼吸音、息遣い。確かに生きている証。ミカの心臓は動いている。先生の心臓は動いている。あの時とは違う。小さくとも、弱くとも、この世界でちゃんと生きているのだと証明している。
ミカは流し目で彼を見ると、少し前と同じように彼は空を見ていた。本当に綺麗な眼だと、ミカは改めてそう思う。色とか形とかそういったものではなく、その眼の奥にある感情や想いが綺麗だった。
それをぼーっと、見惚れているように眺めていると彼は徐に口を開く。
「そろそろ雨脚もだいぶ弱まってきたかな」
耳朶を擽る心地の良い、愛しさがこみ上げるような声はミカが先ほど思った事と同じような言葉だった。雨脚は弱くなり、暗い空が晴れる時が刻一刻と近づいている。
「私はそろそろお暇させてもらうね。今日は色々とありがとう、ミカ。会えて嬉しかったよ。お礼はまた何処かのタイミングでさせてね」
恐らくこの程度の雨量ならば走れば大丈夫だと判断したのだろう。確かにこの場所はそれなりに駅が近く、バス停等の公共交通機関も充実している。全力で走らなくとも先生の足であれば10分程度で何方かには辿り着ける。
確かに彼の行動は正しい。この雨ならば傘が無くとも短時間ならばそこまで濡れないで済む。
確かに彼の言葉は正しい。先生が生徒の寮に長時間居座るのは好ましい事とは言えない。先生は言わずもがなミカもそれなりに有名人だ。万が一にもクロノス辺りの報道機関に写真を取られて、シャーレとミカの癒着を疑われたら目も当てられない。最悪、シャーレとトリニティが深い仲にあると思われれば確実にゲヘナは黙っていないだろう。エデン条約や和平がどうこうとか、そんな事は言っていられない事態になる。
エデン条約だけは確実に締結させたい。奔走しているナギサの為にも、虐げられ続けたサオリ達アリウスの為にも……皆が笑い合う風景が何より好きだった彼の為にも。
だから、此処で彼を見送るのが正解。それが良い子の条件だと、そう分かっているのに。
「……ミカ?」
立ち上がり、ミカの場所から去っていく彼。視界の隅で揺れた白い袖を親指と人差し指で掴んでしまった。彼が去る事を拒むように。
「……困らせたい訳じゃない、の」
ポツリと、雨音のように小さな声で紡がれた声。それは後悔の色を多く含み、贖罪のようにも思えた。罪深いと分かっていながら、こうしない方が良いと心の中ではちゃんと分かっていながら、だがこのまま行かせたくない。他ならない彼の為に。
「でも、先生はきっと無理してるから……休んでほしくて」
少し飲んだあのハーブティーはカフェインが含まれておらず、リラックス効果が期待されているものだった。隅にあったブランケットとクッションは睡眠に適しており、ソファを簡易的な寝具にするのには充分だろう。
休んでほしかった、その言葉に嘘偽りはないように思える。
「ううん、違う……もう少し一緒に居たくて……」
嫌われたくない。迷惑をかけたくない。先生の意志を尊重したい。道を阻みたくない。
休んでほしい。壊れてほしくない。無理をしないでほしい。笑って生きてほしい。
もっと、一緒にいたい。この時間を過ごしていたい。
「……」
ミカの行動は己を思ってのものだと、彼はちゃんと分かっている。彼女は善くない事だと分かっていて、それでも尚この身を想って引き留めてくれた。もう少し休んでほしい、もう少し一緒に居させてほしい、と。
分かっている。ミカにこの選択をさせたのは己だ。己が不用意にミカの前で隙を晒したからこそ今の状況がある。最後の一押しこそアリウス生徒の狙撃であったが、その一押しで決壊してしまうほどに追い込んでいたのは他ならぬ自分自身であるし、自分の脆弱さを甘く見ていたのも自分でしかない。
全て、全て、この身の責任。それをミカの所為にするつもりはない。怒る気も、責める気も皆無だ。感謝と好意こそあれど、嫌う事も迷惑に思う事はない。勿論、ミカの本音と建前も。休んでほしいという善意はとても嬉しいし、一緒に居たいと思う気持ちを否定したくない。
「……そっか」
だからこそ、迷惑をかけれないのは先生の方だった。このまま居ればミカや彼女が属するパテル分派やティーパーティー、ひいてはトリニティ総合学園に迷惑をかけてしまう。唯でさえ色々とバタバタしている今の時期、可能な限りミカやナギサ、セイアの悩みの種を増やしたくない。行動一つで彼女達の立場が危うくなってしまうかもしれないのだ。自分の所為で彼女達の生活を脅かしたくない。
「私も出来るならもう少しミカと一緒に居たいけど、これ以上はミカ達に迷惑をかけてしまうからね」
そう言って、彼はまるで硝子細工に触れるようにミカの手に触れる。自分の手よりも細くて、小さくて、暖かい手。込み上げる愛しさを呑み込み、刃物に転じたそれで自罰を刻む。これが罪だと、この痛みが自分の証明だと思って。
「心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫だから」
人差し指と親指。自身とミカを繋ぎ止めていた楔と鎖。それを解き、彼は自由になる。孤独になる。
────アロナはミカさんに賛成です。先生はお休みするべきです。
脳裡の中、アロナの声。怒っているだろうな、と思いつつ彼は自分の意見を曲げるつもりはない。自分は可能な限りこの場から早く去った方が良いはずだ。
────休むだけならここじゃなくてもいい。それこそ、シャーレの仮眠室でも使えばそれで済む話だよ。ミカにこれ以上迷惑は掛けれない。
別に此処じゃなくても休めるし、此処じゃなければならない理由もない。シャーレの仮眠室が使えない訳でもないから、そこで横になればいいだろう。それに、ミカには充分休息を貰っているため体は動かせるようになった。ここが潮時だ。
────絶対お休みせずお仕事するじゃないですか! アロナは知ってるんですからね!
信用が無いなと思いつつ、自分の言動の所為なので何も言い返す事ができない。仮にこのままシャーレに帰ったとしても仮眠室に行く事はなく、そのままデスクで溜まっている作業を進めるだろう。休憩室は兎も角、仮眠室なんて未だに使った事が無い。
元より、このまま手ぶらで帰るつもりはない。トリニティに来た目的は起動されたアヴェスターの調査と情報収集。起動者の殺害は不可能だろうが、最低でも起動者、目的、用途だけは把握しておきたい。打つ手を誤れば最悪キヴォトスが詰んでしまう可能性を孕む案件なのだ。生徒の為にも最大限情報を集め、準備と対策を行わなければならない。
だから行かないと────そう思った彼を引き留める手。手首を掴んだ色白の細い手は少しだけ震えていた。
……予想は、していた。
「ごめん、なさい……でもッ」
「……責める気も、怒る気もないよ。君をこうさせたのは、私だ」
自分を引き留めた手を包み込むように彼は掌を被せる。ミカが罪と思う事を諫めるように。或いは、彼女の罪と痛みを手渡しで受け取るように。
「だからそんな顔はしないで、ミカ」
「……うん」
この選択は罪深いと分かっている。生徒は全員愛しているし、誰もが特別だ。だからこそ、優劣は作らない。平等に、差が無いように。特定個人に肩入れし過ぎないように。愛する誰かを作らず、世界の未来と幸福に身を捧げる事こそが先生であるための必要条件だった。
でも、それでも……この手を振り解く気にはなれなかった。彼女を悲しませたくなかった。彼女の悲しむ顔を見たくなかった。この感情に、もういない
あぁ、分かっている。これは所詮独善であり自己満足。畢竟、自分を苛む現実を見たくないという傲慢さ。こんな事をしても何にもならないのは知っている。悪戯に罪を重ねて、殺したくなる自分を無意味に増やすだけだと……分かっている。
でも、この罪で誰かの涙を拭えるなら。ミカが笑えるなら。
この選択に不思議と後悔はなかった。
「……そうだね、もう少し一緒に居ようか」
この雨が止むまであと1時間。今回一回限り、この一時間だけ、先生は『ミカの先生』になる事にした。
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先生は明るさを最低限まで落としたシッテムの箱をタップし、スクロールする。画面に映るのはシャーレの業務……ではなく、何の変哲もないキヴォトスのニュース。日毎に更新される、騒がしくも楽しい日常を切り取ったもの達。
D.U.自治区に新感覚スイーツの店舗が進出、連日行列で賑わっているらしい。覚えていたら放課後スイーツ部の皆に話を聞いてみるのも一興だろうか。流行に目ざとい彼女達ならば、もしかしたら既に口に運んでいるかもしれない。
それ以外にもミレニアムの新技術の特許だとか、企業と学校の会談で合意が結ばれたとか、晄輪大祭に関するものだとか。そういった取り留めのない日々たちが文字になり、皆の元に晒され、日常の一部に組み込まれる。世界は日毎に更新しているのだと、これを見れば明確に分かるだろう。少しずつ、だが着実に。善い方向に向かおうとしている。皆は頑張って生きている。このキヴォトスという世界で。
だが、キヴォトスの日常はそんな暖かい日常ばかりではない。光が在れば影もあり、穏やかでないニュースも当然流れてくる。
銃火器や戦車の不正取引、裏金、詐欺、美術品の盗難、薬害、マフィアの抗争、ハッキングで個人情報が抜かれたとか。およそ日常的とは言いたくないような出来事。銃や暴力のハードルがかなり低いキヴォトスならではのニュースを流し見していると……目に留まるものがあった。
「ヴァルキューレの子達が、か……」
先生はスクロールする指を止めて見出しをタップするとリンク先に飛ばされる。びっしりと書かれた文字列を一文字一文字頭に叩き込みながら、内容を咀嚼して脳内で整理する。
どうやら先日未明、ヴァルキューレ警察学校の生徒が倒れていたらしい。
発見場所はゲヘナ自治区の郊外、人通りが少ない路地。
発見者は地域住民であり、ランニングの最中に発見し通報したようだ。
倒れていた生徒は近辺の駐屯地に所属している子。幸い怪我自体は大した事はなく意識ははっきりしていて、本人はパトロール中に襲われたと証言している。
犯人は現段階では不明。加えて、今月だけでも同様のケースの事件が4件発生しているため同一人物の犯行によるものと推定。ヴァルキューレ警察学校を狙った悪質な事件として、一刻も早い犯人逮捕が望まれている。
────実行犯の狙いは何だ?
思考の深度を深める。先生は、この事件が単なる憂さ晴らし……ヴァルキューレ警察学校に恨みを持っていたから行われたものだとは到底思えなかった。確実に恨み辛みではなく、何らか他の動機がある。
だが、如何せん情報が少ない。これや、これに関連するニュースは意図的に情報が削ぎ落されている。恐らく地域市民を不安にさせない為だろう。
「……カンナに相談しないと」
ヴァルキューレ警察学校、公安局の局長……尾刃カンナ。彼女ならばもう少し踏み込んだ事情を知っているだろうと思い、彼女との面会をToDoリストに加えておく。
それ以外には目に留まる様なニュースはなく、1分も経たないうちに最下段までスクロールし終えた先生はシッテムの箱をスリープモードにしておく。アロナもきっと休みたいだろう。こんな時にまで自分に付き合わせたくはない。
画面が暗転したシッテムの箱をローテーブルの上に置き、少しだけ背凭れに体重を掛ける。タブレットを操作するのに邪魔だったため跳ね除けていたブランケットを整え、左肩に在る温もりに目を向ける。
「……」
先生の肩に頭を乗せ、体重も彼に預けているミカ。ブランケットの下では彼の左腕を大切そうに両手で抱いている。
穏やかな寝息を立てている彼女を見ると毒気が抜かれてしまい、振り解く気にもなれないからそのまま彼女にされるがまま。この体勢になって早20分ほど、雨上がりまで残り30分。それまで先生は動かない。この穏やかな時間を噛み締める事にした。
それにしても────休んでほしいと言っていた彼女が先に寝てしまっているのがちょっとだけ可笑しかった。或いは、彼女らしいとも。彼女もきっと疲れていたのだろう。出会う前に彼女が何をしていたのかを先生は知らないが、会った後は知っている。雨の中運んでくれたり、休ませるためにあれこれと準備をしてくれたり。
そうすれば当然疲労は溜まる。日々の小さな疲労も合わさった影響か、ブランケットに包まって目を閉じれば10分程度で彼女は夢の中へと行ってしまった。
本当に休むべきはどちらだったのやら、なんて思いながら先生はミカの寝顔を眺める。桜のような髪色も相まって、その顔は眠った春のよう。絵本の中から童話の姫君がそのまま出てきたような。
……何度も見た顔。隣で、前で、後ろで。顔を合わせるたびに花が咲いたように笑ってくれた彼女はまるで星のよう。彼女の笑顔に何度救われただろうか。
────この身は彼女を救えなかったのに。
「……」
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。夕凪を穿つようなあの笑顔が。遠ざかっていくあの背中が。澄み切った金色の瞳が痛い。死んでしまいたくなるほどに、痛い。
せり上がった胃液を飲み干し、ガンガンとなる頭痛を捩じ伏せて、軋む心臓を握り潰す。息を吐く様に嘘を吐いて、多くを傷つけた己に対する当然の報い。誰かの為と嘯きながら、ミカに寄り添わなかった己が嫌いで仕方ない。
「はぁ……」
溜息を吐いて空いている腕で目を覆う。でも、頭上の光は透くから景色は網膜に焼き付いたまま。脳内でリフレインする記憶は砂糖色のアルカロイド。光化学スモッグのようにゆっくりと、だが着実に死に近づける。
────
────愛した何かを失い苦しむミカを、もう二度と見たくなかったんだよ。
「……最低だ、私は」
その言葉を最後に、先生は瞼を静かに下す。ずっと抱えていた後悔と痛みと共に、帳の深くまで潜るために。
▼
貴方の夢を見ていた。子どものように笑い、生きている夢だった。生徒の隣に座り、生徒の話に耳を傾け、共に笑っている光景。自分もこんな風に彼と過ごした。それは決して色褪せない大切な思い出。何度も思い出せるように、大切に仕舞っている。
彼が望んだもの。
彼に終ぞ与えられなかったもの。
彼が奪われ続けたもの。
彼が誰かに与えようとしたもの。
眼を開けると、白んでぼやけた視界。次第にピントが合っていき、はっきりと部屋の景色を映し出す。彼の為に準備していたブランケットは自分に掛けられていて、腕には何かを抱きしめている感触。右耳と頬には暖かな感触。すぐ隣に先生が居た。
驚き半分、恥ずかしさ半分、アクセントに嬉しさを一摘み。三つの感情を音にならないように飲み干して、そっと彼の顔を覗き込んだ。
「……」
数刻前と似ている状況であるが、ミカの胸を埋め尽くす感情は心配ではなく愛おしさ。睫毛に縁どられた瞳は閉じ、唇からは小さな吐息。身動ぎ一つすらせずに意識を脳の底に沈めている。起きていたらどうしよう、と思っていたが……杞憂に終わって良かった。彼は休んでくれている。誰の前でも、どんな時でも走り続けた先生が羽を休めてくれていることが嬉しくて、自分がその宿り木になれていることはもっと嬉しい。
────だけど、その寝顔は少しだけ悲しそうで、寂しそうで。決して拭えない孤独の海に身を沈めているように見えてしまった。
分かっている。ミカでは、生徒では、キヴォトスの生命では彼の隣に立てない。彼とは根本的に作りが異なるから、彼の孤独は決して消えない。
それが世界の当然の理……
「私はここだよ、先生」
ミカは彼をそっと抱き締める。彼は孤独なんかじゃない。彼が残した世界はちゃんと形を変えて今も生きている。彼が生き抜き、守り抜いた世界はちゃんとまだ息をしているのだから。この、胸の中で。
「私はずっと先生の傍に居るよ」
いつか、全ての夜を超えて。全ての過去を超えて、皆が目指した地平に辿り着けるかもしれないけれど……それはきっと遠い未来の話だから。
今は唯、この胸の中で貴方を暖めたい。貴方が残した思い出の残滓で、貴方が安らげるように。
▼
「本当に良いの? シャーレまで送ってくよ?」
「気持ちだけで充分だよ。久しぶりに長時間休んだから調子も良くなったし、1人でも大丈夫」
長居し過ぎたけど、と笑う彼に釣られてミカも笑ってしまう。一時間限定のはずだったのに2人揃って盛大に寝過ごしてしまい、今の時刻は19時前。雨は上がり、ペトリコールの香りが漂う。藍の空の西側に太陽、もう直ぐ日の入りだった。
朗らかに笑う彼は確かに顔色や血色が良くなっていて、『調子も良くなった』という言葉に嘘偽りは見られない。
「改めて今日はありがとう。ミカのおかげで助かったよ」
「全然いいよ! 私と先生の仲だからねっ☆」
その言葉を冗談として受け取ったのか、彼は苦笑い。尤も、ミカとしては冗談のつもりなんて欠片もなかったが。
「またね、ミカ。次会う時は今日のお礼をさせてね」
そう言い、背を向ける彼。何度も見た背中。誰よりも弱いのに、誰よりも前に立っていた彼の背、何度も守られたあの姿を見て────思わず「待って!」と声を掛けてしまう。疑問符と共に振り返る彼は『どうしたの?』と言外に言っていて。
言いたいこと、伝えたいこと。言うべきじゃないこと、伝えるべきじゃないこと。沢山あるけど、上手く纏まらなくて。だから口を衝いて出たのは本当に突拍子もない、笑われてしまうような拙い言葉。
「先生が悲しむくらいならこんな世界、3秒で壊してあげるからッ。だから────ッ」
だから、どうか。その祈りは彼に届いたようで……浮べた苦笑いの奥、少しだけ頬を緩めていた。初めて見る安堵に似た顔に思わず見とれていると。
「今度はゆっくりとお茶でもしようか。ミカの話を沢山聞かせてね」
そう言って、彼は今度こそ背を向ける。これで今日はお別れだけど、きっと次があるから。だから去り際に言う言葉は決まっている。
「またね、ミカ」
「うん! またね、先生!」
大きく手を振り、見送るミカに対して控えめに手を振る彼はトリニティの街の中に消えていく。背中が見えなくなるまで見送った後、ミカはこれから終わる今日に思いを馳せる。
先生と共に過ごした今日という日。細やかな日々の営み。彼が大切にしたもの。彼が奪われたもの。彼が持てなかったもの。
共に過ごした時間を記憶として脳の最も奥深く、誰も触れられないような深層にゆっくりと大切に記していく。まるで文字を綴るように、針で糸を縫うように。
────彼の最終的な目的をミカは知っている。それはキヴォトスの
茨の道である事は分かっている。これは世界に対する挑戦であり、神への反逆であり、己が神秘への宣戦布告。でも、彼ならばきっと成せると信じている。
だから心配こそすれど、その道を決して否定しない。彼には彼のまま、その心のままに進んでほしい。
「────また会いたいな、先生」
吐き出したミカの吐息は、抱きしめた彼の熱を持っていた。