シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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窓の外から差し込む朝日が大層美しく見えたから、漠然と今日も良い日になると思った。空は宇宙を写したような、吸い込まれる色彩を呈していて、太陽もその日差しを段々と強めている。爽やかな風には青さが多く含まれていて、夏の足音がすぐそこまで迫っている事を感じ……外に出て、胸いっぱいに空気を吸い込んだ後、店主は店の前の看板をOpenへと切り替えた。
此処はキヴォトスの中心地たるD.U.地区、シラトリ区……その、外れ。何方かと言うと郊外に近い、都会の喧騒からは少々遠のいた場所。閑静な住宅街が広がる住みやすい街の大通りから一本奥に進んだ地に入口を構えるこの店は、知る人ぞ知る隠れ家だった。故に客足は然程多くない。一日の来客数なんて両手で数えられる程が大半で、0や1なのも大して珍しくなかった。
尤も、店主……マスターにとってはその方が都合が良かった。元より引退後の道楽として始めた店、大勢の客が押しかけても困ってしまうだけ。それに、老いには勝てないのだ。体力的にも精神的にも、気楽に始められて気楽に終われる今くらいの温度が心地よい。
「……」
チクタクと時を刻む音。遠く聞こえる木々の騒めき。それをバックミュージックに、マスターは新聞を捲る。何でもかんでもディジタル化、オルタナティブ化が進む昨今、こうやって態々紙面を取り寄せて読む己はきっと奇特だろうが、身に付いた習慣は中々変えられないもので。別に電子機器の扱いが苦手だったり嫌いだったりする訳ではないが、新聞を読むなら紙の方が好きなだけだ。
そして、次のページを見ようと紙を捲ろうとしたタイミングで────不意に、ドアの開く音が聞こえた。ワンテンポ遅れて、入店を知らせるチャイムが響く。アレもそろそろ買い替え時だな、なんて思いながらマスターは紙面を置いた。
「いらっしゃい、1人かね? 席はお好きな所へ」
「はい。お邪魔させていただきます」
来店した彼は嫋やかな笑みを浮べながら、優雅な所作で足を運び、マスターの近く……カウンター席へ腰かけた。気取っていない美しさと自然体そのものの姿。銃と弾丸が飛び交うこの場所にこんな人物がいてもいいのかと思ってしまうほど、その姿は争いから離れている。
「注文は?」
「ホットのブレンドコーヒーを」
オーダーを取ったマスターは彼に背を向け、賑やかし目的のテレビをつけてからコーヒーを淹れる作業に取り掛かる。
予め沸かしておいたお湯でドリッパーとサーバー、コーヒーカップを温め、ミルで豆を挽く。粉末状になった豆をフィルターがセットされたドリッパーに入れて、粉末の中心に細くお湯を注ぐ。30秒ほど蒸らした後、『の』の字を描くようにお湯を回し入れて抽出を開始する。十分な量が抽出されたのを確認し、温めておいたコーヒーカップに注げば特性のコーヒーの完成だ。
「
「ありがとうございます。頂きます」
彼は人好きのする笑みを浮べて軽く頭を下げて、カップに口づける。鼻を抜けるコーヒーの落ち着く香りを楽しみながら、一口含むと調和の取れた格式高い味が広がった。
「気に入ってくれたかい?」
「はい……とても美味しいです。私も時折淹れますが、ここまで上手に淹れる事はできません」
「そりゃそうさ。店を構える前から趣味でやってたことだからな。淹れてきた数が違う」
マスターはロッキングチェアに腰掛け、眼前の彼を見る。第一ボタンを外した白のシャツと、胸ポケットに入った何かのIC。細身のスラックスと革靴はどちらも黒色。少しかっちりしているが、不思議と良く似合っている。
「この辺りじゃ見かけない顔だな。何処から来たんだい?」
「D.U.の中心からです」
「見かけない訳だ。仕事か何かい?」
「いえ。ただの息抜きです。休みを取れと色々な方に口酸っぱく言われて」
「そうかい……確かに、都心じゃ体は休まっても心は休まらんだろう。あの場に居ると急かされているような気分になる。急いで生きろ、立ち止まるな、休むなって具合にな。年は取りたくないものだよ、全く」
言い、手の甲で腰を軽く叩く。体に圧し掛かる重力が今は恨めしい。これがもう少し軽ければ、腰を痛めずに済んだのかもと……意味のない感傷。
「昔は人並に都会に憧れはあったが、今はそうでもない。今はこうして世捨て人みたいに趣味の店を回しているのが心地が良い。そうすれば、お前さんみたいな客に会えるからな」
「……恐縮です」
マスターは無言で煙管を彼に見せると、その意図を察した彼は緩やかに微笑んだ。ふぅ、と煙が宙を舞う。マーブルを描いて空に溶けて、独特の香りが店内に漂う。先ほどつけたテレビからはクロノススクールの報道が流れている。内容は、エデン条約。
「……エデン条約」
「最近は何処もこの話でもちきりさ。学校同士の関係が最悪に近いゲヘナとトリニティ、それが手を取り合おうとしてるんだ。昔を知る奴なら誰だって驚く」
規律、伝統を重んじるトリニティ。自由、混沌を謳歌するゲヘナ。致命的なまでの校風の違いはやがて嫌悪になる。トリニティの生徒だから嫌い、ゲヘナの生徒だから嫌い……その嫌悪は一般生徒にまで及び、その関係性は最悪と呼ぶに相応しいものになった。トリニティ自治区でゲヘナの生徒が歩けば正義実現委員会に通報される、ゲヘナ自治区でトリニティの生徒が歩けば銃撃される……といった具合に。
冷え切った関係ではなく、今も尚燃える嫌悪の関係。声高に『お前が嫌い』と叫びながら、互いの喉元に銃口を突きつけ合う。長い歴史を持つこの関係性が数世紀の時を経て変化しようとしているのだ。その注目度は非常に高く、与える影響範囲は計り知れない。
「尤も、今更やるのかって疑問はあるがね。和平を結ぶには血が流れ過ぎた、手を取り合うには溝が深くなり過ぎた。そんな状態で楽園を目指しても地獄に真っ逆さまかもしれんのに」
「……今だからこそ、でしょうね」
青年はカップを握り、悔いるように。
「憎悪も嫌悪も行き過ぎてしまえば、『互いの生存が認められない』と叫ぶ絶滅に至ります。そうなってしまえば全て遅い。だからそうなる前に手を取り合うべきです。幸い、今のゲヘナの首脳陣とトリニティの首脳陣は争いを望まない穏健派が多いですから。きっと、手を取り合えます」
「それでは過去の流血を無意味にしてしまうんじゃないか? お前さんは未来を見すぎて、今や過去を蔑ろにしているきらいがある。それを悪いとは言わんし、儂も正しいと思うが……あんたの言葉に納得しない奴もいるだろう」
「えぇ、これまで流れた血を無意味にしない為にも、と叫ぶ誰かの気持ちも分かります。自身の大切な人を傷つけた、或いは奪った者と仲良くするなんて無理だと叫ぶ気持ちも、分かります。
流血を無意味にしないために。此処で散った嘆きを忘れないために。そうして戦い続けて、憎み合って、死の数を競い合って、否定して……それで何になるのだろうか。そうして生まれるのは新たな呪いと流血、戦場だけ。それでは何も変わらない。新たな嘆きを悪戯に増やし、最後には何も残らないのだから。
人々は死を増やしたいから戦った訳じゃない。戦った先に幸福があると信じたからその手に銃を取ったのだ。そうした誰かの為にも、争いはこれで終わりにしなければ。憎み合い、血で汚れた荒野にも花が咲く事を証明しなければ。
────そうでなければ、散って逝った命達が救われない。
「青いな、あんたは」
「えぇ……この青さを忘れないからこそ、私は此処まで歩んでこれたのですから」
その返答が気に入ったのか、マスターは己の記憶……そこに刻まれた話をすることにした。ほんの気まぐれであり、特に深い意味はない。彼の青さがこの嘆きたちにどんな答えを出すのか気になってしまった。彼ならば救えるのではないかと、思った。思ってしまった。
「お前さんはトリニティ総合学園の歴史に明るいかい?」
「人並には知っていますが……それがどうかされました?」
「いや、これから話す事がトリニティに関係する事だから聞いただけさ」
そう言い、マスターはコーヒーを飲み干して再び口を開く。
「アリウス分派を知っているかい?」
「……えぇ、知っています」
「そうかい、なら話は早い。そうさな……儂等の世代は、爺さん婆さんから昔の惨状を聞かされて育っておる。そりゃ、酷いものだったよ。特に、第一回公会議後の……アリウス分派への弾圧は、震え上がるほど恐ろしかった」
座る彼は真剣な表情、或いは痛みを堪えるような表情で話を聞いている。
「とは言っても、今は知っている人間の方が少ないと思うがね。トリニティでも知らん生徒さんが大半だろうし、知っているとしたらそれこそティーパーティーの御仁か、シスターフッドの方くらいしかおらんだろう。人は移ろいやすく、忘れる生き物だ。過去の悲劇も憎悪も、伝承者が途絶えれば直ぐに風化する。無論、それも悪い事ばかりじゃない。だが────」
「決して忘れてはいけない事もある」
「その通りさ」
吐き出された煙が吸い込まれて、空中にマーブル模様を描く。
「分派が連合を組むことに反対した、それだけで武力制圧の対象になったのさ。昔の事だ、何方が先に手を出したかは分からない。だが、それでも多数派が少数派を徹底的に嬲り殺しにしたのは変えられない事実だ」
「……」
「少しでもアリウス派を庇う姿勢を見せると肝を抜かれたらしい。匿ったら見せしめに火炙りにされたらしい。尤も、どこまでが本当なのかは分からない。だが、そんな話が弾圧の数世紀後に生まれた儂等に語り継がれるくらいには酷いものだった」
どう考えても休みを楽しみに来た彼に伝えるべき話ではないだろう。聞いているだけで気が滅入りそうな、昏く辛い話……だが、それでも彼には不思議と伝えなければならない事だと感じてしまった。
「迫害され、追い詰められ、何もかもを奪われたアリウス分派が最終的にどうなったのかは記録には残っていない。ユスティナ聖徒会……シスターフッドの前身に匿われて地下に逃がされただの、逆にユスティナ聖徒会が皆殺しにしただの、或いはキヴォトスの外に行っただの、眉唾物の話が残っている程度さ。だけど、重要なのはそこじゃない」
「マジョリティがマイノリティを徹底的に弾圧した行為そのもの……或いは、マイノリティが弾圧の果てに表舞台から姿を消してしまった事」
異端と見做されたこと。大多数と違う何かと扱われたこと。大多数の利益にならないと判断されたこと。大多数の共通の敵とされてしまったこと。
その果てに、徹底的と呼べるほどに弾圧されてしまった。最終的には表舞台に居られなくなってしまい、姿を消してしまった。
────単純に悲劇と呼ぶにはあまりにも、その嘆きと痛みは大きかった。
「だが……連合を組む動きも、それを阻害する動きも、元は善意から始まっている事だ」
「善意……か」
「あぁ、両方とも自分達の集団をより良くしたいという善意から生まれた。いい生活をしたいとか、そういった普遍的な願いさ」
「だけど、それが交わらなかったから争いが生まれた」
「そして、その果てが徹底的な弾圧だ。より良い明日を求める気持ちが、誰かの明日を踏み躙ったのさ」
「……救われませんね」
彼は酷く痛ましい表情を浮かべる。それは遠くの誰かの痛みに共感しているような、或いは大切な人の痛みに寄り添っているような……不思議な色を持っていた。
それを見て、マスターは確信する。彼こそが救世主であると。痛みに愛され、苦しみに愛され、他者の痛みと苦しみを背負いながら、運命の時まで生きる者……この閉じた箱庭に変革の鐘を鳴らす、皆から望まれた者だ。
────その時、不意に入店のベルが鳴る。マスターは彼との歓談を切り上げ、店の主としての顔になった。
「今日は新しいお客さんが2人もいらっしゃったな……1人かい? 席はお好きな所に」
店に入って来たのはヴァルキューレ警察学校の制服を纏った少女。制服を纏っている事から学生の身分である事は分かるのだが、その立ち振る舞いや雰囲気は学生のそれではなく、非常に落ち着いていて気品がある。場慣れしている、と言うべきか。
少女は会釈をし、真っ直ぐとカウンターに向かって来る。座る場所は彼の隣。椅子を引き腰を掛けると、彼は少女の方へ振り向き微笑んで。
「久しぶり、カンナ」
尾刃カンナ。ヴァルキューレ警察学校の生徒にして対テロ部門である公安局の局長。このキヴォトスではそれなりの有名人で、『狂犬』と呼ばれ恐れられている。非常に厳格かつ、自身の正義に真っ直ぐな在り方は眩しくて……思わず目を細めてしまいたくなった。
「ご無沙汰しております、先生。お身体は大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ」
先生と呼ばれた彼はにこやかに微笑みながらメニュー表を差し出す。『私の奢りね』と言外に言う彼にカンナは遠慮しようと思ったが、こうなった彼は多分どうにもできないため甘んじて受け入れる事にした。カンナはメニュー表に視線を滑らせ、コーヒー一つを注文した後……意図的に声量を落として彼の耳に口を近づけた。
「先生、この後時間はありますか? 耳に入れておきたい情報が幾つか」
「勿論、私もカンナに聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと、ですか」
「多分だけど、カンナが私に話したいことと関係してると思うよ」
思考の先読みをされたカンナは「やはり、敵いませんね」と苦笑いを浮べて。
「では、詳しい話は後ほど」
それまではゆっくりと時間を過ごす事にした。
▼
コーヒーを飲み終わり、会計も済ませた2人はタクシーを捕まえる。向かう先はヴァルキューレ警察学校の本部、カンナの仕事場。
スモーク張りの防弾ガラス、ブラインドで目隠しされた窓、盗聴対策も完備された部屋。先生は自身のスマホの表示が圏外になっている事を確認し、電源を落とす。
「最近発生しているヴァルキューレ警察学校の生徒を狙った襲撃事件をご存知でしょうか?」
「勿論。今月だけでも同様の手口の事件が数件発生しているのも、ね」
「えぇ、
「進展が芳しくないんだね」
先生の言葉にカンナは「はい」と返す。やはり、歯痒いのだろう。同じ学校の生徒……同僚、同期、後輩が何人も襲われているというのに、犯人の逮捕どころか足取りすら掴めない現状が。
「犯行には何が使われたか分かるかい?」
「正確には分かっていませんが、首に圧迫された痕があったため絞められたものだと」
「銃とかではないのか。圧迫痕に指紋とかは……」
「残っていないですね。恐らく素手ではなくロープなどを使ったものだと我々は推察しています」
ファイルの中から取り出した写真は被害者の首をアップに写されたもので、そこには確かに何らかで絞められた痕があった。カンナの言う通り、その痕は手ではなく別の……それこそロープのようなものが使用されたと分かる。
凶器に銃を使わないのは珍しい。というよりも生徒が日常的に携帯している物の中で被害を与える事ができるのは銃程度しかなく、それ以外となれば何らかの目的が無ければ鞄の中に入れる事はないだろう。
つまりこの犯行は計画的なもの。分かっていたが、やはり犯人は明確な目的や動機があってヴァルキューレの生徒を襲ったのだろう。
これまで与えられた情報。まだ分かっていない未知数の情報。それらを統合し、犯人の目的を探るために思考を回していると「先生」と呼ぶ声が聞こえた。
「此処から先はヴァルキューレの中でもごく限られた者しか知らない話です。なので他言無用でお願いします」
その言葉に静かに、されど強く頷くとカンナは口を開く。
「被害者ですが……恐らく血を抜かれています」
「……血を?」
────きな臭くなってきた。
「首以外にも腕に圧迫痕があり、その下に針で刺された痕があります。恐らく意識を落とした後に血液を抜いたものだと」
「それは全員? それとも……」
「これまで発生した18件全てで、です」
「……」
血は何かと結び付けられる傾向にある。その最たる例はワインだろう。救世主の血は葡萄酒とされ、それを呑む事が新しい契約を受け入れる事を意味するようになった。
或いは、魔術的な意味か。魔術に於いて体液はその人物を表し、儀式に使う道具とされ、血はその中でも最もポピュラーなものだった。血と血の交わり、血で印を記す。呪い。
何の理由もなく血を抜いただけとは思わない。必ず何かに使うために抜いた。何のために? それは不明だが……どう考えても穏やかなものではないだろう。
「血を抜かれた理由は不明です。抜かれた量自体も多くはないので、失血死を狙った訳でもないでしょう。であれば他の理由、血を抜かなければならない何かがあったと考えるのが妥当ですが……考えれば考えるだけ相手の動機が読めず、却って不気味です」
「そうだね……間違いなく何かはある。だけど、その何かが不明だ。警戒しなきゃいけないのは確かだが、そもそも何に警戒するべきかが分からない。今やれるのは再発防止くらいか……何か対策は?」
「単独行動の禁止、ツーマンセルの徹底、外出中はトランシーバーで所属支部とリアルタイムで通信を行い位置情報を共有する……現状はこの程度を」
「流石だね。今打てる手としてはそれがベストだ」
カンナは「本当は監視カメラの設置もしたいですが、予算の問題もあるので」とため息交じりでそう言う。やはり予算には誰もが苦しめられるものなのだな、なんて思い……先生は渡されたファイルを閉じた。
「ありがとう、この件は私の方でも調べておくよ。何か分かったらまた連絡するね」
「ご協力感謝します、先生」
敬礼するカンナに合わせるような形で敬礼すると、それがあまり似合っていなかったのか、それとも不格好だったのかカンナに笑われてしまい……先生も釣られて笑ってしまった。