シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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第一の落陽、楽園の証明

「……つまるところ、エデン条約というのは、『憎み合うのはもう止めよう』という条約だ」

 

 吟遊詩人が琴を奏でるが如く、少女は言葉を音にする。そこに在るのは歴然たる真実であり、少女の存在そのもの。

 

 風が吹く。髪が靡く。ティーカップに注がれた紅茶の水面が揺れる。

 

 トリニティ総合学園、最奥。トリニティの中でも限られた生徒……ティーパーティーの3名と、その補佐官しか足を踏み入れる事ができない場所が此処だった。トリニティの庭を一望できる広大なテラスにぽつんと置かれてる長机にはその短辺に一人ずつ座っている。

 

 片方はトリニティの真白い制服を身に纏う、大きな耳と明るい色の長い髪が特徴的な……神秘をヴェールに纏う少女。片方は連邦生徒会の真白い指定服とコート、蜃気楼のように実在と非実在の境界が曖昧な青年。

 

 少女は長い袖に隠れた細く小さな指先でティーカップを持ち、香りを楽しむ。その肩には彼女のペットであるシマエナガが降り立ち、羽休め。優雅な午後と銘打って絵画にでもなりそうな風景だったが、今の時間帯は深夜に近い。天に浮かぶヘイローは昼間よりもその存在を確かにして、天幕に浮かぶ星は過去の輝きを放つ。テラスから一望できるトリニティには人影一つなく、木々の騒めきと常夜灯だけ。青年はその景色を瞳に映している。少女が作り出した夢の世界を。

 

 ────そう、これは夢だ。少女の神秘が作り出した夢。限りなく現実に近い、大脳皮質の生み出した虚空の世界。救世主の受胎を聖母に告げた天使の神秘を色濃く引き継いでいる少女だからこそ、ここまでリアリティのある夢をある程度意図的に作り出す事ができた。しかも、双方の意識が『これは夢である』と認識している明晰夢の状態。誰にも邪魔されない微睡、夢と現の狭間で揺蕩っている。

 

「トリニティとゲヘナの間で長きに渡って存在してきた、確執にも近い敵対関係。それに終止符を打たんとするもの」

 

 青年と少女の距離は離れている。長机の長辺、約7m弱。にも拘らず、少女の囁くような声は青年の耳に確かに届いていた。明瞭に、鮮明に、万一の聞き間違えすら起こらないほどに。そして、少女の耳にも青年の息遣いや布の擦れる音は届いている。自身の律動の全てが手を伸ばしても届かない距離にいる向かいの相手に知られている特異なシチュエーション。夢の主たる少女は口を開く。

 

「互いが互いを信じられないが故に、久遠に蓄積していくしかなかった憎悪。いずれ臨界を迎え、メルトダウンを起こすしかなかったそれを解消するため、新たに信頼を築き始めようとするプロセス」

 

 少女の言葉はまるで名著を音読しているかのような心地だった。言葉がそれ自体に意志を持って弾んでいるような錯覚。だが、所詮は錯覚。言葉自体に意志はない。いつだって意志を持つのは言葉を発する喉、その奥にある心と云う不明瞭な器官だけ。故に、この言葉は少女の意志だった。

 

「聡明な貴方なら既に解を得ているだろうが……より簡単に言おうか、つまりはゲヘナとトリニティの和平条約だ」

 

 その言葉を合図に、風が吹く。柔らかなそよ風。不穏な澱みや汚れ、見えないだけで空気の下の方に沈殿していた灰暗い何かを根こそぎ奪い去っていくような冷たさ。世界の吐息は容赦なく体温を奪っていく。

 

「ただ、連邦生徒会長の失踪を切欠に、この条約は何の意味も持たなくなってしまった」

 

 静まり返る世界に陶器同士の鳴らす音は響く。夜空に溶けるように吸い込まれた音色は朝を告げるようだが、太陽は昇らない。夜の帳は降りたまま。

 

「エデン……それは太古の経典に出てくる楽園の名。そこにどんな意味を込めていたのかは分からないけれど、まあ連邦生徒会長のいつもの悪趣味だろうね」

 

 その言葉に思う所があったのか、青年はその表情を僅かに翳らせる。ほんの僅か、近くで見ても気付かないほどに些細な変化。だが、この夢の主たる少女には筒抜けだった。

 

「……気を悪くしたら済まない。だが、私の知っている連邦生徒会長はそのような人物だった、というだけさ。貴方には貴方の知る連邦生徒会長が居て、私には私の知る連邦生徒会長が居る。何方も本物で、異なる一面を見ているに過ぎない」

 

 少女は「話が逸れてしまったね」と軌道修正をかけて。

 

「────キヴォトスの、『七つの古則』は御存知かい? その五つ目は、正に楽園に関する質問だったね」

 

 キヴォトスの七つの古則。それを知る人物は驚く程に少ない。歴史に通じている者や、文化に通じている者。そのような人々のみが、この言葉を知る。だが、これは知るだけでは大きな意味を持たない。そこから更に一歩踏み込んだ場所……キヴォトスの真実に辿り着いた者が、この古則が示す真実と意味を掴み取る事ができる。

 

「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」

 

 予知夢によりキヴォトス創世の記憶を持つ少女。

 独力でキヴォトスの真実に辿り着いた結果、ヒトではなくなった青年。

 

 この世界の最奥に最も近い、少女の声と青年の声が重なった。

 

「他の古則もまたそうであるように、これもまた少々理解に困る言葉の羅列だ。ただ、一つの解釈としては、これを『楽園の存在証明に対するパラドックス』であると見る事ができる」

 

 それが、彼女が見出した古則。言葉を噛み砕き、構築し、己の世界を見た。パラドックス。正しく思える前提、妥当に思える推論、そこから導き出される受け入れがたい結論。

 

「もし楽園と言うものが存在するならば、そこに辿り着いた者は、至上の満足と喜びを抱くが故に、永遠に楽園の外に出る事はない。そして、楽園の外に出たのであれば、つまりそこは真の悦楽を得られるような『本当の楽園』ではなかったという事だ。であるならば、楽園に到達した者が、楽園の外で観測される事はない。存在を捕捉されうるはずがない」

 

 故に、この古則の本質は。

 

「────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 2人の声が再び重なった。

 

「つまるところ……この五つ目の古則は、初めから証明する事ができない事に関する『不可解な問い』なのだよ」

 

 古則と銘打ち、楽園の名を出し、後世に残した七つの問い……その五つ目。それの解が『初めから無い』なんて興覚めにも程があろう。だが、彼女は「しかし」と逆説的に言葉を綴る。

 

「ここで同時に思う事がある。証明できない事実は無価値だろうか? この冷笑にも近い文章を通じて、何か真に問いたいことがあるのではないだろうか?」

 

 少女と青年は、更に一歩を踏み込む。この古則の真実に。

 

「エデン……経典に出てくる楽園(パラダイス)。何処にも存在せず、探す事も能わぬ場所。夢想家達が描く、甘い甘い虚像」

 

 人類の始祖が確かに居た場所、まだ神の御許に居る事を許された時代。しかし、蛇に唆されて知恵を食んだことにより追放されてしまった。罪を知った我らには戻る事はおろか、探す事すら許されなくなってしまった遥か遠き理想郷。故に、少女は楽園を虚像と称した。

 

「どうだい? そう聞いてみると、この『エデン条約』そのものが、正しくそんなもののように思えてこないかい?」

 

 つまりは、そういう事である。

 

 存在しないエデン。ある筈のないパラダイス。二校が手を取り合うのは正に理想だろう。()()()()()、有り得ない。楽園なんて単なる言葉遊び。儘ならない現実を塞ぐ砂糖色のアルカロイド。蜃気楼を追い求めて、奈落に真っ逆さま。

 

「……先生」

 

 少女の声が凛と響く。髪色と同系色な少女の双眸はあらゆる虚飾を取り払い、残酷なまでに真実の色を帯びる。見つめる先は同じように、真実の色彩を帯びる青年。

 

「もしかしたらこれから始まる話は、貴方のような者には適さない、似つかわしくない話かもしれない」

 

 ────残酷なまでの、この世界の真実。

 

「不快で、不愉快で、忌まわしく、眉を顰めるような……」

 

 ────痛みを重ね、流血を重ね、死を重ねてきた歴史。

 

「相手を疑い、前提を疑い、思い込みを疑い、真実を疑うような……」

 

 ────醜い醜い、人の性。

 

「悲しくて、苦くて、憂鬱になるような……それでいて、唯々後味だけが苦い……そんな話だ」

 

 ────この世界にハッピーエンドはありえない。

 

「しかし同時に、()()()()()()()()()()()()

 

 それこそがこの世界の姿だと、少女は異邦人に告げる。宛ら、かの天使が聖母に告げたように。

 

「どうか背を向けず、眼を背けず……最後のその時まで、しっかり見届けてほしい」

 

 少女は眼に意志を灯す。篝火のような、明けない夜を照らす導の灯を。

 

「貴方は、かの十字の救世主が歩んだ受難をなぞることになるだろう。ゴルゴダの丘で磔刑に処された、その末路まで。貴方はそう遠くない内に死ぬ。それは変えられない。変える事を許されていない」

 

 既定路線の運命。呪いのような彼の短命。進むという事は終わりに近づくという事。歩いたら歩いた分だけ彼は死に急いでしまう。

 少女とて、それに対して何も思わない訳がない。

 

「だが、それでも貴方は歩まなければならない」

 

 数多の願いを背負った。無数の笑顔を報いにした。そうして、彼は(未来)を見上げた。

 

 ────そうだ。彼はずっと、(希望)を探していた。

 

「それが、先生……『この先』を選び、世界(キヴォトス)ではなく進化を間違えた我々の側に立ち、神秘からの解放を志した、貴方の義務だ」

 

 少女の言葉を彼はただ静かに噛み締める。この選択の責任を。

 

 ────あの日、突き付けられた二択。星の側に立つか、知性体の側に立つか。相反する二択。星を選べば次期の生命を育む基盤を固めるためだけの機構に成り下がる事を意味する。知性体の側に立てばあらゆる安息から見放され何処にも行けなくなる。

 

 そんな、最悪の二択。その決断を迫られた時────彼は己が半身たる連邦生徒会長と袂を分かつと知りながらも、生徒の側に立つことを一切迷いなく選んだ。

 

 これを選んだ以上、戻れない事は分かっている。

 世界中の笑顔と決別してでも帰りたかった、少女達との日々。それに背を向けたのは、あの世界で日々を生きる生徒達のため。誰よりもキヴォトスとそこで生きる人々を愛したあの少女のため。

 

 あぁ、そうだ────彼女の代わりに彼は今ここに立っている。

 

 故に、この回答に一切の揺らぎも迷いも後悔も逡巡もなかった。

 

「私は先生だからね。最期まで責任を果たすよ」

 

 ────即ち、この先(未来)を夢見た責任を。

 

「悲しい物語は、ハッピーエンドで終わるべきだ」

 

 

 ▼

 

 

 トリニティ総合学園、数ある教室のうちの一つ。上等な木から作られた机と椅子、豪奢な飾電灯(シャンデリア)、陽の光を良く取り込む窓。壁や天井には白や金を基調とした、宮殿の一室を思わせる気品ある装飾が施されているが、壁に掛けられた時計と黒板、その近くにある教壇が紛れもなく教室であると示している。

 

 元々は空き教室の一つだった場所であるが、今は補習授業部の部室であり、教室であり、勉強部屋。4人の部員に対して広すぎる部屋は、その4人が仲良く固まって教壇の目の前で机に向かっているから、よりその印象を強める。

 

 少女達が視線を落とす先にあるのはホチキスで閉じられたプリント達。基礎から発展、応用まで幅広く網羅した問題集は補習授業部の顧問が作った特別製であり、少女達の得意不得意に合わせられている。

 プリントを作成するために費やした作業量と時間が膨大だった事は想像に難くないが、『普段の仕事に比べれば全然楽だよ』と作った本人は笑うだろう。

 

 少女達は思い思いの様子で問題と向き合っている。手を動かし、頭を悩ませて。ああでもないこうでもない、これなら解けるかも? 試行錯誤の繰り返し。それを繰り返し、本番に備える。何の変哲もないある日の昼下がり、補習授業部の活動風景だった。

 

 教室を支配する音は文字を書く音と、紙を捲る音。開かれた窓から入り込む風は瑞々しい緑の色彩に溢れていて、夏の足音がすぐそこまで迫っているのだと感じさせる。

 

 教壇横に置いた椅子に座る先生は風の声と教室の音を聴きながら手元の本を捲る。少女達が問題に向き合うように、彼もまた文字と向き合う。彼自身そこまで読書家というわけではないが、手持ち無沙汰な時間に書籍を開く情緒は持ち合わせているつもりであるし、本を読むこと自体も好きだ。紙の手触り、インクと紙が混ざった独特の香り、或いはページを捲る動作そのもの。オルタナティブでは味わえない視覚情報以外からの読書……尤も、これはウイやシミコの受け売りだが。

 

 時折、勉学に励む少女達に視線を送りつつ本を読み進める。持ち込んだ仕事にもケリがついた穏やかな午後、先生は久しぶりに自分の時間を過ごしていた。

 

 だが、穏やかな時間とはいつまでも続くものではない。プリントと向き合う生徒達の中で最もペンの止まる回数と時間が長かった少女がけたたましい音と共に立ち上がった。

 

「────もう嫌ッ!」

 

 静寂が支配する穏やかな午後は少女の癇癪とも呼べるような声により終わりを告げる。勢いよく立ち上がり、握っていたペンを机に叩きつけた彼女は下江コハル。正義実現委員会所属を表す制服は若干オーバーサイズで、肩幅や袖の長さが合っていない。元々小柄で線の細い彼女であるが、大きな制服の所為で余計にそう思わせる。腰の小ぶりな黒翼と頭の黒翼は苛立ちを隠せないようでパタパタと揺れて、その風で結ばれたピンクの髪が揺れている。

 

「こんな事やってらんない! 分かんない! つまんない! めんどくさい! それもこれも、全部先生のせい!」

「えぇ、私……?」

 

 唐突な、癇癪とも呼べる責任転嫁に先生は苦笑いしながら本を閉じる。彼は「まぁ、生徒の成績不振は先生の不徳の致すところと言われたら、そうかもだけど……」と呟いてコハルの方に視線を送れば、彼女は猫のような眼で先生を睨みつける。その顔には『全然分かんない!』と文字が書かれているようで、大方何処かの問題で堂々巡りに陥ったのだろうと推測。

 

 分からないのも、つまらないのも、面倒なのも分かるし、それを先生(自分)の所為にして貰っても構わない。だが、だからといってやらずに放っておいてしまうと後で困るのはコハル自身だ。彼女のためにもここはちゃんと机に向かわせ、問題を解かせなければ。

 

 彼は『さて、何処で詰まったのやら』なんて思いながら。胸ポケットのボールペンを取り出し立ち上がろうとすると……コハルの言動を窘めるように、或いは彼に助け舟を出すように一人の生徒が立ち上がった。

 

「もう、コハルちゃん。そんな無茶苦茶なことを言ったら先生が困ってしまうでしょう?」

 

 コハルと同系色の髪色。コハルと正反対な真白い指定制服。ちゃんと食べているのか心配になるほど華奢なコハルに対して、出る所は出て引っ込んでいる所は引っ込んでいる女性の体躯。ある意味、補習授業部で一番の問題児にして手のかかる愛し子(生徒)……浦和ハナコはおっとりとした落ち着いた口調で、コハルを宥めるように肩に指先を滑らせた。

 途端、猫が毛を逆立つように肩を跳ねさせるコハル。顔は困惑と羞恥と、あとほんの少しの別の何か。猫のような瞳が大きく見開かれたコハルに対して、ハナコの翡翠色の瞳は蠱惑的に細められている。この状況を楽しんでいると、誰の目から見ても明らかだった。

 

「あくまで先生は私達を助けるために来てくださってるんですし……そもそも勉強が分からないのも試験に落ちたのも、先生ではなくコハルちゃん自身の所為で……」

「うっ……!」

 

 並べられるハナコの言葉は驚く程に全てが正論であり、正しさの暴力だった。それに滅多打ちにされたコハルは呻き声を1つ漏らして、必死になって脳内で反論を模索する。しかし、ハナコが並べた言葉の全てに思い当たる節があるため、反論らしい反論なんて出来そうもない。故に口を衝いて出たのは、反論とも呼べない苦しい弁明と言い訳、つまりは逃げだった。

 

「私は正義実現委員会の一員だから! それで授業に出られない事が多くて……そう! その所為なの!」

「それは他の正義実現委員会のメンバーも同じだ。だが、此処に来ているのはコハルだけ」

 

 コハルに許された唯一の逃げすら、ハナコと同じく正論の暴力で叩き潰した少女は白洲アズサ。白の長い髪。白の翼。全身に散りばめられた花を模したアクセサリー達は人形のような美しさを持つ彼女を更に引き立たせるものであり、この飾りを選んだ人のセンスが光っている。ラベンダーを思わせるアズサの鋭いながらも慈しみに満ちた眼光がコハルを貫いた途端、彼女は呻き声すら出せずに黙り込んだ。

 

 正義実現委員会は同じくマンモスたるゲヘナの風紀委員会に匹敵する規模であり、その人数は一個旅団に匹敵する。そんな莫大な人数を抱えていながらも、成績不振により落第寸前まで追い込まれ補習授業部に放り込まれたのはコハルだけだ。

 つまり正義実現委員会のメンバーは皆、多忙ながらも勉学との両立をしているのだ────コハルを除いて。そしてコハルの憧憬の先にいるハスミは、副委員長という多忙極まる席にいながら成績優秀だったことを思い出して……完全に沈黙してしまった。

 

 そして、そこに無慈悲に追い打ちをかける生徒が一人。

 

「なるほど。つまりアズサちゃんが言おうとしているのは、唯々コハルちゃんがおバカさんだからですよ、という事で合っていますか?」

「まぁ、それもあながち間違っていない。仕方の無いものは仕方ない、人生は往々にして虚しいものだ」

「確かに人生は苦痛の連続ですからね……そういう事もあります」

「だが大丈夫だ、コハル。私はコハルの良い所を知っている。勉学が人間の全てではない。一緒に頑張ろう、コハル」

「ああもう、うるさいなぁッ!? そんな事言ったらあんた達も皆一緒じゃん! 私がバカなら此処に居る全員バカでしょバーカ!」

 

 眼を逸らしていた現実という名のナイフに滅多刺しにされ、剰えそこに慰めの言葉を投げかけられたコハルは怒りのままに叫ぶ。ヤケクソ、自暴自棄、開き直り。全力で自分を棚に上げるその様子は決して褒められたものではないが、コハルの言葉もまた正しい。経緯は違えど、全員成績不振の烙印を押されて補習授業部に集ったメンバーなのだ。コハルがおバカなら全員おバカ、何も間違ってはいない。

 

「あはは……えっと、それはその……」

 

 その暴論にも思える言葉に巻き込まれたのは、皆が可愛い言い争いしている間も一人黙々とペンを動かしていた少女、阿慈谷ヒフミ。自分自身を平凡と称する彼女は確かにコハルやアズサのように翼を携えているわけではなく、ハナコのように抜群のプロポーションを持っている訳ではない。ペロロのバッグがトレードマークの、華の女子高生が彼女だ。

 

 尚、彼女の平凡さの裏に隠れた非凡性、逸脱性を知る先生は『え、もしかして私も含まれてる?』と内心でどうでも良い事を考えている。

 

 そんな2人を見て、コハルは『相手にしていない』と認識する。唯でさえバカ呼ばわりされても特に怒ったりせず、落ち着いた『大人の対応』をしていたのだ。ヒフミや先生は勿論として、ハナコは遊んでいるだけだし、アズサは思った事をそのまま口に出しているだけ。そこに現状への不満などは見受けられない。

 

 コハルが補習授業部の生徒の中で最年少とはいえ、その差はたった学年1個分。一歳しか変わらないのにも関わらず、癇癪に似た幼稚な行動をしているのは自分だけ、ヒートアップしているのも自分だけ。それを認識した途端恥ずかしさが込み上げてきたが、だからといって止まる訳にはいかない。吐いた唾は吞めないのだ。

 

「な、何も間違ってないでしょ!? バカだから此処にいるんでしょ!?」

 

 髪色よりも更に赤みが強くなった頬の色のまま、コハルはヒフミ、ハナコ、アズサの順に指を刺す。ヒフミは「あはは……」と呟いて苦笑い。ハナコは年の離れた妹を見るような暖かい眼差しでコハルを見つめ、アズサはいつも通りの透明な表情。徹底的に相手にされていない、と認識したコハルはそのまま最大の声量と勢いで先生を指差した。

 

「あんたもッ!」

「私は一応先生なんだけどなぁ……あ、あとあんまり人を指差しちゃ駄目だよ、コハル」

「う、うるさいッ! 先生面しないでッ!」

「先生面も何も、先生なんだけど……」

「あぅ……こ、コハルちゃん、ちょっと落ち着いて……」

 

 言葉を捲し立て肩で息をするコハルを宥めようとヒフミは近寄るが、それではコハルの爆発は止まらない。彼女は先程の勢いのまま、机を割る様な勢いで両手を天板に突いた。

 

「落ち着いてなんていられないわよ! みんな仲良く退学になりそうな、こんな状況で……!」

 

 その声には現状に対する怒りだけではなく、己の不甲斐なさや悔しさが滲んでいる。結局の所、補習授業部に集められ馬鹿の烙印を押された事ではなく、その先……この状況を期日までに打開できなかった末の退学(ゲームオーバー)が嫌なのだ。

 

「もし退学になったら……せ、正義実現委員会のメンバーじゃ、なくなっちゃう……うぅ……」

「勿論私も退学になるつもりはない。何をしてでも、たとえ惨めな思いをしてでも乗り越えてみせる」

「まあまあ、退学になったからといって何もかもが終わりという訳ではありませんから、気楽に生きましょう。寧ろ……」

「────あ、あの……ッ!」

 

 ハナコの言葉の先を遮るようにヒフミが珍しく大きな声を上げる。途端に集まる4人分の視線に、人から注目を浴びる事に慣れていないヒフミは若干たじろいでしまうが、今ここで声を上げないとずっと向いている方向がバラバラのまま本当に全員退学になってしまうから。「あ、えっと、その……」としどろもどろになりながらも必死になって頭の中で言葉を纏める。

 

「こうして集まっているのは、そもそも退学せずに済むようにするためですし……取り敢えずその、今は皆で知恵を寄せ合って、何かいい方法を探さないと……そうしないと、一週間後には本当に仲良く全員退学、なんて事に……」

「成程、ヒフミちゃんの言う通りです。『知恵を寄せ合う』ですか……いえ、悪くないのですが、あまりグッとくる感じではありませんね。もう少しこう、何か……」

 

 そう云い、ハナコは思案顔で何かを考え始める。顎に手を当て、眼を細めて、考えるテンプレート。ヒフミの言葉の響きが気に入ったのか、それとも逆に気に入らなかったのか。個人の趣向は分からないが、ともあれヒフミの言葉がハナコの何かに触れたのは紛れの無い事実だった。

 

 そして、彼女は見惚れそうなほど良い笑顔で顔を上げた。

 

「ここは例えば、そうですね……『弱くて敏感な部分を寄せ合う』、という形で如何でしょう?」

「……?」

「あはは……」

 

 ハナコの言葉の意味がよく分からなかったアズサは頭の上に疑問符を浮べ、ヒフミは本日何度目かの苦笑い。先生は『ハナコらしい言い回しだなぁ』なんて思いながら、そろそろ勉学に戻らせた方が良いかなと腕時計を見る。

 

 そして────コハルだけは顔を真っ赤にしていた。ハナコが敢えて明言しなかった、言葉を解釈する人に想像の余地を持たせていた部分を妄想してしまったのだ。それも、真っピンクな方向で。ハナコの言葉と自身の妄想のダブルパンチで赤くなった頬のまま、ハナコを甲高い声で怒鳴りつける。

 

「い、いきなり何言ってんの!? 下ネタは駄目! 禁止! 死刑! び、敏感な部分って、何をどう寄せ合おうっていうわけ!?」

「あぁ、ちょっと分かり難かったですか? では、実際にやってみせましょうか。もう少しこう、足を開いていただいて……」

 

 笑顔のままにじり寄るハナコに次第に困惑の色が強まって来たコハルは、一歩一歩後退りながら「……え? えッ!?」と声を出す。その光景は宛ら捕食者と被捕食者。コハルは若干涙目だった。

 

「や、やめて! 近づかないで! 知らないし分かりたくもないしまだ早いからッ!」

「えいっ♡」

 

 背を向け、全力で逃走しようとしたコハルの初動を的確に潰したハナコ。逃げられない事を悟った、悟ってしまった彼女は涙目になりながら……蚊帳の外にいる先生に助けを求める。

 

「や、やめッ……! やめてぇっ! たっ、助けて先生……!」

「あー……ヒフミ、あそこに私が止めるためとはいえ混ざったら流石に拙いよね?」

「あはは……えっと、その……はい」

「だよねぇ……というわけで、ごめんねコハル。私は君を助けられない……」

 

 あぁ、何と無力なのだろう。何と不甲斐ないのだろう。別に死ぬ事は怖くないが、社会的な物となれば話は別だ。セクハラ野郎と書いて先生と読む、なんて言われた日にはそのまま首を吊りかねない。己の性別が彼女達と同じであれば或いは……と若干ずれている懺悔をしていると、とうとうハナコの手がコハルの素肌に優しく触れた。

 

「わ、私が悪かったです先輩相手にタメ口ですみませんでした! もう許してやめてっ、それはまだ嫌ぁーッ!」

 

 唯一ハナコを止めれそうだった先生がこの場で一番役立たずだったことに絶望しながら、こんな事になるなら最初から別の2人に助けを求めればよかったと思いながら。誰も助けてくれないなら自分の力でどうにかするしかないが、しかし思うように力が入らない。仮に力が入ったとしても上から手首を抑えつけられて優しく伏せられる。

 

 ハナコが涙目のコハルを手玉に取り、圧倒する様子を……アズサは真剣な表情で分析していた。主にハナコの動きを。

 

「鮮やかな制圧術だ。抵抗する力を外部に流して無力化しているのか。動けば動くほど渦中に嵌る……ふむ、勉強になる。ハナコは博識だな……だが、何処の流派だ? 型が読めない……」

「アズサは知らなくていいよ……君はそのままでいてね」

 

 コハルの名誉のために先生は絡み合っている2人を意図的に視界から外し、アズサの眼を手で覆い隠すと……ヒフミと眼が合った。コハルと同じく若干涙目。だが、其処に籠っている感情は全くの別物だった。

 

「せ、先生ぇ……」

「一緒に頑張ろうね、ヒフミ」

「よ、よろしくお願いします……」

 

 前途多難が過ぎる現状。癖が強すぎるメンバー。トリニティの落第寸前生徒の集まり、補習授業部。

 

 阿慈谷ヒフミ。白洲アズサ。浦和ハナコ。下江コハル。一見すると共通点なんて全くない、所属も学年も違う4人の少女達が何故補習授業部のメンバーとして集められたのか。

 そもそも、何故補習授業部という部活がトリニティ総合学園に設置され、その顧問にシャーレの先生が選ばれたのか。

 

「このままだと、本当に……私達皆退学に……」

 

 ヒフミの溜息交じりの呟きは、コハルの羞恥混じる悲鳴によって掻き消された。

 

 ────話の発端は、数週間前に遡る。

 

 

 ▼

 

 

「最近、心が何処に在るか分からなくなってきたんだ」

 

「花を踏んでも、蝶を踏んでも、痛くなくなったんだ。あの頃が嘘みたいに。多分、そのうち誰かの死体を踏んでも痛くなくなると思う。誰かの痛みを感じなくなっていく……それが、怖いんだ」

 

「なんで私は、生きているんだろうね」

 

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