シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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エデン条約締結の阻止────その言葉に籠められた本当の重みは、きっとナギサにしか分からない。だが、彼女の発した言葉には物理的な質量があるかのように重かった。
彼女は「少々失礼しますね」と先生に申し入れを入れた上で椅子から立ち上がり、テラスから庭を見下ろす。当然、人の姿なんて無い。彼女はそのまま視線を室内に向け、自身と先生しかいない事を改めて確認してから着席。足元に置いてあったバッグから封筒を取り出して……先生に差し出した。
「この言葉が持つ重さを理解していただくには……そもそも『エデン条約』とは何か、という説明が必要ですね」
視線で了承を受け取った彼は封筒の封を解く。中から出てきたのは数枚の紙が挟まったバインダーだった。
表面にはトリニティ総合学園生徒会たるティーパーティーのロゴと、ゲヘナ学園生徒会の
その下には赤字で大きく『
更にその少し下には『in Altus Communio Basilica by District Utnapishtim 51.681』、これは締結場所だろう。D.U.地区にある聖堂……通功の古聖堂。トリニティが現在の形となった切欠、第一回公会議が行われた場所が此処だった。
そして、小さい文字ながらもファイル中央、最も目立つ場所に書かれていた文字は────
トリニティとゲヘナ、どちらもキヴォトス最大規模を誇る二校。その最高権力達のエンブレムが箔押しされたファイルを手に取った。
「
「中立的な機構……招集メンバーを見るに、単なる2校の監視ではないね。この機構の本来の目的は恐らく……」
「ご明察です、先生。お察しの通り、この機構……
声高に『お前が嫌い、お前が憎い』と叫ぶ関係性。何度もいがみ合い、睨み合い、憎み合い、殺し合ってきた。幾多の時が流れようとそれは変らない。互いの喉元に銃口を突きつけ合う憎悪の螺旋は今に至るまで血と熱を帯びて続いている。
エデン条約とは、そんな断崖の果てを行き続ける二校の関係性を少しでも改善する、或いはこれ以上悪化しないための手段であり措置。この2校の間で争いが発生した場合の緩衝材となり、仲介役となり、解決手段を模索する。そして、一度発生した争いが発端となり、より規模の大きい争いが発生しないように瀬戸際で食い止める防衛機構のような役割も併せ持っていた。
「これにより、二つの学園の間で全面戦争が起きる事はなくなります。誰かが踏み込めば、両陣営が仲良く共倒れしてしまう事になりますので」
ゲヘナとトリニティの二校は共にキヴォトス最大規模であり、三大マンモス校の一角。学生数も規模に比例して多く、与える影響範囲も広大極まる。抱える戦力も相応に多く、豊富な予算に裏打ちされた強力な装備が配備されていた。
そんな二校が争った先の結果なんて火を見るより明らかだ。争いの渦中にいる二校だけではない、間違いなくキヴォトス全土を巻き込んだ血みどろの争いが繰り広げられるだろう。発端の二校が争いを止めたとしても周りに付いた火は消えない。そして、それが新たな火種となり別の争いを呼ぶ。
争いが争いを呼ぶ血の連鎖は、文字通り全てを焼き尽くすまで止まらないだろう。それは宛ら暴走する車輪。全てを巻き込み、破壊し、奈落の底へ真っ逆さま。
そんな結実だけは回避しなければならない。故にこの条約の締結は二校にとっても、キヴォトスにとっても必要なことであった。
「────先生」
闇を切り裂くようなナギサの声と共に、先生は顏を上げる。それは宛ら旅立ちの時のように。この先の未来を歩いて行くという誓い。如何なる結末に、未来を前にしても────決して折れない鉄の意志。
「トリニティとゲヘナの長きに渡る敵対関係は、お互いにとって大きな重荷になっています。エデン条約はその無意味な消耗を防ぐための、恐らくは唯一の方法であり、キヴォトスに於ける力のバランスを保つための方法でもあります」
ナギサは「そして」と言って彼を見つめる。これから口に出す彼女が、きっと彼にとって特別だと思ったから。
「エデン条約は元々、連邦生徒会長が提示した解決策でありました」
────その名を出しても、彼の表情は変らない。
「彼女が行方不明になってしまい、一度は空中分解しかけたものを、私の元でどうにかここまで立て直したのです」
「……そっか」
先生はバインダーを封筒に仕舞い、ナギサに手渡す。内容は頭の中に全て叩き込んだ。元より何度もなぞった文面。今更目新しさを覚えるものでもない。
「そして、二校の悲願である条約が締結される直前まで来たこのタイミングで……これを妨害しようとする者達がいるという情報を耳にしてしまいました」
「……いつ頃にその情報が入ったんだい?」
「ほんの数週間前です。フィリウスが抱える秘匿情報網からの匿名連絡でした。急いで全生徒の素性の洗い出しを始めましたが、相手も余程巧妙に隠しているのか、現時点でもそれが『誰』なのかは分かりません。我々の力を以てしても、特定には至りませんでした。そこで、次善の策として……その可能性がある容疑者を一ヶ所に集めたのです」
「それが、補習授業部」
「えぇ、その通りです」
ナギサが持つフィリウス分派の情報網、ティーパーティーの情報網。それらを総動員して素性を洗い出し、容疑が掛かった生徒を一ヶ所に集めた部活……それが今期の補習授業部であった。成績不振の生徒を落第から救うための措置なぞ偽りの名義。これはトリニティに内部に巣食う悪性を見つけ出し、焼き払うための鳥籠だ。
ヒフミ、アズサ、ハナコ、コハル。この内、ヒフミ以外のメンバーは特にナギサ側からアクションを仕掛けていない。彼女達はナギサが細工するまでもなく何かしらの問題を抱えている。策を弄することなく勝手に成績不振になり、補習授業部の入部条件を満たしてくれた。
だが、ヒフミだけは別だ。彼女の素行や成績に特筆すべき問題点がある訳ではない。何処を見ても、何処を切り取っても、普通の生徒でしかなかった。そのため、何を理由にしても補習授業部に入部させるには不自然さが目立ってしまう。
故にナギサは手を打った。ヒフミが『成績を理由に補習授業部に入部させられた』と納得するような、そんなシナリオを作り上げるために。
ティーパーティーの権力を使用してのテスト日程の改竄。『反社会勢力によるテロの犯行予告が送られた』という偽情報をヒフミが属するクラスに流布し、それを理由としてのテスト日程の直前の変更。通常ならば混乱が起きるはずであるが、そこはナギサの手腕の見せ所。彼女は混乱を完璧に制御し、収めてみせた。
そして、この情報の頒布にもナギサは妥協しなかった。電子メールでは何処に情報が抜かれるか分かったものではないため、アナログ手段に限定。しかし、生徒が集まる教室で頒布すればヒフミに気付かれてしまう恐れがあったため、手間はかかるが情報の機密性が保たれる郵送という形を取った。幸い、ティーパーティーなら生徒の個人情報にアクセスできる権限がある。生徒の住所に送るのは容易かっただろう。
更に、封筒にティーパーティーのロゴを箔押しした上で生徒間のネットワークで共有されないようにSNS等での発言を禁じ、破った場合は重い罰則を課した。これはティーパーティーからの勅命である、という印象を抱かせるために。
こうした徹底的な情報統制によりヒフミはテストの日程を間違えたまま当日を迎え、緊張しながらもテストに臨もうとした彼女の眼前に飛び込んで来たのは誰も居ない教室。驚きながら教員に尋ねても全て後の祭り。彼女が受けるべきテストは既に終わっている状況を作り上げた。
そうしてテストを受けられなかったヒフミは当然の如く0点となり、落第寸前の烙印を押されて補習授業部入部が決定されて……今に至る。
学校の日程を細やかにスマホのカレンダーアプリや私室、ロッカーのカレンダーに記していたヒフミが、テストの日程を間違えるなんてありえない。彼女がモモフレンズのキャラクターに熱を入れている事を人伝に知っていたナギサは、彼女が学び舎から遠ざかるタイミング……ゲリラライブの日程と変更後のテスト日程を重ねた。
────全て、全て。ナギサの掌の上。ナギサのシナリオ通り。チェスの駒を操るように、彼女は自身が望むシナリオを作り上げた。
「……裏切り者は、確かに
腐った林檎は箱ごと捨てなければならないとは誰の言葉だったか。つまりナギサの成さんとしている事はそういう事だ。
補習授業部は容疑者の集まり。これから結ばれる和平を乱す裏切り者が居る場所。或いは────ナギサの不安が捨てられた廃棄孔。
締結目前に迫った和平条約を阻止しようと暗躍する裏切り。トリニティやゲヘナの平和を脅かす争いの影。火種を望み、争いを望み、流血と死を望む者。そんな不穏なものは早急に、転移する前に根こそぎ切除するのが正しい行為だ。
仮にその切除に無辜の生徒が巻き込まれたとしても致し方ない事。たった4人の退学なんてトリニティ全体から見れば取るに足りない小さな出来事。誰も気にしないし、変わらず世界は回っていく。医療過誤にすらなりはしない。大多数の大儀を前に踏み潰される幸福、愛と平和────あぁ、なんて、それは。
「……そろそろお分かりでしょう。それが補習授業部の真実です。先生とシャーレには、その箱の製作にご協力いただきました」
「協力、か……確かにそうだね。事此処に至っては、私はナギサの協力者であり共犯者だ。私が何と言おうと、何を思っていようとその真実は変えられない」
「えぇ、最初にお会いした時には既に仕込みは完了していましたから」
つまりは事後報告。先生がナギサに呼ばれティーパーティーのテラスを訪れた時点で、補習授業部の顧問になる以外の……彼女の策に乗る以外の選択肢は剥奪されていた。シャーレの権限を使用された以上、先生も見て見ぬ振りはできない。シャーレと云う組織の透明性に関わるのだ。全ての生徒の為のシャーレ、全ての生徒の味方であるシャーレ……それを恣意的に歪められない為にも、彼はこの件に身を投じる必要があった。
謂わば、ナギサにとってシャーレとは手段であり、先生に要求を呑ませるための人質だったのだ。トリニティの中枢で培われた権謀術数、伊達にフィリウス分派の長ではないという事か。盤面を構築する能力で彼女を上回る生徒は片手で数えられる程度だろう。
「……ごめんなさい。こんな血生臭い事に先生を巻き込んでしまいました。私の事は罵っていただいて構いません」
「ナギサも私にとって大切な生徒だ……そんな事はしないよ。君を責める気も無い」
「……お優しいのですね」
そう言い、ナギサは眼を伏せる。自傷のような優しさ、他者に施せば施すほどに彼は自身を失っていく。それが見ていられなかった。ナギサの言葉を自身の犯した罪のように呑み込み、呼吸の度に喉元に刃物を突き立てているようで。
────もし彼が口汚くこの所業こそが裏切りと罵ってくれたら。もし彼が怒りのままに銃口を向けてくれたら。もし
取るに足りない感傷を1つ、ナギサは心のゴミ箱に捨てる。これは不要なものだから。
彼女は一度紅茶を含み、乾燥していた喉を潤す。伏せていた眼を上げて、視線は彼に固定。嫌な緊張が全身を襲う。ここまでは運が絡まなかった。ここまではナギサの理想通りに事が運び、盤面は整えられた。
だが、此処がゴールではない。寧ろ此処からが真のスタート。これはその第一歩。眼の前にいる彼はチェスの駒ではない。彼の視点と立ち位置はナギサと同じ、つまりは
……この先は賭けになる。ナギサは真剣な眼差しで彼を射貫いた。
「補習授業部の事情、理由……これらは主導した私を含むティーパーティーの3名しか知らない極秘事項です」
「そうかい……話したのは唯の善意、という訳ではないだろう?」
「えぇ。このお話をしたのは、先生にご協力していただきたいからです」
「……何に」
怖気が走るほど平坦で、ヒトが発したと思えないほどに温度感と感情が抜け落ちた声を前にしても、ナギサは一歩も退かず。
「……補習授業部に居る裏切り者を探していただけませんか?」
「────」
核心に触れても彼の色は濁らない。クリアホワイト、透き通った狂おしい純白。声すら発さず、感情の色が抜け落ちた瞳でナギサを見る。彼が今何を思って、何を考えているかナギサはその一端すら分からない。
だが、彼を頷かせてみせるという意志だけを強固にする。彼のプロファイルは把握済み。秩序を好むが在り方は中立。善を愛し、悪にも理解を示す人柄。真面目で実直、加えて努力家。健全な精神と倫理観を兼ね備えた好青年。対話と相互理解を好み、何より生徒を心から愛する先生……それが彼だ。
故に、彼女は彼を説き伏せられると信じていた。彼は平和を愛し、傷つく誰かを放っておけない正義感も持っている。この願いを聞き入れてくれなかった先に在る地獄を知れば、彼はきっと協力してくれるはず。
「先生を、トリニティを騙そうとしている者が居ます。平和を破壊しようとするテロリストです。私達だけではありません、キヴォトス全体の平和を、自分達の利益と天秤に掛けようとしているのです」
エデン条約が結ばれた先に在る未来。結ばれなかった先に在る未来。その何方も正確に知る事は出来ない。もしかしたら何が変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれない。
だが、結ばれなかった先の未来は遅かれ早かれ必ず戦争を
「裏切り者を探し出す事が、キヴォトスの平和に直結します。如何でしょう? 先生に連邦捜査部シャーレとしてご理解とご協力をいただけますと幸いなのですが────」
「ごめんね、私はナギサの策に乗れない」
ナギサの言葉を遮るように否を突き付けた先生。彼は相変わらず読めない表情で、申し訳なさそうに笑うばかり。冷水を浴びせられたような心地になったナギサは『味方ではなくなった者』を猜疑心と共に見つめた。
「……理由をお聞かせいただいても?」
「簡単な話さ。犠牲の上に作られた平和はその維持に更なる犠牲を求める。条約を締結して機構を設立して終わり、なんて虫が良すぎるよ。流血が下地にある平穏は流血でしか保てない。補習授業部が最初の犠牲になるだけで、機構が存続する限り似たケースは発生する」
彼は「それに」と言葉を続けて。
「エデン条約の為に切り捨てられた補習授業部の痛みと嘆きは何処に行けばいい? 平和な楽園の為なら切り捨てられて当然だと、ナギサは無実だったかもしれない彼女達に言うのかい? 疑われた時点で居場所も平穏も幸福も奪われ、多くの礎にされて然るべきと……君は、彼女達に言えるのか?」
「それは……ッ」
「……ごめん、意地悪だったね」
そう言い、彼は苦笑いを浮べる。途端にナギサは肩の力が抜ける感覚を覚えた。心臓が嫌に高鳴り、手汗が滲む。ぎゅっと握り締めた制服は僅かに皺になっていて、呼吸すら若干荒くなっている。
────まるで、底なしの奈落を見ている心地だった。一切の光すら脱出できない果ての無い坑道。虚無へと続く異界への道。それを彼の瞳からナギサは感じた。
集めたプロファイルの所々に混ざっていたノイズのような情報。虚無、虚空、空洞────どことなく彼に空虚さを感じると言っていた生徒。初対面の時は嘘偽りだと思っていた。ナギサの感じた先生からあまりにも乖離していたから。
だが、今になって────そう言った生徒の気持ちがよく分かった。なるほど、確かに虚無であり、虚空であり、空洞だ。決してそうではない筈なのに、そう形容するとぴったりはまってしまう。それ以外に先生としての彼の裏側に潜む側面を形容できる言葉が無かった。
そういった感情を表に出さないようにナギサは努めて鉄仮面を意識し、乱れた呼吸を整えて落ち着かせようとしていると、「ナギサ」と優しく名前を呼ぶ声が聞こえた。恐る恐る彼に目を合わせると、そこに居たのはナギサの知る彼で、先ほどまでの空虚さは何処にもない。
「もしそうやってエデン条約の為に補習授業部を切り捨てたら、ナギサの脳裏にずっと『誰かを切り捨てる』選択肢が残り続ける。この先の長い人生において、ずっと切り捨てた時の感覚と感情が鮮明に蘇り続けるんだ。それはきっと、ナギサにとって……残酷で、辛い事だと思う」
生徒を想い、愛し、守る先生としての言葉。彼にとってナギサも可愛い生徒である事は変わりない。だから無理をしてほしくなったし、自分自身の首を絞めるような選択をして欲しくなかった。きっと切り捨てた時、ナギサを一番責めるのは他ならない彼女自身であろうから。
彼の願いを受け取ったのか、受け取ってないのか。それはナギサしか知らない。だが、少しだけ驚いた顔をしたのはきっと見間違いではないだろう。
「……私は、私のやり方でその問題に対処するよ。疑いはしない。最期まであの子達を信じるよ」
「……そうですか、分かりました。交渉決裂、ですね」
そう言い、ナギサは穏やかに微笑み……しかし、その視線は鷹のように鋭く彼を見据えている。
あぁ、甘く見ていた。慢心していた。驕っていた。イニシアティブは此方が握り続けていて、盤面も此方の理想通りに完成したが……それに胡坐をかいてしまっていた。チェスの駒を見過ぎて、プレイヤーを見る事を忘れていたナギサの落ち度。彼の信念を見くびっていた。
当然ではあるが、彼にとっての生徒には補習授業部もナギサ自身も含まれている。そんな大事な部分を見落としてしまっていたなら、交渉決裂も当たり前だ。
────だが、このまま大人しく引き下がれるかと問われればそれは否だ。ナギサにも意地がある。ティーパーティーの一人として……エデンを望んだものとしての意地。彼はまだ交渉のテーブルに座っているのだ。であれば────幾らでもやり様はある。先生の手札、ナギサの手札、それらを総動員した駆け引きを。
「……ですが、先生。ゴミを細かく選別して捨てるのが難しい時は、箱ごと捨てるというのも手段の一つ……そうは思いませんか?」
その言葉に対しても、先生は何ら目立ったアクションを起こさない。ただ、奥歯を噛み締めて僅かに音を鳴らしただけ。補習授業部の生徒をゴミと侮辱された怒り。ナギサにそんな事を言わせてしまった自分への不甲斐なさ。それらを誰にも知られずに、彼は呑み込む。
「それからもう一点……試験については基本的に私達の掌の上にあります。例えば『急に試験の範囲が変わる』ですとか、『試験会場が変わる』ですとか、『難易度が変わる』ですとか……そういった事が起きないよう祈っていますが……」
彼女は少し口元を耽美に歪めて、一つ咳払い。
「……失礼しました。良くない物の言い方でしたね」
分かりやすいほどの脅し。試験に合格させるか否かの匙加減はナギサの気分次第。点数の改竄はしないだろうが、それ以外の妨害は考慮した方が良いだろう。事此処にいたって、ナギサは補習授業部を全員無事に卒業させるつもりは無かった。
「それではこれからも、引き続き補習授業部の生徒達をよろしくお願いします、先生」
「勿論、彼女達を無事卒業させることが私の仕事だからね」
そこだけは決してブレない。如何なる試練があろうと、その悉くを超えて彼女達を無事に送り出そう。裏切り者も、ナギサの思惑も、全て踏み越えよう。それが、先生としての自分の役割だ。
「私達の方から先生個人に対して不利益や損害を与える事はありません……と、言いたい所なのですが……簡単にはお約束しかねます」
弾丸1発でも致命傷になる彼にとって、その言葉は相応に重い。ナギサもそれを分かっているのか、声音には少し申し訳なさそうな色。勿論、最大限の配慮はしよう。ナギサとて彼が傷つく光景を見たくないし、その後の報復なんて想像しただけで恐ろしい。
「ですが、だからといって先生が生徒達を放っておくような方ではないと思っておりますので……これからの展開は私にも予測し切れておりません」
この選択が果たして最善だったのか、間違いだったのか……それは結果が出るまで分からない。シャーレ、先生、裏切り者……この盤面には変数が多すぎる。正確な予想なんて誰にも不可能であろう。
既にシナリオは動き出した。故に出来るのは────各々が全力を尽くし、祈る事だけだ。この先に、より善い未来があると信じて。
「どうかこの結末が……できるだけ、苦痛が伴わないものである事を願うばかりです」
「……そうだね。叶うなら、誰もが笑える幸福な未来を」
その言葉に確かな同意を。彼は生徒のありのままを肯定する。だが、決して誰かの苦しみも痛みも嘆きも悲しみを『必要なものだった』とは言わない。一生涯、傷にも戦いにも意味を見出さない。ましてや、それらを美談になんてして堪るものか。そんなものが罷り通る世界に、本当の平和も幸福も勝利も無いと知っている。
求めるものはたった一つ、皆の笑顔と幸福。誰もが当たり前に笑い合える世界。ただそれだけ。
その結末に至るためであるならば────この身が何度も朽ち果てようとも、決して折れる事はしない。苦しみ、痛み、嘆き、嘆き。これらを肯定せず、否定せず、唯只管に受け止める。その上で星に手を伸ばそう。より善い未来を、より善い世界を作り上げるために。
「……今日は時間を作ってくれてありがとう。紅茶、いただけなくてごめんね」
そう言い、椅子を引きかけた彼に────ナギサは「先生」と呟き、待ったをかけた。
「一点だけ、先生にお伝えしておきたい事があります。一次試験に於いて、私達の方では如何なる操作も行っておりません。この部分については、誓って嘘ではない事をお約束します」
「……そっか。それが聞けただけでも充分だよ。ありがとう」
「お礼を頂くようなことではありません。あくまで公平性の為の事でしたから……先生なりのやり方。それが、トリニティに利するものである事を願っていますね」
その声に微笑で以て返答した先生は今度こそ椅子を引いて、立ち上がる。宵に映える白のコートが風で翻った。
「では、今日はこれで失礼させてもらうよ」
「……えぇ、それでは、また」
遠ざかっていく背中。少しずつ小さくなる背中を見て……ナギサは咄嗟に声を掛けてしまった。少し前から胸の何処かに巣食っていた疑問を投げかけるために。
「……先生は連邦生徒会長にお会いしたことはありますか?」
「……無いよ」
彼は少しだけ寂しそうな声で。
「無いんだ。その方が、きっと良い」
決別にも思えるような小さな終わりを紡いで、先生は顏だけナギサの方を向ける。儚い、初雪のような横顔。手を伸ばしただけで消えてしまいそうなほどに。
「……こんなもの、本当は君が背負うべきものでもないのにね。子ども達が安心して生きられる世界を作るのは、
「……私も先生も、同じこの世界を生きる命なのです。幼いからと言って私だけ責任を投げ出す事は出来ません」
「それでも、だよ。誰にも泣いてほしくなくて、苦しんでほしくなくて……私は今まで走って来たんだから、さ」
その言葉を最後に、彼は退室した。
▼
先生はテラスから退室し、ドアを丁寧な所作で閉めた後────扉を背にずり落ちるようにその場に座り込んだ。そのまま深呼吸、息を吸って吐いて呼吸のリズムを整える。脂汗が頬を滑り落ち、それが大理石の床に落ちた事も気付かない。
少し前……本当に少し前、大体補習授業部の顧問を引き受けた前後から発症し始めた
柴関での戦闘で負った傷とそれが元になった烙印。
ビナーに開けられた心臓直下の風穴。
大人のカードの使用により失った腎臓の片方。
ケイによって切り裂かれた首元と長期間無毒化できずに体内に残留した神秘の毒。
無名の司祭を葬るために用いた礼装の例外起動。
そして、その例外使用の起爆剤として使用した大人のカードの代償……左目の視力の大幅低下。
今まで色々とやってきた。その度に身体に傷を負い、或いは失って、それでも前へと進んだ。キヴォトスに足を踏み入れて2ヶ月と少しであるが、肉体は2ヶ月前のものと比べて大きく損耗している。
身体の表層には目に見えて分かる大きな欠落こそ無いが、中身は別。内臓の損失から始まり、各器官の働きもかなり衰えている。最近は食事をしても戻してしまう事が多くなったし、眠たいのに眠れない日が増えた。
「フ、ゥ────」
キヴォトスに足を踏み入れて以降、彼の中では常に肉体の主導権を懸けた争いが繰り広げられている。自分の肉体を死んでも明け渡したくない先生と、一刻も早く彼の体を器として復活したい救世主の符号に結び付けられた神格。互いの存亡と世界の行先が懸かった綱引きは、今まで元の肉体の保有者たる先生が圧倒的に優勢だった。
そもそも相手は身体無き者であり、既に忘れ去られた神。神秘の規模も世界の事象そのものに影響を及ぼせるほどではない。故に自身の肉体の主導権を握り続ける事ができていたのだが……負傷と損失の連続により、その天秤が傾きつつあった。完全に押し負けるとまではいかないが、時折若干力負けしてあっち側に引っ張られてしまう事がある。
今はまだ負けないだろう。そして、この頻度で負傷や損失があと1、2回重なった程度でもまだ大丈夫だ。まだ彼は先生のままでいられる。生きることを選択できる。
だが、そのラインを越えたら天秤は先生の側に傾かなくなる。完全なイーブンに縺れ込み、あとは運と意志の匙加減。意地の張り合いで負けるつもりはないが、運が絡むとなると少々不安だ。
そして、そのイーブンのラインすら超えたら完全にあっち側に天秤が傾く。いつ精神崩壊と乗っ取りが始まってもおかしくない。こうなってしまったらもう自殺すらできないだろう。
そうなってしまっては全てが遅い。何もかもが手遅れだ。全ての真実が、全ての神秘があの御手に堕ちる前に────先生は先生のやれる事をやらなければならない。
その為の手段の一つとして先生が候補に上げたものが、シッテムの箱内部への肉体機能の遷移だった。万が一体を乗っ取られた時、体の中を空洞にしておくことで相手の出力を下げる────と云う目的。或いは、まだ先生が先生である内に肉体が不可逆的な損傷を負った時の為のセーフティ。
尤も、物理的に内臓や筋肉、血液をシッテムの箱に移す訳ではない。あくまで概念的な話だ。精神を現実世界からシッテムの箱の中に移し、青の教室に足を踏み入れる要領。その要領で肉体の機能を彼方側に持って行く。
シッテムの箱が肉体を動かせるのは確認済みであり、幾つか条件が揃えば死体すら動かせる事も把握している。まだ生きている肉体の、生きている機能を代替させるなんて造作もない事であった。
理論自体は随分前に完成していたが、運用を開始したのは本当に最近。そのため、大規模な機能を移せたわけではない。だが、それでも肉体の一部の機能が空白になったのは事実、今まで以上にシッテムの箱のバッテリーには気を付けなければならないが……そもそもキヴォトスで生きる以上、箱のバッテリー切れはほぼ死と近似できる。そのため、大きく何かが変わったという事はなかった。
────機能の遷移を急がないと。自分が思った以上に時間が無いのかもしれない。
先生は眼を閉じて、もう一度深呼吸。開眼した瞳にはコンタクトレンズ越しから漏れ出た蒼の燐光は見られない。何度目かすら忘れた鬩ぎ合い、それに勝利した証だった。今回もまた、生きる事ができる。生きる事を選択できる。
一連の出来事を誰にも見られていない事を確認した先生は踵を返し、学園の外へと足を進ませる。明日から始まる合宿の準備のために。