シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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補習授業部の4名が渡された地図を片手にトリニティの校舎正門から歩き出して、大体1時間程度。バスや電車等の公共交通機関を乗り継ぎながら辿り着いた場所は合宿所だった。都会の喧騒から遠い、四季の色彩に溢れた自然的な風景は合宿所と謂うよりは避暑地のそれに近く、こんな状況だというのに少しだけ心が浮足立つのを感じる。
ヒフミは受け取った鍵で錠を開け、敷地内へ足を踏み入れる。庭と思われる場所には幾つかの花壇や植物、水路。数日前に手入れされているであろうそれらを通り抜け、合宿所の室内に入ると……先ず目に飛び込んで来たのは広いロビー。ソファとテーブル、テレビが幾つか並んだ場所。それらを一瞥し、更に奥まで進むと数個のドアが並んでいて、その中の一つの取っ手を回した。
室内にはベッドが6つとクローゼットが一つ。窓際には談話用のソファとテーブル。貴重品を入れるための金庫と冷蔵庫。冷暖房は完備されている。部活等で一般的に使われるオーソドックスな合宿所の一室。特別不思議な点や不可解な点もない、良く手入れの行き届いた印象を受けた。
「漸く着きましたね。此処が私達の……」
「はい、合宿の場所です。やっと着きましたね、ふぅ……」
「暫く使われていない建物の別館と聞いたので、冷たい床で裸になって寝ないといけないのかと思ってましたが……」
「えっと、何で裸限定なのでしょうか……?」
世の中には裸でないと寝られないという人がいると聞く。もしかしたらハナコはそういう体質の人なのかと思って彼女を見ると……どうやらそうでもなさそう。見た限り、彼女は裸でないと寝れない訳ではなく、合宿で裸になる事に意味を見出しているようだった。つまりは何時ものハナコである。
苦笑いしながら手持ちの荷物を一つ、ヒフミは床に置く。中に入っている化粧品や歯ブラシが鳴らす軽い音。着替えや普段あまり使わない参考書などが入っているボストンバッグを地面に置くと、ヒフミの持ち物はペロロのバッグ一つに。何時もの見慣れた彼女の姿だ。
「広いですし、思っていたよりもずっときちんとしていますし、可愛いベッドもあって何よりです」
ハナコは上品に笑いながらベッドを手で押して感触を確かめる。使い古されたものではなく、新品のもの。恐らくこの合宿のために買い替えたのだろう。寝具自体もそれなりに上等で、合宿期間中に寝起きするのに不足は無い。寝具が悪くて寝不足、なんて事は起こらないだろう。
「これなら皆で寝られそうですね。裸で♡」
「さっきから何でちょいちょい『裸』を強調するの!? それにベッドの数もちゃんとあるんだから、態々皆で寝る必要ないでしょ!?」
「折角の合宿ですし、そういうお勉強も必要ではないでしょうか?」
「駄目! エッチなのは禁止! 死刑!」
ハナコがちょっと怪しげな事を言えば、即座にコハルが反応する。この2人の関係性は初対面の時からずっと変わらず、段々と遠慮が無くなっている様にも思えた。仲が深まるのは良い事なのだろうが、ハナコがコハルで遊んでいるだけにも見える事が若干の不安点。尤も、変にギスギスするよりはずっと良い。これから同じ生活を共有する人間同士、仲が良かったり話せるに越した事はないのだから。
「ふふっ、そう言わずに……」
「こっち来んなッ!」
ハナコはセーラータイプの制服を僅かに崩しながらコハルににじり寄ろうとするが、『近づけさせたらマズイ』と身を以てよーく知っているコハルは牽制しつつ距離を取った。
その隙の無さにハナコは「あら残念」と本心かそうでないのか分かりかねる言葉で素直に引き下がる。コハルを揶揄うのはまた後、別の機会で。
「まあ、今はまだ明るいですし、そういう事にしておきましょう。夜は長いですからね……♡」
「えっ、は、ど、どういう意味ッ!?」
桃色の妄想で頭の中までピンクで埋め尽くされたコハル。嘘か本心かを覆い隠すような、だが心底楽しそうな満面の笑みのハナコ。今のところ舌戦でも何でも、コハルがハナコの上を行った光景は見た事が無かった。
「その、これから1週間寝食と勉強を共にするので、皆さん仲良く……」
ギスギスするよりはずっと良いとは思ったが、何事にも限度がある。ヒフミは2人を宥めつつ、この部屋に声を出していた人が3人しか居ない事に気が付いた。気配を消しているのだろうか、と思って見渡しても……人影は足りない。ベッドの近くに纏めてある荷物がぽつんとあるだけだった。
「って、あれ? アズサちゃんは……?」
「あら、先ほどまでは一緒に居たのですが……」
ハナコも部屋の中を見渡すが、やはりアズサの姿が無かった。荷物だけが纏められていて、彼女自身はこの室内の何処にもいない。廊下や窓から見える庭にも彼女はおらず、何処に行ったのだろうか、と思いヒフミはスマホを取り出して交換した連絡先にメッセージを送ろうと思ったが……丁度そのタイミングでドアが静かな音を立てて開いた。
「偵察完了だ」
「て、偵察……?」
ドアの向こう側から現れたのは丁度話題に上がっていたアズサだった。偵察完了、という言葉を携えて現れた彼女の手には自身の愛銃が固く握られていて、鋭さを感じる雰囲気には一切の遊びが見えない。何処からどう見ても合宿に来た生徒とは言えない彼女は宛ら特殊訓練を受けに来た軍人か傭兵のよう。成績向上を目的とした合宿にはあまりにも似合わない、物騒過ぎる少女。つまり、割といつも通りだった。
「トリニティの校舎からはかなり離れているし、流石に狙撃の危険は無さそう。外部へ通じる出入口が2つだけという所も気に入った。いざという時は片方の入り口を塞いで、襲撃者達を1階の体育館に誘導した上での殲滅戦が有効になるかな」
アズサはポケットから折りたたんだA4の用紙を取り出し、眺める。それには合宿所を中心とした周囲のマップが大雑把に記されており、幾つかのポイントにはマーカーが置いてあった。ざっと周囲を視て回って来た彼女が気付いた警戒すべき地点。狙撃、奇襲、暗殺、爆破……他にも色々。相手が取る手段の数だけ危険はある。その全てを網羅できたわけではないが、それでも大体は発見できた。残りの部分は自由時間の間に散策し、対策を打っておけばいいだろう。
「室内もざっと見たけど、人の気配は無かった。
「ど、毒ですか……」
アズサと他の3人のテンションの乖離が著しい。ヒフミ達は精々いつもと違う所に勉強に来た程度の気持ち──尤も、恐らくそれが正解なのだが──に対して、アズサは様々なものに警戒心を顕わにして、銃を片手に哨戒を行っている。
発言一つとってもそうであり、誰かが毒を仕掛けている可能性なんてヒフミは思考の片隅にも置いていなかった。勿論、今でも誰かが毒を仕掛けているとは思っていないのだが。そもそも、ヘイローを持つ彼女達に通常の毒物は効果が薄い。どれほど毒性が高い物質であっても、少女達を確実に毒殺できる量を怪しまれずに仕掛けるのはまず間違いなく不可能だ。
「他に幾つかセキュリティ上の脆弱性も確認できたけど、改修すれば問題ない範囲だ。私が後で手を加えておく」
「え、えっと……」
ヒフミは『アズサちゃんは何と戦っているのでしょうか……?』と思いながら苦笑い。多分、そこを突っ込んでも堂々巡りになるだけだ。まだ短い付き合いながら、段々とアズサの事は分かってきている。
そして、そんなヒフミを尻目にアズサは改めて室内を見渡した。
「ふむ……ここが兵舎……いや、居住区か。綺麗だな。こんな施設を使わずに放置していたなんて……無駄遣いも良いところだ」
「あの、アズサちゃん……私達は此処に戦いに来たのではなく、勉強をしに来たので……」
「うん、分かっている。一週間の集中訓練だろう? 外出禁止、自由時間はごく僅か、24時間一挙手一投足まで油断する事は許されない……私好みのハードなトレーニングだ」
「えっと、流石にそこまでではないと思いますが……」
確かに許可のない外出は禁止であるし、自由時間も朝食前と夕食後のみしかないが……アズサの発言ほど厳しいわけでもない。24時間気を張る必要は無いし、一挙手一投足を監視されている訳でもない。そもそも監視する人は居ない。あくまで勉強のための合宿なのだが……アズサは此処に軍隊か何かの特殊トレーニングにでもしに来たのだろうか。ヒフミの疑問と苦笑いは尽きなかった。
「きちんと準備もしてきた。体操着や細かい着替えと下着、衛生面の歯ブラシや歯磨き粉、石鹸、非常食、毛布、水筒、予備の銃に特殊工具、ガスマスク……」
アズサの持ち込んだ荷物から次々と出て来る道具たち。それらは合宿に必要そうなものであったり、そうでもなさそうなものであったり。ガスマスクは相変わらず持ってきているため、丁寧に手入れされているであろう痕を見るに彼女の愛用品なのだろうか。
「流石はアズサちゃん、用意周到ですね」
「当然だ。徹底した準備こそ成功の糸口だからな」
「えっと、戦闘の準備の話ではないですよね……?」
「あぁ。本来の目的は忘れていない。勉強用具も持ち込んでいる」
アズサは「ほら」と言い、鞄の中を見やすく整える。何かと戦いに来た、或いはこの合宿所で籠城しに来たとしか思えない戦闘用の物品の下、鞄の下の方に参考書やノート、筆記用具が詰め込まれているのを見てヒフミは安心する。これで勉強用具の姿が無かったら本格的に頭を抱えていたが、その心配は杞憂に終わった。
「うふふっ、皆で一緒に食欲を満たし、睡眠欲を満たし、そして皆が欲する目標へと向かって脇目も振らず手を動かす……良いですね、合宿。何だか楽しくなってきました」
「……うん、そうだね」
ハナコの何処か含みのある言葉にアズサは柔らかな笑みで答える。何の影も持たない、穏やかな笑み。その優しい笑みには彼女の本来あるべき姿がよく表れているように思えた。彼女は本当はこういう風に笑うのだと、誰かにそう言われているような感覚さえ覚える。
今この場に居ない、彼によく似た表情。彼も時折こうやって笑っていた。眩しそうに、心底幸せそうに。唯一、彼と明確に異なる点を挙げるとすればアズサの笑みには灰のような寂しさが見えない点だけ。彼女の笑顔には澄んだ青空のような透明感と確かな感情の鼓動だけ。
だが、その笑みも直ぐに引っ込んでしまって。
「あ、でも任務は確実に遂行する。きちんと勉強して、第二次特別学力試験にはどうにか合格してみせよう。その目標の為に此処に来たんだ。だから、その……迷惑は、かけたくない」
「アズサちゃん……」
そう言い、少しだけ顔を俯かせるアズサ。彼女自身、決して褒められるような成績をしていない事には自覚的だ。異なる世界の記憶を持ち越しているとはいえ、勉学に関しては自信がある訳でもなく、年数の経過により忘れている部分やそもそも記憶自体が穴抜けになっている部分も多かった。それに加えて、トリニティに転入するまでは勉学をするような機会なんて皆無だったため、あの時に学んだ座学の大半は忘れてしまっている。つまり、彼女のテストや成績に関する部分は手抜きでもやらせでもなんでもなく、完全な彼女の実力だった。
一度はやった事であり、聞けば分かる部分が多いとはいえ、成績が一朝一夕で向上しない事を身を以て良く知っているアズサにとってこの状況はあまり歓迎できない。それに、何より────自分の成績の良しあしで大好きな皆の行く先を決めてしまうのだけは嫌だった。皆には陽の当たる場所で笑っていてほしい、その願いに嘘偽りはない。
────落第になるつもりも、退学になるつもりも無い。計画は必ず完遂する。誰が何を企んでいようと、その策ごと踏み潰して、必ずあの女を玉座から引き摺り下ろそう。そうして、何もかも終わった後の青空の下で……皆に手を振って会えたなら。
だから、これはその為の一歩。何度も夢想した暖かな日々。誰かの掌の上である事は事実だけれど、それでもこの日々に偽りはないから。このありふれた光景の為に、自分は銃を取ったのだと。
「大丈夫。万一の敵襲に備えて対人地雷とクレイモアも用意してきた。あとは
「あ、アズサちゃん! ですからそういう危険なものは……!」
そう言い、アズサは鞄から次々に爆薬やら組み立て式の地雷やら、何やら物騒なものを取り出し始める。ここまで来たら逆に何が入っていないのか気になるほどだ。対戦車ライフルすらも持ち込んでいそうなほどに彼女の装備は別方面で充実している。
ガチャガチャと騒々しい音を立てながら鞄から凶器を取り出していたアズサだったが、ふと徐に手を止めて室内をきょろきょろと見渡して……そして、口を開いた。
「……先生は?」
「先生でしたら後ほど合流すると仰っていましたよ。何でも、シャーレに用事があるとか……」
ハナコは「設備の施錠とかでしょうか?」と補足するが、アズサは思案顔をした後、顔を愛らしく膨れさせて。
「むぅ……そうと知っていれば護衛についていたのに……」
「護衛ですか……夜遅くでもないですし、流石にそこまでは……」
「いや、必要だ。先生と敵対するものは多くいる。自衛はできるだろうが、それでも万一の為に先生の周りを固めておくに越した事はない」
その言葉には言葉以上の何かがある様な気がして、思わず3人は口を噤んでしまう。万一の為……そう言われてしまうと、確かに必要にも思えてくる。彼は驚く程に脆弱なのだ。ヘイローを持つ彼女達とは違う。無意識的に排除していた可能性が思考に入り込んでしまうと途端に怖くなってしまった。ヒフミはスマホを取り出し、ロック画面を眺めるが通知の類は届いていない。
まだ来ないのでしょうか────そう思ったヒフミの耳に入ったのは壁をノックする音だった。
「入っても大丈夫かい?」
「あ、はい! 大丈夫です!」
柔らかな声は先程まで話題の中心にいた人のもの。廊下から静かに姿を現したのは、少し小さめのボストンバッグを一つ抱えた先生だった。
「ありがとう……女の子の部屋なんだから、流石にドアは閉めた方が良いと思うよ」
「あら、男性ならうら若き乙女の私室は見たいものだと思っていましたが……こういうのはお好きじゃないんですか?」
「謹んでご遠慮させてもらうね」
命は惜しいし、何よりこれ以上変な噂を増やされでもしたら本格的に死にたくなる。やむを得ない事情で増えるのは構わないが、回避できるなら回避しておくに越した事はない。痴情の縺れはいつだって怖いのだ────なんて言葉は口に出さず、返答代わりの苦笑い。それを見たハナコは『やはり釣れませんね』と何処か楽しそうな感想。コハルとはまた違ったベクトルで、彼は揶揄い甲斐がある人だった。
そして、彼はわざとらしく一つ音を立てて咳払いをして改めて皆を見つめる。
「おはよう、皆。ちょっと遅くなっちゃってごめんね。本当なら来る前に合流したかったんだけど……私のスケジュールの立て方が甘かったよ」
彼の脳裏に過るのは此処に来る前の出来事。彼が暫くシャーレを空けると聞いたワカモは、それはもう盛大にごねた。彼女から見ればトリニティはきな臭い場所であり、その中でも輪をかけて面倒そうな
加えて、合宿期間中は彼の傍に控える事ができないというのも彼女にとって大きなストレスとなる。1週間という期間とはいえ、彼に会えず、彼の安全を守る事ができないのは耐え難い苦痛だった。
しかし、だからといってワカモを補習授業部の合宿所に連れて行く訳にもいかない。民間のホテルを拠点としていたアビドスの件と補習授業部の顧問としてトリニティの施設を使う今回では状況が明確に異なる。下手にワカモを連れて行ってティーパーティーに見つかった結果、補習授業部に変なペナルティを付与されても面倒だ。今回は初めから疑われている立場、彼女達が不利になりかねない言動は可能な限り慎むべきだろう。
そうして勃発した、先生とワカモの互いに一歩も退かぬ舌戦。ワカモを良く知る彼が思わず絶句してしまうほど盛大に駄々を捏ねた彼女と何とかして落としどころを探りたい先生の言葉の応酬は何かの交渉のよう。そうして互いに譲歩と妥協を重ねた結果、先生が毎夜ワカモに電話を掛けるという方向で落ち着いた。
この条件を取りつけた先生は『付き合いたての高校生カップルのルーティンか何かかな?』と思ったが、ワカモが一先ずの満足を得て引き下がってくれたなら良いだろうと納得し……今に至る。
────彼女の優しさに付け込んでいるようで、益々自分の事が嫌いになりそうだった。
「皆はこの部屋を使うのかい?」
「はい。人数分部屋はありますが、折角の合宿なので皆で身を寄せ合おうかと。その方がきっと仲良くなれますし」
「そっか、仲良くなるのは良い事だと思うよ。事情はさておき、こうして集まって生活をするなら猶更ね」
ハナコの言葉には折角の合宿を精一杯楽しもうとする心が溢れている。仲良くなりたい、友達になりたい、この合宿を良い思い出にしたい。混じり気の無い純粋な感情はきっと彼女の本来の姿なのだろう。ありのまま、思うまま、飾らない彼女の本心。
本質的に何処にでもいるただの16歳の女の子である彼女は、少しずつその本音を晒してくれるようになった。まるで素足を水面に触れさせるように、ゆっくりと。
ハナコはきっと、ありのまま咲いた方が美しい。
「先生も一緒に如何ですか? ほら、丁度ベッドも余ってますし」
……だからといって、そんな所まで
「一緒にって、ど、同衾って事!? そんなエッチなのは駄目! 死刑!」
「ふむ、一緒にか……確かに纏まって寝た方が安全ではある、のか……?」
「あはは……えっと、先生……?」
「いや、そんな心配そうにしなくても元から別の部屋を使う予定だよ。生徒と一緒に寝る変な趣味は持ち合わせていないさ」
ヒフミの『まさか、本当に……?』とでも言いたげな視線に彼は苦笑いしながら答える。生徒と寝床を同じくする趣味はないし、そもそも生徒と寝起きする部屋が一緒なのは倫理的にアウトだ。ヴァルキューレに突き出されても文句は言えないし、情状酌量の余地もない。それこそ、コハルの叫ぶ通り死刑にされても納得してしまう。
────それにしても、ヒフミにまで『やりかねない』と思われていたのは若干ショックだった。先生は内心僅かに気を落としながら、未だ顔を真っ赤にしているコハルを見つめる。一緒に、という言葉に過剰な反応をしている彼女の脳内では果たしてどんな
「ふふっ、コハルちゃんが寝不足になってもいけませんからね」
「なッ、何言ってんのよ! 寝不足になんてならないからッ!」
ああ言っていますが、多分寝不足になりますね────と内心ヒフミは思ったが、言葉にはしなかった。恐らく
ヒフミの想像を欠片も知らない彼は相変わらず仲良く言い合っているハナコとコハルを微笑ましいものを見る眼で見つめつつ、腕時計で時間を確認。ぱん、と軽く両手を叩いて皆の視線を集めた。
「部屋の話は取り敢えず置いといて、先ずは荷物の整理を軽くしようか。それが済んだら、一旦フロントに集まろう。合宿の詳しい話はそこで」
▼
「アズサちゃん、凄く良い化粧水使ってるんですね」
「む、そうなのか。私にはこういった物の良し悪しが分からないが……ハナコが言うならそうなのだろう。勉強になる」
「あら、誰かに選んでもらったのですか?」
「うん。トリニティに来た時に色々用意してもらったんだ」
声を掛けられたアズサは整理をしていた手を止めて、今自分が握っているサミュエラの化粧水をまじまじと見る。そうか、良いものなのか……とよく分からない感想。アズサ自身、化粧水などに強い拘りがあるわけでもなく、あるなら使う程度、寧ろなくても構わないほどに無頓着だった。
心機一転、新生活に向けて色々と整えようと言われた時は疑問符しか浮かばなかったが……あれはきっと、彼女達なりのエールだったのだろう。閉じた世界から一人歩み出す、いずれ懸け橋となる彼女へ手向ける選別。この空の下、自分達家族はちゃんと繋がっているのだという証明。
「そうなのですね……選んだ方は、きっとアズサちゃんを大切に想っているんでしょうね」
「……うん。そうだと、嬉しいな」
これを選んでくれた
▼
「コハルちゃんは何方のベッド使いますか?」
「えっと……じゃあ、こっち……」
コハルは通路側のベッドを指差し荷物を置けば、ヒフミは「じゃあ私はこちらですね」と窓際のベッドに荷物を置いた。
「コハルちゃんは何を持ってきたんですか?」
「着替えと勉強用具と、化粧水とか歯ブラシとか……べ、別に変なものは持ち込んでいないからッ!」
「そ、そこは別に疑ってませんが……」
逆に疑いたくなる程の剣幕で捲し立てるコハルに苦笑いしながら自身の荷解きをするヒフミ。彼女達は隣同士仲良く手を動かし、自身の荷物を整理していく。
────彼女達は気付かない。コハルの鞄の底の方に薄っぺらいピンク色の表紙の本が紛れていた事に。
「そう言うヒフミは……」
「私も然程面白味のある物は持ってきてませんが……あ、でもペロロ様はありますよ!」
そう言い、満面の笑みで取り出されたのは少々大きめのぬいぐるみ。所々使用感があり、ヒフミと毎夜を過ごしているであろうペロロ様なる存在は……コハルからしてみればキモい鳥でしかなかった。それを『可愛いでしょう!?』とでも言いたげなテンションで差し出されたコハルは「えぇ……?」と声を漏らしながらヒフミとペロロ様の間を視線が行ったり来たり。対するヒフミも内心『な、何かおかしかったでしょうか……?』と若干冷や汗。
合宿初日の朝、2人の間に微妙な空気が流れた瞬間であった。
▼
生徒達が寝泊まりする部屋のほど近くの空室。先生は其処を自身の部屋にする事にした。生徒がアクセスしやすく、この室内で発した声が生徒の居る部屋まで届かない距離感。音に関してはシッテムの箱を使えばどうとでもなるが、最初から気を付けられるなら気を付けておいた方が良い。内緒話をしにくるであろう生徒の為にも。
先生はバッグを下ろし、コートの中に仕舞っていたシッテムの箱を起動。合宿所を含めた周囲一帯のスキャンを実行した。建物内に隠しカメラ、盗聴器の類は無い。被疑者の段階ではプライバシーを侵害しない……恐らくそこがナギサなりの線引きなのだろう。
代わりに合宿所の入り口や周囲一帯に数えるのも嫌になる量のトラップが仕掛けられているが、これは十中八九アズサだ。生徒が引っ掛かったとしても別に命に別状はないし、精々ロープ等で拘束されるだけだろうが、掛かって嬉しいものでもないため手が空いた時に解除しておいた方が良いだろう。加えて、アズサへの注意も。
それ以外に気になる点は特にない、至って普通の合宿所。長らく放置されていたとはいえ建物の耐久は充分だ。この強度なら万一の時、シッテムの箱の権能を全開にすれば短時間ながらシェルターの代わりにはなる。高火力の殲滅兵器や権能を使われても時間稼ぎ程度なら可能だ。
……と、物騒な話はこれで終わり。先生は改めて室内を見渡す。ナギサから数日前に清掃をしたと聞いているが、部屋の隅の方に埃は溜まっていた。まずやるべき事は合宿所全体の掃除だろうか。
先生は自分の格好を見下ろす。革靴にスラックス、シャツ、ネクタイ、ジャケット、コート。どう見ても清掃には向かない服装。生憎と運動着は持ってきていないが……最低限ジャケットとコートさえ脱げば動きやすくなるだろう。生徒達は持ってきているだろうか、なんて思う。
運動着、水着、夏服。こういった薄着になる衣類はもう着れなくなってしまった。身体の傷や消えない痕、癒えない痛み。可能な限り素肌は隠しておかないと生徒に要らない心配をかけてしまうから。
先生はバッグの中から持ち込んだ荷物を取り出す。替えのスーツとコートが1着ずつ。下着類が数点。念のため持ってきた私服が1セット。タオルとハンカチが数枚。私物の化粧用品とバス用品。仕事道具のノートPC、筆記用具。それに加えて必須用品となってしまった人工皮膚とコンタクトレンズ、薬。
急いで準備をしたため、持ってきた荷物は彼がシャーレ外部で生活するのに必要最低限のものしかない。だが、1週間程度の滞在ならこの程度でも充分だろう。それに、クラフトチェンバーを経由すれば大体のものは持ってこれるのだ。無理に多くの荷物を持ちこむ必要は無い。
彼は荷物をクローゼットや化粧棚に仕舞いつつ、生徒に見られたくない人工皮膚と錠剤、ついでにあってもなくても何方でも良い財布を金庫に放り込む。そして、ノートPCを机の上に置き、電源に接続して放置。最低限の整理が済んだ先生はシッテムの箱をコートに仕舞って部屋を後にした。