シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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水面に煌めく平穏

 ハナコと連れられるコハルの後を追い、合宿所の少し離れた裏手に回った少女達。ハナコの言う通りそこには屋外プールがあった。

 学校等によくある短水路(25.01m)でも、大きいスポーツセンターにあるような長水路(50.02m)でもない、正方形に近い形をしたプール。それでも、数ある合宿所の内の一つが持つ設備にしてはかなり大掛かりのため、流石はキヴォトスに於けるマンモス校の一角と言えるだろう。

 

 ヒフミ達が足を踏み入れる前、一応最低限の清掃がティーパーティーの手配により行われていた。だが、それはあくまで合宿所の中や目につく部分、使用するであろう設備だけ。使用しないだろうと踏んだ設備には一切手が入っていなかった。

 

「私も確り見たのは初めてですが、これは……」

 

 プールの中には落ち葉や折れ枝、砂や泥が溜まり雨水と共に沈殿。プールサイドも同じ惨状で折角のパラソルやデッキチェアも汚れきっている。周辺も相応に荒れていて植物も好き放題にツタや茎、葉を伸ばしている。それ以外にも錆や黴が至る所に点在していて、これを掃除して綺麗にしようと思うと、1時間や2時間では済まないだろう。最低でも3時間、下手したらもっと掛かるかもしれない。

 

「だいぶ大きいな。汚れも広範囲だ。さて、何処から取り掛かろうか……」

「ま、待ってください。補習授業部に水泳の科目はないですよ? 汚れを見て見ぬ振りをするのは心苦しいですが、今無理にやらなくても……」

「ヒフミの言う通りじゃない? 試験に関係ないなら、別にこのままでも良いじゃん。掃除する必要ある?」

 

 プールの掃除に若干乗り気で、モップを片手に駆け出そうとするアズサ。

 このまま放置したくないし掃除はしたいけれど、別に今すぐする必要は無いと考えるヒフミ。

 使う用事も無いため自分達がする必要は無いと、清掃自体に難色を示すコハル。

 

 スタンスは三者三様だが、多数決を取れば反対に傾きそうな少女達を前に────ハナコは力説する。

 

「いえいえ、よく考えてみてください、ヒフミちゃん、コハルちゃん」

 

 何を迷う必要があるのか、と。ハナコは少女達のテンションを置き去りにして青春の光景に思いを馳せた。

 

「キラキラと輝く水で満たされたプール、楽しい合宿、はしゃぎ回る生徒達……ほら、何だか楽しくなってきませんか?」

「……え!? 何!? 分かんない、何か私に分からない高度な話してる!?」

 

 コハルはハナコの言っている意味や言葉の繋がりが理解できず脳はショート寸前。だが、理解できていないのは彼女だけでなく、ヒフミは相変わらず苦笑いだし、唯一プールの掃除に賛同したアズサも上手く把握できていない顔をしている。多分、発言者本人たるハナコ以外は理解できていない。その事実にコハルはちょっとだけ安心した。

 

 そして、ハナコの矛先は静観を決め込んでいる先生に向いた。

 

「先生は如何ですか? 可愛い生徒が4人、プールで楽しくはしゃぐ光景……見たくありませんか? 今なら水着も付いていますよ?」

「水着をお得な特典みたいにするんじゃありません」

 

 そう言い、ハナコに釘を刺しても楽しそうな表情は崩せない。彼女が甘い声で「はーい」と反省しているのかしていないのか判断しかねる微妙な声で返事をするのを聞きながら、彼は少しだけ目を細めて。

 

「皆が楽しくしている姿が見たくないか、と言われれば嘘になるかな」

「先生なら理解してくださると思っていました♡」

 

 先生の一番好きなものは生徒の笑顔であり幸福。楽しそうにしている生徒を眺めるのは彼にとって何よりの幸福である。そこに自分の居場所を作ろうとは思わない。作りたいとも思わない。ただ、彼女達が笑っているのを見ていることが好きなだけだ。

 

「ですが確かに、こうして放置されてしまったプールを見ていると……何だか寂しい気持ちになりますね。時間の経過、と言ってしまえばそれまでですが……」

「このサイズだったし、昔はきっと使われていた時期もあったのだろう。元々は賑やかな声が響き渡っていた場所なのかもしれない」

 

 視界に映る光景は人の時間が止まった痕。人の手を離れ、自然に還った姿。放置されていた正確な期間は分からない。数年かもしれないし、もしかしたら十年単位かもしれない。いずれにせよ、誰かがこの景色を忘れ去ってしまうには充分すぎる時間が流れたのだろう。

 

 アズサは屈み、足元に落ちていたものを拾い上げる。泥を被り砂に汚れ、経年劣化によりボロボロになったそれは浮き輪の断片だった。誰かの所有物だったはずのもの。それがこうやって、人知れず朽ち果ててしまっている。残酷なくらい時間の流れは正直だった。胸に突き刺さる様な寂しさに目を伏せ、アズサは拾い上げた誰かの思い出の表面をそっと撫でる。

 

「それでも、こんな風に変わってしまう……『vanitas vanitatum』……それが、否定できないこの世界の真実なのかもしれない」

「……?」

「えっと、アズサちゃん、その言葉は……」

「古代の言葉ですね。『vanitas vanitatum(全ては虚しいものである)』……確かに、そうなのかもしれません」

 

 vanitas vanitatum(全ては虚しいものである)────旧約聖書、伝道の書に記された言葉。空の空、虚無の虚無を意味するそれは、確かにこの光景に合致しているように思える。虚しさ、悲しさ、寂しさ。形あるもの、形なきもの、その何方もいずれは消える。永遠なんてどこにもない、どこまでも続いていく。だから、無くなる事だけが万物平等に与えられたピリオド────そう、だとしても。

 

「……けれど、私はそれだけじゃないのを知っている。例え全てが虚しくても、そこに在る意味や願いは消えないはずだ」

 

 アズサは大切そうにそう呟く。世界は残酷で、虚しく、最後には何も残らないのが定めかもしれない。この日々も幸福も、何もかも薄れてしまうだろう。時間を溶かした、世界という溶液の中で。

 だが、それでも意味は消えない。そこに確かに根差した願いや祈りは、薄れる事があっても消えない筈だ。例え全てが虚しくても、後に残るものはある────それが、アズサが知った大切な事。

 

 そんな少女を見て、ハナコは意を決したように顔を上げた。

 

「……アズサちゃん、ヒフミちゃん、コハルちゃん!」

 

 3人の名前を呼ぶ彼女の顔には決意を固めたような色。対して、名前を呼ばれたまだ状況が上手く呑み込めていなかった。

 

「今から遊びましょう!」

「え、えぇッ!?」

 

 唐突で突拍子もないハナコの宣言。それに少女は驚愕と困惑を相混ぜになった声を上げる。今日此処に来たのは勉強合宿の為であり、間違っても遊ぶためではない。1週間後に少女達の進退が掛かった特別学力試験が控えている現状、今このタイミングで遊びに耽るのは正気とは言えないだろう。

 

 そもそも、第一次の試験では合格に掠りすらしなかったのだ。プールの掃除なんて放っておいて、今すぐにでも勉強に取り掛かった方が余程建設的に思える。

 

 でも────そう、だとしても。

 

「今から掃除してプールに水を入れて、皆で飛び込んだりしましょう!」

「で、でも私達は此処に勉強合宿をしに来ているので……」

「だからこそ、です。明日からは頑張ってお勉強をし続けないといけませんし、他の事にうつつを抜かしている余裕はありません。となると、今日が最後のチャンスかもしれないじゃないですか」

「えっと、何が最後のチャンスなのでしょうか……?」

「勿論────合宿の思い出作り、ですよ」

 

 ハナコの願いは唯一つ。この合宿を楽しい思い出にしたい、ただそれだけ。所属も学年も違う、集められた4人。それがこうして何の因果か交わり、親睦を深める事ができたのだ。なら、そこに少しくらいは勉強以外の……楽しい思い出があっても良いだろう。

 

 ────それに、合格しようが合格しまいが、ハナコにとってはこれが最後なのだ。最後の最後までつまらないことだらけでは思い返すのも嫌になってしまう。

 トリニティの生徒として過ごした1年と数ヶ月。嫌な事やつまらない事、退屈な事は沢山だったけれど……全部が全部そうだったわけではない。楽しい事は数えられるほどにはあった。ただ、あの箱庭で上手く笑えなかっただけで。

 そんな彼女の思い出の締め括りがこの補習授業部。沢山笑えて、楽しかった。心の底から笑えて自分を曝け出す事ができた幸せな時間。だから、もっと楽しいものにしたい。もっと綺麗なものにしたい。思い出したときに、『学生生活は嫌な事もあったけど、楽しかった』と言えるような日々を。子どもの時に作り上げた宝箱のような、煌めくもので溢れた時間にしたかった。自分にとっても、皆にとっても。

 

「折角、皆揃って合宿に来たんです。お勉強だけじゃ味気ないと思いませんか? それに、途中ではお勉強で疲れてしまって、遊ぶ体力も余裕もなくなってしまうかもしれません。それなら、今のうちに楽しく遊んでおかないと!」

「そ、そういうものなの……?」

「そういうものですよ、コハルちゃん。合宿に来てやった事がお勉強だけではきっと楽しくなんてありません。幸い、まだ試験まで充分時間はあります。でしたら今日一日、沢山遊んで思い出を作っちゃいましょう。折角の非日常(合宿)なんです、どうせなら楽しくいきませんか?」

 

 ハナコの言葉に、ヒフミとコハルは『確かに……』と心の何処かで腑に落ちるような納得感が生まれた。そう言われると、そうな気がする。確かに初日以降だと基本的に勉強だけしかやる事が無く、遊ぶことなんてできないだろう。

 唯一纏まった時間が取れそうな最終日はきっと疲れているだろうし、片付けと掃除もしなければならないから遊ぶ体力なんて残っていない。そう思うと、確かに初日くらい羽を伸ばしてリフレッシュして、明日から頑張る……なんて日程でもいい気がしてきた。

 

「私は賛成。思い返した時、笑えるような記憶があった方がいい。この合宿が皆にとってつまらないものになってしまうのは……私は、嫌だ」

「アズサちゃん……」

 

 一人、自分の意志で賛同を示したのはアズサ。彼女も概ねハナコと同意見。この合宿が嫌なもの、つまらないもの、思い出したくないもので終わるのは嫌だった。共に過ごすこの日々が、笑顔に溢れたものであってほしいという祈り。それは全く以てヒフミも同意見であったが……彼女には判断できないでいた。勉強か、遊びか。常識的に考えれば勉強した方がいいが、ハナコの意見も一理あり、無下にはしたくない。

 どちらを選ぶか、その二択が頭の中をぐるぐる回って頭の中がパンクする寸前になったタイミングで……彼女はこの場を静観している先生に視線を投げた。

 

「えっと、先生は……?」

「皆の判断に任せるよ。元々、今日の時間の大半は準備に使うと思ってスケジュールを組んでいたからね。今日の予定を分割して明日の空き時間に割り振れば、一日遊ぶ余裕くらいは作れるよ」

「え、えっと、では────」

「その代わり、明日は少しスケジュールが詰まっちゃうけどね。休憩時間はちょっと短くなるし、終了時間が少し遅くなる。皆がそれに納得するなら、止めはしないさ」

 

 先生がそう言えばハナコの表情も柔らかくなる。やるのは問題ない、だけどちゃんと皆を説得してね……なんていうエール。それだけで彼がどちら側なのか明白であったが、ダメ押しのように柔らかく口を開いて。

 

「それに、ハナコの言う事は正しいと思う。折角の合宿なんだから楽しまないと損だ。記憶に残るページはきっと色鮮やかな方が幸せだよ」

「ふふっ、先生もこう仰ってますから! さあさあ、皆さん早く濡れても良い恰好に着替えてきてください! プール掃除を始めますよ!」

「……うん。例え全てが空しい事だとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない」

 

 先生の同意も得たハナコは何の憂いもなく皆に強く勧め、元から賛同側だったアズサはプールを一瞥して……踵を返した。その確かな足取りに迷いはない。

 

「問題ない、水着も持ち込んでいる。待ってて、10分で着替えと準備を済ませてくる」

「あ、アズサちゃんッ!? って、早……!?」

 

 言うや否や、掃除道具と銃を持っているとは思えない俊敏さで駆け出していくアズサ。向かった先は恐らく合宿施設だろう。相変わらず話も早ければ行動も早い。それを笑顔で見送ったハナコは、まだ若干難色を示しているヒフミに声を掛ける。

 

「さあヒフミちゃんも! 水着は持ってきてますか?」

「い、一応持っていますが……ですが、プールの掃除道具なんて……」

「そこは私が何とかするから心配しないで」

「ふふっ、流石先生です。では、ヒフミちゃんも着替えてきてください!」

 

 唯一残った懸念点だった道具問題があっさりと解決。先生も明日頑張れば問題ないと言っているし、ハナコの意見を否定したくはない。それらを考え、ヒフミはプール、ハナコ、先生の順で見つめ……そうして、意を決したように顔を上げた。

 

「あうぅ……で、でも、確かに此処だけ掃除しないのも何だか気持ち悪いですし……うーん……分かりました! 私も着替えてきます!」

 

 そう言って走り去っていくヒフミ。これで残るのは嫌そうな、面倒そうな顔をしたコハルだけだった。

 

「コハルちゃんもですよ! 早く水着に……いえ、何でも良いので濡れても良い恰好に!」

「え、えぇッ!? プール掃除なんて補習授業部と関係ないじゃん……うぅ、何で……」

「ふふっ……コ・ハ・ルちゃん……♡」

 

 コハルが最後まで中々首を縦に振らず、プールの清掃と遊びを拒否していると……ハナコは妙に圧を感じる笑顔を浮べたまま、手を怪しく動かしながら一歩一歩着実に彼女ににじり寄る。ニコニコとした笑みは宛ら獲物を前にした捕食者のよう。その圧に屈したコハルは転びそうな勢いで背中を向けて。

 

「わ、分かった! 分かったから! 着替えて来るから、無言で近寄らないでッ!」

 

 そう言い残して脱兎のように去っていくコハル。多少強引ではあるものの、一先ず全員の賛同を取りつける事ができたハナコは満足そうに息を吐いて、プールを眺めていると……ふと、隣から優しい声が掛かった。

 

「テンション高いね、ハナコ」

「ふふっ、そう見えますか?」

「うん。いつもの飄々としたハナコも素敵だけど、そういう風に笑っている君の方が私は好きだよ」

 

 先生の言葉に目をぱちぱちと瞬かせたハナコは、それが指す意味を理解した瞬間にさっと彼から顔を逸らした。顔が熱を持ったように熱い。今鏡を見れば、そこには初心な少女が一人映っていることだろう。

 

 ──────らしくない。こんなの自分のキャラじゃない。こういうのは自分ではなくもっと他の……それこそコハルちゃんのような可愛い子の役回り。

 

 ハナコは赤くなった頬を隠すように俯いて。

 

「……先生は、お世辞がお上手ですね」

「まさか、本心だよ」

 

 苦し紛れの反撃もさらりと躱されて、剰え追撃を貰ってしまう。ちらりと彼を横目で見れば、そこにはトリニティで見慣れた虚飾は一切存在しない。気を引くためとか、利用するためとか……そういった裏がない、紛れもない本心の言葉。だからこそ質が悪いのだが。

 ハナコは彼にばれないように深呼吸をして顔の赤みを引かせる。心臓はまだ高く鳴っているけど、これはまぁ大丈夫。さて、お返しにどうやって揶揄ってあげようか────なんて思っていると、「ハナコ」と声が聞こえて。

 

「? どうされましたか?」

「補習授業部、楽しい?」

「────はい、とっても」

 

 紛れもない本心であり、本音。補習授業部が楽しくて仕方がない。自分(ハナコ)は今、心の底から笑えている。その答えを満面の笑みと共に受け取った彼は嬉しそうな、見惚れてしまうほどに綺麗な笑顔を浮べて。

 

「……そっか」

 

 そうやって、優しく呟いた。

 

「そろそろ私達も準備をしてこようか」

「そうですね。皆さんを待たせてしまう訳にはいきませんし、私も着替えてきますね」

「じゃあ、また10分後くらいにプールサイド集合で」

「はい♡」

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