シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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この水底に思い出を沈めて

 あれよあれよという間にプール掃除とその後の息抜きの遊びが決定して大体5分が経過した頃。先生はモップの石突の上に両掌を乗せて、更にそこに顎を乗せていた。時折無意味に足をぶらぶらさせたり、景色をぼうっと見たりする事以外に特にやる事もやりたい事もなく、絶賛暇を持て余し中。

 

 彼は水着なんて持ち合わせていないため、必然的に掃除の時の服装……スラックスとカットソー、スニーカーを引き続き使う事になる。皆に合わせて一応合宿所の方に足を運んだが、着替える必要のない彼は本来それすら必要なく、持ち込んだタオルや制汗シートで軽く汗を拭った後は施設を出て、そのままプールサイドへ。タブレットを操作しクラフトチェンバーを起動、プール掃除に必要な道具一式を出してからは少女達を待っていた。

 

 モップに体重を預けるのも飽きたのか、彼は木に立てかけて木陰の外に出る。暖か……と云うには些か強い日差し。澄み渡った青空を眺めて目を細める。流れる雲が遠のいては融けて……先生の体が軋んだ。別に古傷が痛んだとか、そういう類のものではない。唯の単純な筋肉痛の予兆だ。暫くの運動不足が祟ったのだろう。

 

 その痛みを誤魔化すように先生は軽く体を解し、掃除道具を手に取る。少女達が来るまで待つより、少しでも掃除を進めておいた方が良いと思ったのだろう。折角遊ぶなら、その時間は長い方が良い。どうせなら名残惜しさすら感じられないほどに楽しんでほしかった。

 

 ────さて、何処から手を付けるべきか。

 

 パラソルとデッキチェアは汚れもそうであるが、経年劣化が酷く真面に使えたものではないため交換。交換作業は流石に一人ではできないため、生徒に手伝ってもらわなければならない。よって、これは除外。

 残るはプールサイドと好き放題に伸びる植物、プールの中。となると、一番時間が掛かりそうなプールの中から進めるのが無難だろうか。

 

 先生はゴム手袋を嵌めて、モップと各種清掃道具が入ったバケツを持ち、プールサイドを歩いて……水回りの設備がある場所まで辿り着いた。

 

 彼の中に生まれた────そもそもここの水回りは生きているのか、という疑問。水が出なかった場合は少々面倒なのだけれど、と思いながらバルブを捻ると透明な水が流れ出てきた。全身を微かに濡らす水滴が冷たくて心地いい。これで水回りは大丈夫、此処が生きているなら他の箇所も使えるだろう。

 

 懸念点が一つ消えた先生は本格的に掃除を開始しようとプールの中に入る。苔やら泥やら砂やら雨水やらで酷い惨状。ぬかるんだ足元から伝わる何とも言えない感触のまま、彼は水底になる場所を歩き、手を付けられそうな場所を探していると……足音が聞こえた。

 

「お、早いね。アズサ」

「そう言う先生も」

 

 少し早足で来た少女はトリニティ指定のスクール水着に着替えたアズサだった。先生が人数分準備していた掃除道具も抱えて準備は万端。尚、背中には相変わらず銃を背負っている。果して、それは濡れてしまう場に持ち込んでいいものだろうか。

 彼女は軽快な動きでプールサイドから中に飛び降り、着地。鍛え上げられた体幹には一切のブレが無い。文句のつけようもないほどに綺麗な着地であった。

 

「先生、どう進めればいい?」

「先ずはプールの中にある目につくゴミを取ってから、その後はサイドの掃除かな。サイドが綺麗になったら中の方に移って、最後にパラソルとデッキチェアを交換……こんな感じで進めようか」

「うん、分かった」

 

 

 ▼

 

 

 先生とアズサが先に掃除を進めていると、数分後にはヒフミとコハル、ハナコがサイドまで来ていた。ヒフミとコハルは2人ともアズサと同じく指定のスクール水着。彼女達は困惑を浮べて、ハナコを見ている。

 

「微笑ましいお2人ですね」

 

 だが、当の本人たるハナコはプールの中に居る2人を微笑ましそうに眺めている。真剣な表情で掃除を進めるアズサと先生。時折雑談を挟みながら淀みなく手を動かし、どんどん綺麗にしていく光景は確かにハナコの言う通り微笑ましいものだった。早く参加するべき、というのは分かっているはずなのに、もう少しだけ眺めていたい感情。2人の時間を邪魔したくないと思ってしまう。

 

「こうしてお2人が並んでいると、何だか兄妹に見えてしまいます」

「あはは……でも、何だか分かります。不思議ですね、見た目は全然違いますのに……」

「雰囲気が似ているんでしょうね」

 

 そう言われると、何処か腑に落ちた。確かに2人は雰囲気が似ている。

 言葉は飾らない、ただ心のままに想いを紡ぐ。表情も似ていて、特に時折浮べる微笑なんてそっくりだ。愚かしいと言えるほどに真っ直ぐで、ひたむきで、真面目。自分自身と世界、他人に真っ向から向き合っている。透き通っていて、透明で……気高い。それが2人の共通点。だからこそ、似ていると思うのだろう。

 

「アズサちゃんと先生に任せっきりにする訳にはいきませんし、私達も始めましょう。皆さん、びしょびしょになっても構わない服に着替えてこられたようですし♡」

「ま、まぁ、一応……」

「アズサちゃんも水着ですし、先生は……掃除の時と同じですが、きっと濡れても大丈夫なのでしょう。では……私達もお掃除を始めましょう!」

 

 そう言い、満面の笑みで掃除道具を持つハナコは意気揚々と先に掃除をしている2人に混ざるべく駆け出すが……それに全力で待ったをかける少女が一人。

 

「待て待て待てッ!」

 

 コハルは何食わぬ顔でプール掃除を始めようとしたハナコをブロック。この先へは行かせないと言わんばかりに立ち塞がる。だが、当の本人は首をかしげて不思議な表情。

 

 そう────ハナコの格好はトリニティの指定制服であった。白をベースにした爽やかな色合いの、今の時期によく映える色合い。だが、別に撥水性が高かったり、水場での活動に適した特性なんて何もない唯の制服。濡れれば重いし、乾くのにも時間が掛かるだろう。

 

 プール掃除とはおよそ対極の位置にある服であるのだが、彼女は何故かきっちり着込んできたのである。何時もは『着ろ』と懇願しても、いつの間にか水着に置き換わってしまっている制服を。それも、正義実現委員会たるコハルですら文句の付けようがないほど完璧に。これからプール掃除をする状況でなければ模範的な着こなしと太鼓判を押していただろう。

 

 だが、今はプール掃除の時間である。それなのに、濡れても良い服装として制服をチョイスするのは端的に言えば意味不明であった。

 

「コハルちゃん、どうしましたか?」

「あんた、掃除の時は水着だったのに、どうして今に限って制服なの!? 本当にバカなの!? 『濡れても良い服』ってあんたが言ったんじゃん!?」

「? これが濡れても良い恰好ですよ?」

 

 ハナコはやはり首をかしげて、コハルの言葉を呑み込めていない様子。くるり、とその場で一回転する彼女は360度どこを見ても制服。ハナコは自身の服を軽く引っ張ったり捲ったりしながら、何でもない当然のことのように口にする。

 

 通常、濡れても良い服として選ぶならコハル達のような水着か、先生のような後々洗濯することが決まっている服だろう。制服はその何方にも適さない……そのはずだ。コハルは少なくともそう考えているし、ヒフミとアズサの格好を見るに彼女達もそう考えている。おかしいのは、この場で制服を着こんでいるハナコだった。

 

 すると、ハナコは妙な真剣な表情で腕を組む。その謎の気迫に若干気圧されたコハルはその足を一歩後退させた。

 

「コハルちゃん、これは各々の美学の問題かもしれませんが……」

「え、美学……?」

「水着と制服、何方の方が濡れた時に『イイ感じ』になると思いますか? 勿論、透けも考慮して、です」

「は、はぁッ!? 『イイ感じ』って何よ!? 本当に何の話!?」

「ヒフミちゃんはどう思われますか?」

「はいッ!? え、えっと、その……私に振られましても……あうぅ……」

 

 唐突に爆弾を手渡しで受け取ってしまったヒフミは驚愕しながら視線を右往左往。その様子だけで満足したのか、ハナコは矛先を彼女から変えて……向けた先は、プールの中からサイドに上がってきた2人。

 

「アズサちゃんはどうでしょうか?」

「よく分からないが、ハナコがそれを濡れても良い服装として選んだのなら良いと思う」

「ふふっ……あ、先生は如何です? 制服と水着、濡れた時の姿としては何方がお好みですか?」

「いや、好みなんて特にないけど……まぁ、風邪は引かないようにね」

「……先生って枯れているんですか?」

「どうなんだろうねぇ」

 

 そう呟く先生は汚れたゴム手袋を外し、ごみ袋に入れる。汗で張り付いた前髪を乱雑に掻き上げながら上気した息を吐く彼は、ハナコに視線を戻して。

 

「ハナコは制服で掃除するのかい?」

「ふふっ……半分は冗談ですよ。ほら、中に実は着てるんです。お小遣いで買ったビキニの水着♡」

 

 そう言い、ハナコはトップスの裾を捲り上げる。引き締まりながら女性らしい柔らかさを感じられる健康的な肌によく映える、スクール水着と比べると布面積が狭いビキニタイプの水着。それがちゃんと制服の下から覗いていた。

 

「え、え……?」

 

 だったら最初から水着で来れば良かったのでは……? そう思ってしまったコハルは誰も責められないだろう。実際、コハルが正論である。だが、それがハナコの言う美学というものだ。制服から透けて見える水着とは良いもの、多分。

 

「先ほどコハルちゃんに『水着の着用禁止』と言われてしまいましたし、確かに学校ではスクール水着の方が鉄板ですが……今日はこれで許していただけませんか? スクール水着は今洗濯中でして、これが駄目だとすると私、着るものが……という訳で、コハルちゃん的にはこれは大丈夫ですか?」

「な、なんで私に判断を託すのよ……べ、別に勝手にすれば良いじゃん……」

「うふふ、ではそういう事で♪」

 

 とりあえずコハルのセンサーに反応せず、許可を得られたハナコはブラシを握り締めて────声高に。とても楽しい事の始まりを告げる。

 

「改めて、お掃除始めましょうか!」

 

 

 ▼

 

 

「コハルちゃん♡」

「今度は何よ……」

 

 背後から聞こえた声にコハルは少々疲れが見えるような表情でハナコを睨みつけるが、彼女はお構いなし。楽しそうな笑みを浮べながらコハルに近寄る。

 

「私、ちゃんと水着を着ていると思いますか?」

「はあ? さっき見せてきたでしょ?」

「……本当にそうでしょうか?」

 

 コハルは『何言ってるの……?』と猜疑を込めてハナコを見た。彼女は相変わらず制服。早く脱いで、水着になればいいのに────と思っていると。

 

「私が見せたのはあくまで上だけ。下は見せていません。スカートの下がどうなっているのか、誰も知らないのですよ」

「……それって、どういう……」

「その上でコハルちゃんに質問です。果して、私のスカートの下はどうなっているでしょう?」

 

 そう言い、ハナコはスカートの裾を摘まみ……ゆっくりと捲り上げた。徐々に露になるハナコの素肌。健康的な肌色と太もも。もう少しで何かが見えそう────となった段階でコハルは顏を真っ赤にしながら声を張り上げた。

 

「エッチなのはダメッ! 死刑ッ!」

 

 お約束になった言葉を聞いて消化不良を解消できたハナコは上品に笑いながら、スカートのサイドを上まで捲り上げる。端から見えるのは結ばれた紐。ビキニタイプの水着でよくあるデザイン。

 

 ということは、つまり。

 

「ふふっ、ちゃんと着ていますよ♡」

「もうヤダコイツッ!」

 

 

 ▼

 

 

「手際良いですね、アズサちゃん」

「そう言うヒフミこそ、私についてこれるなんて流石だ」

 

 プールの底に沈殿した落ち葉や折れ枝、砂や泥を集めるヒフミとアズサ。2人は各々担当する場所のゴミを片付け、強固な汚れや錆、黴を洗剤で落として、水で洗い流す。その繰り返し。単純作業であるがそれなりの重労働、だが息すら上がっていないのは身体能力の高さ故だろう。

 

 ヒフミ達より一足早く始めたアズサであるが、そのペースとリズムは落ちることなく一定を保ち続けている。非常にテキパキとした手際は、こと掃除の腕に限って言えばミレニアムのC&Cと比較しても遜色ないほどであった。

 

「アズサちゃんはお掃除をよくするんですか?」

「いや、そこまで頻繁にしていない。だが、私室を清潔に保つ程度にはしている」

 

 考えてみれば変な質問だった、とヒフミは今更ながら思う。学生における掃除の機会なんてそういう類のアルバイトでもしていない限りは大体一緒だ。アズサもヒフミも、こうして合宿に来る前までは私室と学校の机周り以外の掃除なんてあまりしていなかった。

 

 ヒフミは誤魔化すように「あはは……」と笑い……話題を変える。アズサの事情に踏み込んだ話、友達として彼女の事をもう少し知りたくなったのだ。彼女にとって話し難い事でないといいな、と思いながら口を開いた。

 

「そういえば、アズサちゃんは編入で此方(トリニティ)に来たんですよね?」

「あぁ。色々と事情があって元居た場所を離れることになった。少し寂しかったが……仕方のない事だ。それに、別に今生の別れという訳でもない。今も楽しいから、トリニティに来たことを後悔していないよ」

「そうなんですね……連絡は取っているんですか?」

「うん、週に1回くらいは取っている」

 

 アズサは「私の大切な人達なんだ」と言って、はにかむように笑う。その表情は相手の事を心の底から好いていないと浮べられないもの。本当に大切な人達なんだな……そんな事を考えていると、彼女の視線がヒフミに向いた。相変わらず表情が読めないが、その暖かさだけは鮮明で。

 

「いつか紹介しよう。きっと、ヒフミも仲良くなれると思う」

 

 

 ▼

 

 

 プールサイド周りを掃除して、プールの中にあった目に付く汚れを取り終わった頃。洗剤による洗浄も滞りなく終えて、もう素足で入っても問題ないくらいになった。見違えるほど綺麗になったプールの中を、コハルはブラシで掃除している。だが、その手の動きは決して早いとは言えない。彼女はぼうっと、少し先で手を動かしている先生を見ていた。

 

「────コハルちゃん♡」

「ひッ! な、何よ!?」

 

 そんな彼女に忍び寄り、小さく声を掛けたのはハナコ。本日何度目かも忘れた声かけに反応し肩をビクッと震わせるその様子が何とも小動物のように見えて愛くるしい。本当に可愛いですねぇ────その気持ちを呑み込んで、満面の笑みでハナコは彼女の隣に立つ。

 

「分かりますよ、コハルちゃんの気持ち」

「え、何ッ!? 私は何も分からないけどッ!?」

 

 ポン、とコハルの華奢な肩に手を置くハナコはうんうんと頷き、訳知り顔。対する彼女は純粋に怖がっていた。色々と唐突過ぎて脈略が無いし、話が一切見えないのだ。彼女の何がハナコに分かるのか、というか何を悟られたのか一切不明。

 

 そんな疑問を感じ取ったのか、ハナコは徐に指を持ち上げ……彼を指示した。先ほどまでコハルが熱い視線を向けていた人……尚、ハナコ調べであるため真偽はお察しである。

 

「初めて見る大人の男性。しかも普段はガードが固い人です。素肌なんてあまり見えませんが……今は違います」

 

 何処かの医者のような事を言いながら、ハナコは力説する。何が彼女をそこまで駆り立てているのかは一切合切不明。コハルのテンションは地の底だった。

 

「跳ねる水滴に時折服から見える素肌。チラリズムは女の子だけの特権ではないと見せつけられている気分です……あら、先生は案外鍛えていらっしゃるんですね」

「あ、あんたみたいな変態と一緒にしないでよッ!?」

「あら、でも先生を見ていたのは事実ですよね?」

「それは、えっと……か、監視だからッ! 先生が変な事をしないように見張ってたの!」

 

 口から出まかせで何かを言う度に後の自分の首を絞めることになる……コハルがそれを知るのはいつだろうか。多分、まだ暫く知る事はないだろう。その余りの必死さにこれ以上揶揄うのは可哀そうだと思ったのか、ハナコは驚くほどあっさりと手を引いて。

 

「ふふっ……じゃあ、そういう事にしておきましょう。さ、コハルちゃんも手を動かしてください。先生の監視も大切かもしれませんけど、それに掛かり切りになってはいけませんから」

「い、言われなくても分かってるわよッ!?」

「あ、もし掃除のやり方が分からないなら私が手取り足取り────」

「知ってるからどっか行ってッ!?」

 

 

 ▼

 

 

「……ふぅ」

 

 先生は少し熱っぽい息を吐き出す。心臓が高鳴って、肺がきゅっと閉まる様な痛み。呼吸を整えようと思っても落ち着かない。この程度の運動でも息が上がるなんて情けないにも程がある。思った以上に活動に支障があるな、と痛感。工夫すればどうとでもなると思っていたが……認識が甘かった。早い内に何かしらの手を打たなければならないだろう。

 

 その様子……過呼吸一歩手前の彼を見て、近くにいたコハルは心配そうに声を掛ける。

 

「先生、大丈夫……?」

「大丈夫だよ、心配かけてごめんね」

 

 そう言い、ふわりと微笑む彼であったが、やはりその顔色も声音も普段のものとは異なっている。長時間の活動による疲労。彼と自分達は根本的な能力が違うと知っていたが、この程度でも息が上がってしまうとは思わなかった。思っていた以上に彼は弱いのかもしれない。

 

「えっと、辛いなら休んでも……」

 

 コハルの提案、少し言い難そうに零れた言葉に彼は眼を瞬かせて……心底幸せそうに笑った。

 

「コハルは優しいね」

「……これくらい、普通だし」

 

 そこがコハルの美点だろう。自身が持つ優しさ、善性、正義……それらを当たり前のものだと思っていること。彼女はいつだって、自分の信じるままに進んでいる。眩しいくらいの在り方。ハスミが自慢の後輩と言って憚らないのも当然に思える。こんな可愛らしくて真っ直ぐな後輩がいたら、誰もが自慢したくなってしまうだろう。

 

 彼はコハルを安心させるように、努めていつもの表情を浮かべる。そうして微笑を一つ。

 

「あとちょっとだし、もう少し頑張ってみるよ。皆を働かせて私だけ休んでるようじゃ、先生として立つ瀬がないからね」

 

 

 ▼

 

 

「見てください! 虹ですよ! 虹!」

 

 青い箱の内側、素足を晒す少女達。水着になったハナコがホースを空に上げて水を振り撒けば、七色の軌跡が掛かった。キラキラと煌めく水飛沫。暑さを忘れてしまうような光景。夏と言うにはちょっと早いが、そこはご愛敬。季節を待っていては楽しい時が終わってしまうのだから。青い春は短し、走れよ乙女────というものだ。

 

 ハナコが掲げたホースから飛び散った水滴が降り注いだヒフミはその冷たさに驚きながら、だが楽しそうに声を上げる。

 

「ひゃッ!? ちょっ、ハナコちゃん冷たいですよぉ!」

「ふふっ、可愛らしい声をありがとうございます♡」

 

 ハナコは楽しそうにウィンクを一つ。ホースを頭上に掲げて、もう一度虹を作った。

 

「トリニティの湖から引っ張ってきている水ですので、そのまま口を開けても大丈夫ですよ?」

 

 そう言いながらハナコは四方八方に冷たい水を振り撒きながら、近場に居るヒフミは勿論のこと、コハルやアズサに向けても水を降らせる。ホースを渡す人の人選をミスったか、と先生は一瞬思ったが……ハナコが楽しそうなら良いだろうと納得。それに、ヒフミもアズサもコハルも楽しそうなのだ。なら、ハナコの好きにさせた方が良い。彼女は誰かが本当に嫌がる事だけは絶対にしない優しい子なのだから。

 

「ちょっと! こっちにまで掛けないでよぉ!? もう……!」

「ふふっ、コハルちゃん、油断しちゃだめですよ?」

 

 コハルは頭上から振り掛かった冷たい水に憤慨しつつも、その表情は幾分か柔らかい。棘が無いというべきか、何と言うか。恐らくこれが本当の彼女なのだろう。

 

「こちらアズサ、D2ブロックの清掃を完了した。続いてD3ブロックの清掃に取り掛かる」

「私の方も終わったからアズサの方に合流するよ。そこで最後だ、あとちょっと頑張ろう」

 

 動きやすいように髪を後ろで1つに纏めたアズサが区切ったブロックの隅から隅まで掃除して、別のブロックへ。タイミングを同じくして先生も担当箇所を終え、アズサと共に次の……最後の箇所の掃除に着手した。これが終わればプール掃除も終わり。あとは水で満たして、遊ぶだけだ。ハナコが望んだ楽しい時間まであと僅か。

 

 だが、間に合うかどうか。計算ではギリギリ、現時点では陽が落ちきる前に10分程度の時間が取れるけど……そんな事を考えていた先生であったが、その思考は問答無用で中断される。顔を目掛けて勢い良く水が掛かったのだ。完全な意識外、回避も防御も不可能。声を上げる事すら出来ないまま、先生はハナコがホースの手綱を再び握るまでの数秒間、水を浴び続けた。

 

「せ、先生ッ!?」

「む、敵襲ッ! ……ではないな」

「ちょ、大丈夫なの!?」

「すみません、手が滑ってしまって……大丈夫ですか?」

「ビックリした……地上で溺れるかと思ったよ」

 

 口ではそう言っている彼だが、その表情は何処か楽しそう。口角は上がっていて、眼は心底幸せそうに細められている。彼は全身から滴り落ちる雫に苦笑いしながら水を吸って重くなったカットソーの裾を絞り、小さく笑みを零した。

 

「ふふっ、濡れた先生もかっこいいですよ」

「そうかい? 不格好じゃないならいいんだけど」

 

 幾ら絞っても出てくる水に彼も諦めたのか、皺になった服を伸ばして整える。元より洗濯するつもりであり、濡れても構わない服として選んだのだ。スペアの服はあるし、困る事はない。ただ、少々動きにくくなるだけで。

 

 ずぶ濡れのまま服を放置しようとした先生であったが、その様子を見てアズサは疑問を浮べた。

 

「? 服を脱いで絞ればいいと思うけど……」

「いやぁ、流石にここで脱ぐのはね」

「確かにそうですねぇ」

 

 先生が渋ったのは、主に自分の体の事が原因。人工皮膚を切り貼りしている現状、素肌を晒すのは好ましくない。勘の鋭いハナコなら見ただけで違和感を覚えてしまうだろう。先生は履いていたミュールサンダルを右足だけ脱ぎ、つま先部分に溜まっていた水を落とした。

 

 対して、ハナコの視線はコハルに向いていた。彼がこの場で脱いだら十中八九、彼女のエ駄死センサーに引っ掛かるだろう、と。それはヒフミにとっても共通認識なようで、彼女の視線もコハルに向かっていった。

 

「な、何よ……皆して私を見て……」

「あはは……な、なんでもないですよ、コハルちゃん」

 

 そう言いながら、再びプール掃除を始める少女達。愛しい生徒達が屈託なく笑い合う光景は、彼が心の底から望み続けていたもので。

 

「あぁ────本当に、楽しいよ」

 

 

 ▼

 

 

 びしょ濡れになった先生が着替えのために一時的に離脱し、戻ってきた後は少し遅めのランチタイムとなった。

 

 期間中の外出が禁じられている上、冷蔵庫の食材は空っぽ。一応、夕方に1週間分の食材が届くことになっているが、その時間まで食事を取れないのは変らない訳で。お昼と言っても食べるものが無い……そう思った少女達に差し出されたのは4人分が一纏めになったピクニック用の大きめのお弁当箱だった。どうやら、こうなる事を見越した先生が朝早くから作っていたらしい。

 

 それに舌鼓を打ち、食べ終ったら掃除を再開。ご飯で元気も復活した少女達は先程よりも良い手際で作業して、テキパキと綺麗にしていく。時折遊びも混ぜながら、最大限楽しむように。先生はその輪に自分から混ざる事をしなかったけれど、寂しい傍観者のまま居続ける事を許してくれるような少女達ではなく。先生はハナコに、アズサに、ヒフミに、コハルに手を引かれて輪の中に放り込まれていた。

 

 掃除が終わり、水が溜まるまでの間に少女達は軽い夕食と綺麗になった浴室で入浴を済ませて、空き時間は勉強。ちょくちょくプールの様子を先生が設置したミレニアム製のカメラで遠隔確認しながら、満たされるその時を待っていた。

 

 楽しい時間はあっという間と言うが、全く以てその通りで、瞬く間に時間は過ぎ去った。太陽が傾き、空が茜色になって、藍色になって。そうして今は────深い濃紺の帳が降りていた。

 

 星明かりと常夜灯に照らされる水面は涼やかな風に吹かれて揺らめいていて、光をキラキラと反射させている。見違えるほど綺麗になったプールには水が満たされていて、いつでも使える状態。だが、少女達はそこに入る事はなかった。流石にこんな時間からプールに入るのは明日に響くし、何より危ない。

 

 少し冷え込む夜。制服に着替えた少女達の肌を風がそっと撫でていく。プールサイドに座ったまま、4人の少女達の視線は努力の結晶たる水面に向いていた。

 

「……」

「結局、プールに入って遊ぶことは出来ませんでしたね……」

「そういえば、水を入れるのは結構時間が掛かるものでしたね……ごめんなさい、失念していました」

「いや、謝る事はない。充分楽しかった」

 

 アズサは視線をハナコに向けてそっと微笑む。確かにプールに入れなかったのは残念だが、その口惜しさを打ち消して余りある程に掃除が楽しかったのだ。皆で騒ぎながら、遊びながら、笑い合いながら過ごす時間というものが。本当に楽しくて……泣いてしまいそうだった。

 

「……綺麗」

「そうですね。真夜中のプールなんて、中々見られない光景で……」

 

 月を映して静かに揺らぐ水面は幻想的で、まるで切り取られた世界のよう。色々とあったけど、楽しい一日だった────少なくとも、今のコハルはそう思っている。

 

「……んぅ」

 

 だが、今は真夜中と呼べる時間。1日をかけた掃除により疲れが溜まっていたコハルは限界を迎え始めていた。場を静寂が包むと意識が遠のいて、心地の良い微睡にヘイローが点滅する。普段は勝ち気な色を灯している双眸も眠気で蕩けて、少しずつ瞼が降りていった。

 

「あら、コハルちゃん。おねむですか?」

「そ、そんなことない、もん……でも、ちょっとつかれた……」

「確かに今日は朝から大掃除でバタバタでしたもんね……私もちょっと疲れちゃいました」

 

 ヒフミが「あはは」と笑っていると、とうとう限界を迎えたコハルがヘイローを消灯しふらりと横に身体が揺れた。それを咄嗟に支えたのは彼女の隣に座っていたハナコと……後ろで少女達を見守っていた先生。2人はコハルを起こさないように細心の注意を払いながら、そっとコハルの体を持ち上げ、そのまま彼はコハルをお姫様抱っこ。眼を閉じた少女は穏やかな寝息を立て、先生の腕の中で意識を夢に落としていた。

 

「……お疲れ様、コハル。お休み、良い夢を」

 

 彼は一日頑張ったコハルにそっと言葉を掛けて、跳ねている前髪を整える。少女を見つめる彼の双眸は穏やかそのもので、何度も見た生徒を愛する先生の姿。

 ヒフミもコハルを起こしたくなかったため、いつもより声のボリュームをダウン。囁き声に近い声量で皆に呼びかけた。

 

「コハルちゃんも寝ちゃいましたし、私達もそろそろお部屋に戻って休むとしましょうか? 明日から本格的に勉強合宿が始まってしまいますし……そろそろ寝ないと明日に支障が出てしまうかもしれません」

「うん、賛成だ」

「そうですね。では今日はこのくらいで」

 

 

 ▼

 

 

 合宿所に戻る道すがらでコハルが目を覚ましてしまったが、彼女はそのまま「ありがとう……」と眠そうな声を一つ、その後は再びうとうとし始めた。どうやら彼女にとってお姫様抱っこはエッチではないらしい。

 

 そうして小さな声で雑談しながら部屋に戻り、入浴を済ませ、少女達はパジャマである体操服に着替えて就寝時間。先生はまだやる事があるため、いつもと変わらずシャツとスラックス姿だった。

 廊下と少女達の部屋の境目で、今日一日を締めくくる挨拶を。

 

「それでは皆さん、お疲れさまでした」

「お疲れ様」

「はい、ではまた明日」

「……お疲れ様」

「お疲れ様、皆。ゆっくり休んでね。朝も言ったけど、一応念のため。私はあっちの部屋にいるから、何かあったらいつでも呼んでね」

「はい、ちゃんと覚えておきますね♡」

「だ、ダメ……そういうハレンチなのは、正義実現委員会として……!」

 

 楽しそうな声に彼は手を振りながら、彼はいつも通りの穏やかな表情で一日の終わりを告げる。

 

「おやすみ、皆。また明日ね」

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