シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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夜に染まり、星を見上げる

 おやすみなさい、また明日。その挨拶を交わして少女達と別れた先生は廊下を歩いて少しの所にある部屋に戻った。パタン、と静かな音を立ててドアを閉じると一人の空間が完成する。彼はシッテムの箱を起動し、部屋の状態をチェック。一応掃除や片づけは自分の手で行ったが、席を外していた時間に誰かの手が入っている可能性が無い訳ではないのだ。盗聴、盗撮、各種センサー。そういった類の動きを監視されるものが仕掛けられていない事を確認した彼はそっと安堵の息を吐く。

 

 こういう確認作業は決していい気分になるようなものでない。寧ろ逆、最悪の気分だ。誰かを疑ってしまっているから。

 

 彼は椅子に腰を掛け、シッテムの箱にモバイルバッテリーから伸びる充電ケーブルを刺してPCの電源ボタンをタップする。立ち上がる画面に数種類のパスワードを入力しロックを解除、メールを確認すると数件の書類が溜まっていた。合宿行きが決定する数日前に当番の生徒達総出で仕事を終わらせたため、シャーレのスケジュールに関してはかなり余裕があるが……この程度の量ならば目に付いた今にやってしまった方が良いだろう。

 

 ファイルを立ち上げ書かれている文言に目を通し、電子サイン。承認済みのフォルダに入れて、また別の書類。そうして20分程度で終わらせた彼はぐっと背伸びをして、時計を見る。日付が変わって大体1時間が経過した程度。深夜と言っても差支えない時間。10分程度仮眠を取るか、それとも他事をやるか。その二択で迷っていると……ふと思う。

 

「そういえばシャワー浴びてないな……」

 

 ずぶ濡れになった後、着替えるついでに軽く汗は流したが、それからずっと動きっぱなしだったのだ。決して少なくない量の汗を掻いているだろう。生徒達は掃除が終わりプールに水が溜まるまでの時間に済ませたようだが、そういった余暇を全て使い彼は明日以降の準備を行い、軽めの夕食を作り、少女達の勉強を見ていたため、今の今まで時間が無かったのだ。

 彼は自身の袖を近づけ軽く鼻を鳴らす。だが、意味のある情報は得られなかった。だが、汗臭かろうがそうでなくても、シャワーを浴びる事には変わらない。人工皮膚の交換があるのだ。どの道、1日の汚れは落としておきたい。

 

 先生は人工皮膚一式とバスタオル、スキンケア用品等とドライヤー、着替えをシッテムの箱と共にトートバッグに入れ……それから『忘れないうちに』とコンタクトレンズを外す。一度、付けたまま寝てしまって物理的に痛い目に遭ったのだ。その反省はちゃんと彼の中に活きている。人は成長する生き物なのだ。

 

 右眼のレンズを外すと瞳から蒼色の光が零れた。左眼のレンズを外すと露骨に視界が不鮮明になった。視力も随分ボロボロになったものだ、と何処か他人事のような感想を抱きながら先生は眼鏡を着用。さて、シャワーを浴びに行こうとドアをそっと開けると────。

 

「あれ、ヒフミ?」

「あ、えっと……こ、こんばんわ、先生。こんな夜中にすみません……」

 

 そこに立っていたのは数十分前に別れたヒフミであった。ジャージ姿で何処か申し訳なさそうに手をもじもじさせている彼女の髪は解かれている。いつもは二つに結ばれているだけに、髪を下した姿はどこか新鮮かつ大人っぽい印象を受けた。

 

「こんな時間にどうしたの? もう寝たと思ってたけど……」

「あはは、その、何だか眠れないと言いますか……あれこれ考えていたら、その……あうぅ……」

 

 そう言い、気を落とすヒフミ。静かすぎる夜に色々と考えすぎて眠れなくなってしまったのだろう。先生は廊下に誰も居ない事を確認し終え……丁度そのタイミングでヒフミは色々な感情が混ざった顔を上げる。

 

「あの、今ってお時間大丈夫ですか……?」

「大丈夫だよ。立ち話も落ち着かないし、良かったら部屋入って」

 

 

 ▼

 

 

 ヒフミを部屋に招き入れた先生は電気ケトルでお湯を沸かし、持ち込んだインスタント飲料の中からハーブティーを選ぶ。疲労回復、リラックス効果が期待できる先生愛飲のもの。新品の食器が多数入っていた段ボールの中から拝借したマグカップ2つにお湯を注ぎ、抽出。その後、ヒフミ用のハーブティーにスプーン1杯の蜂蜜を溶かし入れた。

 

「よかったらどうぞ。カフェインは入ってないから、この後寝れなくなる事はないはずだよ」

「ありがとうございます……何から何まですみません……」

 

 二人掛けのソファに座るヒフミの前に差し出された蜂蜜入りのハーブティー。白い湯気が立ち昇るそれを手に取り、彼女はハーブの香りをそっと吸い込む。ハーブの落ち着く香りと、蜂蜜の甘い香り。そっと口をつけて飲むと暖かさが体を巡った。少し冷え込む夜にはぴったりな飲み物。蜂蜜が入ってるお陰で飲みやすいのも嬉しい気遣い。彼女は暖かな吐息を漏らして、小さく呟く。

 

「美味しい……」

「口に合ったようで何よりだよ」

 

 先生はデスクの方から椅子を引っ張ってきて、そこに腰掛ける。丁度ヒフミとは向かい合わせの位置。彼は自身のマグカップを傾けてハーブティーを口に含んでいると、おずおずとヒフミは先生に疑問を投げかけた。

 

「あの、先生は先程どちらに行こうと……」

「シャワーを浴びに行こうとしただけだよ」

「す、すみません、そんな時にお邪魔してしまって……あの、出直しましょうか?」

「大丈夫、気にしないで。というか、私の方こそシャワーすら浴びていなくてごめんね。もし汗臭かったりしたら遠慮なく言って。最大限離れて換気するから」

「い、いえ! そんな……寧ろ────」

 

 良い匂いです、と口を衝いて出そうになったが、咄嗟に閉口して事なきを得た。心配と不安でいつも以上に口が緩くなってしまっている。シャワーを浴びれていない人の匂いについて言及するのはあまり行儀の良い真似とは言えない。親しき中にも礼儀あり、だ。恐らく彼は気にしないだろうが、それでも線引きは必要だろう。

 

 突然口を閉じたヒフミに先生は眼を白黒させながら「なら良いんだけど……」と呟き、もう一度カップを傾ける。

 そんな彼の姿をヒフミはぼうっと眺めていた。スラックスにシャツ、お昼に見た時と変わらない服装。だが、一点だけ変わっている所がある。

 

「……先生って眼鏡するんですね」

「普段はコンタクトだけど、夜はこっちなんだ。ヒフミが来るって知ってたらコンタクトを付けたままにしておいたんだけど」

「そうなんですね……でも、眼鏡もよく似合ってますよ」

「そうかい? これでちょっとでも知的に見えるといいんだけど」

 

 言い、苦笑いする彼に釣られてヒフミも笑う。先ほどまで胸に在った不安と心配は薄れて、忘れていた眠気と安心が大きくなっていた。凄いな、とヒフミは漠然に思う。彼も眠いはずなのに夜遅くの突然の来客に嫌な顏一つしないでもてなし、親身になって話を聞いてくれる。色々な人から信頼され慕われるのも納得だ。斯く言う彼女も彼を信頼しているし慕っているのだが……一緒に過ごしてよりそう思う事ができた。

 

 今日一日だけでも普段は見れないであろう彼の姿を幾つも見た。掃除をする彼、料理をする彼、就寝間際の彼。先生としての姿しか知らなかったヒフミにとってはどれもが新鮮で目新しく、そういった側面を見るたびに何故だか嬉しく思えた。何処か遠くにいた感覚があった彼が、自分達と同じように生きていると実感する事ができて。

 

「先生、今日はお疲れ様でした」

「ヒフミの方こそお疲れ様。もう補習授業部の部長が板に付いてきたね」

「そ、そうですかね……? そうなら良いんですけど……」

 

 ヒフミは何処か不安げな、自信のない表情で「あはは」と笑う。実際、彼女はよくやっている。突飛な行動を取るハナコやアズサに振り回される事はあれど、それでも上手く着地できているため文句なんて付けようがない。彼女は立派な補習授業部の部長だ。

 

「合宿初日、どうだった?」

「そうですね……楽しかったです。お勉強しに来たのにこんな感想なのは違うかもしれませんが……それでも、やっぱり楽しかったです。ハナコちゃんには感謝しないとですね。先生はどうでしたか?」

「私も楽しかったよ。皆との時間の全てが、ね」

 

 感想は同じ、彼も楽しんでくれていた。それが嬉しくてヒフミは小さく笑みを零して、マグカップの縁に口づけ。小さなリップ音が鳴った。

 

「明日から本格的な合宿、なのですが……私達、このままで大丈夫なのでしょうか……もし一週間後の二次試験に落ちてしまったら三次試験。万が一、それにも落ちてしまったら……」

「────全員、退学」

 

 先生がそれを口にすると、彼女は少しだけ驚いた後に何処か納得したような表情を浮かべた。

 

「……やっぱり、先生も知っていたんですね」

「うん。直接ナギサの口から聞いたのは一次試験の終了後、可能性としては……最初から考えてはいたよ」

「えっと、最初から、というのは……」

「顧問の話が私に来た段階さ」

「……先生は、凄いですね」

「そんな事ないよ。予想できるだけの材料があった、ただそれだけさ」

 

 苦笑交じりの先生の声にヒフミは俯き、下を向く。彼女は行儀よく膝の上に置いた手を握りながら、ぽつぽつと不安を吐露した。

 

「退学の話は誰かにしたかい?」

「いえ、誰にも。そもそも、言って良い事なのかどうかも分からなくて……」

 

 退学の件についてはナギサから明確に『言うな』と口止めされている訳ではない。だが、そう言われていないだけで開示しては駄目なのかもしれないし、下手に開示すれば混乱してしまう予感があった。だが、黙っていると友達を騙している気分で、いい気はしない。そんな二律背反が頭の中で堂々巡りして、結局言えずに居る。それがヒフミの現状であった。

 

「正直、私にも何が何だかよく分かっていません。学力試験なのにどうしてこういう『全員一斉に』みたいな評価システムなのかも分かっていませんし、私達の試験の為だけにこんな合宿施設まで提供してもらえるなんて……それに────」

 

 そうしてヒフミは口を閉ざす。言い難そうな表情。連続していない穴抜けの情報と、彼女の所作。まだ開示していない情報がある────そう確信するに足る充分な証拠だった。

 

「うぅ……」

「……ヒフミ、他にナギサから何か伝えられたかい?」

「い、いえ、そのッ……!? な、ナギサ様からはその、えっと……」

 

 視線が泳ぎ、手元をもじもじと動かす。唇を噛んで、動揺を見られないように俯く。半ば答えを言っているような、『自分は情報を持っています』と言って回るも同然の行為を前に彼は静かにカップを傾けて。

 

「部屋には防音対策を施している。聞き耳を立てても部屋の外から室内の音は聞こえない。盗聴、盗撮が無い事も確認済。この話を聞いているのは正真正銘、ヒフミと私の2人だけだ」

 

 彼がそう言うと、彼女はより一層迷いが伺える表情になった。場を沈黙が支配した1分。その間に彼女は何度も逡巡して……それから、ゆっくりと首を下げた。

 

「……はい」

 

 その肯定を前に彼は何も言わない。再びヒフミが口を開いてくれるまでただ待つのみ。

 

「退学の話とは違って、こちらは『誰にも言わないように』と言われていたのですが……私の手に負えるようなお話では、なくって……その、何と言えば良いのか……」

 

 言い難そうに淀むヒフミ。彼女は言葉を選び、何とか角が立たないようにと努めるが……沈黙を貫いていた彼はこのタイミングで言葉を紡いだ。

 

「────トリニティの裏切り者を見つけてほしい。そう言われたかい?」

「ッ!?」

 

 彼から飛び出た予想外の言葉にヒフミは今日一番の驚愕を浮べた。まさか知っているとは思わなかったのだ。トリニティではない、彼が。

 

「それをご存知という事は……」

「あぁ。私もナギサから同じ依頼を受けた」

「……そう、なんですね。私もナギサ様とお話していた時に────」

 

 

 ▼

 

 

 星の光が地へ落ちる時間。ティーパーティーのテラスにて。

 

 ヒフミはナギサからの呼び出しに応じ、ここまで足を運んできた。今まで此処に来たのはブラックマーケットで入手したカイザーコーポレーションの情報を報告する時、L118牽引式榴弾砲を貸してほしいと頼み込んだ時、補習授業部の部長をやってほしいと頼まれた時の計三回。そのどれもが思い出すだけでも胃がキリキリするようなものであったのだが……今回告げられた件はそれらを上回る途轍もない案件だった。

 

「ヒフミさん……補習授業部にいる裏切り者を探していただけませんか?」

「えっ、えぇッ……!?」

 

 唐突に告げられたものは、いっそ夢物語と言ってほしいくらいには現実味が無くて。だが、目の前に座るナギサの真剣な表情が現実であると告げている。

 

 てっきり散々だった先日の一次試験についてのお叱りだろうと気分が重くなっていたのだが……今となっては、それであればどれほど良かったかと思ってしまう。

 

 驚愕を浮べるヒフミを尻目に、ナギサは紅茶で喉を潤してから……目の前に座る少女の眼を見た。

 

「正直なところをお話しますと、今の補習授業部の試験の結果など特に気にしてはいません。あぁ、約一名だけ補習授業部を抜きに成績を気にしなければならない方はいますが……それも、今直ぐである必要は無いのです。試験に合格しなければ退学というのは、つまるところ最終手段」

「せ、成績を気にしない……? ナギサ様、一体何を────」

 

 仰っているのですか────その声はナギサにより遮られる。

 

「────ヒフミさん。出来る限り彼女達の情報を集め、早急に『裏切り者』を見つけていただけませんか。裏切り者が見つかればその時点で補習授業部は解散、皆さんは晴れて元の生活に戻れます。他の皆さんを助けると思って、ご協力いただければ。そも、ヒフミさんはその為に補習授業部に居るのですから」

 

 自身を真っ直ぐ射貫く瞳。責任感に溢れながらも猜疑に満ちた不思議な瞳。自分(ヒフミ)も疑われている、全ての論理を超えてそう確信した。

 敬愛するナギサに裏切りを疑われているのは悲しいが……それよりも強かったのは明確な忌避感。同じ補習授業部の友人を疑い、裏切りを炙り出せと言われて……素直に『はい、わかりました』なんて言える訳が無かった。それがティーパーティーの、ナギサの命令であってもヒフミは頷きたくない。

 

「その、どうして私が、そんな……」

「……どうして、ですか。その答えはヒフミさん自身にあります」

 

 ヒフミはあくまでセカンドプラン。ナギサにとっての本命は別にいたが、彼はナギサの策には乗らないと告げて()になった。であれば次善の策に行くのは当然。彼女が探偵役に求めた条件は、補習授業部の生徒の中で裏切り者の可能性が低く、かつ────。

 

「連邦捜査部シャーレとの繋がり。第三勢力であるシャーレを巻き込み、先生を近くに置けば裏切り者は無闇に動くことは出来ません。謂わば、塵がゴミ箱から飛び出さないための蓋のようなもの……でしょうか」

「ご、ゴミ箱だなんて、そんなッ……!」

「……失礼しました、忘れてください。今のは独り言です。他の事は全て些事、今は兎に角……」

「な、ナギサ様……! わ、私はその、こういう事は……!」

 

 ナギサの言葉を遮り、ヒフミは立ち上がって声を荒げる。彼女にしては珍しい言動。大切な友人が集まる場所をゴミ箱と侮辱された怒りが今のヒフミを衝き動かす。それがティーパーティーに喧嘩を売る行為であっても、此処だけは譲れない。大切な友達を疑い、絆を裏切る事だけは────何があろうと絶対にしたくなかった。

 

「────ヒフミさん」

 

 だが、そんな彼女の決意に冷水を浴びせるようにナギサは冷たい瞳で少女を見上げる。その威圧はヒフミを冷静にさせ、椅子に腰を掛けさせた。

 権力中枢で培われた場のイニシアティブを握る力。それは単なる一生徒に過ぎないヒフミを挫かせるのには充分すぎる圧を持っていた。

 

「他に選択肢はないのです」

「だ、だからといってこんな……」

「手を誤ればキヴォトスは多くの流血を強いられます。ヒフミさんやヒフミさんのご友人が凶弾に斃れる未来を現実にしないためにも……これは必要な事です」

 

 必要。必要。必要。必要だから疑え。必要だから裏切れ。友人を欺き、仇なす敵を見つけろ。そうしなければならない。そうしないと傷つく人が増えてしまう。自分や友達が傷つくのは嫌でしょう、と甘い毒のような正当性。

 ……だが、ヒフミは決してその必要性を肯定しない。だって、傷ついてほしくない友達には補習授業部の仲間達も入っている。

 

 そのあまりに意固地さにナギサは軽く溜息を漏らす。どうしてこう、協力してほしいと思った人に限って頑固なのだろう、と。

 

「……最終手段として用意した退学ですが、脅しではありません。止むを得ない場合。私は本気で皆さんを退学処分にするつもりです。裏切り者が見つけられなかった(失敗してしまった)時は、ヒフミさんも同じことになってしまうのですよ……?」

「……ッ」

「折角入られた学び舎です、ご学友を残し道半ばで去るのは無念でしょう。これはヒフミさんの為でもあるのです」

 

 学生という身分を人質に取られたヒフミは何も言えなくなる。退学は脅しではないと、本気だと改めて告げられ……このまま誰も疑わない道を選べばその末路を辿ると。

 

「ヒフミさん。頑張って裏切り者を見つけてください……吉報をお待ちしておりますよ」

 

 勝ち誇ったようなナギサの言葉に、ヒフミは下唇を噛んで俯いた。

 

 

 ▼

 

 

「……なるほど。アウトラインは私が聞いたものと大体同じか」

 

 先生は眼を鋭くし、思考を回す。何処にも向けるべきでない感情を呑み下して、開けた窓から入り込む夜風で脳を冷やした。それから、彼はふと優しく笑って。

 

「言い難いことだったよね、話してくれてありがとう。よく頑張ったね」

「わ、私は、その……裏切り者だなんて、そんな話……」

 

 俯き、ヒフミは言葉を零す。突然告げられた裏切り者の存在と、それを探してほしいという命令。それは誰かを疑ったり、裏切ったり、利用したり……そういった行為が蔓延る世界に身を晒してきた訳でもない彼女にとっては重すぎた。

 彼女は至って普通の子だ。モモフレンズが好きで、友達思いで、素直で、真っ当な倫理観と善性を兼ね備えた生徒。誰かを疑うという行為からは遠いはずの少女なのだ。

 突然押し付けられた荷物に押し潰されかけていた少女は何かを堪えるように少しずつその胸の内を吐き出していく。

 

「だって、そんなのおかしいです。皆、同じ学校の生徒じゃないですか……今日だって皆でお掃除して、一緒にご飯を食べて……凄く、楽しかったんです。それなのに、これで裏切り者を探れだなんて……そんな、そんな酷い事……うぅ……」

 

 ハナコ、アズサ、コハル。脳裡に楽しそうな彼女達の顔が浮かんでは消える。彼女達と出会ってからまだ1週間と少し。長い時間を共に過ごしていた訳ではないけれど、それでも彼女達がナギサの言う裏切り者である気がしなかった。だって皆は優しくて、暖かくて。共に笑い合った時間は本当に楽しくて、忘れたくない大切な思い出になったのだ。

 

 そんな大切な友達を『裏切り者』と疑うなんて────そんな事。

 

「そんな事、私には……」

 

 大切な友人を裏切るような真似は絶対にできない。あの時間を嘘偽りに満ちたものと疑うなんて絶対にしたくない。そう強く思うヒフミに掛けられたのは……柔らかな、優しくて暖かい声。

 

「────ヒフミは優しいね」

「え、えぇ……!?」

 

 唐突にも思える言葉に驚き俯いていた顏を上げるヒフミであったが、彼は酷く眩しいものを見るような眼差しで言葉を続ける。

 

「他の人を疑いたくない、騙したくない、裏切りたくない、仲良くいられたら嬉しくて、できるなら楽しく過ごしたい」

「えっと、確かに、そうですが……」

「それを曲げてまでヒフミは誰かを疑わなくていい。誰かの幸福を想えるその心を、ヒフミは大切にしてあげて」

 

 ヒフミのそう思う心は素晴らしいものだ。それを曲げて誰かを疑う事なんて彼はしてほしくない。その道を選んでしまえば、きっと彼女の心は軋んで悲鳴を上げてしまうから。

 彼は椅子から立ち上がり、彼女の前へ。膝立ちになり、震えている手をそっと包み込んだ。

 

「この件だけど、ヒフミは気にしなくて大丈夫。私が手を尽くすから任せてほしい。皆を退学になんてさせないさ。誰も欠けることなく、4人揃って補習授業部を卒業しよう」

 

 誰かを疑う事自体を先生は悪と断じるつもりはない。世界は綺麗事だけで回らないし、綺麗にデコレーションされたポップの裏側に欺きや猜疑が当然のものとして横たわっている事は……彼とて正しく理解している。だって、彼はそういった……人が思わず目を背けて、顔を顰めてしまうような世界の闇を見つめ続けていたのだ。所謂、必要悪というもの。それを否定すれば世界は立ち行かなくなってしまう。

 

 だけど、それを強要する事は違うはずだ。疑いたくないと叫ぶ人に疑いを押し付ける事は……したくない。それが自分の生徒であれば猶更。

 

 ────大切な友人を信じる道を選んだ少女(ヒフミ)の心を誰にも否定させない。その心を、想いを、願いを守る事こそが先生の本懐であり、存在意義だ。

 

「だから、ヒフミはヒフミのできる事、望む事を頑張ってほしい」

「私に、出来る事……私が、望む事」

 

 そういった面倒な、頭を悩ませる様な事は全て先生の管轄。ヒフミが背負うべきものではない。だから、彼女は心のままに在ればいい。どうしたいか、何がしたいか。その思いのまま、進んでほしい。

 

「どうしても迷った時、最後に問いかける場所は……此処だよ」

 

 そう言い、先生は自身の左胸を軽く叩いた。心臓のある場所。最後まで迷った時は、自分の心に問いかけてほしい────彼はそう告げる。

 

「……はい! 分かりました! あ、その、私に何ができるかはまだ分かりませんが……望む事ははっきりしています! だからまず、出来る事を探してみます!」

 

 彼女は半分ほど残っていたハーブティーを行儀よく飲み干す。その顔には先ほどまでの影はない。友達思いの優しい、いつも通りのヒフミが其処に居た。

 

「先生、ありがとうございました! 何だか心が軽くなりました……!」

「そっか、なら良かったよ。頑張ってね、私はいつでも君の味方だからさ」

 

 彼の言葉にヒフミははにかみ、徐に立ち上がる。憂いはある、心配や不安だって。だが、不思議と何とかなる気がした。乗り越えられると思った。

 

「ハーブティー、すごく美味しかったです」

「ふふっ……もう寝れそうかい?」

「あはは……多分朝までぐっすりです」

 

 彼は出口に向かうヒフミの後ろを歩き、ドアを開けて廊下に立つ少女を見送る。

 

「じゃあ、今度こそおやすみ」

「はい、おやすみなさい、先生」

 

 

 ▼

 

 ────同刻。合宿所、ロビーにて。

 

「────」

 

 ヒフミが先生の部屋に向かった数分後に起きたアズサは体操服から制服に着替え、銃を片手にロビーで佇んでいた。開けた窓から入り込む風を感じながら、ぼうっと星明かりを見ていると……ふと、後ろから物音が聞こえた。

 

「ハナコ? こんな所で何を?」

「あら、アズサちゃん」

 

 振り返った先にいたのはジャージ姿のハナコだった。まさか起きているとは思わなかったのだろう、アズサの表情が僅かに驚きで染まった。だが、その驚きはハナコも同じで。

 

「まだ起きていたんですか? それに、制服で、銃まで持って……?」

「必要量の睡眠は取った。だから見張りでもしておこうと思って……ハナコこそ寝なくていいのか?」

「私は夜風に当たりに来ただけですが、見張りというのは……? いえ、それよりアズサちゃん……もしかして実は全然寝られていないんじゃないですか? とてもしっかり寝た様なお顔には見えませんよ……?」

「……慣れない場所だと、あんまり寝られなくて」

「……そう、ですか」

 

 少し言い淀み、顔を伏せたハナコ。アズサの言葉に嘘があると感じ取ってしまった。勿論、そこに入り込む事はしない。話したくないものの1つや2つ、誰しもが抱えているだろう。

 

 故に、アズサが嘘を吐いた事はどうとも思っていない。恨むのは……そう言った事を見透かしてしまえる、この頭と眼だった。

 

「心配しなくてもいい。夜通し動くための訓練もちゃんと受けているから、5日間くらいなら寝なくても問題ない」

「いえ、そういう話ではなく……」

 

 ハナコの苦い表情を心配と受け取ったのか、アズサは微笑みながら答えた。何処かずれているのは相変わらず、ハナコは先程とは違う苦笑いで応じた。

 

「ハナコも散歩? どうやらヒフミも何処かに散歩に行ったみたいだし、先生の部屋の電気も点いてた。皆、慣れない所で不安だと思うから、少しでも安心させるために見張りでもした方が良いのかなって……そういう事だから、気にしなくて大丈夫。眠くなったら部屋に戻るよ」

「……アズサちゃん、あまり無理しないでくださいね」

「うん、ハナコこそ」

 

 アズサに見送られながらハナコは外に出る。涼しい風が体を撫でて、通り抜けていく。そっと空を瞳に映すと、深い藍に浮かんだ明かり達が眼に留まった。

 

 ────夜は深く、落ちてゆく。

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