シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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ヒフミと今後の準備を行ったあと、先生はマグカップを片付けて荷物が入ったトートバッグを片手にシャワー室へ向かった。生徒達は基本的に広い浴室の方を使っているため、此処を使うのは彼だけ。故に人目をあまり気にせずに諸々の事を済ませる事ができた。自室でこの類の事をやるのは生徒に見つかる可能性があるため、一人になれる場所の存在はありがたい。
お湯が滴る体。鏡に映るそれを無感情に眺めながらフックに掛けておいたバスタオルで水滴を拭き取った。何度も見た自分の肉体はお世辞にも綺麗と呼べるようなものではない。寧ろ真逆……汚くて、醜い。誰にも見せたくはないと思ってしまうほどには。
閉じ切ったシャワールームの中で先生は人工皮膚を取り出し、細かくサイズ分けされているそれを手慣れた動作で張り付けていく。何回もやったルーティンワークはものの10分弱で終了し、傷一つない状態に偽装した彼は扉を開けて隣接する脱衣所に向かい、かごに仕舞っていた衣服を手に取った。下着を纏い、スラックスを履いてベルトを締め、カットソーを着て、シャツを羽織る。そうすれば最低限誰かと会える状態になる。
洗面台の鏡の前でスキンケアを済ませ、ドライヤーで髪を乾かす。その後、細かな身だしなみを整えてから……僅かな迷いを経てコンタクトを付ける。折角外したが、もう今日はこのまま起きていることにした。あと数時間で陽が昇り、補習授業部の活動が始まるのだ。彼女達の先生として遅れる訳にはいかない。
数時間だけきっちり仮眠を取って、狙った時間に起きる……なんて器用な事はもうできない。睡眠薬に頼らず眠りにつけば中途半端な眠りと目覚めを繰り返す事になり却って辛いし、かといって使えば狙った時間に起きれないだろうという嫌な自信がある。こういう勘は、今のところ外れた事が無かった。
先生はそっと足音を殺して部屋に戻り、荷物を置いてロビーに歩く。何だか部屋に戻る気になれなかったのだ。部屋に居ると、空を眺めたまま朝を迎えてしまいそうで。どうせ起きているなら、何か意味のある時間にしたい。
閉められたロビーの扉を開けると、冷たい風が入り込んできた。シャワーで火照った体には丁度良い温度。暗い部屋を見渡すと……先客が一人。ジャージ姿のまま、夜風に長い桃色の髪を靡かせる少女。翡翠の瞳は物憂げな色を帯びていて……本当に深窓の令嬢に見える。
「……ハナコ?」
彼がそう呼ぶと、ハナコは少し驚いたような顔で振り返った後に、柔らかく笑って。
「あら、先生。こんばんわ。まだお休みになっていなかったんですね」
「そういうハナコこそ……寝付けなかったのかい?」
「……はい。先生に隠し事はできませんね」
ハナコはふわりと笑う。自分の意志とは関係なく、隠し事や嘘偽りを途轍もないほど高い精度で看破してしまう困った脳と瞳。ハナコが持ち、辟易としているそれを彼も持っているのだ。何だかシンパシーを感じてしまい、ハナコは彼を手招き。彼は何も言う事はなく、静かに彼女の元へと向かった。
ハナコが指し示した場所は彼女の真正面。どうせなら顔を見て話したいと思った彼女の思惑は何のためらいもなく座った彼により達成される。夜の暗さに慣れた彼女には星明かりだけで充分、昼程ではないがはっきり彼の表情を見る事ができた。
「先生、もし良ければ話し相手になってくれませんか? アズサちゃんもお部屋に戻ってしまったので……」
「勿論、私なんかで良ければ喜んで……というか、アズサも起きていたんだね」
「はい。先ほどまで此処で一緒におしゃべりをしていましたが、眠そうでしたので無理を言って休んでもらいました」
ハナコは夜風で涼んでからぼうっと景色を眺めて、アズサは見張り、ヒフミは先生と作業して、コハルは一人熟睡。先生はそもそも寝るつもりがない。随分と個性が出る夜の過ごし方であった。
「さて、何をお話ししましょうか」
「何でもいいよ。ハナコが話したいと思ったことを話してもらえれば、それで」
「ふふっ……迷いますね。聞いてほしい事も聞きたい事も沢山ありますから」
ハナコは「そうですねぇ……」と呟き、ぷらぷらと足を揺らす。優しい眼差しで見つめる彼にくすぐったさを覚えてしまい、視線を逸らして髪を指先で弄んだ。
そして、彼女はふと思い立ったように。
「……先生は、キヴォトスの外から来られたんですよね?」
「うん、生まれも育ちもキヴォトスの外。連邦生徒会長が失踪する前、彼女から要請されて此処に来た……まぁ、この辺りの話は知っての通りだよ」
「そうですか……キヴォトスの外はどんな所なんですか?」
キヴォトスの外。そこについてハナコは多くを知らない。
人が居て、動物が居て、植物がある。文明の発達具合は多分同等くらいで、社会が形成されている。その程度のふわっとした認識しかしていないのだ。キヴォトスには外の情報なんて全く入ってこないし、文献で残っている訳でもない。キヴォトスの外側にも世界がある、という事くらいしか知らないのだ。
だから、外の事を聞いた。他ならぬ外で生きていた彼に。この空の向こう側には何があるんだろうか────その疑問に対して、彼は申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、私は外を覚えていないんだ」
予想していなかったその回答にハナコの眼が見開かれる。
「覚えていない、とは……」
「文字通りの意味だよ。サンクトゥムタワーのロビーで眼を覚ます以前の事を、私は何も覚えていないんだよ」
────確かに、自分はキヴォトスの外で生まれた。そこで育ち、成長し、大人になった。そう考える事はできる。それが人が生まれ、成長する過程だと思考する事はできる。
サンクトゥムタワーで目覚める前の記憶の一切を保有していない彼はあの場で生まれたも同義であり、過去は一般常識に当て嵌めた推測以上の重みを持っていなかった。
これは彼にとって既に過ぎ去った話であり、改めて悲しんだり悼んだりするようなものではない。この道を選んだのは何処までも自分なのだ。積み重ねた過去よりも、未来を選んだ自分自身の咎。過去が無い自分を憐れむ事はない。過去を捨てたのはそれよりも大切な何かがあったからだ。
だが────ハナコは違う。あまりにもあっけらかんと、『昨日転んで膝を擦りむいたんだよね』と言うような口調で過去の忘却を告げられた彼女は驚愕で目を見開いたままだった。
だって、それはつまり。今まで生きてきた『結果』しか残っていないという事。過程は全て忘却の彼方に追いやられて何も残っていない。成長も挫折も成功も失敗も、何も。彼には『今』という結末しか与えられていなかった。
「本当に、何も覚えていないんですか? 何処に住んでいたとか、どんな生活をしていたとか……」
「うん、何も。自分の周りには何があって、何をしていたのか。自分の傍にどんな人がいたかも……分からないんだ」
彼が苦笑交じりにそう言えば、彼女は驚愕を浮べた顔に悲痛を混ぜて。
「ま、待ってください。では、ご家族やご友人の事は────」
「……友人はどうか分からないけど、家族は居たはず。人は無から生まれないからね。でも、それがどんな人達だったのかは、何も。姿も、声も、思い出も……私には残っていない」
家族がいた事すらも唯の推量。人は忽然と発生しない、という常識。生き物がどういうプロセスを経て生まれるか……その知識を元にした回答でしかない。
どんな人だったのだろうか。優しい人だったのだろうか、厳しい人だったのだろうか。家族想いの人なのか、家庭を顧みない人なのか。どんな声で、どんな声音で名前を呼んでくれたのか。その全てを、彼は失くしてしまった。
もし奇跡が起きて、家族と再会する事ができたとしても……先生には『家族を名乗る初対面の他人』としてしか認識できない。薄情者と後ろ指を差されてしまうだろう。
そして、彼が失くしてしまったのはキヴォトス外部との繋がりだけではない。彼は、彼自身も失っている。
「自分の名前も生まれた日も、もう思い出せないんだ」
どれだけ願おうと取り戻せないものを憂う彼に、ハナコは奥歯が砕けんばかりに食い縛った。
過去を失う事。それがどんなものなのかハナコは想像する事しかできない。だが、その損失を自分に当て嵌めると……酷く心が痛んだ。
友達の声、姿、思い出を失ってしまうのは……耐えられない。大切なものを何もかも失ってしまえば、きっと
────加えて、彼は名前も誕生日も失っていると言った。
思えば、彼の事はずっと『先生』と呼んでいる。別にそれで不自由を覚えた事もなく、キヴォトスに於いて先生は彼一人であるため誰かと混ざる……なんて事もない。
だが、少しだけ違和感があったのだ。何故彼は頑なに『先生』以外を使わないのだろう、と。彼の口から自身を指し示す言葉として『先生』や『シャーレの責任者』以外が聞こえた事はなく、周りの生徒も彼を呼ぶ時は『先生』だった。愛情表現の一つとして彼の事を名前で呼びたい人もいるだろうに。
しかし、もうそれに疑問は覚えない。分かってしまった。彼には『先生』や『シャーレの責任者』以外に自身を指すものが無いのだ。名前を忘れてしまったから。彼を示し、表す大切なものを失くしてしまったから。
誕生日もそうだ。きっと単純な日付も、誕生日を祝われた記憶も失ってしまっているのだろう。
────許せない。彼から大切なものを奪った何かも、それを何とも思っていないように話す彼も。全部が全部、許せない。
だが、この感情はどこにも向けるべきではない。少なくとも彼だけには向けたくはない。失い続けた、彼だけには。ハナコは自身の中で渦巻く感情を落ち着かせるように数度深呼吸をして……ゆっくりと頭を下げた。
「……ごめんなさい、辛い事を話させてしまって」
「いいんだ。話したのは私だからね。それに、いつまでも隠し通せるとは思ってなかったんだ。遅かれ早かれ、この話をする必要はあった。その一番最初がハナコだっただけさ……こんなつまらない、辛気臭い話を聞かせちゃってごめんね」
例えハナコが聞かなかったとしても、いずれこの話をしなければならない事には変わりない。これほど大きな欠落、いつまでも秘密にできるとは思っていないのだ。隠そうと思っていても空白は目立つ。キヴォトス以前の全てが漂白されている事は聡い生徒であれば感づける。
聞いてくれたのはハナコが最初だが、過去を一切話さない彼に違和感を覚えた生徒はきっといるだろう。聞かなかったのは彼に気を遣ったのか、それとも別の理由があるのか。
彼は「それに」と付け加えて。
「辛くないんだ。もう慣れたんだよ」
「────いえ、それは違います」
この欠落にはもう慣れていて、ちゃんと折り合いを付けれている────その言葉を、ハナコは強い口調で否定した。
「失うことは悲しいんです。忘れる事は苦しいんです。辛くない訳がありません。先生の心は失った日からずっと、痛みを訴えているはずです。先生はそれを覆い隠すのが上手なだけで。ですが、痛い時は痛いって言えばいいんです。我慢する必要はありません」
そう言い、ハナコは彼の手を握る。指先から伝わる温度が彼の心を赦し、融かすことを願って。
────欠落には苦痛が伴う。失った日から、失ったことを自覚したその日から、彼の心はずっと大切なものを失った痛みに泣いているはずだ。だけど、彼はそれに鍵を掛けた。痛くても前に進み続けた。痛みを訴える事を罪とした。でも、そんな事はしなくていい。そんな風に、生きなくてもいい。
「お名前を忘れてしまったのは悲しい、お誕生日を忘れてしまったのは悲しい、ご家族を忘れてしまったのは悲しい、ご友人を忘れてしまったのは悲しい。それでいいんです。どうか、その痛みを否定しないであげてください」
別に痛みを肯定する必要は無い。だが、否定する事だけはしないでほしい。その痛みは心が鈍化していない証拠だから。失ったものを大切だと思っている証拠だから。それを否定してしまえば、大切だと思う心を否定する事に繋がる。それは彼にしてほしくない。大切なものは大切でいいはずだ。失くしたものを想って涙を流したっていいはずだ。そうする事でしか失くしたものを実感できないなら、猶更。
だけど、涙だけで終わるのは悲しすぎるから。涙の後にはとびっきりの笑顔があっていいはずだ。彼の記憶に残るような、決して忘れられない楽しい思い出を。
「先生、補習授業部が終わったら誕生日パーティーを開きましょう」
「構わないけど……誰のだい?」
ハナコを含む補習授業部の生徒達の誕生日は近日中にはない。比較的一番近いと言えるコハルですら二か月近く前で、祝うには少々遅いだろう。かといってヒフミやアズサは半年先であるし、ハナコに至っては来年だ。
補習授業部の少女達と親交がありそうで、近頃が誕生日の生徒となると……本当に思いつかない。生徒の誕生日は全て把握しているつもりであったが────なんて考えていると、彼女は見惚れるような笑みを浮かべる。この話の流れで『誰の』なんて聞く鈍感な彼を揶揄うように。
「勿論先生の、です」
「え、なんで……?」
疑問符を浮かべる彼を置いてきぼりにして、彼女は楽しそうに言葉を紡いでいく。
「シャーレには広いレクリエーションルームがあるんですよね? ヒフミちゃん、アズサちゃん、コハルちゃん……いえ、もっと沢山の方を呼んで、皆で盛大にお祝いしちゃいましょう。学校は関係ありません。先生をお祝いしたいと思う全員で、先生の誕生日をお祝いするんです」
「えっと、いまいち話が見えないんだけど……」
「────私は」
先生の手を握るハナコの手に少し力が入る。痛くはない。ただ、決して離さないと言われているようで……否応なく彼女の存在と温度を感じてしまう。
「先生の過去を作る事は出来ません。先生が失ったものを取り戻す事も出来ませんし、喪失感を忘れさせることや消すことだって……きっと、出来ません」
過去は過去。既に過ぎ去ったものを今から新しく作る事は出来ない。良くも悪くも過去というのは代替できず、変えられないものなのだ。それは万人共通のルール。この世界の当然の理だ。
そして、失ったものを取り戻すことだって……ハナコにはきっとできない。どうやれば取り戻せるか全く分からないし、そもそも彼が失ったものが多すぎる。失ったことに伴う喪失感は想像できないほどに重く苦しくて、きっと彼は心に底なしの穴が開いたまま。悲鳴も上げられないほど、涙も流せないほど辛く、痛かっただろう。
────それを真っ白にしてしまう事は、どうやったって不可能だけれど。
「でも、未来なら。これからなら作れます。失ったものを取り戻す事も、忘れさせる事も、消す事も出来なくても、これからの楽しい時間なら作れるんです。失ったことが辛いままでも、その辛さを上回るくらいに楽しい日々があれば……きっと、辛くても笑えると思います」
今までの過去は作れなくても、これから過去になる思い出なら作れる────ハナコは真っ直ぐ、彼の眼を見てそう言った。多くの悲しみと痛みを見つめてきた彼の心を映す眼を。
過去は変えられない、それは常識だ。だから彼の失ったものは喪ったままで、その苦しみも辛さも痛みも悲しみも全部が全部そのまま。何一つ変わらない、変えられない。
だけど、それでも。失った日々を上回る様な『何か』があればきっと笑えるはずだと彼女は信じている。痛みはそのままで、それを抱えて歩いて行かなければならないのは同じでも、まだ歩いていない道までも痛い必要は無い。今までが辛くても……否、辛いからこそ、これから歩く道くらいは楽しいものであってほしかった。
何一つ変わらないままでも、そこに籠められた意味は変える事ができる。辛い過去を見続けて歩くのは凍えてしまうほど寒いだろうから、その隣に暖かな記憶を。その熱が夜を歩く彼の灯になる事を祈って。
ハナコの真っ直ぐな目。イノセントな翡翠色の瞳は月明かりに煌めいていて、揺れる事なく先生の瞳を見つめている。こんな、自分の色さえ見失ってしまった偽りの眼を。
────彼は彼女から目を逸らして、自嘲するように笑う。
「……私は、自分の事が何一つ分からないんだよ」
「関係ありません。そもそも誕生日の本質は『生まれた事をお祝いする日』です。生まれてくれて、出会ってくれてありがとうと大切な人に伝える日ですから。誕生日じゃない、何でもない日に誕生を祝ってもいいんです」
何一つ分からなくても、この世界に在る以上は生まれた事を祝われる権利があるはずだ。誰にも祝福されないなんて哀しすぎる。きっと、彼は誰かに祝われた記憶すら忘れてしまっているから……皆でお祝いしよう。今までの分を取り返せるよう盛大に。生まれてきてくれてありがとう、出会ってくれてありがとう、先生でいてくれてありがとう、彼にそう伝えよう。
「もし『誕生日を忘れた人を祝う必要なんてない』とか、先生に酷い事を仰る方がいたらすぐ教えてください。全員黙らせますので♡」
悪戯っぽく笑うハナコに彼は苦笑。彼女が言うと何だか冗談に聞こえなかった。本当に、彼女が使える全ての手段で以て全員黙らせてしまえそうで。
「……えっと、色々と勢い任せに決めてしまいましたが、ご迷惑ではありませんか……?」
「迷惑なんかじゃない……嬉しかったよ。ハナコがそう言ってくれて」
色々と突然で、計画に無くて、流される間に決まってしまった。その唐突さに驚きこそすれ、迷惑なんて全く思っていない。本当に嬉しかった。
「私は皆が思うほど立派な人間でもなければ、高潔な人間でもない。皆に相応しい先生であろうと似合わない背伸びを続けた結果、大人の振りをするのが上手くなっただけ。銃を向けられるのは怖いし、戦いは嫌い。皆と笑い合いながら暮らせたらな、って毎日考えてるよ」
先生の根底を聞いてハナコは『彼らしい』と思った。そうして平穏の中を生きる方がずっと彼に似合う。少なくとも、彼が銃やら何やらを握って誰かと撃ち合う……なんて光景は全く想像できなかった。
「でも、私ができるようになったのは真逆の事ばかり。戦う事ばっかり上手くなって、誰かを傷つける事ばかり得意になった。その道しか選べなかった自分の事が一番嫌いで仕方なかったんだ。本当に、殺してやりたいくらいに」
平穏と笑顔を望めば望むほど遠ざかり、叶わない夢を見れば見るほど痛い目を見る。戦場を忌避すれば忌避するほど、流血に愛される。それが彼の在り方だ。
何度も殺されそうになりながらもその度に悪運に助けられ、生き延びてはまた次の戦場を渡り歩く。殺す技術ばかり研ぎ澄まされて、傷つける手段ばかりが多彩になっていく。できるようになったのはこんな事ばかりだ。
────もう分かっている。自分は何処にも行けない。戻れる道は炎に消えた。平和の中に自分の居場所はない。何もかも終わった後、生徒の隣では生きられない。生きていてはいけない。自分が生きていい『もの』だとは思えない。きっと連邦生徒会長が望んだ答えではないけれど、これだけは譲れない。キヴォトスで生きるべきなのは彼女なのだ。間違っても、私ではない。
「私、本当に酷い人間なんだよ。ハナコに祝われるような人生なんて全く送っていない。自分は嫌いだし、自分が憎い。一番殺したいのは自分で、一番赦せないのも自分。自分なんて生きていなければ良かった、なんて思ったのは一度や二度じゃないよ」
生まれてしまって、生きていて、存在していてごめんなさい。そんな言葉が口癖になってしまうほど一時期は自分の全てを否定していた。今でこそ口に出すことはなくなったが、心に横たわった冷たい自己否定は変わらない。
今まで一度も自分を許したことも、愛したことも、肯定したことすらなかった彼は「でも」と言ってハナコを真っ直ぐ見た。今度は、逸らさない。
「ハナコがそう言ってくれて……初めて、自分の存在を肯定できるような気がしたんだ」
その笑みは先生としてのものではなく、忘却の彼方に追いやられてしまった『彼』のもので。
「そうだね……迷惑じゃなければ、お願いしてもいいかな。私の誕生日会」
「はい、勿論です! 楽しみにしておいてくださいね、先生♡」