シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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在りし幸福の筆跡

 バスのICリーダーにカードを翳して決済を完了させて、先生とコハルはバス停に降りる。トリニティ総合学園の正門からほど近い場所は19時を前にしているという事も相まって学生の影は疎らだった。部活動や委員会の活動時間も過ぎているため、多くの生徒は今頃寮で自分の時間を過ごしているか、或いは帰路の途中だろう。皆がトリニティの外に向かうのと相反するように、先生とコハルはトリニティの校舎、正義実現委員会の差押品の保管所へ向かっていた。

 

 普通の委員会や部活、団体は正門が閉まる18時までには活動を終えて帰宅しなければならないのだが、正義実現委員会はその活動の関係上、唯一例外的に終了時間を持っていない。自治区内で何か問題が起きれば、或いは通報を受ければ直ぐに出動しなければならないからだ。故に正義実現委員会は規則上、18時を過ぎても活動しているのだが……これはあくまで規則の上での話。守るべき生徒が学校から去る18時を回れば正義実現委員会の少女達も寮に向かい、自宅での待機という名目で自分自身の時間を過ごしている。

 

 だが、何かしらの役職を持っている少女達……最低でもハスミは事務系の仕事を静かな間に済ませておく習慣があるため、彼女はまだ残っているだろう。もし鉢合わせてしまったら、その時はその時だ。ハスミは柔軟な生徒であり、可愛がっているコハルの言葉なら必ず耳を傾けてくれるだろう。

 

「……そ、その、先生」

「どうしたの?」

 

 先生の左隣を歩いていたコハルが控えめな声を出せば、彼は足を止めて彼女の方を見る。すると彼女とバッチリ視線が合ってしまい、それに気恥ずかしさを覚えたのか数回視線が上下左右に移動して……差押え品ことエッチな本が入ったバッグを両手で抱きながら、赤らめた頬のまま彼を見上げ、言う。

 

「い、言っておくけど、こればっかりは本当に間違いだから!」

「ん? ……あぁ、本の事ね」

 

 主語が吹っ飛んでいたため一瞬何のことか分からなかったが、直ぐに思い至る。先ほどまで必死な様子で否定していたのだ。誰かに『そういう子』だと思われたくない……そんな願いの発露を先生は真っ直ぐと受け止めた。

 

「い、いつもはちゃんと隠し……じゃなくて、あんまり持ち歩いたりしないし……」

「ふふっ……」

 

 コハルの必死な弁明。隠していたり、持っていたりする事を自白してしまっていることに彼女は気付いていない。色々とありすぎて繕うのを忘れてしまっているようだ。彼はくすりと笑いながら、コハルを手招き。疑問符を浮べながらも近くに寄って来てくれた彼女の背丈に合わせるように屈んで……耳元でそっと囁いた。

 

「────次は皆にバレない様に、ね?」

「ッ!?」

 

 コハルの耳元を擽った彼の吐息。悪戯心を偲ばせながらも優しさや思いやりを感じさせる暖かい声。拙い嘘や言葉の全てを見透かしていると言わんばかりの瞳。

 

 バレている、全部。そう思ったコハルは目にも止まらぬ速さで飛び退き、頭からずり落ちた帽子とバッグを抱えながら真っ赤な顔で彼を睨み付けた。彼の声を超至近距離で聞いた耳は頭の羽で覆われており、それを見て先生は『器用だね~』と至極どうでもいい感想を抱く。

 

「な、なに言ってるの!? それ、バレなきゃ持ってても良いって言ってるのと同じじゃん!? せ、先生なんでしょ!? 何考えてるの!? エッチなのはダメ! 死刑!」

「その理論だとコハルも私と一緒になっちゃうけど、大丈夫かい?」

「え、や、ちがっ……わ、私は、その……」

 

 今更理由を深掘りする気はないし、生徒を泣かせる事は言語道断であるため、『あの本が本当にコハルのものではないのか』を問わないが、形はどうであれコハルの年齢では買えないような本を学び舎に持ち込んだのは事実だ。

 

 エッチなのはダメ! 死刑! ────その言葉がまさか自分に向くとは思っていなかったコハルは途端にしどろもどろになった。

 

「こ、これについては本当に間違いだからッ! つまりノーカン!」

「うん、じゃあそういう事にしよっか」

「……!? な、何それ! 大人の余裕ってわけ!?」

「ふふっ……これでも酸いも甘いも多少は知っているからね」

 

 先生はそう言いながら、歩くペースを少しだけ遅くした。彼女がこの言葉を耳に入れてくれるように。

 

「色々あるけど、無理に縛られなくて良いと思うし、我慢したりする必要は無いと思うよ」

 

 程度には個人差があれど、コハルのような年齢の少女が性に興味を持つのは至って普通の事だ。そして、それを他人に知られるのが怖かったり、恥ずかしがったりするのも至って普通な心の機敏。

 そういったものを経て人は少しずつ成長していくものであるし、それを否定してしまえば繁栄を否定することに繋がる。性に関する興味は本能的なものであり、欲求の一つ。コハルだけ特別、なんて事はありえないのだ。

 

 それに、何より────生徒に自分自身の心を、興味のあるものや好きなものを否定してほしくなかった。

 

「思春期に於ける健全な精神の育成って面では大っぴらに賛同できない立場だけど、コハルみたいな年頃の女の子がそういった事に興味を持つのは至って普通の事だよ。他の人には言い難いし、言いたくない類の話なのはそうだけど、興味があるからといって変に負い目を感じたりする必要は無い。ちゃんと心が成長してる証だと思って前向きに受け止めてあげよう」

 

 彼がそう言うと、コハルは驚きを交えた表情で見上げた。彼は先生、こういったものにはきっと否定的で、まかり間違っても肯定されないと思っていたのに……彼の口から出た言葉は、その手の興味に寛容である事を示している。

 

「多くに触れすぎるのも情操教育的に良くないけど、全く触れないのはそれはそれで歪だ。適切な距離感で付き合ってあげるのがポイントだよ。好きなものは好き、それで良いんじゃないのかな? TPOをちゃんと守って誰にも迷惑をかけて無いなら趣向に口出しされる筋合いはないし、抑圧する事もない。好きなだけで駄目な世界なんて、退屈だとは思わない?」

「で、でも……」

 

 世間一般に於いてこの手のものは真っ当に肯定されにくい立ち位置だ。否定され、抑圧され、悪というレッテルを貼られている。多少寛容になったとはいえその流れに大きな変化はなく、誰もが持っているのに話し難い……なんて状況だ。

 過去から続く伝統を校風としているトリニティでは特にその気が強いだろう。俗的なものは良くない、トリニティの生徒に相応しくない、汚らわしい。誰も口には出さないが、誰もが内心そう思っている環境。持っていることが露呈したら後ろ指を指されてしまうような場所に長く居たコハルにとって、彼の言葉は真っ当に頷きにくいものであった。

 

 それは彼も分かっているのか、一通り話した後にふわりと笑って。

 

「ま、こんな事急に言われても困るよね。だから聞き流す程度で大丈夫だよ。いつかコハルが大人になった時、気が向いたら思い出してみて。この世界は、そういう興味を一切認めないほど小さくないのさ」

 

 学生のコハルにとって、世界とは即ちトリニティの事だ。だが、時間が経てばそれは変わる。少しずつトリニティの外に目を向けるようになる。自分の世界を広げていく。そうして、あの時の世界よりも少しだけ広がった世界を見て……今の言葉達を思い出してくれたのならそれに勝る幸福はない。案外この世界は広いのだと感じれば、それは立派な成長だ。

 

 彼はコハルに近寄り、膝立ちになって視線をもう一度合わせる。髪色と同系色の、驚きやら不安やら恥ずかしさが見え隠れする可愛い瞳を真っ向から見つめて……それから、酷く優しそうに微笑んだ。

 

「人を好きになったり、誰かに興味を持つのは凄い事なんだよ」

 

 コハルに向けられた彼の想いに嘘偽りはない。諭すような言葉達には確かに暖かさと優しさがあって、どこまでもコハルを肯定していた。

 

「……分かったような、分からないような……」

 

 コハルは小さく呟き、彼の言葉を噛み締める。正直、彼の言葉の多くを分かった訳ではない。興味を持ってしまうのは罪ではない、それは人間として当然の事。だからといって、それを咎められる環境に身を置いていたコハルにはまだどこか遠い話に聞こえる。彼の言葉を真っ向から見つめられるのは、それこそ大人になって少し成長した時だろうと思った。だから、今はそこまで意味を持たない言葉────だとしても。

 彼がコハルを真っ向から見つめ、否定せず、肯定して、当然だと受け入れてくれて、大丈夫と言ってくれた事実と優しさは揺らがない。

 

「でも……先生が私の事を考えてくれてるって事は少しだけ分かった……」

 

 コハルは赤らんだ顔ではにかむように笑って。

 

「ありがと、先生」

「うん、どういたしまして。どんな子であっても、コハルはコハルだからね。コハルはいつまでも私の大切な生徒だから」

 

 少し前にしたように、彼はコハルの頭をそっと撫でる。すると彼女は顏を更に赤くしながらも拒む事はせず、黙って受け入れてくれた。少しは彼女に寄り添えたのだろうか、なんて思いながら彼はこの想いの欠片が掌から伝わるようにと祈りを込める。

 だが、それをいつまでもしてる訳にはいかない。今回の目的は別にあるのだ。彼はゆっくりと手を引いて、コハルの頭に帽子を被せた。その時、名残惜しそうに彼の手を引き留めてくれた彼女の頭の翼が妙に擽ったくて。

 

 さて、ではまた歩こうか────そう思い、立ち上がりかけた彼に掛けられたのは照れ隠し混じりのコハルの声だった。

 

「……お、お返しに、一つ私の秘密を教えてあげる!」

「秘密……」

「うん、あ、ちょっと待って……」

 

 言い、コハルは鋭い目つきで周囲をさっと見る、近くに人影は無し。先生が居るせいで注目を浴びていないか心配だったが、それは杞憂だったようだ。少なくとも聞き耳を立てていたり、注視している人物がいない事を確認したコハルは、今度は逆に彼を手招き。意図を察した彼は屈んでコハルに視線の高さを合わせた。

 

 すると彼女は彼の耳元に顔を近づけ、頭の翼で見えないように彼の横顔を覆うと……小さな声で耳打ちを始める。

 

「実は、私……補習授業部が上手く回ってるかを監視するためのスパイなの……!」

「……スパイ?」

 

 彼の小さな声が予想外の事実を開示された事による驚きと捉えたコハルは、普段は飄々としている彼の鼻を明かす事ができた事実に気分を良くしながら饒舌にスパイの秘密を語り始める。

 

「つまり、秘密のミッションを遂行中の身って事。だから今私がバカみたいに見えてるかもしれないけど、これも全部フェイクってわけ!」

「そうなんだ……その指示は誰から受けたんだい?」

「う、えっと……だ、誰って、その……んと……は、ハスミ先輩!」

 

 彼からの予想外の質問に一瞬言葉を詰まらせながらも、咄嗟に思いついた名前に望みを託す。彼女が慕うハスミは、平常時におけるストッパー役でありバランサー。そういった仕事を考えて、コハルに任務として与えていたとしても全く以て不思議ではない。何せ、今期の補習授業部はそれほどまでに怪しいのだから。

 

「そう! ハスミ先輩はトリニティの中でもすっごい強くて、正義実現委員会の副委員長だし! あ、あと、そう! ツルギ先輩だっているんだから!」

「ツルギとハスミが、ね……成程」

「つ、ツルギ先輩はその、えっと、委員長だし……そう、何でもできるの! ぶ、文武両道……? だから! 多分! 何回かしか会ってないし、話した事ないけど……兎に角凄いの!」

「……まぁ、確かにツルギは凄いよね」

 

 ツルギと何度か一緒にデスクワークや正義実現委員会の任務に赴いたことはあるが、どちらも印象深い事しかなかった。

 

 デスクワークの時、「隣、良いかい?」と聞くと奇声を上げながら何処かへ行き、帰ってきたら身嗜みが完璧に整えられていたり。仕事をしている彼女を眺めていると突然顔を真っ赤にして何処かに行って暫く戻って来なかったり。彼女を訪ねた時に嬉しそうな顔をしてくれる事から嫌われている訳ではないと思いたいのだけれど……落ち着いて仕事に取り組む事はできなかった。

 最終的には「先生が一緒ですと、ツルギは仕事ができないようなので」とハスミに言われてしまった事は記憶に新しい。先生は勿論、ツルギも凹んでいた。

 

 任務はもっと凄い。トリニティの歩く戦略兵器と謂う異名は誇張でも何でもない。あらゆる能力が最高クラスであり、No.2であるハスミですらも彼女と比較すれば霞んで見えてしまうほどに圧倒的だ。時速100kmオーバーの大型トラックに正面から追突されてもびくともせず、逆にトラックを膂力にモノを言わせて投げ飛ばした時は流石に驚いた。それ以外にも銃撃戦でビル数棟を粉々にしたり、素手で廃墟を粉砕したり……他にも色々と彼女の凄まじさを表すエピソードはある。間違いなくトリニティ最強は彼女であり、同等以上の規模の神秘を持つミカであっても戦闘経験と鍛錬の差で彼女には一歩及ばないだろう。

 

 ……特別な鍛錬も無しに単なる才能と神秘だけでツルギに並び得るミカが凄いのか、それともミカの圧倒的な才能と神秘を真正面から凌駕し得るツルギが凄いのか。正直それは分からないが。

 

「だから、そういう事。私は別に、本当に勉強ができなくて補習授業部に入った訳じゃないって事、覚えといて! 私はスパイとして大事な任務を任されてる、エリートなんだから!」

「そうなんだね……」

「ふふんっ」

 

 彼の言葉に気分を良くしたコハルは彼の耳元で小さく鼻を鳴らす。自信に満ちたその表情と態度は愛らしい事この上なく、それを間近で感じた彼も笑みが零れた。

 

「でもこれ、私に教えちゃって大丈夫な事だったの?」

「ッ!せ、先生は生徒の秘密をやたらに言いふらしたりしないでしょ!? ……しないよね!?」

 

 スパイとは秘匿性が最も重視される。相手は勿論、味方にも自分がスパイとは公言せずに、誰にも言えない秘密を抱えたまま探る事が本懐。だから、信頼しているとはいえ先生にばらしてしまった事はお世辞にも賢い選択とは言えなかった。

 痛い所を突かれたコハルが縋ったのは先生の善性。先生なら生徒の秘密をばらさないだろう、という予測であり懇願。だが、それは最も効果的で。元々誰かに話すつもりなんて無かったが、その誓いはコハルの願いでより強固になる。

 

「それは勿論。誰にも言わないでほしいって頼まれたなら、私は何があっても口を割らないよ」

「じゃ、じゃあ大丈夫! せ、先生の事、ちょっとは信頼してもいいかなって思ってるから!」

 

 そう言い、離れるコハルに合わせて先生も立ち上がる。少し駆け足、彼の数m先を行く彼女は彼を手で呼んだ。

 

「もう直ぐ部室だし、早く行こ!」

 

 

 ▼

 

 

 正義実現委員会の部室はその規模に比例するかの如く広大だ。部室と銘打っているが建物を丸々一棟を使用しているため、地図やパンフレットに書かれている名前は正義実現委員会本部棟となっている。ハナコが閉じ込められ、アズサが連れてこられた場所も此処だ。まだ始まりの日から1ヶ月も経っていないというのに何処か遠く感じてしまうのは過ごしてきた日々の密度が高いからだろう。

 

 本部棟はその名の通り正義実現委員会の中枢部分であり、自治区内に数多くある支部を統括する役割を持ちつつ、学園構内での治安維持活動を行っている。

 

 キヴォトスで流通している大抵の銃火器が保管されている火器の保管室。第一から始まり十を超える数の会議室。委員長、副委員長、幹部の執務室。そして、今回用事がある差押え品の保管室。

 

 この時間となると棟の正門はオートで施錠され、特殊な権限も無しに開けてしまうと警報が鳴って正義実現委員会が飛んできてしまうため、コハルと先生は裏口から建物に入る。1階のロビーに当たる部分には誰もおらず、2人はそのまま階段を上って差押え品の保管室がある階層まで向かった。

 

 数分も歩けば目的地に辿り着き、コハルは手持ちの鍵を使って保管室の鍵を開錠。先生に「外で待ってて!」と告げて、室内に入っていった。

 

 保管室は差押え品の管理だけでなく、構内で届けられた落とし物等の管理も行っている。図書館の本棚のように所狭しと並べられた棚は賽の目に区切られ、一つ一つに扉が設けられていた。扉の上部には差押え品か落とし物かを示す数字と保管物の種類を表すアルファベット、ハイフンを挟んで割り振られた個別の識別番号が埋め込まれたモニターに淡く光っている。

 

 この保管室は2階層に渡って作られており、今コハルが居る場所が一般保管室。入って手前が落とし物の保管室で、奥が差押え品の保管室。このうち、落とし物の保管室は正義実現委員会のメンバーなら誰でも入室可能で、差押え品の方は管理を任されているコハルのような生徒でなければ入れないようなセキュリティになっている。

 そして、コハルですら入れない場所が危険物等が一時的に保管される特殊保管室。この下に位置していて、幹部クラスでもなければ鍵を預かれないだろう。

 

「えっと、種類は書物で……回収した日は大体2週間前だから……」

 

 コハルは保管証明書類を片手に保管室を歩く。保管室に入れるのを忘れただけで、番号は割り振り済で保管場所は作成している。だから後はそこを見つけるだけなのだが、それなりに広い場所のため探すのも一苦労だ。だが、管理しやすいように設計されているため大体絞り込めれば後は総当たりでも何とかなる。当たりを付けたコハルはロッカーの上から下まで1列ずつ見ていき……。

 

「……あ、あった!」

 

 書類に書かれた番号と一致するロッカーを見つけたコハルは小さく声を上げて、鞄の中からスマホを取り出してモモトークで彼に見つけた報告を送り、直ぐに仕舞って作業に取り掛かる。とは言ってもやる事は多くなく、保管室と書類を中に入れて電子ロックをかけるだけ。それだけやって、室内の電気を消して差押え品の方に続く扉を施錠すれば完璧だ。

 

「……うん、これで良し。取り敢えず一安心……」

 

 保管までの手順をこなしたコハルは言い、外に出る。すると外で待っていた先生が柔らかな表情で出迎えてくれた。

 

「先生、終わったよ」

「おかえり、コハル。長居するのも良くないし、帰ろ────」

「────あら?」

 

 先生の言葉は最後まで言われる事なく、廊下の向こう側から投げかけられた声により遮られる。視線を声の方に向けると、そこに立っていたのはハスミだった。彼女は驚いた顔を一瞬浮べ、それからすぐに微笑みを浮べる。1日の終わりに予想外の人に会えた、と内心喜びながら。

 

「こんばんわ、ハスミ。こんな時間まで仕事かい? 頑張るのは良い事だけど、無理はしない様にね」

「お気遣いありがとうございます。先生も無理されないでくださいね。以前お会いした時よりも少しだけ顔色が悪いように見えます」

「大丈夫だよ。慣れない環境でちょっと疲れが溜まってるだけさ」

「なら良いのですが……コハル、見えていますよ」

 

 ハスミが呆れ交じりでそう言うと、先生の背に隠れていたコハルは肩を跳ねさせて……それからおずおずと姿を現した。普段の勝ち気な姿は何処へやら、今の彼女は借りてきた猫のよう。

 

「……確か合宿で別館に居ると聞いたのですが、どうかしましたか? 成績が良くなるまで、此処へは出入り禁止になっているはずですが……」

「そ、その、違うんです、えっと……」

 

 そう言い、何とかハスミが納得するに足る理由を頭の中で探すコハル。だが、パニックになった脳内で飛び出してくるのは言い訳ばかり。時間が経つに連れてハスミの瞳に猜疑の色が滲んでいくように見えて、尊敬する先輩に見放されるという思い込みの焦りが更に悪循環を生み出してしまう。

 

 流石にこの手のアドリブを彼女に任せるのは酷だと思った先生は、内心で『口合わせ、よろしくね』と思いながら口を開いた。

 

「落とし物を届けに来たんだよ」

「……落とし物、ですか」

「そう。授業で使う書籍を取りに教材室へ行ったんだけど、そこで生徒の私物っぽいものを見つけてね。丁度コハルと一緒にいたから、ついでに落とし物の登録とかもやってもらったんだ」

 

 ハスミは彼の言葉に理解を示す。コハルをは書籍の運搬が主な目的で、彼一人で運べない量の場合の手伝いとして呼んだのだろう。そこで落とし物を見つけたが、時間が時間のため届けようにも正義実現委員会のメンバーは軒並み帰ってしまっている。明日に出直すのは合宿の関係で厳しく、かといってそのままにしておく訳にもいかないから、今は活動を禁じられているコハルに頼った……そんな感じであろう。

 

 コハルが若干挙動不審だったのも、言いつけを破った負い目からだ。彼女は誤魔化すのも嘘を吐くのも苦手で、ルールに背くようなことをすれば罪悪感が顔に出る。咄嗟に隠れたのも怒られると思ったからだろう。

 

 ────別に、その程度の事で怒るような真似はしませんよ。

 

 ハスミは小動物のように縮こまったコハルを安心させるように微笑み、彼に向き直って襟を正した。

 

「そうでしたか……コハルは正義実現委員会の務めを果たしただけなのですね。喜ばしい事です。これからも励んでください」

「は、はいッ!」

 

 先程の表情は何処へやら。今のコハルは尊敬する先輩に働きを褒められた嬉しさで一杯だった。コハルにとってハスミは正義実現委員会の象徴であり、憧れであり、いつか追いつきたい人。あの人のようになりたいと思い、正義実現委員会の門を叩いて染まらない正義を表す黒の制服を纏ったのだ。そんな人に褒められ、期待されれば当然嬉しいし、これからももっと頑張らなければと背筋が伸びる。

 

 その様子が好ましかったのかハスミはコハルの肩を叩き、激励を送って……視線は再び先生の方へ。

 

「先生、この後のスケジュールは何かありますか? 丁度コハルが此方に来たので、改めて伝えたい事を話そうかと思っているのですが……」

「大丈夫だよ。コハルも良いかな?」

「う、うん、大丈夫だけど……わ、私に、ですか……?」

「えぇ、コハルに、です」

 

 少し雰囲気を固くしたハスミは先生に向けて軽く頭を下げながら。

 

「先生、申し訳ありませんが少し席を外していただけますでしょうか? 正義実現委員会としてお話したい事、と言いますか────」

「分かったよ。部屋の外で待っていればいいかな?」

「……すみません、ありがとうございます。5分程度で終わりますので、少々お待ちください」

 

 ハスミが深く礼をすると、それに釣られてコハルも頭を下げる。部屋に入っていく2人を見送った先生は壁に掛けられた大きな時計を見る。時刻は20時を過ぎていた。

 

 

 ▼

 

 

 正義実現委員会部室棟、第4会議室前。朝から夕方にかけての喧噪は既に消えて、今は夜の静寂がこの棟を包んでいる。此処に居るのは先生と扉の向こう側に居るハスミとコハルだけ。扉を正面に臨む壁に背を預けた彼は何をする訳もなくただ少女達を待っていた。眼を閉じて。

 

「──コハル──てください」

「で──」

「本来の──を──ください」

 

 扉からほど近い場所で話しているのだろう。壁越しでも微かに声が聞こえてしまっている。普段の彼なら気を遣いもう少し離れるなり何なりしたのだが、今はそれをしている余裕はなかった。

 

「でも──には──無理──……なんて──あまりにも──ことで──」

「それでは駄目なんですッ!」

 

 ハスミにしては珍しい怒声に近しい声。落雷にも似た鋭さは誰かを委縮させるのには充分な威力を持っており、少し先の室内で委縮したコハルを幻視した。

 

 彼は薄っすらと眼を開ける。零れる蒼の光。肉体の奪い合いと、それに伴うシステム励起。全く、タイミングが悪い────そう思い彼は自身の器の手綱を固く握る。決して明け渡さない、と。

 

「──なさい────ずっと──ために──先生──を──です──」

「────はい────ます」

 

 そうしている間にも時は過ぎ、話し合いが終わったコハルはそっと扉を開けて廊下に顔を出した。彼女はそのまま出て、壁に寄りかかり眼を閉じた彼の元まで歩いて。

 

「……お、お待たせ、先生」

「────」

「ど、どうしたの? 帰らないの?」

 

 無言で微動だにしない彼を心配したコハルが彼の顔を下から覗き込むが、何も反応なし。どうしたんだろうか、と思い肩を叩くため手を挙げると────彼は途端に薄っすらと目を開けた。それは宛ら機械が再起動(リブート)したかのよう。

 

「あぁ、おかえり、コハル。そうだね、帰ろうか」

 

 不気味なほどにいつも通りの彼はコハルに微笑み────それから柔らかい口調で声を投げかける。

 

「……コハル、大丈夫?」

「え、う、うん? 別に、私は大丈夫だけど……?」

「そっか。なら、良いんだ」

 

 

 ▼

 

 

 差押品を元に戻し、ハスミとコハルの会話が終わった後。それ以外に特にやるべき事もやりたい事もなかったため、先生とコハルは帰路に着いていた。トリニティの最寄駅から電車に乗り、数駅先の駅で降りてからはバス移動。終点で降りると、空はすっかりと暮れて藍色になっていた。

 

 遠く聞こえる虫の鳴る音と鳥の鳴き声。風で揺れる木々の音を伴奏に奏でられる初夏のオーケストラ。トリニティ自治区の中では郊外に位置する此処は元々閑静な場所であったが、夜になるとその印象をより一層強く受ける。人影は全くなく、街灯に照らされる歩道を歩くのは2人だけ。コハルは世界から切り離された様な感覚を覚えた。

 

 自然の奏でる音と、自分達の足音、呼吸音、服の擦れる音だけ。見上げた先には幾つもの星が浮かんでいて、手を伸ばせば掬ってしまえそうなほど天幕が近かった。空は高いけれど、空気は澄んでいる。いつも過ごしている場所では見えないような景色は彼女の眼に新鮮に映って、思わず「綺麗……」と呟いた。

 

 ────今日は色々とあった。思い出したくない事、思い出せば暫く凹む事、嬉しかった事。良い一日だった、とは微妙に言い切れない。悲しくなるからしないけれども、今日一日のプラマイを計算すれば多分マイナスだ。でも、それでも妙に憎めない。つまらない最低な日だった、とは言えないし言いたくない。そんな奇妙な一日だった。

 

 コハルは自分の中の妙な感情を発散するように道路に転がっていた小さな石を弱い力で蹴る。転がり、草むらに消えていくそれを眺めて一つ息を吐いた。

 隣を歩く彼は何時もと変わらない表情。穏やかで、静かで、優しそうで、でも掴み所がなくて灰のような寂しさ。彼女の視線に気づくと「どうしたの?」と優しく微笑んで、それに「何でもない」と返せば彼もそれ以上は追及せずに「そっか」と呟く。このやり取りを何回繰り返したかは分からない。

 

 コハルの頭の中は、少し前に彼に言われた事で埋まっていた。コハルの興味を真っ向から肯定してくれた時、その最後に彼がコハルの為に送った言葉。人を好きになる事、興味を持つ事を肯定してくれた時、彼は何処か遠くを見ていた。あの時、彼だけに見えていた遠くに何があるのか────それが気になって、コハルは彼の心に踏み入れようと声を出した。

 

「せ、先生って好きな人とか……い、いるの……?」

「お、恋バナかい? いいね、私もそういう甘酸っぱいのは好きだよ。青春の特権、って感じで」

 

 彼は擽ったそうに笑って、ぐっと背伸び。その様子にコハルは少しだけ安堵する。話し難い事じゃなくて良かった、と。彼は若干歩くペースが落ちたコハルに歩幅を合わせて、少し困ったように「とは言っても、私のかぁ……」と呟く。

 

「恋愛的な意味での好きな人でしょ? となると、誰になるんだろうね……考えた事もなかったな」

 

 生徒の事は大好きであるし、心の底から大切であるし、愛している。だけど、それはあくまで与える愛。見返りを求めた事はないし、これからも求めるつもりはない。彼女がただ毎日を笑って生きてくれるだけで満たされるのだ。

 

 ────そもそも、この生徒に向ける愛すら偽りかもしれないのに。数多の世界で見殺しにし続けてきた負い目。連邦生徒会長から託された願い。死に続けた無数の自分とその記憶。今ここに立つ自己の真贋は考えないが……それでも、きっと。

 

 本当の自分なんて何処にもいない。そんなものは最初に死んだ時点で消えたも同然だ。今ここに立っているのは幾多の未練と後悔の記憶を受け継いだ死体の繋ぎ合わせ。それが辛うじて生体反応を続けているから生きているように見えるだけ。

 

 だから、この想いや願いもきっと純粋からは遠く離れてしまっている。でも、どれほど遠く離れても大切である事は変らないからずっと今まで抱き締め、走り続けているだけ。特別な事なんて何もない。

 ただ、それだけだ(それだけしか持っていなかった)

 

 きっとコハルの望む回答は上げられない。そういった意味では────自分は恐らく一度も誰かを好きになった事が無いのだ。その愛は先生以外の彼が持つものだから。先生以外の自分なんて全て失ってしまっているから。それは、ちゃんと先生も自覚している。人並の幸せを全て生徒の為に焼べたのは他ならぬ自分だ。

 

 故に、特別を作るのは生徒に対する裏切りである訳で。でも、折角聞いてくれたコハルにつまらない答えを渡すのも何か嫌で。そうして頭の中で色々なものが堂々巡りして、何か無いかと探して……見つけた大切な願いが一つ。

 

「あ、でも望みならあるよ」

 

 そう言って、彼が思い浮かべたのはあの少女。連邦生徒会の白い制服が良く似合う、澄み切った青空のような女の子。彼をキヴォトスに連れてきた────始まりの少女。

 

「この旅の果て、いつか来る終わりの後に一目だけでも良いから見たい人ならいるかな」

 

 この願いは、本来ならば先生として相応しくないものだ。不要なものとして真っ先に切り捨てられるべきものだ。だが、彼はこの願いだけはどうしても捨てられなかった。もういなくなってしまった彼女に一目だけでも良いから会いたい……それだけは捨てられず、偽る事も出来なかった。

 

 自分を捻じ曲げ、全て捨て去るとしても────長い旅の終わりに彼は最初の教え子である連邦生徒会長に会いたかった。

 

「……本当に、それだけでいいんだけど」

 

 そう言って、影を含んだ酷く寂しそうな横顔。少し先を歩いた彼に聞こえないように、コハルは呟いた。

 

「────なに、それ。そんなの、恋よりよっぽど質が悪いじゃん……」

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