シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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虚無の教義

 先生とコハルが合宿所に戻ったのは21時を前にした頃だった。2人が戻ってから少女達は4人で後回しにしていた夕食を取り、皆で片づけをしてからは自由時間。部屋に戻る事はせず、そのままの流れで皆でロビーに集まったまま。

 

 アズサは自身の愛銃たるL119A1(Et Omnia Vanitas)の手入れを行い、コハルはスマホでモモトークの返信を行いつつ熱心に教科書を読み。先生は自室から持ってきたPCを駆使しながらシャーレの仕事と格闘していて、ハナコはそんな彼の様子をじっと見つめている。

 

「ふぅ、スッキリしました!」

 

 たった今戻ってきたヒフミは一足先にお風呂を済ませてきたようだった。僅かに湿った髪と首に掛かったタオル、制服から体操服に変わり、ボディソープとシャンプーの香りが風に乗って微かに鼻を擽った。

 

「もうお風呂に入ったんだ。早いね、ヒフミ」

「うふふ、そうですよね。何せ、ヒフミちゃんは朝にシャワーを浴びれず、今日一日中あるがままの香りで────」

「わわッ! そ、その言い方は恥ずかしいです……ッ! うう、寝坊さえしなければ……」

 

 ハナコのその言葉にヒフミは顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を振る。今日一日、自分の体から変な臭いがしないか気が気でなかったのだ。もし先生や皆に『ちょっと臭う』とか思われていたら普通に死にたくなる。華の女子高生であり、年頃の女の子であるヒフミにとってその手の事は最重要だ。明日からは絶対寝坊しない、ヒフミは固く誓った。

 

「……でも、それは私達の為に模試を準備していたからだ。負担を押し付けてごめん。もし明日の朝も起きるのが辛かったら言って。今度はヒフミの体もコハルと一緒に洗ってあげる」

「い、いえ、それは遠慮させていただこうかと……!」

「ちょっと待って私を洗うのは確定事項なのッ!? てか、自分で洗えば良いじゃん! 子供じゃないんだから!」

「いや、皆で洗う利点は確かにある。効率と安全面だ」

 

 アズサは真剣な顔をして、銃の手入れをする手を止めた。皆で洗いっこをする事が如何にメリットがあるのかを分かってもらうために。

 

「効率は簡単だ。一人一人順番に、とやればどうしても時間が掛かってしまう。だが、4人を纏めれば時間は単純計算で1/4になる。安全は言わずもがな。人数が多ければ襲撃にも対応しやすい。それに、水の節約にもなるから利点は多い」

「……この施設には大浴場は無いので、皆で一心不乱に洗いっこと謂う胸躍るイベントは難しいですが……」

 

 そこまで行ったハナコはふと良い事を思い付いたような楽し気な表情を浮かべて。

 

「あ、良い事思いつきました。今度お風呂代わりに、皆裸でプールに飛び込むのはどうでしょう?」

「さらっと何言ってんの!? ダメ! そんな凄いの絶対禁止ッ!」

「……悪くない案だとは思う。あの水をそのまま使わないのももったいないし。だが、それを態々プールでやるメリットがあるのか? 水を引いて浴室でやっても……」

「開放感があるとは思いませんか? 青空の下、全てを曝け出して掛け合う様子を想像するだけで……ふふっ♡」

「なるほど、そういう心理面は考えていなかった。開放感、か……ありがとう、新しい知見を得る事ができた。ハナコはいつも私の知らない事を教えてくれる」

「バカバカバカバカッ! 考えちゃダメ想像しちゃダメそういうのは全部ダメッ!」

 

 ハナコの言う事も一理あると思ったアズサはまた1つ賢くなったと言わんばかりの表情を浮かべる。元々悪くないと思っていた提案だったのだが、心理面に於ける利点が明確になったため断る理由を探す方が難しいほどだった。

 

 これは本格的に考えても良いかもしれない────と思ったアズサを止めるのはコハルのお仕事。そんなのは絶対させないと言わんばかりに破廉恥な想像にストップをかける。

 

「アズサを変な風に染めるな! トリニティの変態はあんただけで充分だから!」

「そういえばコハルちゃんも全裸で泳ぎたい派ですよね?」

「脈絡全無視!? 無敵なの!? てか、そもそもそんな事言っていないから! プールでは普通に水着を着るの! それが正義なの! そもそも、あんただって昨日はちゃんと着てたじゃん!」

「あら……?」

 

 ハナコはその指摘に首を傾げ、深い笑みを浮べながらコハルに視線を向ける。睨まれてる訳ではない、負の感情はない。だが、それなのに妙な威圧感を感じてしまったコハルは椅子を少しだけ引いた。

 

「よく思い出してみてください、コハルちゃん。昨日私がプールで着ていたものを……」

「え、あ、あの水着が何……?」

 

 コハルは昨日ハナコが着ていた水着を思い出す。ピンクと白のボーダー、ビキニタイプの可愛らしい水着。別におかしな所なんて何も無かったはず────そう思った彼女の耳元で囁かれる声。いつの間にか移動していたハナコが吐息混じりで音を紡ぐ。

 

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「ッ!? み、水着じゃなかったら何なのよ……!?」

「最近の下着はデザインがかなり充実していますし、一目で水着かどうかの判断は難しいとは思いませんか? それに、ペイントという線も……♡」

「……!?」

「え、嘘!? って、いうことは……!?」

 

 ニコニコした顔に隠された揶揄いの意図。決定的な事は口にせず、解釈は相手に委ねる。貴方の想像はどちらですか、と。そんな事を空想と妄想とエッチな雑誌集めが趣味なコハルにしてしまったら、結果は火を見るよりも明らかだ。彼女の顔は髪よりも赤みを帯びた色に染まっていく。

 

 そして、臨界に達した彼女は『エッチなのはダメ! 死刑!(いつもの)』を叫ぼうと立ち上がろうとして────見つめるハナコの視線に出鼻を挫かれてしまう。

 

「あら、どうしたんですか? あれがもし水着じゃなかったとして、何かが変わってしまうんでしょうか? ねぇ、コハルちゃん?」

「え、だ、だって……」

「例えば、水着と下着の違い……それは何でしょう? 防水機能? お肌の保護? デザイン? 露出の範囲? コハルちゃんは見た目では分からなかったんですよね? あの場、あの時、それは『水着』だと信じられていましたよね?」

「……?」

 

 ハナコはあの時、今着ているものは最近買った新しい水着であると言った。別にそれを疑う事はしなかったし、真実かどうかを確かめようとも思わなかった。彼女がそう言うならそうなのだろうと思い、あの場ではそれ以上の追及はしていない。下着もボディペイントもTPOを著しく欠いているし、全部が全部論外だ。故にあの格好のハナコが纏っていたものは水着以外にあり得ない。プールでは水着を着るものだから。そういう決まりになっていて、それが常識になっているから。

 

「実はあれが下着だったとして……その『真実』かもしれない何かは、どうすれば証明できるのでしょう? 証明できない真実ほど無力なものは無い……そう思いませんか?」

「何言ってるのか分かんない……け、結局どういう事!?」

 

 途中から話が哲学染みたそれになってしまっていて、理論の展開に着いていけなくなったコハルは怒り心頭と謂った様子で睨みつける。すると、ハナコは何時もの雰囲気に戻って楽し気に笑いながら。

 

「あの水着可愛かったですよね、というお話です♡」

「……はぁ!? 全部冗談だって事!?」

 

 悪戯っぽい笑みを浮べたハナコに『また揶揄われた』と一瞬で至ったコハルは更に怒りを募らせ、真っ赤な顔で恨み混じりの視線を送る。だが、その程度ではハナコを崩せないから結局コハルの一人相撲。そんな通常運行な2人を前にヒフミは苦笑いを零して────一人真剣な様子で聞いていたアズサは何処か納得のいったような声を上げた。

 

「……なるほど、五つ目のアレか」

「……ッ!」

 

 誰かに届かせる事を目的としていない小さな呟き。だが、彼女の意図に反しその言葉は皆に伝わってしまい、ヒフミとコハルは疑問符を浮べ────ハナコは何時もの余裕のある表情が崩れるほどに驚愕を顕わにしていた。

 

「五つ目……? えっと、アズサちゃん、何のお話でしょうか……?」

「……」

「キヴォトスに昔から伝わる七つの古則。その五つ目が今ハナコの言った事と近しい内容だ」

 

 アズサは一度先生に視線を向けてから直ぐに皆を見て。

 

「『楽園に辿り着きし者の真実を、証明する事はできるのか』……文面は確かこうだったはずだ。残りの六つは私も知らないけど」

「うーん……あまり呑み込めていませんが、つまりは哲学のようなもの、ですか……?」

「うん、その解釈で合ってる。つまり、誰も証明できない楽園は存在し得るのか……そう云う禅問答のような問いかけだ。明確な回答が無いパラドックス……私はそう記憶している」

「アズサちゃん、どうしてそれを……その話を、知っているのは……」

 

 澱みなく口にするアズサは付け焼刃の知識を語っている様には全く見えない。彼女はちゃんと知っているのだ、五つ目が何であるのかを。ハナコは『まさか』と言わんばかりの表情を浮かべ……それからアズサを見る。その視線は真剣そのもの。全ての虚偽を見通す翡翠が細められた。

 

「────アズサちゃん。もしかして、セイアちゃんに会った事があるんですか……!?」

「……」

 

 その問いに対して、アズサは何らアクションを起こさなかった。肯定も否定もなければ、視線を逸らす事もない。無言でハナコの翡翠を見返している。

 

「セイアって、確か……」

「それって、ティーパーティーのセイア様のことですか……?」

「……」

 

 ヒフミとコハルは耳馴染みのない名前を反芻し、記憶の底から引っ張り出す。ティーパーティーのセイア。サンクトゥス分派の長であり、予知夢の中で揺蕩う少女。彼女は今期のティーパーティーのホストだが、体調面の不安によってナギサに代行の席を譲って以降は殆ど名前を聞かなくなってしまった。

 

 当然、ヒフミもコハルも会った事はない。色々とフットワークが軽く、感性も年頃の女の子そのものであるミカ、偶にお茶会の席に誰かを招待する事があるナギサ。ある程度ティーパーティー以外とも関わりを持つ二人と異なり、セイアは殆ど外部との接触を行っていない。故に、彼女は一般生徒にとってはトリニティに於いて最も遠い人だった。

 

「────いや、会った事はない。この古則は何処かで聞いたことがあるだけだ」

「……そう、でしたか。そういえばアズサちゃんは転校生、でしたね……」

 

 アズサは澱みの無い口調でそう言う。セイアとの面識について肯定も否定もせず、この話を知っているという情報のみ。それ以上言う事は無い、言うつもりも無い。

 

 嘘を言っていないからこそ、ハナコはそれ以上の事が分からなかったが────今までのアズサのプロファイルを組み合わせると見えてくるものがある。

 

「『vanitas vanitatum』……虚無の教義……という事は……」

 

 言い、ハナコは思考を回す。虚無を肯定する言葉を教義とする分派……それについて一つだけ、心当たりがあった。徹底的に弾圧され、迫害を受けた彼女達。その集団が逃げ延び、何処かに辿り着いて今も続いているとしたら? 眉唾物の話であるが、別にあり得ない訳ではない。だって、当時の事なんて誰も分からないのだから。

 

 自身の正体に肉薄するハナコを尻目にアズサは先生の方を見て。

 

「先生は残りを知っているの?」

「さあ、どうだろうね? だけど、全てを識っていたとしても私は教えないよ。今の君達に必要ない問いかけだからね。今の皆に問うとしたらハナコとアズサが言った五つ目か、次点で二つ目だけさ。それ以外は気にしなくていい」

 

 ────七つの古則の全てを把握していると言っているような彼にアズサは『やはり』と思い……ハナコはアズサに抱いた以上の驚愕を覚えた。

 

「問い自体にも意味はあるけど重要なのは考える事であり、問い続ける事だよ。私が今言えるのは、その程度さ」

 

 先生はそう言い、ノートPCを閉じて軽く背伸びをする。そして、柔らかに笑いながら。

 

「さ、明日も早いし今日はこれでお開きにしようか」

「……そうですね。もう遅い時間ですし、そろそろ寝る準備に入ったが良さそうですね。ヒフミちゃん以外はお風呂もまだですし」

「では、今日も一日お疲れさまでした!」

 

 ────そうして、今日という日は終わっていく。いつも通りだと皆が思いながら。また明日も同じだと思いながら。何処かで決定的な綻びが生まれている事を知らないで。

 

 

 ▼

 

 

 就寝時間を過ぎてしばらくした頃。昨日と同じようにヒフミは先生の部屋まで足を運び、ハーブティーを呑みながら明日以降の準備と会議を開いていた。一通りの方針を纏め終わったためヒフミを部屋に帰して寝させようとするが……彼女はまだ帰る気が無いようで、大事そうに抱えていたトートバッグを床に下した。

 

「……先生」

「……浮かない顔だね。どうしたんだい?」

「その、ハナコちゃんの事、なのですが……」

「────そうかい」

 

 予想はしていた事だった。彼女ならばきっと分かるだろう、と。今日はもう少し長引くと判断した彼はヒフミのコップにハーブティーのお代わりを注ぐと、彼女は何処か後悔や罪悪感を滲ませた声音でポツポツと話し始めた。

 

「……本当に、偶然なんです。模範解答を集めている最中に見つけてしまって……」

 

 ヒフミが鞄から取り出したのはモモフレンズが勢揃いしたクリアファイル。光が透過しても中身が見えないファイルはそれなりに分厚い紙束が三つほどに分けられて閉じられていた。

 

「何故かデータベースに全部纏めて保管されていました。珍しい事だから保管されていたのか、それともまた別の何かがあったのか。その理由は分かりませんが……」

 

 彼は受け取った紙束をぱらぱらと捲る。普通のテストから秀才をターゲットにした難問揃いのテストまで全て、3学年分網羅した解答用紙の束。その用紙一枚一枚の右上には3桁の数字が判を押されたように書かれている。

 

「昨年の試験、1年から3年までの全ての試験に於ける解答用紙が纏まっていました。どういうわけか、1人でその全てを解いた方がいたようでして……」

「その子が────」

「……はい、ハナコちゃんでした」

 

 その用紙の全ての記名欄には『浦和ハナコ』が刻まれている。筆跡は彼女のものであり、この解答は紛れもなく彼女の手により作成されたのだと否応なく思わされてしまう。

 

 だからこそ────今、こんなにも苦しくて、悲しい。その内心を吐露するようにヒフミはポツポツと言葉を零し始める。

 

「昨日見つけた1年生の時の成績に引き続き、盗み見る形になってしまったのですが……ハナコちゃんは去年の1年、それも入学して直ぐの段階で3年生の秀才クラスでも難しいとされている過程を含めて、『全ての試験』で満点を出しています……完膚なきまでに秀才、と謂えるレベルです」

「……そうだね。学年一の天才、ってレベルの話じゃない。間違いなくトリニティの長い歴史を見ても類を見ないほどだ。新しい派閥を作る事すら可能な正真正銘の天才。トリニティの大半のレコードは彼女によって塗り替えられているだろうね」

 

 この結果を示す事実は唯一つ、『浦和ハナコは天才である』、ただそれだけ。その知性はトリニティに於いて最高峰であり、ミレニアムの全知やビッグシスターとも真っ向から太刀打ちできるだろう。

 

 そんな彼女が今、補習授業部に居るという事はつまり。

 

「はい……1年生の分の試験結果を見て、ハナコちゃんはきっと『今年になって急に成績が落ちてしまったんだ』と思っていました。ですが、この結果を見る限りそうではなく……」

「意図的に点数を落として、落第を続けている────ヒフミはそう思ったのかい?」

「……はい」

 

 ハナコは知らない。補習授業部が設立された目的も、シャーレと先生が此処に居る理由も、合格できなかったら退学になる事も、ナギサの意図も。だからこそ一桁台の点数を取る事ができるのだろうし、いざとなったら本気を出せばいいと思っているのかもしれない。

 

 全てを知っているのはヒフミと先生だけ。皆に正確な情報を伝えていない2人の落ち度も確かにある。それは否定できない事実であるし、これ自体が裏切りそのものだ。

 

 だけど、あんなに一所懸命やってくれていたのに。嫌な顏一つせずに協力してくれたのに。皆が頑張って目標に走っている中で、1人だけ別の方向を向いていた……それを突き付けるこの解答用紙(現実)がどうしようもない程苦しかった。

 

「ハナコちゃん、どうして……」

 

 漏れ出た声は、自分でも驚いてしまうほどに震えていた。

 

 

 ▼

 

 

 合宿所、ロビー。夜風が吹き込んで冷える場所、ハナコは柱の陰に気配を殺して立っていた。その視線の先には、先ほど音を立てずに着替え、銃を片手に部屋から抜け出したアズサ。彼女は昨日と同じように見張りを行っていた。

 

「……」

 

 鋭さを帯びる視線は周囲への警戒を顕わにしていて、何かを恐れている様にも見える。だが、その恐れも少し待てば消えていつも通りの表情。眠気を感じさせない様子で自身の握る銃の感触を確かめてた。

 

「……アズサちゃん、また見張りを……」

 

 ハナコは酷く心配そうな、或いは深刻そうな表情を浮かべながら呟く。

 

 五つ目の古則。バックボーンが見えない転校生。口癖のように呟く『vanitas vanitatum』という言葉。ハナコの予測が正しければ、彼女の正体は────。

 

 

 ▼

 

 

 ヒフミも戻り、先生は室内で一人明日の準備を進めていた。補習授業部の、ではない。明日は一人トリニティから生徒が来るのだ。特にもてなしは要らないと受け取ったメールに書かれているが、態々足を運んでくれる生徒を蔑ろにするのは先生としてのプライドが許さない。落ち合う場所は外であるため、飲み物はタンブラーに入れればいいだろうか────なんて思っていると、脳内で声が響く。

 

『先生のお耳に入れておきたい情報が幾つか見つかりました!』

「流石アロナだ、予想よりも随分早い」

『えへん! これでもスーパーアロナちゃんですから!』

 

 彼の声に気分を良くしたアロナはタブレットの中で胸を張り、自信満々な様子。彼に褒められたのなら眠い目を擦りながら情報を漁った甲斐があるというもの。

 彼は頑張ってくれた少女をタブレット越しに撫でながら口を開いた。

 

「……私もそっちに行った方が良いかな?」

『あ、そうですね! 大丈夫だとは思いますが、覗かれちゃったり聞かれちゃったりすると困りますし……』

「分かった、今行くよ」

 

 そう言い、彼は全ての手を止めてベッドに身を放り投げて────眼を閉じた。

 

 

 ▼

 

 

 次に眼を開けたら、そこは青の教室。夜に塗り替えられた空から降り注ぐ星明かりが崩れかけた教室に入って、水溜まりに乱反射。足首辺りまで満ちていた透明な水は引いていてその痕跡を残すのみ。潮の満ち引きのような現象であるが仮想空間である此処に月はない。加えて、本来ならば星もなければ夜も無いため、この半壊した教室以外の全てはアロナの内側から零れたものである。

 

 彼女はそこで空を見ていた。その横顔はあの子にそっくりで……彼は声も出せずに立ち竦んだ。だが、いつまでもそうしている訳にはいかないため彼女の元まで行こうと歩き出すと……水溜まりに足を突っ込んでしまう。すると当然彼女も気が付いて、彼の顔を見るなり星が霞むような満面の笑みを浮べて駆け寄ってきた。

 

「お待ちしてました、先生!」

「此処で会うのは久しぶりだね、アロナ」

 

 彼は穏やかな声で呟き、抱き着いて顔を埋めているアロナの頭を優しく撫でる。少し前までは彼の体調面から教室へ足を踏み入れる事を彼女直々に禁止され、その禁止期間が終わってからも色々とバタバタしていたため機会がなかった。大体1ヶ月振りくらいのタブレットの画面越しではない触れ合い。寂しい思いをさせてしまったな、と彼は内心で深く反省し、それよりも大きな愛で彼女をゆっくり抱きしめる。すると元々緩んでいた彼女の顔はさらに緩んで、「えへへ」と声が漏れていた。

 

「────じゃあ、そろそろ本題に入ろうか」

「あ、そうですね。その為に先生をお呼びしたんでした……」

 

 アロナはそう言うと一つ咳払いをして真剣な表情に。1つの机を挟んで学習椅子に座ると、アロナは口を開き始める。

 

「分かったのは二つです。一つはヴァルキューレ警察学校の生徒の方を襲った犯人。もう一つは……起動された聖典についてです」

「……情報の確度は」

「ヴァルキューレの方を襲った犯人の方は大体90%、聖典の方は間違いないです。アロナちゃんアイで何度も確認しましたから」

「なら、先にヴァルキューレの子を襲った犯人から聞いてもいいかい?」

 

 アロナは机の天板をタブレットのように変化させ、キヴォトス全土のマップを表示する。赤くポイントされた場所が生徒が襲われた場所で、それをタップすると被害者の写真がポップアップする仕組みだ。先生は幾つかランダムにタップして、5枚程度の写真を出現させる。

 

 カンナに話を聞いた時は18件だったが、今はもう少し数を増やしている。現在の累計発生件数は21件。彼女が対策を打って以降は明らかにペースを落としており、それ自体は喜ばしい事なのだが……今でも偶に起きているため決して手放しで喜べる状況ではない。定期的にカンナと連絡を取っているが彼女達も有効な手掛かりを掴めておらず、歯痒い状況が続いている。

 

 そんな時、2週間前に起きた襲撃の現場検証に参考人として呼ばれた彼は五感やセンサーで捉えた全てのデータをアロナに流し、ついでに今までの記録も彼女に渡して解析してもらっていたのだが……その成果が遂に出たようだ。

 

「それで、犯人は」

「恐らくゲマトリアのベアトリーチェだと思います」

 

 神秘の残滓は巧妙に隠されていたがセム的一神教である事だけはどうにか分かった。あとはアロナのデータベースを総当たりして該当しそうなものをピックアップして、そこから更に絞り込み。そうして10択ほどにまで数は狭まったのだが、そこから先に進めない……と云うのが先生が以前聞いていた調査の進捗。

 

 最後の決め手になったのは被害者の写真だった。首元の圧迫痕。先生やカンナはロープ等を使ったと考察していたのだが、真実は異なりベアトリーチェの器官である触手による絞首。襲われた生徒達は出会い頭にいきなり首を絞められ、傷つけられたのだ。

 

 その仔細を全て把握した先生は震えた溜息を零してから────皮膚が破れるのも厭わず拳を握り締めた。

 

「お前は、どこまで……ッ」

 

 その怒りを痛いほどに分かるアロナは目を伏せて、それから静かに続きを紡ぐ。

 

「……犯人は分かりましたが、目的は結局分かりませんでした。血も、何で抜いたのかも……」

「ベアトリーチェなら目的は絞れる。大方、神秘の収集だ。血を抜いたのは一番手っ取り早いからで、それ以上の理由なんて無い。ヴァルキューレ……北欧神話体系の神秘を欲しがったんだろう。尤も、何の神秘が欲しいかまでは分からないけど……いや、それは良いな。ベアトリーチェが犯人なら打つ手はある。プロトコルのNo.14576と19088の頒布をお願い」

「はい、分かりました!」

 

 ピシッとしたアロナは彼に言われた番号のプロトコルをキヴォトス全土に頒布。これで多少は時間稼ぎと対策にはなる。シッテムの箱で編んだのだ、少なくともひと月やそこらで突破される事はない。この間に元を断てば……それで事は済む。

 

「……で、次は聖典に関してだよね」

「はい、そちらについては先生の考察通り、と言いますか……」

「んー……できれば当たってほしくなかったけど、本当なら仕方ないか」

 

 アヴェスターの偽典は善が勝利できなかったIFではないか────アロナには以前話した考察であるが、どうやらこれが正解だったようだ。過程と結論を反転させるだけの単純な歪め方。だが単純故に隙が無い。反転し、偽典に成り下がったとはいえ聖典は聖典。その出力は神格に匹敵する。決して油断できるものではない。

 

「悪性偽典、終末悪のレプリカ。もし、アロナや先生が考えている通りに()()が目覚めれば────」

 

 アロナは先生を真っ直ぐ見つめて。

 

「────世界の三分の一が燃えるかもしれません」

 

 

 ▼

 

 

 そうして夜は終わり────三日目の朝が訪れる。

 

 小さな終わりまで、あと僅か。

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